最終更新日 2025-10-09

毛利家減封処置(1600)

毛利輝元は関ヶ原で西軍総大将となるも、吉川広家の内通で毛利軍は動かず敗北。家康に所領安堵を反故にされ防長二国に減封。これが長州藩の倒幕の原動力となった。
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毛利家減封処置(1600年):関ヶ原の敗戦と長州藩二百六十年の起点

序章:天下分け目の関頭に立つ毛利家

慶長五年(1600年)、日本の歴史を二分する関ヶ原の戦いが勃発した。この天下分け目の決戦において、西軍の総大将という名目上の最高位にありながら、その巨大な力を発揮することなく敗北し、戦後、苛烈な処分を受けた一大大名がいた。中国地方に覇を唱えた毛利家である。毛利輝元が率いるこの西国随一の勢力は、なぜ決戦の場で動けなかったのか。そして、戦後に下された防長二国への大減封という処置は、いかなる経緯で決定され、その後の歴史に何をもたらしたのか。本報告書は、豊臣政権下における毛利家の立場から説き起こし、関ヶ原の戦いにおける一挙手一投足を時系列で追い、戦後の減封交渉の緊迫した内幕、そしてその処分がもたらした深刻な影響と、二百六十年後に徳川幕府を揺るがすことになる遠因までを、多角的な視点から徹底的に詳述するものである。

豊臣政権下における毛利家の地位と実力

豊臣秀吉が天下を統一した後、その政権は五大老・五奉行という制度によって支えられていた 1 。五大老は、徳川家康を筆頭に、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家といった大大名で構成され、幼い豊臣秀頼の後見役として、政務の最高意思決定を担う存在であった 2 。この中で毛利輝元は、中国地方8ヶ国にまたがる120万5千石という、家康の255万石に次ぐ広大な所領を誇り、「西国No.1大名」として絶大な影響力を持っていた 1 。官位においても従三位・権中納言であり、秀吉の死後、そして五大老の次席であった前田利家が病没すると、輝元は名実ともに家康に対抗しうる筆頭格の大名と見なされるようになっていた 3 。この圧倒的な石高と政治的地位こそが、反家康派が挙兵するにあたり、輝元を総大将として擁立する最大の理由となったのである 5

当主・毛利輝元の人物像再考 ― 野心家か、凡将か

毛利輝元という人物は、長らく祖父・元就の「謀神」としての威光や、叔父である吉川元春・小早川隆景の「毛利両川」に支えられて家を保った、優柔不断な当主という評価が一般的であった 7 。関ヶ原の戦いにおいても、石田三成や外交僧の安国寺恵瓊らに「祭り上げられた」だけで、本人は乗り気ではなかったとする見方が通説とされてきた 8

しかし、近年の研究ではこの人物像は大きく見直されている。徳川家康が会津征伐に向かった隙を突き、石田三成らが挙兵を計画した際、輝元は家臣にもほとんど相談せず、ほぼ独断で西軍総大将就任と大坂城への入城を決断している 8 。広島を発ってからわずか数日で大坂城西の丸に入り、家康の留守居役を追い出して豊臣秀頼をその手に確保し、西国の諸大名へ西軍への加担を促す檄文を次々と発するなど、その行動は驚くほど迅速かつ主体的であった 10 。これは、秀吉亡き後の政治的空白を、毛利家の勢力維持、ひいては天下掌握の好機と捉える、明確な野心に基づいた行動であった可能性を示唆している 12 。輝元は決して担がれただけの凡将ではなく、自らの意思で天下の采配を振るおうとした野心家としての一面を持っていたのである 15

毛利家中の構造的欠陥 ― 二元論的対立の火種

輝元の野心とは裏腹に、毛利家の内部には深刻な構造的欠陥が存在した。それは、祖父・元就が築き上げた集団指導体制の負の側面であった。元就は、輝元を補佐するために吉川・小早川の「両川体制」を敷いたが、同時に「天下を競望せず」という、現状維持とリスク回避を至上命題とする組織文化も植え付けていた 7 。この文化は、小早川隆景らによって堅実に受け継がれ、輝元の野心的な行動にブレーキをかける役割を果たしてきた 14

