最終更新日 2025-09-28

駿府城外郭完成(1609)

関ヶ原後、徳川家康は大御所政治の拠点として駿府を選び、天下普請で駿府城を大改修。1609年の外郭完成は、豊臣恩顧大名の財力を削ぎ、徳川の権威を誇示し、対豊臣包囲網を完成させる布石となった。
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慶長十四年 駿府城外郭完成:徳川の天下を固めた巨大要塞の実相

序章:天下の再編、駿府という布石

慶長14年(1609年)の駿府城外郭完成は、単なる一城郭の竣工を意味するものではない。それは、戦国という旧時代の終焉を決定づけ、徳川による新たな治世の到来を天下に示す、極めて高度な政治的象徴行為であった。この事変の歴史的意義を理解するためには、まず関ヶ原の戦い以降もなお残存していた、複雑な政治情勢に目を向ける必要がある。

関ヶ原後の「二つの太陽」

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利し、同8年(1603年)に征夷大将軍に就任して江戸に幕府を開いた後も、徳川家康の天下は決して盤石ではなかった。大坂城には、依然として豊臣秀頼が摂津・河内・和泉65万石を領する一大名として君臨していた 1 。秀頼は故太閤秀吉の子として、その権威は西国大名を中心に根強く残存しており、朝廷における官位も高く、徳川家康と並び立つ「二つの太陽」とも言うべき状況を呈していた 1 。豊臣家は、もはや全国を統べる政権ではないにせよ、徳川体制にとって無視できない潜在的脅威であり続けたのである。

この状況を打破すべく、家康は巧みな政治的布石を打つ。慶長10年(1605年)、将軍職をわずか2年で嫡子・秀忠に譲り渡したのである 1 。これは、多くの豊臣恩顧の大名が「いずれ将軍職は秀頼に譲られるのではないか」という淡い期待を抱いていた中での決断であり、彼らにとって大きな衝撃であった 5 。この措置により、家康は「征夷大将軍職は徳川家が世襲するものである」という既成事実を天下に示し、豊臣家が日本の公権力に介入する余地を完全に断ち切った。

大御所政治の始動と駿府選択の戦略的意義

将軍職を譲った家康は、しかし、政治の実権を手放すことはなかった。慶長12年(1607年)、居城を駿府城へと移し、「大御所」として江戸の二代将軍秀忠を後見する形で、事実上の最高権力者として君臨し続ける「大御所政治」を開始した 6 。この二元政治体制は、単なる権力の分散ではなく、極めて戦略的な機能分化であった。江戸を秀忠に任せて幕府の日常的な「統治・行政の首都」とする一方、家康自身は駿府にあって、より大局的な「戦略・外交・体制構築の首都」としての役割を担ったのである。

家康が終の棲家として選んだ駿府は、地政学的にも絶妙な位置にあった。江戸と京・大坂を結ぶ東海道のほぼ中間に位置し、西国への睨みを利かせるには最適の地であった 9 。事実、家康は朝廷や西国大名を監視する京都所司代を自らの直轄下に置き、西日本への影響力を直接的に行使する体制を構築している 9 。さらに、駿府は家康が幼少期に今川氏の人質として過ごし 7 、また武田氏滅亡後に初めて本拠地とした因縁の地でもあった 8 。この地は、家康にとって統治の正統性を主張する上で、心理的な意味合いも大きい場所だったのである。

この大御所政治の拠点、駿府は、やがて幕府の基本法度である「禁中並公卿諸法度」や「武家諸法度」などが起草される幕府の「シンクタンク」となり、来るべき対豊臣戦役を見据えた「軍事司令部」としての性格を帯びていく 11 。豊臣家の権威が依然として西日本に根強く残存しているという政治的現実に対し、家康は性急な武力行使ではなく、政治的・経済的に圧倒し無力化するという長期的戦略を選択した。その戦略を具現化するための物理的拠点として、江戸城をも凌駕しかねない巨大城郭を駿府に築くという壮大な計画が始動する。駿府城の築城は、大坂の陣へと続く徳川の天下統一事業の、まさに第一歩となる布石であった。

