吉田流弓術は、吉田重賢が日置弾正正次から学び創始。戦国時代の実戦的弓術として発展し、歩射に特化。その技術は射法、弓具、精神性を体系化し、多くの分派を生んだ。
本報告書は、日本の戦国時代という激動の時代が生んだ特異な知の体系、すなわち「吉田流弓術書」について、その歴史的、技術的、そして思想的側面から徹底的に解明することを目的とする。単に一個の書物としてではなく、戦国時代に勃興し、近世武家社会の弓術の主流を形成するに至った一つの巨大な知識体系として捉え、それがなぜ時代の要請となり得たのか、そして如何にして後世にその命脈を保ち得たのかを多角的に考察する。
一般に「吉田流弓術書」と称されるものは、単一の特定の書籍を指すものではない。それは、流派の教えを立体的かつ重層的に伝承するために編まれた、多様な伝書群の総称である。この伝書群は、主に以下の要素によって構成されている。
これら多岐にわたる伝達形態が複合的に機能することによって、吉田流の技術と精神性は、単なる文字情報としてではなく、生きた知として後世に伝えられてきたのである。
戦国時代、弓矢は鉄砲が普及するまで、合戦の帰趨を決する主要な遠戦兵器であった 5 。この時代、従来の公家社会で育まれた儀礼的な騎射中心の弓術(古流)は、戦場の主役となった歩兵による集団戦という新たな戦闘様式に必ずしも対応できなくなっていた。このような状況下で登場したのが、日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)に源流を発し、吉田重賢(よしだしげかた)が確立した日置・吉田流である。この流派は、歩兵による実戦的な射法(歩射)に特化した「新流」として、戦場の厳しい要請に応える形で急速にその勢力を拡大していった 6 。吉田流の成立は、戦国時代の軍事技術革新の一翼を担う、画期的な出来事だったのである。
吉田流の流祖、吉田重賢(1463-1543)は、近江国蒲生郡川守村(現在の滋賀県蒲生郡竜王町川守)を本拠とした武将である 8 。その家系は宇多源氏佐々木氏の一族であり、佐々木秀義の子、吉田厳秀を始祖とする名門であった 9 。戦国時代当時、吉田氏は近江守護であった六角氏の重臣として、旗下七人のうちに数えられるほどの有力な国人であり、重賢自身も弓馬の道に優れた武将として知られていた 9 。彼の生きた近江は、畿内に近く、常に戦乱の渦中にあった。この地理的条件が、彼をしてより実戦的な武術を希求させた大きな要因であったと考えられる。
重賢は、幼少期より逸見流、武田流、小笠原流といった家伝の古流弓術を修めていた 11 。しかし、明応年間(1492-1501)頃、当時、革新的な射法をもって諸国を遊歴していた日置弾正正次に出会い、その門下に入ったとされる 8 。『寛政重修諸家譜』によれば、日置弾正の門人は多数いたが、その妙技を完全に体得し、家伝を継承することを許されたのは重賢ただ一人であったという 9 。この事実をもって、日置流は「吉田流」とも称されるようになり、重賢は吉田流の開祖と位置づけられることとなった。
重賢が日置流の射法を受容したのは、単なる一個人の武技への探求心からだけではなかったであろう。戦乱の絶えない近江の地で軍を率いる武将として、彼は従来の儀礼的な弓術に限界を感じていたはずである。歩兵による集団戦が主流となる中で、個人の武勇よりも、組織的な戦闘力、すなわち兵の殺傷能力と戦術的効率性を高めることが急務であった。日置流の射法は、まさにその要求に応えるものであり、重賢にとってそれは、自軍の戦闘力を飛躍的に向上させるための必然的な軍事技術革新の一環であったと推察される。
吉田流の源流とされる日置弾正正次(1444頃-1502頃)は、「日本弓術中興の祖」とまで称される一方で、その実像は深い謎に包まれている 12 。彼の存在をめぐっては、複数の説が入り乱れており、今日に至るまで定説を見ていない。
これらの言説の多様性は、単なる史料の欠損に起因する歴史的混乱として片付けるべきではない。むしろ、新興流派であった吉田流が、当時すでに幕府の故実として権威を確立していた小笠原流などに対抗し、自らの正統性を社会的に認知させていく過程で、戦略的に構築された「物語」の痕跡と解釈することができる。始祖を神秘化・神格化することは、流派の権威を高めるための常套手段である。特に、公には「神の如き師から受け継いだ」と語り、一方で流派の内部文書では「我らが祖こそがその神髄である」と示唆するような二重構造は、流派の秘匿性と権威性を両立させるための、極めて高度な戦略であった可能性を物語っている。
西暦 |
和暦 |
主要な出来事 |
日置正次 |
吉田重賢 |
吉田重政 |
吉田重高 |
吉田重勝(雪荷) |
吉田重氏(印西) |
1444 |
文安元 |
- |
生誕(推定) |
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1463 |
寛正4 |
- |
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生誕 |
