最終更新日 2025-09-18

長崎直轄化(1587)

秀吉、イエズス会統治下の長崎を直轄化。日本人奴隷貿易や主権侵害に激怒し、伴天連追放令を発布。国家主権確立と鎖国体制の礎を築く。
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天正十五年、長崎の転回:豊臣秀吉による直轄化の時系列的徹底解剖

序章:異教の港、長崎

天正15年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が下した一つの決断が、日本の対外関係史を大きく転換させる。肥前国の一港湾都市・長崎が、イエズス会の統治する「教会領」から、天下人の直接支配する「蔵入地」へとその姿を変えた瞬間である 1 。本報告書は、この「長崎直轄化」という事変を、単なる領地没収としてではなく、戦国日本の政治秩序と、大航海時代におけるキリスト教世界の論理が衝突した一大転換点として捉え、その全貌を時系列で徹底的に解剖する。

この事変は、しばしば「港湾統制の強化」という経済的側面から語られる。しかし、その本質はより深く、日本の歴史における国家主権のあり方を問うものであった。当時の長崎は、単にイエズス会が土地を所有する場所ではなかった。そこでは死刑を含む裁判権が行使され、大砲を備えたフスタ船が建造されるなど、事実上の軍事権・統治権が確立されていた 3 。これは、日本の土地でありながら日本の法が及ばない、治外法権的な独立国家の様相を呈していた。秀吉の行動は、貿易利益の独占という経済的動機に加え、「天下人」として日本の統一的支配を確立する上で、このような主権の侵害を断じて許容しないという、極めて強い政治的意志の表れであった。それは、近代的な意味での「国家主権」の概念に通じる、日本の歴史における画期的な主権回復行為だったのである。

第一部:前史 ― なぜ長崎は「神の領地」となったのか

第1章:南蛮貿易の黎明と大村純忠の戦略(1571年~1580年)

ポルトガル船寄港地の流転

1543年の鉄砲伝来以降、ポルトガル商船は日本との交易を本格化させた。当初、主要な寄港地は平戸であったが、領主の松浦隆信とポルトガル商人との間で対立が生じ、貿易は不安定な状態にあった 6 。安定した貿易港を求めるポルトガル側と、南蛮貿易の莫大な利益を独占したい九州の諸大名の思惑が交錯する中、寄港地は流転を重ねる。キリシタン大名・大村純忠の招きにより、ポルトガル船は横瀬浦(1562年)に入港するも、反純忠勢力の攻撃により焼き討ちに遭う 7 。その後も福田、有馬氏領の口之津へと寄港地を移すが、いずれも恒久的な拠点とはなり得なかった 6

長崎開港(1571年)

こうした状況下で、大村純忠は一漁村に過ぎなかった長崎の地に新たな可能性を見出す。天然の良港である長崎をポルトガル船に提供し、1571年、南蛮貿易の新たな拠点として開港した 4 。これにより、長崎は急速に貿易都市としての発展を遂げ、純忠に大きな利益をもたらすことになる。

純忠の決断 ― 長崎寄進(1580年)

長崎の繁栄は、周辺勢力からの脅威をも増大させた。特に、肥前を拠点に勢力を拡大する龍造寺隆信の軍事的圧迫は、弱小大名であった大村氏にとって存亡の危機であった 4 。天正6年(1578年)には龍造寺軍が長崎港を攻撃する事態も発生し、純忠はポルトガル人の支援を得てこれを撃退している 12

この危機的状況を打開するため、純忠は天正8年(1580年)、前代未聞の決断を下す。急速に発展していた長崎と茂木の地を、イエズス会に「寄進」したのである 13 。この寄進は、単なる土地の提供に留まらなかった。寄進状には、地子(土地税)や船舶の碇泊料の徴収権、さらには死刑執行権を含む裁判権までもイエズス会に譲渡し、両地の完全な統治権を移譲することが明記されていた 3 。純忠の狙いは、長崎を「教会の地」とすることで、龍造寺氏をはじめとする他の戦国大名からの軍事侵攻を防ぐ「聖域」としての役割を期待した、まさに窮余の生存戦略であった 13

第2章:イエズス会統治下の長崎(1580年~1587年)

「小ローマ」の繁栄

イエズス会に寄進された長崎は、日本のどの都市とも異なる特異な発展を遂げる。教会やコレジヨ(大学)、セミナリヨ(神学校)が立ち並び、街ではポルトガル語が日常的に話されるなど、さながら「小ローマ」の様相を呈した 13 。イエズス会は、マカオとの間で結ばれた生糸輸出カルテルを通じて南蛮貿易を実質的に統制し、莫大な資金を得ていた 3 。この資金は日本における布教活動の重要な財源となり、長崎はキリスト教布教と南蛮貿易の拠点として、かつてない繁栄を謳歌した 3