輝元の代になると、この路線対立はより先鋭化する。豊臣政権との外交を担い、石田三成と気脈を通じる政僧・安国寺恵瓊は、輝元の野心を煽り、毛利家が豊臣政権の中核となるべきだと説いた 16 。輝元もこの恵瓊を深く信頼していた 17 。一方で、元就の孫であり吉川元春の子である吉川広家は、冷静な現実主義者であり、徳川家康の圧倒的な実力を正確に見抜き、東軍の勝利を確信していた 17 。広家は策謀家肌の恵瓊を嫌い、両者の関係は極めて険悪であった 16

この「攻勢」を志向する輝元・恵瓊ラインと、「守勢」を志向する広家ら慎重派との致命的な内部分裂こそが、毛利家の悲劇の構造であった。当主である輝元の野心と、家中の実力者が依拠するリスク回避的な組織文化との深刻な乖離。この内部矛盾を抱えたまま、毛利家は天下分け目の決戦へと突き進んでいくことになる。総大将は天下取りを目指し、その先鋒は家の存続だけを願う。このねじれこそが、後の関ヶ原における「動けない大軍」という不可解な事態を生み出し、減封へと至る破滅の連鎖の起点となったのである。

第一章:西軍総大将への道 ― 慶長五年七月~八月

徳川家康が会津の上杉景勝討伐へと向かった慶長五年(1600年)夏、大坂では日本の運命を左右する策謀が急速に進んでいた。この章では、石田三成の挙兵から毛利輝元が西軍総大将として立つまでの過程と、その裏で密かに始まった毛利家存続を賭けた内通工作の始まりを、時系列に沿って詳細に追う。

慶長5年7月12日~17日:三成の挙兵と輝元擁立工作

家康が大坂城を離れた直後の7月12日、石田三成、大谷吉継、増田長盛、長束正家らは、家康の弾劾状である「内府違いの条々」を作成し、反家康の狼煙を上げた 5 。彼らがこの新たな軍勢の総大将として白羽の矢を立てたのが、西国に巨大な勢力を持つ毛利輝元であった。

この擁立工作の実行役を担ったのが、毛利家の外交僧であり、三成とも親しい安国寺恵瓊であった 17 。恵瓊は輝元に対し、これは豊臣家のためであると同時に、輝元自身が天下人となる絶好の機会であると説得した 16 。従来、優柔不断とされてきた輝元であったが、この説得に対し、家中の重臣たちに深く諮ることなく、ほぼ独断で総大将就任を受諾した 8 。この決断の速さは、彼が単に「担がれた」のではなく、自らこの機を掴もうとする強い意志を持っていたことを物語っている 10

7月17日、輝元は居城である広島城を発つと、翌18日には大坂城西の丸へ入城。豊臣秀頼をその庇護下に置き、西軍総大将としての立場を天下に公然と示した。この一連の行動は、驚くべき迅速さで行われた 11

7月中旬~8月:吉川広家の内通工作始動

輝元のこの動きは、毛利家中に大きな衝撃と動揺をもたらした。特に、一族の重鎮である吉川広家は、徳川家康の勝利を確信しており、輝元の決断が毛利家を滅亡に導くものだと深く危惧した 17

広家は当初、家康の上杉討伐軍に合流すべく出雲国にいたが、輝元の西軍参加の報に接し、直ちに行動を開始する 18 。彼は毛利家存続のため、表向きは西軍に従いながら、裏では徳川家康との交渉ルートを模索した。その仲介役として選ばれたのが、朝鮮出兵以来の旧知の仲であった東軍の武将、黒田長政であった 11

広家は家臣の服部治兵衛らを密使として東国へ派遣し、長政経由で家康に書状を届けさせた 19 。その内容は、「輝元が西軍の総大将となったのは安国寺恵瓊の姦計によるものであり、輝元の本意ではない。自分(広家)は家康公に忠誠を誓うつもりであり、関ヶ原の戦場では毛利の軍勢は一兵たりとも動かさない。ついては、戦後の毛利家の所領安堵を願いたい」というものであった 17 。この密約の申し入れが、後の毛利家の運命を左右する命綱となると同時に、家康に毛利家を切り崩す絶好の機会を与えることになった。