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1467 |
応仁元 |
応仁の乱(~1477) |
活動期 |
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1485 |
文明17 |
- |
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生誕 |
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1492 |
明応元 |
- |
重賢に伝授(推定) |
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1502 |
文亀2 |
- |
死去(推定) |
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1508 |
永正5 |
- |
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生誕 |
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1512 |
永正9 |
- |
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生誕 |
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1543 |
天文12 |
鉄砲伝来 |
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死去 |
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1560 |
永禄3 |
桶狭間の戦い |
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活動期 |
活動期 |
活動期 |
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1562 |
永禄5 |
- |
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生誕 |
1569 |
永禄12 |
- |
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死去 |
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1575 |
天正3 |
長篠の戦い |
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活動期 |
活動期 |
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1582 |
天正10 |
本能寺の変 |
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1585 |
天正13 |
- |
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死去 |
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1590 |
天正18 |
- |
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死去 |
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1600 |
慶長5 |
関ヶ原の戦い |
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活動期 |
1603 |
慶長8 |
江戸幕府開府 |
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活動期 |
1638 |
寛永15 |
- |
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死去 |
この年表は、吉田流の成立と発展が、応仁の乱後の下剋上の時代から、鉄砲伝来による戦術変革期、そして豊臣政権から江戸幕府へと移行する日本の歴史の激動期と完全に同期していることを示している。これは、吉田流が単なる閉鎖的な武芸ではなく、時代の要請に応え続けた「生きた技術」であったことを雄弁に物語るものである。
吉田流の教えは、全国各地に残る伝書群によってその詳細を窺い知ることができる。中でも、その中核をなすのが「備中足守藩吉田家弓術文書」である。
