津島祭礼保護(1592)
1592年、豊臣秀吉は文禄の役遂行のため、津島の経済・宗教的価値を重視。津島神主の忠誠に応え朱印状を発給し、禁制で秩序を維持。これにより祭礼と市場が保護され、秀吉の国家経営戦略の一環として機能した。
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1592年「津島保護」の構造分析:文禄の役と豊臣秀吉の国家経営戦略
第一章:序論 - 「津島祭礼保護」という事象の再定義
1-1. 問題の提起:1592年、津島で何が起こったのか
天正20年(1592年)、尾張国津島において「祭礼保護で市の再興と流通促進」を目的とした何らかの保護政策が実施された、という認識が存在する。これは、戦国時代の激動期において、特定の都市とその文化・経済活動が最高権力者によっていかに保護されたかを探る上で、極めて興味深い事例である。
しかし、史料を精査する過程で、「津島祭礼保護」という名称を持つ単一の法令や、それを直接的に命じた豊臣秀吉の朱印状が発給されたという明確な記録は見出すことができない 1 。この史料上の事実と、後世に伝わる「保護」という認識との間には、一見すると乖離が存在する。このギャップこそが、本報告書が解明すべき核心的な問いである。すなわち、特定の法令が存在しないにもかかわらず、なぜ1592年の津島は結果としてその祭礼と経済活動を維持し、保護されたと認識されるに至ったのか。
この問いに答えるため、本報告書では「津島祭礼保護」という言葉を、単一の法令名としてではなく、1592年という未曾有の国難、すなわち文禄の役の開始という極限状況下で、豊臣政権が津島に対して行った一連の政治的・軍事的措置と、その結果として生じた歴史的状況を指す「概念的表現」として捉え直す。この視点に立つことで、「なぜ、そして、いかにして津島はその機能を維持し得たのか?」という、より本質的なメカニズムの解明へと進むことができる。
1-2. 本報告書の構成と分析視角
本報告書は、まず天正末期における津島の戦略的重要性を経済・宗教・政治の三側面から明らかにする。次に、1592年という年が持つ特異性、すなわち文禄の役による国家総動員体制が日本社会に与えた影響を分析する。その上で、豊臣政権と津島の間で交わされた具体的なやり取りを時系列に沿って再構築し、最終的に、それらの複合的な作用として現れた「保護」の本質と、その背後にあった豊臣秀吉の高度な国家経営戦略を多角的に論証する。
第二章:天正末期における津島の戦略的価値
豊臣秀吉が1592年という非常事態において津島に特別な配慮を示した背景には、この都市が持つ比類なき戦略的価値が存在した。その価値は、経済、宗教、そして織田・豊臣政権との長年にわたる歴史的関係性という三つの柱によって支えられていた。
2-1. 経済拠点としての津島湊:豊臣政権の財源
戦国時代を通じて、津島は伊勢湾交易の玄関口として繁栄を極め、熱田と並び称される尾張国随一の経済拠点であった 4 。その重要性は織田信長の祖父・信定の代から認識されており、信長自身も津島がもたらす強大な経済力を、自らの勢力拡大と天下布武の重要な基盤として活用した 4 。津島湊は、遠隔地から大量の物資を運ぶ船が停泊する「湊」としての機能と、それらの物資を即座に取引する「市」としての機能を併せ持つ、広域流通ネットワークの巨大な結節点だったのである 5 。
天下統一を果たした豊臣秀吉にとって、津島は単なる地方の商業都市ではなく、自身の出身地である尾張国における最重要の経済インフラであった。特に、文禄の役のような国家の総力を挙げた大規模な軍事行動を計画・遂行する上で、津島湊が生み出す莫大な富と、そこに集積される多様な物資は、朝鮮半島へ渡る数十万の軍勢を支える兵站線を維持するための生命線であった。この経済機能を麻痺させることは、戦争計画そのものを頓挫させかねないリスクであり、その維持は秀吉にとって絶対に譲れない戦略的要請であった。秀吉の津島への配慮は、単なる故郷への温情ではなく、大陸への覇業を成し遂げるための冷徹な計算に基づいていたのである。
2-2. 宗教的権威としての津島神社:全国に広がるネットワーク
津島の価値は、その経済力に留まらなかった。町の中核をなす津島神社は、牛頭天王信仰の東国における一大拠点として、「西の祇園(京都・八坂神社)、東の津島」と並び称されるほどの絶大な宗教的権威を誇っていた 6 。全国に三千社以上も存在する津島神社の総本社として 7 、その影響力は津島御師(おし)と呼ばれる神職たちの精力的な布教活動を通じて、東海から関東、さらには奥州にまで及んでいた 8 。