第一章:天下普請の発令 ― 権威の可視化と諸大名の動員

駿府城の大改修を可能にしたのは、「天下普請」という、徳川政権が確立した強力な国家動員システムであった。これは単なる公共事業ではなく、徳川の支配体制を確立するための高度な政治的装置として機能した。

天下普請という名の「踏み絵」

天下普請とは、城郭の築城や河川改修といった大規模な土木工事を、全国の諸大名に分担させる制度である 12 。普請に要する資材の調達費から人夫の人件費に至るまで、その一切は担当を命じられた大名の負担とされた 13 。これにより、特に外様大名の財力を削ぎ、軍事的な台頭を防ぐという目的があったことは広く知られている 14

しかし、天下普請の本質は経済的なものに留まらない。この国家事業への参加は、徳川への服従を意味するものであり、拒否はすなわち反逆と見なされた。これは、加藤清正、福島正則、黒田長政といった、かつて豊臣恩顧であった西国の大名たちに対する忠誠心を測る「踏み絵」として、極めて有効に機能した 16 。彼らは、関ヶ原以降、江戸城や二条城の普請にも動員されており、度重なる負担に疲弊しながらも、徳川の命に従わざるを得なかった 15 。駿府城の普請計画は周到に準備されており、慶長11年(1606年)の段階で、翌年の駿府城普請が予定されていることを理由に、万石以上の大名は伏見城の普請を免除されるという通達が出されていた記録が残っている 20

慶長12年(1607年)の号令と動員体制

慶長12年(1607年)正月25日、駿府城の普請奉行が任命され、同年2月17日、ついに天下普請による大改修工事が開始された 20 。この号令一下、動員されたのは遠江、三河、尾張、美濃、越前といった東海・北陸地方の譜代・親藩大名が中心であったが 8 、それだけではない。九州小倉の細川家や中国地方長州の毛利家といった西国の有力外様大名も動員されており、これが文字通り全国規模の事業であったことが確認できる 22

工事は「割普請」と呼ばれる分担制で効率的に進められた 13 。石垣の特定区画や堀の掘削範囲などを各大名に割り振り、責任の所在を明確にすると同時に、大名家同士の威信をかけた競争意識を煽ることで、工事の品質と速度の向上を促したのである。

普請を統括したテクノクラートたち

この前代未聞の巨大事業は、家康のブレーンとして集められた当代随一の専門家集団、すなわちテクノクラートたちによって支えられていた。彼らの存在なくして、駿府城の迅速な築城はあり得なかったであろう。

【表1】駿府城普請における主要な奉行と役割

役職

人物名

主な役割

典拠

普請奉行(土木)

小堀政一(遠州)

城全体の縄張り、土木工事の設計・監督

23

作事奉行(建築)

中井正清

天守、御殿など建造物の設計・監督

23

石奉行

西尾吉次

石垣普請の監督、技術指導(安土城での経験を持つ)

4

町奉行(都市計画)

彦坂光正、友野宗善

駿府城下町の町割り、インフラ整備

24

金山奉行

大久保長安

普請資金の調達(天守に黄金を献上した逸話あり)

23

この表が示すように、駿府城普請は単に大名へ工事を丸投げしたものではなく、徳川幕府直轄の高度な技術者集団によって精密にマネジメントされた国家的プロジェクトであった。それは、旧来の豊臣政権下における大名連合的な体制から、強力な中央集権体制へと移行させるための、巨大な社会実験でもあった。全国の大名を一つの事業の下に動員し、徳川の定めた規格と指揮命令系統に絶対服従させる。このプロセスを通じて、物理的な城が完成すると同時に、諸大名の心の中に「徳川への絶対服従」という見えざる城の石垣が、着実に築かれていったのである。