備中足守藩吉田家弓術文書 は、現在、岡山大学附属図書館に所蔵されている80点以上に及ぶ一大伝書群である 1 。これは、江戸時代に備中足守藩(現在の岡山県岡山市)の弓術師範家であった吉田家に伝来したもので、その祖先は徳川幕府の弓術指南役を務めた印西派の宗家につながる 1 。目録、講釈、問答、系図、教歌など、その内容は極めて多彩であり、他姓の弟子に出された伝書とは異なり、宗家自身が収蔵・伝承してきた文書であることから、質・量ともに比類のない第一級の弓術史料と評価されている 1 。
この貴重な文書群は、岡山大学弓道部OB会による長年の研究の末、**『日置の源流』**としてその一部が翻刻・出版されており、これまで謎に包まれてきた日置・吉田流の深奥に光を当てる画期的な事業として高く評価されている 1 。
この他にも、富山藩の武芸全般を記録した**『諸芸雑志』の中に吉田流弓術に関する記述が見られるほか 17 、仙台藩に伝わった
『日置流弓之条々』** 18 、東京国立博物館が所蔵する**『吉田流射道系図』** 19 、そして国立国会図書館がデジタルアーカイブ化している各種伝書など 20 、吉田流の教えが全国の諸藩に広く、かつ深く浸透していたことを示す史料が数多く現存している。
備中足守藩の伝書群を中心に、その主な内容を分析すると、吉田流が極めて体系化された知識伝達システムを持っていたことがわかる。
吉田流の教えの中でも、特にその奥義や精神性の核心部分は、しばしば和歌の形式(秘歌・無言歌)を用いて伝えられた 2 。これは、文字通りの意味を理解するだけでは不十分で、師から弟子への直接的な口伝による解説がなければその真意に到達できないように工夫された、秘伝性の高い伝達方法であった 16 。
例えば、日置流に伝わる秘歌には次のようなものがある。
「人毎に生れ付きぬる弓かたちを みな一様と思ふもぞ憂き」 3
これは、人は生まれつき骨格も気質も異なるのだから、指導者はその違いを見極め、画一的ではない個人に応じた指導をしなければならない、という教えである。
また、
「陰陽の和合と弓は射るなれど 押手強なる射手ぞ射手なり」 3
これは、弓を引く上で左右の力の調和(陰陽の和合)は重要であるが、それでもなお、弓を押す左手(押手)の働きが強い射手こそが真の強者である、という日置流の実戦的な思想を端的に示している。
このような弓術の精神性は、ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルが著した『弓と禅』によって世界的に知られるようになったが、その根底には「無心」「我を離れる」といった禅的な思想との深いつながりが見られる 6 。秘歌に込められた教えは、こうした精神的境地に至るための道標でもあった。
「秘歌」という伝達形式は、単に記憶を助けたり、秘匿性を高めたりするためだけのものではなかった。和歌特有のリズムと、選び抜かれ凝縮された言葉は、論理的な散文では説明し尽くせない射手の内的な感覚や精神状態を、弟子の心に直接的に喚起する力を持っていた。それは、身体的な技術(形)と精神的な境地(心)を不可分のものとして統合し、一つの「道」として体得させるための、極めて洗練された教授メディアであったと言えよう。日本武道に共通する「心技一体」の思想が、この伝達形式の中に色濃く表れているのである。
日本の弓術は、その成り立ちと目的から、大きく二つの系統に分類される。「礼の小笠原、射の日置」という言葉が象徴するように、儀礼や精神性を重んじる「礼射系(れいしゃけい)」と、実戦での有効性を第一とする「武射系(ぶしゃけい)」である 24 。日置・吉田流は、後者の武射系の代表格であり、その思想と技術は、戦場の現実から生まれ、磨かれてきた 26 。
この思想的な違いは、具体的な射法に明確に現れる。最も顕著な相違点は、弓を振りかぶる「打起し(うちおこし)」の動作である。小笠原流に代表される礼射系が、体の正面でまっすぐに弓を構える「正面打起し」を基本とするのに対し、日置流は体の左斜め前方に構える「斜面打起し」を基本とする 12 。この斜面打起しは、敵に正対した状態から、より迅速かつ強力に矢を放つことを可能にするための、極めて実戦的な構えであった。
項目 |
武射系(日置・吉田流) |
礼射系(小笠原流) |
流祖 |
日置弾正正次 |
小笠原長清 |
成立時代 |
室町時代中期(15世紀) |
鎌倉時代(12世紀) |
基本理念 |
実戦・実利主義 |
礼法・儀式主義 |
重視する要素 |
的中性能、貫通力、速射性 |
威儀、品位、精神性、作法 |
主な射法 |
歩射(徒歩での射撃) |
騎射(馬上での射撃) |
打起し |
斜面打起し |
正面打起し |
足踏み |
二足開き |
一足開き |
発展の背景 |
戦国時代の集団戦の要請 |
幕府の公式な弓馬故実 |
この対比表は、吉田流が「なぜ」生まれ、戦国武将たちに支持されたのかを明確に示している。それは、既存の弓術が対応しきれなくなった「戦場の現実」という強いニーズに応える形で登場した、革新的な軍事技術であったからに他ならない。
吉田流の強さの源泉は、その極めて合理的かつ体系化された技術にある。