コエリョの軍事路線

しかし、この繁栄の裏で、長崎はその性格を大きく変容させていく。当時、イエズス会の日本準管区長であったガスパール・コエリョは、長崎を単なる布教と貿易の拠点とは考えていなかった。彼は長崎を武装要塞化し、大砲を搭載したフスタ船(小型ガレー船)を建造するなど、軍事拠点化を強力に推し進めたのである 3 。コエリョは、キリシタンの敵であった龍造寺隆信を打倒するため、大村純忠や有馬晴信に挙兵を促すなど、日本の政治・軍事状況に積極的に介入する姿勢を隠さなかった 4

イエズス会内部の対立

コエリョのこうした急進的な軍事路線は、イエズス会内部で深刻な対立を生んでいた。彼の上司にあたる東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、コエリョの計画を「非常な危機を感じて心痛し、その対策に窮した者の幻想的な妄想」と断じ、厳しく批判していた 4 。ヴァリニャーノは、日本の政治権力との協調を重視する穏健な布教方針を志向しており、コエリョの軍事路線が日本の支配者の警戒心を招き、布教活動全体を危うくすることを危惧していたのである 16

大村純忠が「守り」の戦略として行った長崎寄進は、彼の意図を超え、イエズス会内部の権力闘争と軍事化を加速させる触媒となってしまった。天正10年(1582年)、ヴァリニャーノが天正遣欧使節を伴って日本を離れると、その不在を好機と見たコエリョの独走が始まる 4 。純忠の安全保障という願いは、コエリョの野心的な「攻め」の戦略に利用され、長崎は本来の意図とは異なる、極めて政治的・軍事的に危険な存在へと変貌を遂げた。これが、やがて天下人・豊臣秀吉の断固たる介入を招く最大の要因となるのである。

第二部:激動 ― 九州平定と天下人の決断

第1章:島津の席巻と秀吉の出陣(1586年~1587年初頭)

九州三国時代と島津氏の台頭

1580年代半ばの九州は、豊後の大友氏、肥前の龍造寺氏、そして薩摩の島津氏という三つの勢力が覇権を争う「三国時代」にあった 18 。この均衡は、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで大きく崩れる。島津・有馬連合軍が龍造寺隆信を討ち取ったことで、龍造寺氏は急速に衰退。九州の覇権争いは、島津氏と大友氏の二強対決の構図へと移行した 18 。島津氏はこの勝利を機に破竹の勢いで北上を開始し、九州統一に王手をかける 19

大友宗麟の救援要請と九州平定の開始

島津氏の猛攻に晒され、滅亡の危機に瀕した大友氏の当主・大友宗麟は、天正13年(1585年)、大坂の羽柴秀吉に救援を要請する 18 。関白に就任し、天下統一事業を推し進めていた秀吉にとって、これは九州に介入する絶好の大義名分であった。秀吉は朝廷の権威を背景に島津氏に停戦を命じる「惣無事令」を発するが、島津氏はこれを事実上黙殺 18 。ここに、豊臣政権と島津氏の対立は決定的となった。

天正14年(1586年)、秀吉は毛利氏や長宗我部氏らを先遣隊として九州に派遣。豊臣軍と島津軍の戦い、すなわち「九州平定(九州の役)」の火蓋が切られた 18 。当初は島津軍が優勢に戦を進めるが、翌天正15年(1587年)3月、秀吉自らが20万を超える大軍を率いて九州に上陸すると、戦局は一変する。有馬晴信をはじめとする九州の諸大名は次々と豊臣方に寝返り、島津軍は敗走を重ねた 21

第2章:対峙と誤算 ― 筑前箱崎にて(天正15年6月~7月)

秀吉の九州入りと実態認識

九州平定を終局へと導くべく、秀吉は天正15年6月7日、筑前箱崎(現在の福岡市東区)に本陣を構えた 22 。九州に足を踏み入れた秀吉が目の当たりにしたのは、畿内とは比較にならないほどキリスト教が深く浸透し、その影響で多くの寺社仏閣が破壊されているという、彼の秩序観を根底から揺るがす光景であった 23 。この実態認識が、彼のキリスト教に対する警戒心を一気に高めさせた。