8月~9月上旬:毛利軍の展開と二正面作戦

西軍総大将となった輝元は、大坂城にあって全軍の采配を振るった。彼は、自身の養子である毛利秀元を総大将とする1万5千の主力部隊を、決戦の地と目される美濃・関ヶ原方面へと派遣した 21

それと並行して、輝元は西軍全体の総帥として、西国の諸大名に檄を飛ばし、東軍に与した大名の領国である四国や九州への侵攻を積極的に指示した 10 。伊予では加藤嘉明の領地を攻撃させ、九州でも黒田官兵衛(如水)らと対峙するなど、広範な地域で軍事行動を展開させた 21 。この輝元の積極的な軍事指揮の事実は、彼が単なる名目上の総大将ではなかったことの動かぬ証拠であり、皮肉にも戦後、家康が広家との密約を反故にするための決定的な口実として利用されることになる。

このように、関ヶ原へ向かう表の軍事行動と、家康へ通じる裏の内通工作が、毛利家内部で全く同時に、しかも矛盾を抱えたまま進行していた。この二重構造こそが、決戦当日の悲劇的な結末を準備していたのである。

【表1】関ヶ原の戦い前後における毛利家の動向年表

年月日 (慶長5年)

毛利家の動向

関連事項

7月12日

(大坂) 石田三成らが家康弾劾状を作成。安国寺恵瓊が輝元擁立に動く。

(上方) 反家康派が挙兵を計画。

7月17日

毛利輝元、広島城を発ち、大坂へ向かう。

7月18日

輝元、大坂城西の丸に入城。西軍総大将となる。

7月下旬

吉川広家、黒田長政を通じて家康への内通工作を開始 19

広家、毛利家存続のため独断で行動。

8月2日

輝元、豊国社に参拝。西軍の勝利を祈願 22

8月中旬

毛利秀元率いる主力部隊、関ヶ原方面へ出陣。

8月17日

毛利秀元らの伊勢方面軍、進軍を停止 22

9月14日

吉川広家、毛利家の所領安堵を条件とする家康方の起請文を受け取る 21

決戦前日、密約が成立。

9月15日

関ヶ原の戦い。 南宮山の毛利軍、広家の妨害により戦闘不参加。

西軍、毛利軍が動かぬまま総崩れとなる。

9月17日

家康、輝元に所領安堵を約束し、大坂城からの退去を促す書状を送る 21

9月19日

輝元、家康に感謝の返信を送る 23

9月25日

輝元、家康からの所領安堵の起請文を受け取り、大坂城を退去 21

9月27日

家康、大坂城に入城。輝元の花押がある西軍の書状を多数押収。

10月2日

家康、輝元の積極的関与を理由に所領安堵の約束を反故。「改易」を通告 21

10月3日

広家、毛利本家存続のため家康に嘆願の起請文を提出 24

10月10日

毛利家の処分が確定。 周防・長門二国への減封となる 21

第二章:動かぬ大軍 ― 慶長五年九月十五日、関ヶ原

慶長五年九月十五日、美濃国関ヶ原。徳川家康率いる東軍約7万4千と、石田三成を中心とする西軍約8万2千が対峙し、天下の覇権を賭けた戦いの火蓋が切られた。この歴史的な一日において、西軍の勝敗の鍵を握ると目されながら、ついに一兵も動くことのなかった巨大な軍勢があった。毛利の大軍である。本章では、決戦当日の毛利軍の不可解な動きと、その背景にあった家中対立の力学を、時間の経過と共に再現する。

南宮山への布陣:西軍の勝敗を握る大軍

毛利輝元の養子・毛利秀元を名目上の総大将とし、吉川広家がその先鋒を務める約1万5千の毛利軍は、関ヶ原の東に位置する南宮山の山麓に布陣した 16 。この場所は、東軍の徳川家康本陣の側面から背後を窺うことができる、極めて重要な戦略的要衝であった。毛利軍の後方には、長宗我部盛親、長束正家、そして安国寺恵瓊らの部隊も控え、南宮山一帯に展開する西軍の兵力は総計3万を超えていた 26 。彼らが一斉に山を下り、東軍の背後を突けば、家康の本隊は挟撃され、壊滅的な打撃を受けることは必至であった。西軍の作戦計画において、南宮山の毛利軍は、小早川秀秋の松尾山部隊と共に、東軍を包囲殲滅するための決定的な役割を担っていたのである。