吉田流の射法は、単なる経験則の集積ではない。それは、和弓という非対称な道具の物理的特性を解明し、その性能を最大限に引き出すために、戦国武者たちが自らの身体を通して発見した、極めて高度なバイオメカニクス(生体力学)に基づいた技術システムであった。射法八節というプロセスを通じて身体を最適化し、「角見」というエンジンでエネルギーを矢に伝達する。この科学的とも言える合理性こそが、吉田流が500年以上にわたって弓術の主流であり続けた根源的な理由である。
吉田流の技術は、個人の武技としてだけでなく、集団戦術としても運用された。
流祖・吉田重賢によって確立された吉田流は、その跡を継いだ吉田重政(1485-1569)の代にさらなる発展を遂げる。しかし、この継承をめぐっては、流派の深層を物語る謎が存在する。
通説では、重政は重賢の「嫡子」とされている 9 。しかし、備中足守藩の吉田家に伝来した秘伝の系図『吉田葛巻系図』には、重賢と重政は「兄弟」であり、しかも重政は葛巻(かずらまき)という別の一族から吉田家に養子として入った、という驚くべき記述が残されている 4 。
この「兄弟・養子説」は、単なる記録の食い違い以上の意味を持つ可能性がある。もし重政が養子であれば、吉田流の二代目は血縁ではなく、卓越した弓の技量によって後継者として選ばれたことになる。これは、吉田流が血統よりも実力を重んじる「実利の射」の流派であったことを象徴する逸話と解釈できる。また、流派の奥義が、吉田家単独ではなく、葛巻家という近親の一族との婚姻・養子縁組を通じて維持・強化されていた可能性も示唆しており、戦国時代の武家社会における「家」と「芸」の存続戦略の複雑な一端を垣間見せる貴重な記録と言える。
吉田流は、重賢・重政の後、その子弟たちによって全国に広まり、その過程で数多くの分派を生み出した。その数は「九流十派」とも称されるほどで、まさに百花繚乱の様相を呈した 7 。
その他にも、 山科派、左近右衛門派、大蔵派、大心派、寿徳派 など、数えきれないほどの分派が全国の諸藩に召し抱えられ、それぞれの土地で独自の発展を遂げていった 12 。
派名 |
流祖(読み、号) |
成立の経緯・特徴 |
主な門人・伝承大名家 |
出雲派 |
吉田重高(よしだ しげたか、露滴) |
吉田重政の嫡子。吉田流の正統本流であり、多くの分派の源流となった。 |
六角義賢、福山藩阿部家など |
雪荷派 |
吉田重勝(よしだ しげかつ、雪荷) |
重政の四男。多くの戦国大名が門下に入り、武将との強い結びつきが特徴。 |
細川幽斎、蒲生氏郷、豊臣秀次、宇喜多秀家、津藩藤堂家など |
印西派 |
吉田重氏(よしだ しげうじ、一水軒印西) |
重高の娘婿。徳川将軍家弓術指南役となり、最高の権威を誇った。 |
徳川家康・秀忠・家光、結城秀康、岡山藩池田家、薩摩藩島津家など |
道雪派 |
伴一安(ばん いっかん、道雪) |
雪荷の弟子。三十三間堂の通し矢で名を馳せ、初期の記録を多数樹立した。 |
細川家、郡山藩、会津藩、広島藩、熊本藩など |
竹林派 |
石堂如成(いしどう じょせい、竹林坊) |
吉田流の傍系。三十三間堂の通し矢競技で技術が磨かれ、特に尾張・紀州で隆盛。 |
尾張徳川家、紀州徳川家など |
この一覧は、吉田流が単一の教義に凝り固まることなく、多様な個性を持つ「流派群」として発展したことを示している。各大名家がどの分派を召し抱えたかを見ることで、弓術が戦国・江戸時代の藩政において、単なる武芸にとどまらない重要な文化的・軍事的資産であったことが理解できる。流派の分化は、衰退ではなく、多様な社会環境に適応し、より広く、より深く根を張るための生存戦略であったと言えるだろう。
吉田流弓術は、戦国時代の合戦形態の変化という時代の要請に的確に応え、実戦に即した合理的な射法を確立した。その影響は絶大であり、江戸時代を通じて武家弓術の主流を占め、現代弓道の諸流派もその源流を辿れば、ほぼ全てがこの日置・吉田流の系統に行き着く 9 。この一点をもってしても、その歴史的功績は計り知れない。
本報告書で分析した「吉田流弓術書」と総称される伝書群は、単なる武術の技術解説書ではない。そこには、戦国武士の冷徹なまでの合理的な思考、洗練された教育システム、人体と道具の物理的関係を深く洞察した高度な身体論、そして死と隣り合わせの乱世を生き抜くための強靭な精神性が、生々しく記録されている。これらは、日本の武道文化史、ひいては日本人の精神史を研究する上で、かけがえのない第一級の史料である 1 。
近年、『日置の源流』をはじめとする翻刻事業によって、その研究は大きく進展した。しかし、いまだ解読されていない伝書も数多く残されている。今後は、古文書学や歴史学のみならず、体育学、物理学、思想史といった多様な学問分野からのアプローチによる学際的な研究が不可欠である。それによって、この偉大な知の体系の全貌がさらに解明されていくことが期待される。その営みは、戦国という時代が生み出した武士の「知」を、現代に再発見し、未来へと継承していくための重要な一歩となるであろう。