外記流砲術は、井上外記正継が創始。大坂の陣で活躍し幕府鉄砲方となる。国産銃器と大筒運用に特化、幕府の軍事戦略を支える。稲富直賢との私闘で倒れるも、井上家が継承し幕末まで続いた。
「外記流砲術書」という一冊の書物を巡る探求は、我々を日本の歴史における一大転換期、すなわち戦国の乱世が終焉し、徳川による泰平の世が確立される時代へと誘う。利用者から提示された、流祖・井上外記正継が徳川家に仕え、同役の稲富直賢と相討ちになったという情報は、この物語の序幕に過ぎない。本報告書は、この断片的な情報を基点とし、現存が確認されていない特定の「書物」の探索に留まらず、より広範な視座から「外記流」という砲術体系そのものの全貌を解明することを目的とする。
調査を進めるにあたり、「外記流砲術書」という言葉が指し示す対象を再定義する必要がある。近世日本の武芸流派において、その技術体系は師から弟子へと受け継がれる「伝書」や「巻物」という形で存在し、流派の奥義や思想、正統性を証明する役割を担っていた 1 。したがって、「外記流砲術書」とは、散逸したか、あるいは元より単一の書物としてではなく、井上外記を流祖とする砲術流派「外記流」が持つ技術、思想、秘伝を内包した「伝書群」の総体、もしくは流派そのものを指す概念と捉えるのが最も妥当である。
この視点に立ち、本報告書は、井上外記という一人の武士の生涯、彼が創始した技術体系、それが徳川幕府という巨大な政治機構の中で果たした役割、そして同時代のライバルとの確執を通じて、戦国から江戸初期という時代の転換期における武芸のあり方を浮き彫りにする。幻の書物を追う旅は、結果として、一人の砲術家とその流派が歴史に刻んだ深い軌跡を明らかにすることになるだろう。
井上外記正継の生涯は、地方の一武士がその卓越した技能によって中央の権力者に認められ、国家の枢要な役職を担うに至る、江戸時代初期の立身出世の典型例である。彼の出自と経歴を辿ることは、外記流砲術の性格を理解する上で不可欠である。
井上外記正継は、播磨国(現在の兵庫県)の出身と記録されている 3 。井上氏のルーツを遡ると、信濃国高井郡井上村を発祥とする清和源氏頼季流に行き着くとされ、一族は源平の争乱や南北朝の動乱を経て、播磨や安芸など西国各地へも広がっていった 4 。
正継自身の直接の系譜については、史料によって若干の差異が見られる。『船橋市デジタルミュージアム』所収の資料では「播州英賀城主、井上正信の孫、父は政俊」と記されている一方 8 、『本朝武芸小伝』などを引く百科事典では「播州英賀城主・井上九郎左衛門の子(または九郎左衛門正信の孫)」とされている 9 。こうした記述の揺れは、近世武家の系図編纂において珍しいことではなく、自身の家系の権威付けや、伝承の過程での変化などが影響した可能性が考えられる。重要なのは、彼が西国の武士階級の出身であり、砲術という専門技能を身につけていたという事実である。
正継が歴史の表舞台に登場するのは、徳川家康が天下統一を盤石にする最終段階においてである。彼は当初、譜代大名の重鎮である酒井忠世に仕えていたが、慶長19年(1614年)、二代将軍・徳川秀忠に召し出され、直臣となった 8 。
一介の地方武士が将軍に直接仕えるという破格の抜擢の背景には、二つの要因が考えられる。一つは、彼の砲術家としての卓越した「実力」である。そしてもう一つが、大身の譜代大名である酒井忠世に仕えていたという「縁故」である。来るべき大坂の陣を前に、徳川幕府が全国から有能な人材を求めていた時期であり、正継の技能が酒井忠世を通じて将軍の耳に達したことは想像に難くない。これは、戦国の遺風が色濃く残る江戸初期において、個人の専門技能と、既存の主従関係に連なる人脈の双方が、立身出世の重要な鍵であったことを示している。
正継の評価を決定づけたのは、彼の徳川家仕官と時を同じくして勃発した大坂の陣(冬の陣・1614年、夏の陣・1615年)における活躍であった。彼はこの戦いに従軍し、特に大筒(大砲)を駆使して目覚ましい戦功を挙げたと記録されている 3 。
当時の合戦において、鉄砲、とりわけ城郭攻撃に威力を発揮する大筒の運用は、戦局を左右する極めて重要な要素であった。正継がこの分野で示した技量は、彼を単なる一兵卒ではなく、高度な専門技術者として幕府首脳に強く印象付けた。この大坂の陣での武功こそが、彼を「銃の名手」として世に知らしめ、後の幕府鉄砲方就任へと繋がる直接的な布石となったのである。