「宰相殿の空弁当」― 戦闘不参加の真相

午前8時頃、福島正則隊と宇喜多秀家隊の銃声を合図に、関ヶ原の戦いは始まった。戦況は一進一退の激戦となり、西軍の主力を担う石田三成や大谷吉継らは、計画通り南宮山の毛利軍が動くのを今か今かと待ちわびていた。三成は再三にわたり、参戦を促す狼煙を上げ、督戦の使者を送った 27

現場の総大将である毛利秀元も、この機を逃さず山を下りて東軍に攻撃を仕掛けようと何度も試みた。しかし、その行く手には、山麓の街道を塞ぐように陣を構える先鋒・吉川広家の部隊がいた。秀元の使者が広家に出撃を促すと、広家は「今、兵に弁当を使わせている最中である。それが済まねば動けぬ」などと返答し、頑として動こうとしなかった 19 。これが後世に伝わる有名な逸話、「宰相殿の空弁当」である。「宰相」とは、当時の秀元の官職であった参議の唐名(中国風の呼び名)に由来する 19

もちろん、これは単なる口実に過ぎなかった。広家は、事前に徳川家康と交わした「毛利は戦場で戦わない」という密約を忠実に実行していたのである 20 。彼は意図的に毛利全軍の動きを封殺し、東軍への攻撃を物理的に不可能にした。毛利軍の後方に布陣していた長宗我部盛親や長束正家らも、前方の毛利軍が全く動かないため、裏切りを疑い、疑心暗鬼に陥って動くことができなかった 26

わずか1,800の手勢で布陣していた安国寺恵瓊も、圧倒的な兵力を擁する広家の軍勢を前にしては為す術がなかった 17 。彼は、味方であるはずの毛利軍によって動きを封じられ、西軍が小早川秀秋の裏切りをきっかけに総崩れとなっていく様を、ただ傍観するしかなかったのである。

この「宰相殿の空弁当」は、単なる戦場の逸話ではない。それは、毛利家という巨大な組織が、その頂点と現場との間で意思統一が完全に崩壊し、機能不全に陥っていたことの象徴であった。名目上の現場指揮官(毛利秀元)の命令は、実権を握る重臣(吉川広家)によって公然と無視された。これは、大坂城にいる最高指導者・輝元の意向(西軍としての勝利)が、現場レベルでの意図的なサボタージュによって完全に無力化されたことを意味する。戦略や戦術以前の、組織統治の完全な失敗であった。3万という、戦局を決定づける力を持った大軍が、戦場で全く機能しない「置物」と化した瞬間であり、この一点をもって、毛利家が西軍敗北の大きな要因を作ったことは否定できない。そして、この「戦わなかった」という事実が、戦後の厳しい処分を受ける直接的な原因となったのである。

第三章:約束と反故 ― 慶長五年九月十六日~十月

関ヶ原での西軍壊滅の報は、瞬く間に大坂城の毛利輝元のもとへ届いた。戦場での戦闘は終わったが、毛利家の運命を左右するもう一つの戦い、すなわち徳川家康との政治交渉が始まろうとしていた。本章では、戦後の大坂城を舞台に繰り広げられた、毛利家の存亡を賭けた緊迫した駆け引きの過程を追跡する。

9月16日~24日:大坂城での攻防と輝元の決断

西軍敗北の報を受け、大坂城内の毛利家中では激論が交わされた。主戦派は、依然として豊臣秀頼を擁し、難攻不落の大坂城に籠城して徳川軍を迎え撃ち、徹底抗戦すべきだと主張した 21 。毛利家にはまだ無傷の主力が残っており、この選択肢は決して非現実的なものではなかった。