この全国的なネットワークの価値を、織田信長は早くから見抜いていた。信長は御師たちの他領での布教活動を積極的に保護し、その政策は後の尾張藩にも継承されている 8 。秀吉もまた、この無形の資産を見逃さなかった。津島神社の宗教的権威と御師が持つ全国ネットワークは、物理的な経済力とは質の異なる、一種の「情報・思想の伝達網」としての戦略的価値を持っていた。天下統一後、惣無事令などを通じて新たな国内秩序の構築を進めていた秀吉にとって、このネットワークを安堵させることは、自らの政策の正当性を末端の民衆にまで浸透させ、特に東国の安定を維持するための極めて有効なソフトパワー政策の一環であった。伝統ある津島天王祭の維持・斎行を黙認、あるいは奨励することは、その象徴的な行為として、人心掌握に大きな効果をもたらしたと考えられる。
2-3. 織田・豊臣政権との密接な関係史
秀吉と津島との関係は、天下人となってから急に始まったものではない。それは、前任者である織田信長の時代から続く、長年にわたる相互依存関係の延長線上にあった。そもそも織田氏は津島神社を氏神として篤く崇敬しており、その関係性は極めて深かった 9 。秀吉自身もその関係を継承し、現在も国の重要文化財として残る壮麗な楼門を寄進している 9 。これは、単なる支配者と被支配者という関係を超えた、個人的な崇敬の念と、文化のパトロンとしての深い結びつきを示す動かぬ証拠である。
さらに、秀吉が津島天王祭の壮麗な様を実際に観覧し、深く感銘を受けた結果、自身の拠点である伏見城下にこの祭りを移そうと計画したという逸話も残されている 12 。これらの事実は、秀吉が津島の文化や伝統に対して深い理解と敬意を抱いていたことを示唆している。したがって、1592年における「保護」的な措置は、突発的な判断ではなく、この積み重ねられた歴史的関係性の再確認行為であったと理解すべきである。秀吉にとって津島は、自身の権力基盤の原点とも言える尾張国において、信長の後継者としての自らの正統性を内外に示すための、象徴的な場所でもあったのだ。
第三章:1592年 - 文禄の役と日本国内のリアルタイム状況
天正20年(1592年)という年は、日本史において特異な位置を占める。この年、豊臣秀吉は天下統一事業の総仕上げとして、朝鮮半島への大規模な出兵、すなわち文禄の役を開始した 3 。この国家的な大事業は、日本国内の政治・経済・社会のあり方を根底から揺るがすものであり、津島をめぐる動向もこの大きな文脈の中で理解する必要がある。
3-1. 国家総動員体制の発令と肥前名護屋への下向
文禄の役は、まさに国家総力戦であった。秀吉は全国の大名に軍役を課し、その動員兵力は15万人を超えた。そして秀吉自身も、同年3月26日に京都を発ち、約一ヶ月後の4月25日には九州の西端、肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に築いた巨大な本陣に入った。ここから、朝鮮半島で戦う諸将への指令や、国内各地への指示が矢継ぎ早に発せられた。例えば、大友吉統に対して渡海準備を厳命した書状 15 や、漢城(ソウル)陥落後に朝鮮統治の具体策を指示した宗義智宛の朱印状 1 などは、名護屋が戦時下における日本の事実上の中央司令部として機能していたことを示している。
この状況は、日本という国家の重心が、京都や大坂から一時的に西の果てである肥前名護屋へと物理的に移動したことを意味する。最高権力者である秀吉をはじめ、徳川家康や前田利家といった有力大名までもが長期間畿内を離れるという事態は、極めて異常であった。この「中央の空洞化」と「西への極端な資源集中」は、畿内や東国において、権力の空白を狙った不穏な動きや、遠征軍の通過に伴う軍規の緩み、経済の混乱などを引き起こす潜在的なリスクを飛躍的に増大させた。この国内、特に兵站の起点となる地域の安定をいかに維持するかというリスク管理こそが、名護屋にいる秀吉にとって、朝鮮半島の戦況と並ぶ最重要課題だったのである。
3-2. 戦時下の国内経済と社会
文禄の役は、日本経済に二律背反の圧力を同時に加えるものであった。一方では、秀吉は遠征にかかる莫大な費用を各大名に負担させたため、豊臣家の財政だけでなく、全国の大名家も深刻な財政難に苦しむことになった 17 。これは、国内経済からの富の収奪を意味する。しかしその一方で、豊臣政権はこの戦争を契機として、国内支配をさらに強化する動きも見せた。全国的な検地の推進や、金銀山の積極的な開発を通じて、富を中央に集約し、集権化を一層進めたのである 18 。
