佐保姫は春の女神から戦国の象徴へ。聖地は軍事拠点に、名は悲劇の姫君伝説に転じ、武将の美意識に影響を与え、時代と共に変容した。
赤い餡を薄い外郎(ういろう)の皮で包み、餡が透けて淡い紅色に見える。その優美な姿から、春霞の中にたたずむ女神を連想させる銘菓「佐保姫」。この菓子の名は、奈良の佐保山を霞色に染める春の女神、佐保姫に由来する 1 。その名は、穏やかで麗らかな春の情景を心に描き出す。
しかし、この優雅な名前は、単に静謐な春の象徴に留まるものではない。「日本の戦国時代」という激動の時代を映す鏡としてこの名を見つめるとき、その背後からは全く異なる貌(かお)が浮かび上がる。それは、女神が鎮まる聖地が軍事拠点として蹂躏(じゅうりん)されるという冷徹な現実であり、また、戦乱の記憶が地域の人々の心に刻み込まれ、新たな悲劇の物語として結晶化したという、もう一つの現実である。
本報告書は、この「佐保姫」という多義的な概念を、戦国時代というプリズムを通して多角的に分析するものである。古典世界に生まれた優美な女神のイメージが、戦国の動乱期において、いかにして軍事拠点の名となり、悲劇の姫君の名として語り継がれ、さらには当代一流の武人たちの美意識に影響を与え、現代の我々が知る文化的な象徴へと繋がっていったのか。その複雑でダイナミックな変遷の軌跡を、ここに解き明かすことを目的とする。
戦国時代の武将たちが共有していた教養の基盤を理解するためには、まず「佐保姫」の原点、すなわち古典世界におけるその姿を正確に把握する必要がある。
佐保姫は、特定の神話体系に登場する神ではなく、奈良の地に根差した観念から生まれた存在である。その起源は、奈良・平城京の東方に広がる丘陵地帯「佐保山」の神霊を擬人化したものとされる 1 。
この神霊が「春の女神」とされた背景には、古代中国から伝来した陰陽五行説の思想がある。この思想体系では、万物は木・火・土・金・水の五つの元素から成り、それぞれが方角や季節と結びつけられている。その中で「東」は「春」に対応するとされた 4 。平城京から見て東に位置する佐保山の神は、この宇宙観に基づいて春を司る女神「佐保姫」として観念されるに至ったのである。
この体系的な世界観は、対となる存在を生み出した。平城京の西に位置する竜田山の神霊は、同じく五行説で「秋」に対応する「西」の方角にあることから、秋を司る女神「竜田姫」として設定された 1 。佐保姫と竜田姫という春と秋の女神の対比は、日本の豊かな四季の感覚が、大陸から受容した知的で体系的な世界観の中に位置づけられ、洗練されていった過程を物語っている。
観念として生まれた佐保姫は、和歌という文芸形式を通じて、具体的なイメージを纏(まと)っていく。歌人たちは、佐保姫を白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい女性と考え、機織りや染め物を司る女神として信仰した 1 。春の霞は佐保姫が織りなす薄衣であり、芽吹いたばかりの柳の瑞々しい緑は、佐保姫が染め上げた糸に喩えられたのである 4 。
平安時代から鎌倉時代にかけての勅撰和歌集には、佐保姫を詠んだ優美な歌が数多く残されている。
佐保姫のうちたれ髪の玉柳 たゞ春風のけづるなりけり
(大江匡房『玉葉和歌集』) 12
風にそよぐ柳の枝を、女神が垂らした美しい髪に見立て、春風がそれを櫛でとかしているかようだと詠む。自然の情景を女神の優雅な仕草に重ね合わせる、洗練された見立てである。
佐保姫の糸染め掛くる青柳を吹きな乱りそ春の山風
(平兼盛『詞花集』) 4
芽吹いたばかりの柳の鮮やかな緑を、女神が染め上げたばかりの糸が掛けられていると捉え、その美しさを乱さないでくれと春風に呼びかける。ここでも佐保姫は、春の色彩を生み出す芸術家として描かれている。
さほ姫の霞の袖もたれゆへに おぼろにやどる春の月かげ
(藤原家隆『続古今和歌集』) 12