一方、徳川家康にとっても、輝元が籠城を選択することは最も避けたい事態であった。大坂城を力攻めにすれば、多大な犠牲と時間がかかり、天下平定の大きな障害となる。家康は輝元を無力化し、大坂城を無血で手に入れる必要に迫られていた。そこで家康は、9月17日付で輝元に書状を送る。その内容は、「輝元殿に他意がないことは理解している。速やかに大坂城から退去すれば、所領は安堵する」という、極めて寛大なものであった 21

この書状と、吉川広家からもたらされた家康との密約の報告を信じた輝元は、城内の主戦論を抑え込み、家康の条件を受け入れることを決断した。9月22日、輝元は所領安堵を条件に大坂城西の丸から退去する旨を記した起請文を家康に送った 21 。そして9月25日、家康からの所領安堵を再確認する起請文を受け取ると、輝元はついに大坂城を明け渡し、木津の自邸へと移った 21

9月27日~10月2日:状況の暗転と「改易」通告

輝元が退去した後の9月27日、徳川家康は大坂城へ入城した。そして、城内に残されていた西軍の文書類を接収する中で、家康は決定的な証拠を手に入れる。それは、輝元自身の花押(サイン)が記された、西国の諸大名に東軍方への攻撃を指示する書状の数々であった 21

これらの文書は、輝元が単に名目上の総大将として祭り上げられたのではなく、自らの意思で積極的に西軍を指揮していたことを示す動かぬ証拠であった 21 。吉川広家が弁明していた「輝元の西軍参加は本意ではなく、すべては恵瓊の策謀」という説明は、この証拠の前では完全に覆された。

10月2日、家康は態度を豹変させる。広家を呼び出すと、「其方の説明は偽りであった」として、輝元との間で交わした所領安堵の約束を一方的に破棄。そして、「毛利氏は改易(領地全没収、大名家取り潰し)とする」という、この上なく厳しい処分を通告したのである 21 。ただし、家康は続けて、広家個人の忠節には報いるとして、輝元に代わり周防・長門の二国を与えて毛利家の家督を継がせる、という案を提示した 21

10月3日~10日:吉川広家の嘆願と処分の確定

この決定は、毛利本家の存続のために内通工作を行ってきた広家にとって、まさに青天の霹靂であった 7 。彼は本家を見捨てて自分が利を得ることを潔しとせず、毛利家存続のために必死の嘆願を開始する。

10月3日、広家は家康に対し、自らの覚悟を示すための凄絶な内容の起請文を提出した 24 。その中には、「この度のことは輝元の本意ではございません。輝元が分別に欠ける人間であることは、皆様ご存知のはず。何卒、毛利の家名をお残しください。もし有り難くも家名を残していただけたならば、万が一にも輝元様が徳川様に弓引くようなことがあれば、この広家が、たとえ本家といえども輝元の首を刎ねて差し出す覚悟でございます」といった、身を賭した言葉が連ねられていた 24

この広家の鬼気迫る嘆願に加え、家康の側近である井伊直政らが「一度交わした起請文を破ることは武士の道に反する」と諫めたこともあり、家康も処分の再考を余儀なくされた 21

そして10月10日、最終的な処分が下された。毛利本家の改易は免れるものの、その所領は中国8ヶ国120万石から、周防・長門の二国へと大幅に削減される、というものであった 21

この一連の過程は、徳川家康の冷徹な政治戦略家としての一面を浮き彫りにしている。家康にとって「約束」とは、守るべき信義ではなく、目的を達成するための戦略的道具であった。まず、大坂城を無血で手に入れるという当面の目的のために「所領安堵」という甘言を弄し、目的達成後は、戦前から把握していたであろう輝元の書状を「新たな証拠」として提示することで、約束を反故にするための大義名分を構築した。最終的に、広家を功臣として立てつつ毛利本家を大幅に弱体化させることで、西国最大の大名を無力化し、自らの覇権を盤石にするという政治目的を完璧に達成したのである。これは単なる戦後処理ではなく、徳川幕府二百六十年の礎を築くための、高度な政治的計算に基づいた行動であった。