秀吉の経済政策の根底には、織田信長から受け継いだ楽市楽座の推進や関所の廃止による物流の活性化という理念があった 19 。この理念は、戦時下においても、戦争遂行の基盤となる国内経済の動脈そのものを破壊してはならない、という現実的な判断に繋がった。つまり秀吉は、戦争のための「収奪」を最大化しつつも、その源泉である国内の生産・流通システムが崩壊しないよう、最低限の秩序維持と円滑な経済活動を保証する必要に迫られていた。津島のような重要経済拠点への配慮は、この絶妙なバランス感覚の現れであり、アメ(特権の安堵や保護)とムチ(軍役や献金の要求)を巧みに使い分ける秀吉の統治術の典型例と見ることができる。
3-3. 尾張国における動向:太閤検地の実施
津島で「保護」が現実のものとなるのと全く同時期に、その足元である尾張国全体では、極めて強力な国家権力の介入が行われていた。1592年2月1日、当時の尾張領主であった秀吉の甥・豊臣秀次が、秀吉の厳命を受けて尾張国で初となる本格的な太閤検地を開始したのである 20 。
この検地は、朝鮮出兵を目前に控え、兵役動員や兵糧米徴収の基礎となる石高を正確に把握し、豊臣政権の支配体制を隅々まで浸透させるための国家的な事業であった。土地の等級を定め、耕作者を確定させ、新たな基準の枡(京枡)で収穫量を測るという徹底したものであった 20 。このように、尾張国という一つの地域の中で、津島に対する「保護」的な動きと、国全体に対する「統制」強化の動きが同時進行していたという事実は、豊臣政権の地方支配が持つ二面性を象徴している。津島は、その傑出した経済的・宗教的重要性から「保護」の対象となったが、それはあくまで豊臣政権が構築する大きな統制の枠組みの中で、戦略的に認められた例外的な措置であったと理解すべきであろう。
第四章:津島をめぐる1592年の動向 - 時系列による再構築
1592年という緊迫した情勢の中、津島とその支配者である豊臣秀吉との間では、具体的な相互作用が記録されている。それらを時系列に沿って再構築することで、「保護」が形成されていくリアルタイムのプロセスを追体験することができる。
4-1. 忠誠の表明:津島神主による陣中見舞い
秀吉が肥前名護屋に着陣したという報は、瞬く間に全国を駆け巡った。これを受け、尾張国の諸勢力は迅速に反応した。中でも津島神主は、同じく尾張の政秀寺や惣見寺といった有力寺社と共に、いち早く名護屋の秀吉のもとへ陣中見舞いの品を届けた 3 。
この行為は、単なる儀礼的な挨拶や激励に留まるものではない。戦国時代の延長線上にある当時、最高権力者が国家の命運を賭けた大事業に乗り出す際に、自らの立ち位置を明確にすることは、勢力として生き残るための必須条件であった。津島神主による陣中見舞いは、豊臣政権が主導するこの国策に対し、津島が全面的に協力し、忠誠を誓うことを天下に示す、極めて重要な政治的アクションであった。それは、津島側から発せられた「我々は貴方の味方です。この国難に際しても、経済・宗教の両面から政権を支えますので、今後とも変わらぬご庇護を賜りたい」という、計算された外交的メッセージだったのである。
4-2. 関係の再確認:5月21日付 豊臣秀吉朱印状
津島側からの忠誠表明に対し、秀吉は明確な形で応えた。名古屋市博物館に所蔵される史料によれば、秀吉は天正20年5月21日付で、陣中見舞いとして贈られた帷子(かたびら)に対する礼状を朱印状の形式で発給している 3 。この文書には年紀の記載がないものの、「唐入(からいり)」、すなわち朝鮮出兵を指す言葉が用いられている。この「唐入」という表現は、後の分析で、出兵が開始されたごく初期、すなわち天正20年に集中的に使用されていることが判明しており、この礼状がまさしく1592年のものであることを強力に裏付けている 3 。
この一枚の礼状が持つ意味は、紙面に記された感謝の言葉を遥かに超える。朱印状とは、豊臣秀吉本人の意思を直接的に示す、絶対的な権威を持つ公文書である。これを受領したということは、津島が差し出した忠誠を秀吉が公式に受け入れ、両者の良好な関係を再確認したことの証となった。これは、戦時下の津島にとって、何物にも代えがたい「保護」の証書であった。今後、遠征軍に関連する役人による過度な物資の徴発や、通過する兵士による乱暴狼藉といった事態が発生したとしても、この「関白殿下から直々に賜った朱印状」の存在は、それらの不当な干渉を退けるための強力な抑止力として機能したはずである。直接的な「祭礼保護令」や「市場保護令」といった法令がなくとも、この朱印状一つが、実質的に町の安寧を保証する「見えざる防壁」となったのである。
4-3. 秩序維持のシステム:禁制発給の蓋然性