春霞を女神の袖と見立て、その袖のせいで(誰のせいで)春の月がおぼろに見えるのか、と詠む。朧月夜の幻想的な情景に、秘めた恋の情感を重ね合わせる、極めて高度な詩的技巧である。
これらの和歌が示すように、佐保姫は単なる自然神ではなく、歌人たちの美意識を刺激し、複雑な比喩や掛詞(かけことば)を生み出すための「詩的装置」として機能していた。この知的で洗練された女神のイメージこそ、後の戦国武将たちが共有していた教養の核心部分を成すものであった。
一方で、中世にはこうした高貴な存在をあえて卑俗な文脈で詠むことで、新たな笑いを生み出そうとする諧謔(かいぎゃく)の精神も生まれる。室町時代の俳諧連歌師・山崎宗鑑は次のように詠んだ。
かすみのころも裾はぬれけり佐保姫の 春立ちながらしとをして
(山崎宗鑑『新撰犬筑波集』) 10
春霞が地面近くで湿っている様子を、優美な女神が立ち小便をしたためだと見立てたこの句は、高雅な和歌の世界を大胆に転覆させる。このような表現の存在は、神聖な存在でさえも、文化の中で多様に解釈され、遊戯の対象となりうる素地が、戦国時代以前から存在していたことを示している。
平安、鎌倉、室町を通じて育まれてきた優美な佐保姫のイメージは、戦国時代という未曾有の動乱期において、二つの全く異なる形で劇的な変容を遂げる。一つは、女神の聖地が軍事拠点へと変貌する「物理的現実」であり、もう一つは、戦乱の記憶が新たな物語を人々の心に生み出す「心的現実」である。
戦国時代、春の女神が鎮まる地であった奈良・佐保山は、その牧歌的な性格を完全に剥奪される。この地は、戦国武将・松永久秀によって「多聞山城(多聞城)」という名の、壮大かつ革新的な城郭へと姿を変えたのである 14 。この築城は、古典的な聖域が、戦国の軍事合理性によって無慈悲に上書きされた象徴的な事件であった。
この多聞山城は、単なる砦ではなかった。後の近世城郭の先駆けとなる、数々の画期的な特徴を備えていた。興福寺の僧・英俊が記した『多聞院日記』によれば、城には後の天守に相当する四階建ての櫓がそびえ、塁(るい)の上に長屋状の建物を連ねる防御施設「多聞櫓」が初めて本格的に導入された 16 。この「多聞櫓」という名称は、この城の名に由来すると言われている 15 。さらに、火矢による攻撃を防ぐために屋根には瓦が葺かれ、鉄砲の弾丸を防ぐために壁は漆喰で厚く塗り固められていた 16 。これらは、当時の最新の戦術に対応した最先端の城郭建築技術であった。
その内部は、単なる軍事施設ではなく、壮麗な宮殿であった。永禄8年(1565年)にこの城を訪れたイエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダは、その美しさに驚嘆し、「基督教国に於て見たること無き甚だ白く光沢ある壁」「都でもこれほど美しいものを見たことがない」と絶賛の言葉を残している 16 。
久秀がこの地に城を築いたのには、明確な政治的意図があった。城が建つ場所は、中世以来、大和国を事実上支配してきた興福寺や、聖武天皇以来の権威を持つ東大寺を見下ろす戦略的要衝であった 15 。この地に壮大な城を構えることは、旧来の宗教的権威に対し、武家による新たな支配が始まったことを視覚的に、そして圧倒的に誇示する行為だったのである 20 。久秀は築城の様子を奈良の町衆に公開さえしたとされ、それは「守る城」から「見せる城」への転換であり、自らが大和の新たな支配者であることを民衆に強く印象付けるための演出であった 21 。
この城を築いた松永久秀という人物は、まさに戦国という時代を体現する存在であった。彼は主君であった三好長慶の一族を次々と死に追いやり、将軍・足利義輝を暗殺し、ついには東大寺大仏殿を焼き討ちにするなど、目的のためには手段を選ばない「梟雄」として恐れられた 17 。その一方で、彼は茶の湯を深く愛し、「九十九髪茄子」や「古天明平蜘蛛」といった天下の名物を所持する当代一流の文化人でもあった 17 。織田信長に反逆し、信貴山城に追い詰められた際、「平蜘蛛の釜を差し出せば命は助ける」という信長の降伏勧告を拒絶し、名物と共に爆死したという伝説は、彼の美意識と矜持を物語っている 25 。