第二章:時系列で追う駿府城普請(慶長12年~14年)― 災禍を越えた国家事業

駿府城の普請は、計画開始から外郭完成までの約3年間、まさに国家の威信をかけた突貫工事であった。その過程は平坦ではなく、計画を根底から覆しかねない大火災に見舞われる。しかし家康は、その災禍すらも自らの権力誇示の機会へと転換させ、驚異的な速度で事業を推進した。史料に基づき、その劇的な過程を時系列で追う。

【表2】駿府城大改修 主要年表(1606年~1610年)

年月日

出来事

意義・特記事項

典拠

慶長11年(1606)

家康、駿府を隠居地と定め、大改修を計画

大御所政治の拠点化が決定

8

慶長12年(1607) 2月17日

天下普請による大改修工事が開始

全国の諸大名を動員した国家事業の始動

20

慶長12年(1607) 7月3日

本丸御殿が完成し、家康が入城

大御所政治が駿府で本格的に開始

20

慶長12年(1607) 12月22日

城内より出火、本丸の建物を全焼

計画の最大危機。しかし、これが権力誇示の転機となる

26

慶長13年(1608) 1月1日

家康、即座に再建を命令

災禍をものともしない大御所の絶対的な意志を示す

26

慶長13年(1608) 8月20日

新天守の上棟式

火災からわずか8ヶ月での驚異的な復興

20

慶長14年(1609) 年内

三重の堀など外郭部が完成

城塞都市としての骨格が完成。本報告書の中心事象

(推定)

慶長14年(1609)

徳川頼宣が駿府城主に就任

駿府の徳川家における恒久的拠点化

8

慶長15年(1610)

天守が完成

豪華絢爛な権威の象徴が完成し、大改修事業が完了

8

慶長12年(1607年):始動と炎上

普請が正式に開始された2月17日、駿府の地は全国から動員された大名家の家臣や人夫たちでごった返した 20 。3月には畿内などに対し「500石につき人夫3人」という具体的な動員基準が通達され、工事は本格化する 20 。5月23日には本丸造成の節目となる天守台の礎石が置かれ、普請は新たな段階へと移行した 20

工事は驚異的な速度で進められ、わずか5ヶ月後の7月3日には、大御所政治の舞台となる本丸御殿が落成。家康は正式に駿府城へ居を移した 20 。この時点ではまだ二ノ丸は未完成であり 20 、まずは政治の中枢機能の確立が最優先されたことがわかる。しかし、その年の暮れ、12月22日の深夜に事態は暗転する。城内から発生した火災は折からの強風に煽られ、完成したばかりの本丸御殿、そして建設中の天守や櫓など、本丸の主要建造物を一夜にして灰燼に帰せしめたのである 26

慶長13年(1608年):驚異的な再建

この国家事業を頓挫させかねない大惨事に対し、家康の対応は迅速を極めた。年が明けた慶長13年(1608年)の元旦、家康は即座に再建を命令 26 。悲嘆に暮れる暇も与えず、普請の再開を厳命したこの決断は、家康の意志がいかなる災禍によっても揺るがないことを天下に示す強烈なメッセージとなった。再び全国から最高の技術を持つ大工や職人が駿府に集められ、以前にも増して大規模な再建工事が始まった。

その復興速度は、まさに驚異的であった。火災からわずか8ヶ月後の8月20日には、新しい天守の上棟式が執り行われたのである 20 。この速度は、昼夜を問わず続けられたという突貫工事の凄まじさを物語っている 30 。この火災は、結果的に家康の権威をより強固にするための「劇場型政治イベント」へと昇華された。危機的状況を、即座の再建命令という揺るぎないリーダーシップと、それを可能にする圧倒的な国家動員力で見事に克服することで、かえって徳川の権力基盤の強大さを天下に知らしめる機会となったのである。