秀吉の朱印状が津島に対する「個別的・特別な保護」を象徴するものであったとすれば、それを補完する「広域的・一般的な秩序維持」のシステムが存在した。それが「禁制(きんぜい)」である。秀吉は、小田原征伐や奥州仕置など、大規模な軍事行動の際には、進軍ルート上や周辺地域の寺社、都市、村々に対して、自軍の兵士による乱暴狼藉を厳しく禁じる禁制を多発するのを常としていた 21 。
禁制の内容は定型的で、多くは以下の条項を含んでいた。
- 「一、軍勢甲乙人等、濫妨狼藉の事」(身分を問わず、兵士による略奪や暴行を禁じる) 24
- 「一、放火の事」(放火を禁じる) 26
- 「一、還住百姓等成其煩事」(住民に迷惑をかける行為を禁じる) 21
これらの条項に違反した者は、厳罰に処せられることが明記されていた。文禄の役という空前の規模の軍勢が国内を移動する状況において、秀吉がこのような軍規維持の措置を怠ったとは考えにくい。津島に宛てられた禁制の実物こそ現存しないものの、その戦略的重要性(第二章参照)と、秀吉が既に朱印状によって良好な関係を再確認している事実を鑑みれば、津島およびその周辺地域に対して同様の禁制を発給し、町の秩序維持を図った蓋然性は極めて高いと結論付けられる。この禁制による広域的な治安維持というセーフティネットと、朱印状による個別的な権威の承認という二重の保護メカニズムこそが、1592年の津島の平穏を支えた構造であったと推察される。
天正20年(1592年)関連年表
当時のリアルタイムな状況をより深く理解するため、朝鮮半島、肥前名護屋、そして尾張・津島という三つの舞台で同時進行していた出来事を時系列で整理する。
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月日 |
朝鮮半島での主な動向 |
肥前名護屋(秀吉)の動向 |
尾張・津島及び国内の動向 |
典拠 |
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2月1日 |
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- |
豊臣秀次、尾張国で太閤検地を開始 |
20 |
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4月12日 |
小西行長軍、釜山に上陸 |
- |
- |
14 |
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4月25日 |
- |
秀吉、肥前名護屋に到着 |
- |
- |
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4月28日 |
加藤清正軍、上陸 |
大友吉統に渡海準備を命令 |
- |
15 |
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5月3日 |
日本軍、漢城(ソウル)を占領 |
- |
- |
1 |
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5月21日 |
- |
津島神主らの陣中見舞いに対し礼状(朱印状)を発給 |
津島神主、礼状を受領(推定) |
3 |
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6月3日 |
- |
宗義智に対し、朝鮮統治に関する朱印状を発給 |
- |
1 |
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6月 |
- |
- |
島津家臣・梅北国兼が肥後で一揆(梅北一揆) |
27 |
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7月 |
- |
- |
尾張津島天王祭の斎行(推定) |
- |
この年表は、漢城陥落という朝鮮半島での大戦果の報が名護屋に届くのとほぼ同時期に、秀吉が津島からの忠誠を受け入れ、関係を再確認していたという事実を明確に示している。また、国内では梅北一揆のような反乱のリスクが現実化しており、秀吉が国内の秩序維持にいかに神経を尖らせていたかがうかがえる。
第五章:総合分析 - 「保護」の本質と歴史的意義
これまでの分析を踏まえ、1592年における「津島保護」の本質とその歴史的意義を総合的に考察する。
5-1. 複合的保護政策の構造
結論として、1592年の津島への「保護」は、単一の法令や命令によるものではなく、複数の要素が連動した複合的な政策の結果であった。その構造は、以下の三層からなると考えられる。