コエリョとの謁見と致命的失策

九州の戦後処理を進める秀吉のもとを、イエズス会準管区長のコエリョが訪れる。秀吉を新たな支援者と見込んだコエリョは、あろうことか大砲を搭載したフスタ船を博多湾に浮かべ、その軍事力を秀吉に見せつけるという行動に出た 4 。これは自らの力を誇示し、秀吉との交渉を有利に進めようという浅はかな計算であったが、天下人に対する威嚇とも取れるこの行為は、秀吉のプライドを著しく傷つけ、強い不信感を抱かせる致命的な失策であった。秀吉はフスタ船の献上を求めたが、コエリョはこれを拒否。さらに、平戸に停泊中のポルトガル本船(ナウ船)の博多への回航要求も、港が不適切であるとして拒否され、秀吉の怒りは決定的なものとなった 26

露見する不都合な真実

コエリョとの謁見を機に、秀吉はキリスト教勢力が抱える様々な問題点を集中的に把握していく。

第一に、 日本人奴隷貿易 の問題である。ポルトガル商人によって、戦乱で捕虜となった者や貧困にあえぐ多くの日本人が、奴隷として買い取られ、マカオやマニラなど海外へ売られているという事実が秀吉の耳に達した 23 。宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』にも、秀吉がこの問題に激怒した様子が記録されている 27 。自国の民が家畜同然に売買されることは、「神国」日本の国辱であり、秀吉にとって断じて許しがたいことであった 26

第二に、 長崎の治外法権状態 である。側近で反キリシタン派の施薬院全宗らからの報告により、長崎がイエズス会の完全な支配下にあり、日本の法が及ばない「教会領」として機能している実態を、秀吉は明確に認識した 26 。これは、秀吉が目指す中央集権的な統一国家の構想と真っ向から対立するものであった。

高山右近への最後通牒

これらの問題を受け、秀吉はキリシタン大名の筆頭格であり、自身の家臣でもある高山右近を呼び出し、棄教を迫るという挙に出た 16 。右近が棄教すれば、他のキリシタン大名もそれに従うだろうという、極めて政治的な判断であった 16 。しかし、右近は秀吉の面前で、「殿(秀吉)への忠誠は揺るぎないが、信仰を捨てることはできない。たとえ全世界を与えられようとも、霊魂の救済と引き替えることはしない」と述べ、領地を返上してでも信仰を貫くことを毅然と宣言した 30

この高山右近の棄教拒否は、秀吉に戦慄に近い衝撃を与えた。日本の封建社会において、主君への忠誠は絶対的な価値を持つ。その右近が、主君である秀吉の命令よりも、デウスへの信仰を優先したのである。これは秀吉にとって、単なる一個人の信仰の問題ではなかった。それは、キリシタンの忠誠心が、日本の封建秩序を超越しうるという動かぬ証拠であった。もしキリシタン大名が宣教師の指示のもとに団結すれば、かつて織田信長を苦しめた一向一揆以上の、政権の根幹を揺るがす脅威となりかねない 16 。この恐怖が、コエリョの軍事的挑発や奴隷貿易問題と結びつき、秀吉のキリスト教に対する認識を「容認可能な一宗派」から「天下の秩序を乱す危険な邪法」へと、決定的に転換させたのである。

第3章:雷鳴 ― 伴天連追放令と長崎没収(天正15年6月19日)

意思決定の瞬間

高山右近の態度に激怒した秀吉は、即座に右近の所領(播磨明石6万石)を没収し、改易処分とした 32 。そして、その怒りはキリスト教勢力全体へと向けられる。天正15年6月18日、秀吉はまず11か条からなる「覚」を発布。その中には、日本人奴隷の売買を厳しく禁じる条項が含まれていた 26 。そして翌6月19日、筑前箱崎の陣中にて、歴史を揺るがす5か条の「定」、すなわち「伴天連追放令」を公布したのである 24

伴天連追放令の論理

この法令は、秀吉の国家観と対外政策の基本方針を明確に示すものであった。

第一条で「日本国は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、太以て然るべからず候事」と宣言し、キリスト教の布教を「邪法」と断定した 24。これは、秀吉が日本の伝統的な神仏を基盤とする「神国思想」を、自らの政策の正当性の根拠としたことを示している 36。

そして、宣教師(伴天連)に対し、20日以内の国外退去を厳命した。しかし同時に、貿易船の来航は従来通り許可し、布教活動に関わらない商人の活動は認めるという条項も盛り込まれていた 2。これは、キリスト教の布教というイデオロギー的な脅威は断固として排除する一方で、南蛮貿易がもたらす経済的利益は確保するという、宗教と貿易を切り離す二元的な政策であり、秀吉の現実主義的な側面を色濃く反映している 16。