大坂の陣を経て泰平の世が訪れると、戦場で磨かれた砲術の技術は、徳川幕府の軍事力を維持・管理するための恒常的な役職へと組み込まれていく。井上外記正継は、その卓越した技能をもって、この新たな時代の要請に応える中心人物の一人となった。
江戸幕府における「鉄砲方」は、若年寄の支配下に置かれた専門技術職である 11 。その主な任務は、砲術の研究・開発、将軍家や旗本への砲術教授、そして幕府が保有する膨大な数の鉄砲の製造管理、保存、修理であった 11 。さらに、その職務は軍事分野に留まらず、領内の猪や狼といった害獣の打ち払いや、火付・盗賊の逮捕といった治安維持活動にも及ぶなど、極めて多岐にわたっていた 11 。鉄砲方は、まさに徳川幕府の武力を技術面から支える、重要な役職であった。
大坂の陣での功績により、その名を轟かせた井上外記正継は、寛永15年(1638年)、満を持して幕府鉄砲方に任命された 3 。これにより、彼は名実ともに関東における砲術の第一人者としての地位を確立する。
幕府の鉄砲方は、江戸時代初期には4家がその任に就いていたが、やがて制度が整備される中で、井上家と田付(たつけ)家の2家による世襲制へと集約されていった 11 。正継の死後も、その子孫は代々「井上左太夫」を名乗り、幕末に至るまでこの職責を継承していくことになる 8 。こうして、井上外記正継は、単なる一代の砲術家ではなく、幕府の公式な武芸流派「外記流(井上流)」と、それを継承する世襲の役職「鉄砲方井上家」の創始者となったのである。
井上家と共に鉄砲方を世襲した田付家との間には、極めて興味深く、また戦略的な役割分担が存在した。各種史料によれば、井上家が「国産銃器」の管理製造を受け持ったのに対し、田付家は「輸入銃器(そのほとんどがオランダ製)」を担当したとされている 11 。
この分担は、単なる業務の効率化を目的としたものではない。むしろ、徳川幕府が軍事技術に対して抱いていた、長期的かつ高度な戦略思想の表れと解釈することができる。すなわち、幕府は一方では田付家を通じてオランダなど西洋からもたらされる最新の軍事技術を吸収・管理し、他方では井上家を通じて国友(近江国)に代表される国内の鉄砲生産基盤と伝統技術を育成・維持するという、二元的な管理体制を構築したのである。
この体制は、外来技術に一方的に依存することの危険性を回避し、有事の際に国内で兵器を自給できる能力、すなわち軍事技術における自立性を確保しようとする、幕府の洗練された安全保障政策の一環であったと考えられる。井上外記が創始した外記流砲術の技術的特徴は、この「国産銃器の担当」という幕府内での公的な役割と、分かちがたく結びついていたのである。
井上外記正継が創始した外記流砲術は、徳川幕府の公式な武芸として、その技術体系を確立していった。現存する伝書は確認されていないものの、史料の断片からその輪郭を再構築することは可能である。
外記流は、井上外記正継という一人の天才的な砲術家によって、戦国時代に発展した多様な技術を統合し、新たな時代の要請に合わせて再編成された流派であった。
この流派は、創始者である井上外記正継の名にちなみ、「井上流」とも、また彼の通称から「外記流」とも呼ばれた 14 。享保元年(1716年)に刊行された『本朝武芸小伝』には、「外記流」という呼称は主に西国での呼び方であったとの記述があり、流派の影響が幕府の本拠地である江戸に留まらず、正継の出身地である西日本にも及んでいたことを示唆している 9 。
外記流は、正継が「幼くして砲術を好み諸流を兼修して一派を開く」とあるように 8 、特定の単一技術の継承ではなく、既存の複数の砲術流派の長所を取捨選択し、独自の体系を構築した点に特徴がある。その技術の核心は、幕府鉄砲方としての公的な職務と密接に連関していたと考えられる。
第一に、井上家が「国産銃器」の担当であったことから、その技術は堺や国友などで生産される和製銃の特性に最適化されていた可能性が極めて高い。和製銃は、銃身の厚みや口径、機構の細部に個体差があるため、それらの特性を最大限に引き出すための火薬の調合や弾丸の選定、射法などが体系化されていたと推測される。
第二に、正継が大坂の陣で示した「大筒」運用の手腕は、外記流が小銃の射撃術に留まらず、大砲を用いた攻城戦や陣地戦を視野に入れた、より大規模な戦術体系を含んでいたことを示している。このことは、時代が下った天保14年(1843年)に、相州(相模国)警備を命じられた川越藩が、幕府鉄砲方である井上左太夫(正継の子孫)に24挺もの大筒製作を依頼している事実からも裏付けられる 8 。これは、外記流が単に射撃の名手を育成するだけでなく、大筒の設計・製造から運用に至るまでの包括的なノウハウを継承していたことを物語っている。