- 津島側からの能動的なアプローチ: 津島神主による迅速な陣中見舞いという、豊臣政権への忠誠表明。
- 秀吉による個別的な関係の承認: 陣中見舞いに対する朱印状(礼状)の発給による、両者の特別な関係の公式な再確認。
- 政権による広域的な秩序維持システム: 軍勢の移動に伴う乱暴狼藉を禁じる禁制の発給による、一般的な治安の確保。
この構造は、豊臣秀吉の統治スタイルが、特定の勢力との個人的な信頼関係の構築と、システムによる画一的な規律統制を巧みに組み合わせる、柔軟かつ現実的なものであったことを示している。
5-2. 豊臣秀吉の戦略的意図
秀吉がこのような複合的な保護政策を講じた背景には、明確な戦略的意図があった。
- 経済的・兵站的理由: 最も重要なのは、文禄の役という国家事業を遂行するための財源と物資供給地として、津島湊の経済機能を絶対に維持する必要があったことである 4 。津島の混乱は、即座に兵站の混乱に繋がり、戦争の継続を困難にする。
- 国内秩序維持: 自らが遠征で長期間畿内を離れる中、国内、とりわけ自身の本拠地である尾張で混乱や反乱が起きることを最も警戒していた。実際に同年6月には肥後で梅北一揆が発生しており 27 、国内の不安定化は現実の脅威であった。津島のような経済的・宗教的に影響力の大きい拠点を安定させることは、国内の動揺を防ぐための最優先課題であった。
- 宗教的権威の利用: 津島神社の持つ全国的な権威と御師のネットワークを保護し、味方につけることで、民衆の支持を取り付け、自らの支配の正統性を補強する狙いがあった 6 。これは、武力だけでなく権威をも用いて人心を掌握しようとする、秀吉ならではの統治術であった。
5-3. 「祭礼保護」から「市の再興と流通促進」へ
秀吉が講じたこれらの複合的な保護政策は、直接的に「祭礼を保護せよ」あるいは「市場を再興せよ」と命じたものではなかった。しかし、その政策がもたらした結果は、まさしくそれに等しいものであった。
まず、朱印状と禁制によって町の治安が維持された。これにより、津島は戦時下にあっても軍勢による破壊や略奪を免れ、住民や商人は安心して日々の生活と経済活動を営むことができた。治安の維持は、商人が遠隔地から商品を運び込み、安全に取引を行うための絶対的な前提条件であり、津島湊の流通機能の維持に直結した。
次に、町の平穏が保たれたことで、数百年の伝統を持つ壮麗な津島天王祭 7 も、多少の規模の縮小はあったかもしれないが、中止されることなく斎行が可能となった。祭礼の実施は、単なる宗教行事に留まらず、戦時下の不安な人心を鎮め、コミュニティの結束を再確認する重要な機会となった。さらに、祭礼には多くの人々が集まり、消費活動が活発化するため、結果として市の活性化、すなわち「市の再興と流通促進」に繋がったのである。
この一連の因果関係は、秀吉の統治能力の高さを示している。彼は、ミクロな事象(祭礼や市場)に直接介入するのではなく、「治安の維持」と「権威の承認」というマクロな環境を整備することによって、対象が持つ本来の活力を引き出し、自律的な発展を促した。ユーザーが当初提示した「祭礼保護で市の再興と流通促進」という言葉は、この秀吉の高度な統治戦略によってもたらされた、一連のポジティブな連鎖反応を的確に要約したものと言えるだろう。
第六章:結論
本報告書の調査と分析の結果、「津島祭礼保護(1592)」とは、特定の単一法令を指すものではないことが明らかになった。それは、文禄の役という未曾有の国難に際し、天下人・豊臣秀吉が、自らの壮大な戦略目標を達成するために、津島の持つ経済的・宗教的重要性を維持すべく展開した、複合的な保護政策の総体であり、その結果として祭礼と市場の機能が維持された歴史的プロセスそのものである。
具体的には、津島側からの忠誠表明に応える形での朱印状発給による個別的・特別な関係性の再確認と、広域的に発給されたであろう禁制による一般的・普遍的な秩序維持という、二重のメカニズムによって「保護」は実現された。この背景には、戦争遂行のための兵站確保、遠征中の国内の安定維持、そして宗教的権威を利用した人心掌握という、秀吉の冷徹かつ多角的な国家経営戦略が存在した。
この事例は、戦国時代の終焉期における最高権力者が、巨大な軍事行動と国内統治という二つの課題をいかにして両立させようとしたかを示す、極めて重要なケーススタディである。それは、武力による支配だけでなく、既存の社会システムや文化的伝統を尊重し、それを巧みに利用することで国力を維持・増強しようとした、豊臣秀吉の洗練された統治能力の一端を雄弁に物語っている。
引用文献
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