慶長14年(1609年):外郭の完成と新たな城主

本丸の再建と並行して進められていた二ノ丸、三ノ丸といった外郭部分の普請は、慶長14年(1609年)に大詰めを迎える。三重の堀の掘削と石垣の構築、広大な三ノ丸の造成が完了し、駿府城は単なる城から、広大な武家屋敷地や行政施設を内包する巨大な城塞都市へと変貌を遂げた 31 。この年、三重の堀に囲まれた広大な外郭部が完成。これこそが本報告書の主題である「駿府城外郭完成」であり、これにより城の防御機能と政治都市としての骨格が完成したのである。

この年、もう一つの重要な出来事があった。家康の十男である徳川頼宣(当時7歳)が、駿河・遠江50万石の領主として駿府城主に就任したのである 8 。もちろん、実質的な権力者は大御所家康であるが、形式的に城主を置くことで駿府藩という新たな体制を確立し、この地が徳川家にとって恒久的な重要拠点であることを内外に宣言した。普請の進行は、常に家康の政治的必要性に応じて明確な優先順位が付けられていた。その最終段階として外郭を完成させ、次世代の徳川一門を城主に据えることで、駿府城は徳川による永続的支配の象徴として完成の域に達したのである。

第三章:普請現場のリアル ― 石垣の刻印と掟書が語るもの

マクロな政治史から視点を移し、普請現場のミクロな実態に迫ると、この巨大プロジェクトを支えた人々の息遣いと、それを管理した厳格なシステムが見えてくる。発掘された石垣に残る無数の刻印や、奇跡的に現存する大名家の文書は、当時の現場のリアルを雄弁に物語っている。

石垣に刻まれた「責任と威信」

駿府城の石垣には、現在でも300以上、150種類もの「刻印」が確認されている 16 。これらは、天下普請を命じられた各大名家が、自らの普請担当区画を明示するために刻んだものである。第一の目的は、工事の責任の所在を明確にすることにあった 34 。もし手抜き工事があれば、どの家の責任かは一目瞭然となる。

しかし、その役割は単なる責任表示に留まらない。石材の採石地から駿府までの運搬、そして現場での管理において、他家の石材との混同を防ぐための、ロジスティクス上の重要な識別記号でもあった 34 。各大名家は、自家の威信をかけて、より良質な石材を確保し、より見事な石垣を築こうと競い合っていた。石垣に残る刻印は、徳川への服従の証であると同時に、各大名家が己の誇りをかけて巨大事業に挑んだ痕跡でもあるのだ 36

細川家「普請掟書」に見る現場の規律

普請現場の生々しい実態を伝える第一級の史料が、熊本大学に所蔵される松井家文書の中から発見された、小倉藩主・細川忠興が定めた「駿府城普請掟書」である 22 。全十三箇条からなるこの掟書は、普請現場がいかに緊張感に満ちた場所であったかを物語っている。

その内容は極めて厳格かつ具体的である。「他家の者との喧嘩は固く禁じ、もし喧嘩を見物に出た者も成敗(死罪)とする」(第三条)。「振舞酒は厳禁、弁当を持ち寄って食べるのは良いが、酒は小盃三杯までとせよ」(第六条)。「他家の湯風呂に入ってはならない」(第十一条)。「相撲を取ることも、見物することも普請中は厳禁とし、違反者は成敗する」(第十二条)など、日常生活の細部に至るまで厳しい規律が定められていた 22

これらの条文が示すのは、全国から集められた血気盛んな武士や人夫たちが、狭いエリアで共同作業を行うという、一触即発の状況である。石垣の刻印が示すように、隣接する工区では、昨日まで敵同士だったかもしれない大名家が作業を行っていた。この掟書の存在は、各大名家が、家康の命令である普請を成功させるという責任と、自家の面子を保ちつつ他家との衝突を避けるという、二重のプレッシャーに晒されていたことを物語っている。普請現場は、徳川が構築する新たな秩序への適応を試される、社会的な実験場でもあったのだ。

城と一体で進められた都市計画(町割り)