松永久秀による多聞山城の築城は、戦国時代の「価値の転換」を象徴する行為に他ならない。和歌に詠まれた優美な「佐保姫」の聖地という「文化的価値」が、奈良盆地を一望できるという「軍事的・政治的価値」によって上書きされ、再定義されたのである。
この文化的上書きのプロセスは、言葉の変遷にも見て取れる。城の名は、久秀が信仰した仏教の守護神・多聞天(毘沙門天)に由来する 21 。そして、この城で創始された建築様式が「多聞櫓」として後世に定着した。つまり、「佐保姫(神道・和歌)」の地に、「多聞天(仏教・武)」の名を冠した城が築かれ、そこから生まれた建築様式が「多聞櫓」として日本の城郭史にその名を刻んだのである。この過程で、元の地名(佐保山)や女神(佐保姫)の記憶はほぼ消し去られ、武家の文化が古典文化の土壌の上にいかにして新たな体系を構築していったかを示す、象徴的な文化の地層が形成されたと言える。
戦国時代が生んだもう一つの「佐保姫」は、物理的な城郭ではなく、人々の心の中に築かれた物語である。兵庫県猪名川町および宝塚市の一部には、明智光秀の娘・佐保姫と、丹波八上城主・波多野秀治の息子・貞行との悲恋物語が、今なお地名と共に語り継がれている 29 。
伝説によれば、光秀の長女・佐保姫は、継母との折り合いが悪く、猪名川中部にあった三蔵山城に預けられていた。そこで彼女は、近隣の丹波を治める波多野秀治の息子・貞行と恋に落ち、将来を誓い合う。しかし、光秀の主君である織田信長が、光秀に波多野氏の居城・八上城を攻めるよう命令したことで、二人の運命は暗転する。
父と恋人の一族が敵味方となる中で、八上城は光秀の猛攻の末に落城。貞行は辛うじて城を落ち延びるが、姫との再会は叶わなかった。その後、姫が暮らしていた三蔵山城も落城し、すべての望みを絶たれた佐保姫は、城下を流れる猪名川の淵に身を投げ、その身を白い蛇に変えたと伝えられる。以来、その地は「佐保姫」、姫が入水した淵は「姫ヶ淵」と呼ばれるようになったという 29 。
この伝説の背景には、天正7年(1579年)に実際に起こった、明智光秀による丹波攻略、特に八上城を巡る凄惨な籠城戦という史実が存在する 30 。当時、周辺地域では、羽柴秀吉による三木城の「干し殺し」や、荒木村重が籠る有岡城の戦いなど、信長の天下統一事業に伴う激しい戦闘が繰り広げられており、地域社会は疲弊しきっていた 30 。この伝説は、そうした時代の空気の中で生まれたと考えられる。
しかし、物語に登場する「佐保姫」や「貞行」といった人物は、同時代の史料ではその存在を確認することができない 33 。また、地名としての「佐保姫」が文献上で確認できるのは明治25年(1892年)のことであり、この伝説が戦国時代そのものではなく、江戸時代以降に形成された口承文芸である可能性も指摘されている 30 。
猪名川の「佐保姫伝説」は、戦国時代の凄惨な記憶、とりわけ地域社会を深く傷つけた丹波攻めのトラウマが、民衆の間で物語として結晶化したものと解釈できる。歴史の敗者となった明智氏と波多野氏、その血を引く若者たちの悲恋という形式をとることで、戦争の非情さと、それに翻弄される個人の運命の儚さを後世に語り継ぐ装置として機能したのである。