第四章:防長二国への減封 ― 処分の確定と長州藩の誕生

慶長五年十月十日、徳川家康によって下された最終裁定は、毛利家にとって栄華を極めた時代の終わりを告げるものであった。中国地方の広大な領域を支配した西国随一の大名は、その領地の大部分を失い、日本の政治地図から大きく後退することになる。本章では、防長二国への減封という処分の具体的な内容と、それが西日本の勢力図に与えた劇的な変化、そして新たな藩「長州藩」の誕生について詳述する。

石高の激減:120万石から約30万石へ

毛利家の所領は、安芸、備後、出雲、石見、隠岐、伯耆、備中、周防、長門にまたがる中国路8ヶ国、公称120万5千石から、周防・長門の二国のみへと削減された 21 。この処分確定当初の石高は、慶長十年(1605年)の毛利家の記録によれば約29万8千石とされ、実に最盛期の4分の1にまで激減した 21 。後に検地が行われ、実質的な石高は約36万9千石とされたものの 25 、かつて徳川家康に次ぐ大名であった面影は完全にかき消された。この「防長減封」は、関ヶ原の戦後処理において最も大規模かつ厳しい処分の一つであった。

西国勢力図の塗り替え

毛利家から没収された広大な旧領は、関ヶ原の戦いで東軍の勝利に貢献した諸将への恩賞として再分配された。これにより、西日本の勢力図は一夜にして塗り替えられた。

特に象徴的だったのは、毛利家の本拠地であった安芸国と、それに隣接する備後国の合わせて約50万石の処遇である。この地は、関ヶ原の戦端を開き、東軍の主力として最も激しく戦った福島正則に与えられた 7 。西軍総大将の本城であった広島城を、敵将への最大の恩賞として与えるという家康の采配は、正則が関ヶ原における第一等の功労者であると天下に示すと同時に、毛利家に対する見せしめの意味合いも色濃く含んでいた。

その他、出雲・隠岐は堀尾吉晴に、伯耆は中村一忠に与えられるなど、毛利家の旧領には徳川恩顧の大名が次々と配置された 30 。これにより、西国における豊臣恩顧の大名の雄であった毛利家の影響力は削がれ、徳川の支配体制が物理的にも確立されていくことになった 31

新たな出発:萩藩(長州藩)の成立

この厳しい処分を受け、毛利輝元は隠居という形で責任を取り、家督をわずか6歳の嫡男・秀就に譲った 7 。これにより、毛利家は大名家としての存続(家名安堵)を許された。しかし、これはあくまで形式的なものであり、藩政の実権はその後も長く輝元が後見役として握り続けた 7

本拠地・広島城を追われた毛利家は、新たな領国である防長二国で、藩の政治的中心となるべき城地の選定を迫られた。山口や防府も候補に挙がったが、最終的に日本海に面した辺境の地、萩の指月山が選ばれた 29 。これは、幕府が毛利家の力を警戒し、防御には向くが経済的・戦略的な発展が見込みにくい土地を強いた結果とも言われている。慶長九年(1604年)、輝元は萩城の築城を開始。これが、後に幕末の歴史を大きく動かすことになる長州藩(萩藩)の始まりであった。

【表2】関ヶ原の戦い前後における毛利家所領の比較

項目

減封前 (慶長5年まで)

減封後 (慶長5年以降)

所領国

安芸、備後、出雲、石見、隠岐、伯耆、備中、周防、長門 (計8ヶ国と1地域)

周防、長門 (計2ヶ国)

公称石高

120万5千石 3

約29万8千石 (後に約36万9千石) 21

本拠地

安芸国・広島城 7

長門国・萩城 29

主要な旧領の配分先

安芸・備後 (約50万石)

(毛利家本領)

福島正則 21

出雲・隠岐

(毛利家領)

堀尾吉晴 30

伯耆 (半国)

(毛利家領)

中村一忠 30

石見・備中 (半国)

(毛利家領)

徳川氏直轄領 (代官支配) 30

この表が示すように、減封は単なる石高の数字の減少に留まらなかった。それは、毛利家が何世代にもわたって築き上げてきた支配の根幹である土地と、そこに根差した権力基盤そのものの喪失を意味していた。広島という瀬戸内海交通の要衝を失い、日本海の辺境の地へ追いやられたことは、毛利家が日本の政治・経済の中心から物理的に引き離されたことを象徴している。