駿府城の普請は、城郭内部に留まるものではなかった。家康は、城の建設と同時に、大規模な城下町の整備、すなわち「町割り」を一体的に、かつ計画的に進めた 37 。その壮大な都市計画の前提として、まずは安倍川の大規模な治水工事が行われ、洪水から町を守り、広大な用地を確保した 37

新たに造成された城下町は、城の大手門を起点として、碁盤の目のように整然と区画された 37 。この合理的な都市計画は「駿府型町割り」と呼ばれ、後の江戸のまちづくりにも大きな影響を与えたとされる 39 。さらに、町人地の各区画(ブロック)の中央には「せり・会所」と呼ばれる共用の空き地が設けられるなど、防火やコミュニティ形成を意図した独自の工夫も見られた 38 。駿府城普請は、単なる築城ではなく、近世的な「プロジェクトマネジメント」の手法を用いて、城郭と都市インフラを一体で開発する総合的な計画であった。それは、戦国時代の属人的な手法から脱却し、システムによって巨大事業を動かすという、新しい時代の統治技術の萌芽を示すものであった。

第四章:完成した駿府城の威容とその象徴性

慶長14年(1609年)の外郭完成、そして翌慶長15年(1610年)の天守完成によってその全貌を現した新生・駿府城は、単なる軍事拠点の枠を遥かに超える、徳川の威光を国内外に示すための壮大な舞台装置であった。その構造と規模は、新しい時代の支配者の権威を象徴するにふさわしいものであった。

三重の堀に囲まれた巨大要塞

完成した駿府城は、本丸、二ノ丸、三ノ丸が三重の堀によって同心円状に囲まれた「輪郭式平城」という、防御に優れた構造を持っていた 31 。最も内側にある本丸堀だけでも、その幅は約25メートルに達し、両岸は「打ち込みはぎ」と呼ばれる堅固な石垣で固められていた 40 。この三重の堀は、城に鉄壁の防御力を与えるとともに、城郭の壮大さを際立たせる役割も果たした。

近年の発掘調査によって、その驚くべき規模が科学的に裏付けられている。明治時代に取り壊され、土砂で埋められていた天守台の石垣が発見され、その規模が南北約68メートルにも及ぶことが判明したのである 42 。これは、徳川幕府の本城である江戸城の天守台(南北約45メートル)の実に1.5倍という、比類なき大きさであった。この事実だけでも、家康が駿府城に込めた意図の大きさが窺える。

権威を演出する「迎賓館」

大御所時代の駿府城は、戦国の世の山城のような、純粋な戦闘を目的とした要塞とはその性格を異にしていた。むしろ、諸国の要人や海外からの使節を迎え、徳川の圧倒的な威光と統治の安定性を見せつける「迎賓館」としての役割を強く意識して造られていた 6

当時の駿府には、幕政の顧問であった金地院崇伝や林羅山といった当代一流の学者、さらにはイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)やオランダ人のヤン・ヨーステンといった外国人も仕えており、国際的な情報が集まる政治・外交の中心地となっていた 43 。彼らを迎えるにふさわしい壮大で華麗な城は、徳川による統治の正統性と、それがもたらす平和と繁栄を、言葉以上に雄弁に語るための装置だったのである。

黄金に輝いたという天守

慶長15年(1610年)に完成した天守は、五層七階(一説に六層七階)を誇る壮大なものであったと伝えられる 31 。『当代記』などの史料によれば、その屋根は金箔瓦で葺かれ、大棟には黄金の鯱が燦然と輝いていたとされ、その姿は豪華絢爛を極めた 8 。金山奉行の大久保長安が天守造営のために黄金30万枚を献上したという逸話も、その豪華さを裏付けている 23