では、なぜこの悲劇の姫君に、春の女神の名である「佐保姫」が与えられたのか。それは、地域の人々が自らの体験した悲劇を物語るにあたり、既存の文化的語彙の中から、その悲劇性を最も際立たせる名前を選択した結果であろう。春を司り、生命と美の象徴である「佐保姫」が、戦乱によって若くして命を絶たれるという筋書きは、戦争がもたらす破壊の理不尽さを最も効果的に表現する。つまりこの伝説は、古典的な女神のイメージを「悲劇の器」として再利用し、地域の歴史的記憶をそこに注ぎ込むことで生まれた、民衆による新たな神話創成の試みであったと言える。戦国の暴力という「現実」と、佐保姫という「古典的理想」の衝突を描くことで、地域のトラウマを普遍的な物語へと昇華させたのである。
表:「佐保姫」の多様な貌
本章で論じたように、「佐保姫」という言葉は複数の意味を内包している。読者の理解を助けるため、その多様な貌を以下の表に整理する。
項目 |
古典世界の女神「佐保姫」 |
猪名川の伝説「佐保姫」 |
銘菓「佐保姫」 |
時代 |
古代~中世(平安期に確立) |
戦国時代(天正年間)が舞台 |
近現代 |
正体 |
春を司る女神、佐保山の神霊 |
明智光秀の娘(とされる人物) |
外郎で餡を包んだ和菓子 |
関連地 |
奈良・佐保山 |
摂津・猪名川、丹波・八上城 |
主に奈良の銘菓として知られる |
物語 |
春霞を織り、万物に生命を与える |
波多野氏の息子との悲恋、入水 |
春の女神の優美さを意匠で表現 |
根拠 |
和歌、古典文学、陰陽五行説 |
口承伝説、地名 |
商品の由来、菓銘 |
戦国の武将たちは、佐保姫の聖地を軍事利用し、その名を冠した悲劇が生まれる原因を作った張本人であった。しかしその一方で、彼ら自身もまた、佐保姫が象徴する古典的な美意識の世界に深く浸かり、それを自らの生き様を表現する手段としていた。本章では、彼らの文化活動の中に、「佐保姫」の残照、すなわち春の美意識がどのように息づいていたかを探る。
本能寺の変を起こすわずか数日前、天正10年(1582年)5月28日、明智光秀は京都の愛宕山に当代一流の連歌師・里村紹巴らを招き、連歌会を催した 34 。この「愛宕百韻」と呼ばれる連歌会で、光秀は発句(最初の句)を詠んでいる。
ときは今 あめが下しる 五月哉
この句は、後世、大きな議論を呼ぶことになった。「ときは今」の「とき」を光秀の出自である「土岐(とき)」氏に掛け、「あめが下しる」を「天が下治る(天下を治める)」と解釈すれば、「土岐氏である私が天下を治める時が来た、季節は五月だ」という、謀反の決意表明となる 36 。一方で、「あめが下なる」という伝本もあり、その場合は単に「今は五月雨が降る季節だなあ」という情景描写に過ぎないともされる 35 。
この句の真意はともかく、重要なのは、光秀が天下分け目の決断を前にして、季節の移ろいを繊細に詠み合う連歌会を催すほどの深い教養の持ち主であったという事実である 40 。連歌は、参加者が句を詠み継いでいく中で、季節が春から夏へ、そして秋へと巧みに移り変わっていく様を味わう、極めて知的な文芸である 35 。その会を主宰することは、佐保姫や竜田姫に代表される古典的な季節観を熟知していなければ不可能であり、彼の内面に豊かな文化的世界が広がっていたことの証左に他ならない。
戦国武将の中でも、文化人として傑出した存在が、細川幽斎(藤孝)である。彼は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた武将であると同時に、公家の二条派に伝わる和歌の秘伝「古今伝授」を、戦乱の中で唯一受け継いだ人物であった 41 。
幽斎の和歌には、古典的な美意識、特に春の情景が色濃く反映されている。豊臣秀吉が催した吉野の花見で詠んだとされる歌は、その典型である。
君がため花の錦を敷島や やまと島ねもなびく霞に
(『衆妙集』) 41
この歌は、吉野山が主君である秀吉のために、満開の桜という錦を敷き詰めていると詠む。そして、その情景にたなびく春霞を、秀吉の威光が日本全国に行き渡っている様子に重ね合わせている。ここでは「花の錦」や「霞」といった、佐保姫の世界観と直結する伝統的なモチーフが、主君への賛美と忠誠を表現するという、武将ならではの目的のために巧みに用いられている。