第五章:存亡の危機 ― 減封後の苦難と再建

防長二国への減封は、毛利家にとって政治的地位の失墜のみならず、藩の存亡そのものを揺るがす深刻な経済的危機をもたらした。膨大な家臣団を抱えたまま、領地と収入が4分の1に激減した現実は、想像を絶する困難の始まりであった。本章では、減封直後の毛利家を襲った未曾有の財政難、特に「六カ国返租問題」の深刻さと、それを乗り越えようとする輝元と家臣団の苦闘を描き出す。

藩財政を破綻させた「六カ国返租問題」

減封処分という重荷の上に、毛利家にはさらに追い打ちをかけるような要求が突きつけられた。それは、没収された安芸や備後など旧領6ヶ国において、慶長五年(1600年)分としてすでに徴収済みであった年貢を、福島正則をはじめとする新たな領主たちへ全額返還せよ、というものであった 30 。これは「六カ国返租問題」と呼ばれ、萩藩初期の財政に壊滅的な打撃を与えた。

返還を要求された貢租の総額は、少なくとも15~16万石にものぼったと推定されている 30 。これは、減封後の毛利家の総石高の半分に匹敵する額であり、しかも返済の多くは銀納(現金での支払い)を求められた 30 。朝鮮出兵や関ヶ原の戦いでの膨大な軍事費によって財政がすでに疲弊していた毛利家にとって、これは到底支払い不可能な金額であった 34 。輝元は一時期、この重圧に耐えかねて防長二国すら幕府に返上しようかと思い悩むほど、追い詰められていた 33

この未曾有の危機に対し、家臣の益田元祥らは、藩全体で苦難を分かち合うという解決策を提示した 33 。返済の責任は、旧領から移住してきた家臣だけでなく、もとから防長にいた者も含め、全家臣の連帯責任とされた 30 。その結果、家臣たちの知行(給与)は原則として従来の5分の1にまで削減された。多くの家臣は、返済費用を捻出するために、先祖伝来の家財や武具を売り払い、あるいは借金をして急場をしのぐしかなかった 30 。中には生活苦から知行地を売却したり、武士の身分を捨てて藩を離れる者もいたという 30

この負担は、当然ながら領民にも転嫁された。記録によれば、一時は年貢率が73%という、収穫のほとんどを奪われるに等しい過酷な税率が課せられたとされる 30 。福島正則への返済にあたり、周防大島などが抵当に入れられたという伝承も残っており 30 、この返租問題が藩内のあらゆる階層の人々の生活を直撃したことを物語っている。

輝元の内政手腕と藩体制の再構築

関ヶ原での軍事的・政治的な判断においては大きな過ちを犯した輝元であったが、減封後の藩政再建においては、優れた内政手腕を発揮した 21 。彼は、収入が激減したにもかかわらず、旧来の巨大な家臣団を解雇することなく、そのほとんどを抱えたまま防長二国へ移住させるという極めて困難な事業を成し遂げた。

輝元は、領内の総検地を断行して財源の確保に努め、新たな城下町・萩の建設を進めるなど、長州藩の礎を精力的に築き上げた。その一方で、藩内の動揺を抑え、自らの指導力を確立するために、厳しい家中統制も行った。築城を巡る対立などを背景に、熊谷元直や天野元信といった重臣を粛清するなど、その治世は決して穏やかなものではなかった 36 。しかし、この輝元の強力なリーダーシップがなければ、減封直後の混乱と財政危機を乗り越え、長州藩という新たな共同体を確立することは不可能であっただろう。

この「六カ国返租問題」という極度の経済的危機は、単に藩を貧困に陥れただけではなかった。それは、藩主から家臣、そして領民に至るまで、藩内のすべての人間が「徳川幕府(とその恩顧大名)によって不当に財産を奪われた」という共通の被害者意識を共有する、強固な精神的共同体を形成させる効果をもたらした。関ヶ原の敗戦という武士階級の政治的責任問題は、返租問題を通じて、藩全体の生活を脅かす経済問題へと転化した。これにより、「家康憎し」という感情は、一部の武士の恨みから、藩全体の共有感情へと昇華・浸透していく。この経済的困窮を藩一丸となって乗り越えたという経験が、長州藩に特有の団結力と、現状を打破しようとする反骨の精神を育む土壌となり、二百六十年後の倒幕運動へと繋がる、長い精神的な伏線となったのである。