金箔瓦の使用は、かつて豊臣秀吉が聚楽第や大坂城で用いた、富と権力の象徴であった 10 。家康がこれをあえて自らの城に用いたのは、豊臣が築いた権威を徳川が完全に凌駕したことを天下に示す、明確な政治的メッセージであった。それは、軍事力によって勝ち取った天下を、これからは圧倒的な経済力と文化的な威光によって治めていくという、新しい時代の統治理念の宣言でもあった。駿府城は、個人の権威の象徴であると同時に、「徳川家」という組織による永続的な支配体制の確立を宣言するものであった。十男・頼宣を城主に据え、後に徳川御三家の祖となる公子たちの教育の場としたことは 14 、この城が豊臣家のような一代の栄華で終わるものではないという、強い意志の表れに他ならなかった。

結論:1609年、駿府城外郭完成が意味したもの

慶長14年(1609年)の「駿府城外郭完成」は、単に城の防御機能が向上したという土木技術史上の出来事ではない。それは、徳川家康が描いた天下泰平への道筋における、極めて重要な一里塚であった。この事象が持つ多層的な意味を総括すると、以下の三点に集約される。

第一に、それは**徳川の天下の「物理的証明」**であった。外郭の完成により、駿府は名実ともに大御所家康の拠点として、政治・軍事・経済の中心地として完成の域に達した 31 。江戸城を凌駕するほどの規模を持つこの巨大な城塞都市の存在そのものが、徳川による天下支配がもはや揺るぎないものであることを、誰の目にも明らかな形で証明したのである。

第二に、それは 対豊臣包囲網の完成 を意味した。東の江戸に将軍秀忠、そして中央の駿府に大御所家康という二大拠点を確立したことで、西国の大坂城に籠る豊臣家は、政治的にも地理的にも完全に包囲された形となった。駿府城は、豊臣家とその恩顧大名に対する無言の、しかし圧倒的な圧力装置として機能し、5年後に勃発する大坂の陣への決定的な布石となった。

第三に、それは 新たな時代の統治モデルの提示 であった。天下普請という強大な国家動員力、城郭と都市を一体で開発する合理的な計画性、そして駿府で進められた法制度の整備は、戦国の世とは全く異なる、システムと法に基づいた新しい統治のあり方を示した 4 。駿府は、徳川300年の平和の礎となる幕藩体制という統治システムが構築された、巨大な実験場だったのである。

慶長14年、駿府に完成した壮大な城郭は、戦乱の時代の終わりと、徳川による新たな秩序の始まりを告げる、静かにして力強い鐘の音であった。それは、一人の武将の勝利宣言であると同時に、来るべき泰平の世の設計図でもあったのである。

引用文献

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  5. 江戸時代を再検討する Ⅰ | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/category/history/edo_kentou_1/
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  18. 名古屋城「天下普請」の全貌:家康の野望、武将たちの競演、そして空前の経済戦略 https://www.explore-nagoyajo.com/tenka-construction/
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  35. 駿府城の見どころ - 葵舟 https://www.sumpu-aoibune.com/highlights/
  36. <駿府城(後篇)> ”天守台”発掘現場の広さや石垣の違いを生で実感 | シロスキーのお城紀行 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12795502068.html
  37. 大御所の町・駿府城下町の誕生 - 駿府城下町の町割(都市計画) https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/04_07.htm
  38. 大御所の町・駿府城下町の誕生 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/04_08.htm
  39. vol.21 家康の都市デザイン - Water Works 水の働き http://www.waterworks.jp/vol21/page1.html
  40. 本丸堀 | 駿府城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/65/memo/1055.html
  41. 駿府城発掘情報 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/10_01.htm
  42. 駿府城跡天守台発掘調査 ~掘り出された天守台西辺の長さは、江戸城の1.5倍~ 特別な現場見学会を開催 | 静岡市のプレスリリース | 共同通信PRワイヤー https://kyodonewsprwire.jp/release/201702058484
  43. 徳川家康~大御所と駿府城下町~:静岡市公式ホームページ https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/p009496.html
  44. 駿府城跡(すんぷじょうあと) https://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/society/kyoutsu/shizuoka_bunkazai/tyubu_sunpujou.html