明智光秀の娘であり、細川幽斎の息子・忠興の妻であった細川ガラシャ(玉)は、戦国時代の女性の中でも特に数奇な運命を辿った 43 。父が本能寺の変を起こしたことで「逆賊の娘」となり、夫との関係も冷え込み、丹後に幽閉される日々を送る 45 。その苦悩の中でキリスト教に救いを求め、洗礼を受ける。最期は、関ヶ原の戦いの直前、石田三成の人質となることを拒み、家臣に胸を突かせて壮絶な死を遂げた 46 。
彼女が死に際に詠んだとされる辞世の句は、戦国時代の美意識と死生観を凝縮した名歌として知られる。
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
48
桜の花は、散るべき時を心得て潔く散るからこそ美しい。人間もまた、そうあるべきだ、と詠う。ここには、もののあはれや無常観といった日本の伝統的な美意識が、極限まで研ぎ澄まされた形で表現されている。春を司る佐保姫が花々を咲かせる生命の女神であるならば、ガラシャの句は、その花が最も輝く瞬間と、その後の「散り際」にこそ、人間としての尊厳と美を見出すという、戦国時代を生きた女性の覚悟を示している。
戦国時代は、古典文化が破壊された時代であると同時に、武士階級という新たな担い手によってその価値が再発見され、変容した時代でもあった。豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」や「吉野の花見」は、その象徴である 51 。かつて貴族が歌を詠み交わした雅な観桜の宴は、数千人規模の参加者を集め、権力を誇示するための大規模な政治的パフォーマンスへと変貌した 54 。この過程で、佐保姫が司る「春」や「花」は、単なる自然美の対象から、武将たちの野心、権力、そして死生観を投影する、よりダイナミックで人間臭い象徴へと、その意味合いを深めていったのである。
本報告書で分析してきたように、「佐保姫」という名は、単一の固定された意味を持つのではなく、時代ごとの人々の経験や価値観を反映しながら、絶えず新たな意味を付与され続ける「生きた記号」である。そして、その変容の歴史において、戦国時代は最も劇的かつ決定的な転換点であった。
古典世界で生まれた春の女神は、戦国という激動期を経て、その意味を大きく三つの方向に変容させた。
第一に、 場所の上書き である。奈良・佐保山では、女神の聖地という雅な記憶は、松永久秀が築いた多聞山城という軍事拠点の記憶に上書きされた。和歌に詠まれた優美な世界は、戦国の武力と合理性の前に屈し、新たな権力の象徴の地となった。
第二に、 物語の創造 である。摂津・猪名川では、戦乱の悲劇を記憶し、語り継ぐために、女神の名が悲劇の姫君の名として借用され、新たな物語が創造された。古典的な美の象徴が、名もなき民衆の心的外傷を癒し、その記憶を未来へ運ぶための器となったのである。
第三に、 美意識の深化 である。明智光秀、細川幽斎、そして細川ガラシャといった武将とその一族の文化活動の中では、女神が象徴する春の季節美は、彼らの野心や忠誠、そして死生観を映し出す鏡となり、その意味合いをより深く、より実存的なものへと変えた。
これら戦国時代に刻まれた記憶の地層の上に、現代の我々が享受する文化は成り立っている。冒頭で触れた銘菓「佐保姫」の優美な意匠は、一見すると古典的な女神の姿のみを反映しているように見える 57 。しかし、その淡い紅色の背後には、戦国時代に刻まれた権力闘争の記憶と、名もなき人々の悲しみの物語が、歴史の地層として確かに横たわっている。
我々が一口の銘菓に春の訪れを感じる時、その甘美さの奥底には、聖地を蹂躙した梟雄の野望と、戦乱に散った姫君の悲しみが、歴史の残響として今なお響き続けているのである。「佐保姫」とは、かくも豊かで、そしてかくも物悲しい記憶を内包した、日本の歴史そのものを映し出す言葉なのだ。