長崎・茂木・浦上の没収

この伴天連追放令と同時に、イエズス会に寄進されていた長崎・茂木・浦上の没収が決定された 1 。これは追放令の論理的帰結であり、キリシタン勢力の物理的・経済的、そして軍事的な牙城を破壊する、最も直接的かつ効果的な手段であった 32 。日本の土地に存在する外国の統治権を、天下人の権力によって公的に否定し、回収する。長崎直轄化は、伴天連追放令という政策の核心をなす、象徴的な措置だったのである。奇しくも、この決定が下されたのは、かつて長崎を寄進した大村純忠が病没してから、わずか1ヶ月後のことであった 1 。このタイミングが、秀吉の行動をより円滑に進める一因となった可能性は否定できない。


表1:九州平定から長崎直轄化までの時系列表(天正15年/1587年)

年月日 (旧暦)

場所

主要人物

出来事

考察・意義

4月17日

日向国 根白坂

豊臣秀長, 島津義弘

根白坂の戦い 。豊臣軍が島津軍に決定的勝利を収める 18

九州平定の戦局を決定づける。

5月8日

薩摩国 泰平寺

豊臣秀吉, 島津義久

島津義久の降伏 。秀吉、九州平定を成し遂げる 20

秀吉の関心は、軍事から戦後処理と九州の統治体制構築へと移る。

6月7日

筑前国 箱崎

豊臣秀吉

秀吉、箱崎に本陣を構え、九州の仕置(戦後処理)を開始 22

九州におけるキリスト教勢力の実態を直接見聞する機会となる。

6月10日頃

博多

豊臣秀吉, G.コエリョ

秀吉、コエリョと謁見。コエリョは軍事力を誇示するも、フスタ船献上などを拒否 26

コエリョの挑発的な態度が秀吉の不信感を決定的にする。

6月11日

筑前国 箱崎

豊臣秀吉, 高山右近

秀吉、高山右近に棄教を迫るも、右近はこれを毅然と拒否。秀吉は右近を改易 30

キリシタンの忠誠心が封建秩序を揺るがす脅威であると秀吉が認識する転換点。

6月18日

筑前国 箱崎

豊臣秀吉

11か条の覚書を発布 。日本人奴隷売買の禁止などを命じる 26

追放令の前段階として、キリスト教勢力がもたらす社会問題への具体的な対処を示す。

6月19日

筑前国 箱崎

豊臣秀吉

伴天連追放令(5か条)を発布 。同時に 長崎・茂木・浦上の没収を決定 16

秀吉の対キリスト教政策の根本的転換。長崎直轄化が公式に決定される。

7月以降

肥前国 長崎

豊臣家臣

長崎の接収作業が開始される。

イエズス会による7年間の統治が終焉し、豊臣政権による直接支配が始まる。


第三部:新秩序 ― 豊臣政権下の長崎

第1章:権力の移行と新体制の構築


表2:長崎統治体制の比較(1587年前後)

統治項目

イエズス会統治時代(~1587年)

豊臣政権直轄時代(1588年~)

最高統治権者

イエズス会日本準管区長

豊臣秀吉(関白)

司法権(裁判権)

イエズス会(死刑執行権含む)

豊臣政権(代官・奉行)

徴税権(地子・港湾税)

イエズス会

豊臣政権(運上金として収取)

軍事・警察権

イエズス会(要塞の維持、フスタ船の運用)

豊臣政権(代官による警備)

貿易の主導権

イエズス会・ポルトガル商人

豊臣政権(代官・奉行による管理)

土地所有の根拠

大村純忠からの「寄進」

天下人の権力による「没収」と「蔵入地化」


統治権の接収

伴天連追放令と長崎没収の決定を受け、豊臣政権は速やかに長崎の接収に着手した。イエズス会が築き上げた教会や病院、学校などの施設の一部は破壊され、7年間にわたる「教会領」としての歴史に終止符が打たれた 1 。これにより、長崎の統治権は、宗教団体であるイエズス会から、日本の統一的公権力である豊臣政権へと完全に移行した。

初代長崎代官の任命と統治

天正16年(1588年)4月、秀吉は肥前の有力大名であり、龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂を初代の長崎代官に任命した 41 。代官としての鍋島直茂の職務は多岐にわたった。年貢(物成)などの収納、秀吉のための御用物の購入といった財政・経済面に加え、長崎およびその周辺地域の警備、そして最も重要な海外貿易の取り締まりがその中心であった 42 。これにより、長崎は一戦国大名の私的な港から、天下人の管理下にある公的な貿易港へとその性格を転換させた。