これらの点から、外記流の技術は、稲富流が照尺(遠距離照準器)を用いた精密射撃や詳細な図解伝書に代表されるような学術的・理論的な「砲術学」の側面を持つのに対し、より実践的・兵器運用的な「砲兵術」の性格が強かったのではないかと推察される。幕府が保有する兵器を、いかに効率的かつ威力的に運用するかに特化した、実用本位の技術体系こそが、外記流の真髄であったと言えよう。
「外記流砲術書」という特定の書物の現存は確認できない。しかし、同時代の他の砲術流派、特に詳細な伝書群が残る稲富流などの内容を分析することで、外記流の伝書、すなわち「外記流砲術書」がどのような知識体系を含んでいたかを、高い蓋然性をもって再構築することができる。
まず理解すべきは、近世の武芸における「伝書」が、単なる技術解説書(マニュアル)ではないという点である。伝書は、流派の正統性を示す証明書であり、技術の段階に応じた秘伝や口伝、さらには流派の起源や武人としての心構えといった精神論までを含む、総合的な知の体系であった 1 。その内容は段階的に伝授され、皆伝に至るまでには複数の巻物が授けられるのが通例であった。
現存する稲富流や田付流などの砲術伝書を分析すると、そこには共通する項目群が見出せる。外記流の伝書もまた、これらの要素を網羅していたと考えられる 1 。
上記の一般的な項目に加え、外記流の公的な役割を鑑みると、その伝書には以下のような固有の記述が重点的に含まれていた可能性が高い。
これらの要素を総合すると、「外記流砲術書」とは、射撃技術から兵器の管理・製造、戦術論に至るまで、徳川幕府の軍事力を支えるための、極めて実践的かつ包括的な技術体系書であったと結論付けられる。
流派名 |
流祖 |
創始時期 |
主な特徴・役割(幕府内) |
備考 |
外記流(井上流) |
井上外記正継 |
元和年間 (1615-1624) |
国産火縄銃、特に大筒の運用に特化。幕府鉄砲方として世襲 11 。 |
西国では「外記流」の呼称が一般的であったとされる 9 。 |
田付流 |
田付景澄 |
慶長年間 (1596-1615) |
輸入火縄銃(オランダ製等)や大筒を担当。幕府鉄砲方として世襲 11 。 |
井上家と共に幕府の砲術を二分し、その権威は豪華な伝書にも示される 22 。 |
稲富流(一夢流) |
稲富一夢 |
天文年間 (1532-1555) |
照尺を用いた遠距離射撃。詳細な図入り伝書で知られる 18 。 |
当初幕府で重用されたが、後に井上・田付流が主流となる。多く大名家に伝播し影響力は大きい 11 。 |
井上外記正継の生涯は、輝かしい武功と幕府内での立身出世に彩られる一方で、その最期は戦国武士の気風を色濃く残す、壮絶な悲劇によって幕を閉じる。しかし、彼の死は外記流の終焉を意味しなかった。
泰平の世が定着しつつあった正保年間、江戸城下で起きた一つの刃傷沙汰は、当時の武士社会、特に専門技術者たちの矜持と競争の激しさを如実に物語っている。
正保3年(1646年)9月13日、幕府鉄砲方の同役であった井上外記正継と稲富直賢(稲富流の継承者の一人)は、砲術の技量をめぐって激しい口論となった末、ついに刃を交えるに至った 3 。この事件については、複数の史料がその顛末を伝えている。
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』などによれば、口論の末に正継が直賢を斬り、自らもその場で落命したとされる 3 。より具体的な描写を伝えるのが、江戸中期の逸話集『常山紀談』である。それによれば、口論の後、周囲の者が先に正継を帰そうとしたところ、正継がその同僚に斬りかかった。これを見た直賢も刀を抜いて応戦したが、逆に正継に斬り殺されてしまう。そして、正継が止めの一撃を振り下ろそうとした刀が部屋の鴨居に食い込んだ隙を、他の者に突かれて絶命したという 23 。
この事件の発生年については、正保3年(1646年)とする記録 3 と、正保2年(1645年)とする記録 8 があり、若干の齟齬が見られる。これは、事件に関する記録が後世の編纂物や伝聞に依拠しているためであり、記録の過程で生じた差異と考えられる。事件の本質を揺るがすものではないが、史料を扱う上での慎重な姿勢が求められる点である。