終章:二百六十年の遺恨 ― 減封処置が残した歴史的遺産

慶長五年(1600年)の毛利家減封処置は、単なる戦国時代の戦後処理の一つとして終わることはなかった。この事件が毛利家、そして後に長州藩と呼ばれることになる共同体に刻み込んだ記憶と経験は、江戸時代の二百六十年を通じて生き続け、やがて日本の歴史を大きく転換させる原動力の一つとなった。本章では、この減封処置が後世に残した歴史的な遺産について総括する。

幕府への復讐を誓う正月の儀式

江戸時代の長州藩では、毎年元日に行われる藩主への年始の挨拶の席で、ある特殊な儀式が執り行われていたと伝えられている。家老が藩主の前に進み出て、「今年はもう、徳川を討つべき年でございましょうか」と問い、それに対して藩主が「いや、まだ時期尚早である」と答える、というやりとりである 21

この逸話の歴史的信憑性については議論があるものの、それが事実として広く語り継がれてきたこと自体が、この減封処置が長州藩士たちの心にどれほど深い傷と恨みを残したかを象徴している。関ヶ原での敗北と、それに続く理不尽とも思える大幅な領地削減は、長州藩の「原点」となり、徳川幕府への癒えることのない遺恨として、藩士たちの精神的支柱であり続けた 39 。この「関ヶ原の恨み」が、藩のアイデンティティの中核に据えられ、世代を超えて受け継がれていったのである。

吉川広家の歴史的評価

毛利家の運命を語る上で、吉川広家の評価は極めて複雑である。彼の徳川家康との内通工作は、結果として毛利本家を「改易」という最悪の事態から救った 7 。もし彼の独断による行動がなければ、毛利家はその時点で大名家として断絶していた可能性が高い。その意味において、広家は毛利家存続の最大の功労者と言える。

しかし、その一方で、彼の行動が家康に付け入る隙を与え、所領安堵の約束を反故にされる口実となったことも事実である。また、彼の密約によって毛利軍が関ヶ原で戦わなかったことが、結果的に大幅な減封と、それに続く「六カ国返租問題」という塗炭の苦しみを多くの家臣や領民に強いることになった。そのため、彼は家を救った英雄と見なされると同時に、主君を欺き、仲間を苦境に陥れた「裏切り者」として、後世まで恨まれることにもなった 34 。彼の子孫が治めた岩国領は、長州藩の支藩でありながら、江戸時代を通じて本藩との間に複雑な確執を抱え続けることになった 41 。広家は、家を守るという一つの信念を貫いたが、その代償はあまりにも大きかったのである。

結論:倒幕の原動力としての「関ヶ原」

幕末、長州藩が薩摩藩と共に倒幕運動の中核となり、明治維新を成し遂げた背景には、吉田松陰の思想や、高杉晋作、木戸孝允といった多くの優れた人材の登場がある。しかし、彼らの行動を精神的に支え、藩全体を一つの方向へと突き動かした根源的なエネルギーを遡っていくと、その源流は二百六十年以上前の関ヶ原に行き着く。

毛利家減封処置は、長州藩という共同体に、徳川幕府によって理不尽な扱いを受けたという強烈な記憶を植え付けた。経済的な困窮と辺境の地へ追いやられたという屈辱は、反骨の精神と強い団結力を育んだ。そして、いつの日か幕府を倒し、毛利家が再び天下の中心に立つという悲願が、藩の潜在的な目標として共有され続けた。

したがって、1600年の毛利家減封処置は、単に一つの大名家の領地が削減されたという歴史上の一事件に留まらない。それは、徳川幕府の誕生と同時に、その幕府を二百六十年後に終わらせることになる長州藩の精神的DNAを形成した、日本の近世から近代への長い歴史の序章であったと言えるのである。

引用文献

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  10. 毛利輝元は何をした人?「存在感がなかったけど関ヶ原でじつは西軍総大将だった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/terumoto-mouri
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