二元的な統治体制の萌芽

豊臣政権下の長崎統治は、当初から複雑な構造を持っていた。鍋島直茂のような大名が代官として全体の統治と貿易監視を担う一方で、秀吉は長崎の有力商人であった村山等安を登用し、彼に地子銀25貫の納入を請け負わせる代わりに、外町(新興市街地)の支配を任せた 42 。これは、軍事・行政的な統制を大名代官に担わせつつ、現地の商人の力を利用して経済運営を円滑に進めようとする秀吉の巧みな統治術の表れであった。この、幕府から派遣される官僚(後の長崎奉行)と、現地の有力者(後の町年寄)が都市運営を分担する二元的な統治機構は、江戸時代の長崎支配体制の原型となったのである 41

第2章:蔵入地としての長崎

蔵入地(太閤蔵入地)の重要性

没収された長崎は、豊臣政権の直轄領である「蔵入地(太閤蔵入地)」に編入された 45 。蔵入地とは、大名に与えられる知行地とは異なり、そこから上がる年貢や諸収入が、仲介者を経ずに直接政権の蔵に納められる土地を指す。豊臣政権は全国に約220万石に及ぶ広大な蔵入地を有しており、石見大森銀山や但馬生野銀山などの直轄鉱山、大坂・堺・京都といった商業都市からの収益と並んで、政権の強大な財政基盤を形成していた 46 。長崎の蔵入地化は、この財政基盤に、南蛮貿易という新たな収益源を組み込むことを意味した。

貿易利益の独占と管理体制の再編

長崎直轄化の最大の目的の一つは、南蛮貿易から生じる莫大な利益を豊臣家が直接収取することにあった 2 。秀吉は、直轄化直後の天正16年(1588年)8月、長崎に入港したポルトガル船がもたらした生糸の大半を、他の商人たちに先駆けて一括で購入しようと試みるなど、貿易への積極的な介入を開始した 48 。これは、これまでイエズス会とポルトガル商人が主導してきた価格決定権を、日本の統治者の手に取り戻そうとする明確な意志の表れであった。

この豊臣政権による貿易管理への介入は、後の徳川幕府が導入する「糸割符制度」など、国家による貿易統制の先駆けとなるものであった 49 。貿易利益の一部が「運上金」として政権に上納されるシステムが構築され、長崎は豊臣政権にとって、単なる海外への窓口ではなく、政権を支える重要な財源の一つとして位置づけられることになったのである 51

結論:1587年の遺産

天正15年(1587年)の長崎直轄化は、単なる一地方都市の領主交代に留まらない、日本の近世史、ひいては近代史の方向性を決定づける重大な転換点であった。この事変が残した遺産は、多岐にわたる。

第一に、 国家主権の確立 である。日本の歴史上、外国の宗教勢力に与えられた領土統治権を、中央政権がその権威と実力をもって回収した、これは画期的な事例であった。秀吉は、自らが統べる「天下」において、日本の法が及ばない領域の存在を許さなかった。この決断は、後の徳川幕府が対外関係において国家の主権を堅持する上で、重要な先例となった。

第二に、 宗教と政治・経済の分離原則の確立 である。伴天連追放令は、キリスト教の布教活動は厳しく制限・禁止する一方で、貿易という経済活動の実利は確保するという、明確な「政経分離」の原則を打ち出した 2 。この原則は、徳川幕府の対外政策の基本骨格となり、キリスト教の脅威を排除しつつ、オランダや中国との貿易を通じて海外の文物や情報を得続けるという、巧みな外交戦略を可能にした。

第三に、 後の「鎖国」体制への道筋をつけた ことである。長崎を天下人の直轄地とし、そこを唯一の対欧州貿易港として国家が厳格に管理するという体制は、まさしく江戸時代の「鎖国」体制の原型であった 53 。特定の港に貿易を集約し、幕府の厳重な監視下に置くことで、情報の流入を統制し、国内の政治的安定を維持するという手法は、1587年の秀吉の決断にその源流を見出すことができる。

イエズス会という一宗教団体の支配から脱し、天下人の直轄地となったことで、長崎は特定の勢力に依らない、日本の公式な「西洋への窓」としての地位を確立した。この特異な地位こそが、江戸時代を通じて、そして近代日本の夜明けに至るまで、長崎を日本の歴史における比類なき存在たらしめたのである。1587年の転回は、長崎の運命を、そして日本の未来を大きく変えた、歴史的な一瞬であったと言えよう。

引用文献

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  55. 長崎出島と醤油の輸出|鎖国政策の確立|海外との貿易"四口体制" http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-2.html