この私闘が単なる個人的な諍いで終わらないのは、その背景にある時代の特性ゆえである。事件は戦場ではなく、平時の江戸で起きた。その原因は領地や金銭ではなく、純粋に「砲術の技量をめぐる口論」、すなわち技術者としてのプライドの衝突であった 3 。
これは、戦乱が終息し、武芸が直接的な戦闘技術から、家の名誉や個人の社会的地位を担保する「芸道」へとその性格を変質させていく、過渡期を象徴する出来事と言える。井上外記と稲富直賢は、それぞれが自らの流派の優越性を信じ、その誇りを守るために命を賭した。戦国時代であれば戦場での功名争いとして発露したであろう競争心が、平和な官僚社会の中では、このような個人的な決闘という悲劇的な形で噴出したのである。この事件は、戦国武士の荒々しい気風が、徳川の秩序だった社会の中でいかに激しい摩擦を生じさせたかを示す、一級の歴史的証言と言えよう。
創始者・井上外記正継の壮絶な死は、外記流の歴史に大きな衝撃を与えた。しかし、それは流派の断絶を意味するものではなかった。幕府の制度に組み込まれた外記流は、その血脈と技術を未来へと繋いでいく。
井上外記正継の死後も、井上家は改易などの処分を受けることなく、その子孫が幕府鉄砲方の職を世襲し続けた 8 。彼らは代々「井上左太夫」を通称とし、田付家と共に幕府の砲術を支える両輪として、幕末までその任を務め上げたのである 11 。
この事実は、徳川幕府の統治システムがいかに強固であったかを示している。創始者の個人的な事件によって、国家にとって有益な技術体系が失われることを幕府は許さなかった。外記流は、もはや井上外記個人のものではなく、幕府の軍事制度に不可欠な「公の武芸」として確立されていたのである。幕末に至るまで、川越藩のような大藩が井上家に大筒製作を依頼していた事実は 8 、井上家(外記流)が単に名跡を保っただけでなく、実質的な技術提供者として幕藩体制の中で機能し続けたことを雄弁に物語っている。
井上外記正継とその流派が、歴史の中に確かに存在したことを示す動かぬ物証が、現代の東京に残されている。東京都中野区上高田にある浄土真宗大谷派の寺院、願正寺の墓域には、「井上正継・井上家代々の墓」が現存している 10 。
この墓所は、中野区の文化財としても登録されており、砲術家・井上外記がこの地に眠っていることを伝えている 10 。彼の墓は、万延元年に遣米使節の副使を務めた新見正興の墓と共に、この寺院の歴史的な価値を高めている 24 。この墓所の存在は、播磨に生まれ、江戸でその生涯を閉じた一人の砲術家の軌跡を、そして彼が創始した外記流という武芸の系譜が近代まで続いていたことを、静かに、しかし明確に我々に語りかけている。
幻の「外記流砲術書」を追う旅は、我々を特定の書物から、井上外記正継という一人の人間の生き様、外記流という技術体系、そしてそれが埋め込まれた江戸初期という時代そのものの深奥へと導いた。その探求の果てに見えてきたのは、泰平の世における武芸の新たな役割と、それを担った人々の姿であった。
外記流の歴史的意義は、単なる一砲術流派の盛衰に留まらない。それは、徳川幕府の初期における軍事技術政策、特に「国産技術の育成と管理」という国家戦略の一翼を担った、極めて重要な存在であった。井上家が国産銃器を、田付家が輸入銃器を担当するという役割分担は、外来技術に依存することなく国家の軍事的な自立性を保とうとした、幕府の高度な戦略思想の表れに他ならない。外記流は、その実践的な担い手として、日本の鉄砲技術の継承と発展に貢献したのである。
井上外記正継の生涯そのものが、時代の転換点を劇的に体現している。彼は、戦国時代の最後の大規模戦闘である大坂の陣で武功を立てて名を上げ、泰平の世では幕府の専門官僚(鉄砲方)として安定した地位を築いた。しかし、その最期は、技術者としての矜持をかけた、戦国武士さながらの壮絶な私闘によって訪れる。彼の生と死は、戦国の遺風と江戸の官僚社会が交錯する時代に生きた武士の、栄光と悲劇を凝縮している。
結論として、「外記流砲術書」とは、紙の上の知識に留まるものではない。それは、井上家が幕府鉄砲方として二百数十年間にわたって果たした職務の中に、彼らが設計・製造したであろう数多の銃砲の中に、そして戦国の気風を胸に秘めたまま江戸の土となった流祖・井上外記の生き様の中に、今なお息づいている知の体系である。その「書」に記されていたであろう奥義は、歴史の断片を丹念に繋ぎ合わせることによって、これからも読み解かれるのを待っている。