「曾呂利」は、わび茶の名物花入と、秀吉の御伽衆・曽呂利新左衛門の二つの顔を持つ。堺の町衆文化が生んだ両者は、簡素な美と機知を象徴し、戦国時代の精神性を映し出す。
日本の歴史において、戦国時代から安土桃山時代にかけては、武力による天下統一という激動の時代であると同時に、茶の湯という新たな文化様式が確立された画期的な時代でもあった。この時代、一つの優れた茶道具が城一つに匹敵する価値を持つとされ、文化の動向が政治や経済と密接に結びついていたのである 1 。この特異な時代の精神文化を象徴するキーワードの一つとして、「曾呂利(そろり)」という言葉が存在する。しかし、この言葉は歴史の文脈において、二つの全く異なる対象を指し示している。
一つは、茶の湯の世界における器物、すなわち金物の花入としての「曾呂利」である。特に、わび茶の大成者・千利休の師である武野紹鴎が所持した一品は、「天下無双の名物」とまで賞賛された 2 。もう一つは、同時代を生きた人物、曽呂利新左衛門である。豊臣秀吉に仕えた御伽衆(おとぎしゅう)とされ、その機知と頓知に富んだ逸話で名を馳せた 4 。
本報告は、これら二つの「曾呂利」を、戦国時代という視点から多角的かつ徹底的に調査・分析するものである。まず、花入としての「曾呂利」が、わび茶の歴史の中でいかに重要な役割を果たしたのかを、その形状、材質、そして名物としての価値の変遷から明らかにする。次に、人物としての「曾呂利」が、どのような社会的背景から生まれ、なぜ後世まで語り継がれる存在となったのかを、数々の逸話の分析を通じて探求する。最終的には、これら二つの概念がなぜ同じ名で呼ばれるに至ったのか、その語源の交差点と文化的背景を考察し、「曾呂利」という言葉に凝縮された戦国時代の精神文化の重層性を解き明かすことを目的とする。
本論に入る前に、二つの「曾呂利」をめぐる歴史的出来事を時系列で整理し、全体像を把握するための一助としたい。
表1:「曾呂利」をめぐる関連年表
年代 |
出来事(茶の湯・文化) |
出来事(政治・社会) |
関連する「曾呂利」の事項 |
13世紀 |
- |
南宋 |
胡銅大曾呂利花生が製作される(推定) 6 |
1502年 |
武野紹鴎、生まれる 7 |
- |
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1522年 |
千利休、生まれる 8 |
- |
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1555年 |
武野紹鴎、没する 7 |
- |
紹鴎が「曾呂利」を「天下無双」と評価したとされる |
1582年 |
- |
本能寺の変、織田信長死去 |
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1588年頃 |
山上宗二『山上宗二記』を執筆 9 |
刀狩令 |
『山上宗二記』に花入「ソロリ」の記述 2 |
1590年 |
- |
豊臣秀吉、天下統一 |
曽呂利新左衛門が御伽衆として活躍したとされる時期 |
1591年 |
千利休、切腹 10 |
- |
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1598年 |
- |
豊臣秀吉、死去 |
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1660年 |
『玩貨名物記』序が書かれる 6 |
- |
『玩貨名物記』に土井利隆所持の「そろり」の記述 6 |
1663年 |
『曽呂利物語』刊行 11 |
- |
新左衛門の説話が書籍として流布し始める |
1684年 |
『堺鑑』刊行 |
- |
『堺鑑』に新左衛門の記述 12 |
茶道具としての「曾呂利」を理解するためには、まずその物理的な特徴、すなわち器物としての形態と様式を正確に把握する必要がある。本章では、「曾呂利」花入の形状、材質、そして茶道具としての分類と格式について詳述する。
「曾呂利」は、花入の一種として、その独特の形状によって定義される。多くの茶書や伝書が一致して指摘するのは、首が細長く、胴の下部がゆるやかに膨らみ、全体として「そろり」あるいは「ぞろり」とした姿を持つという特徴である 4 。類似した形状を持つ花入に「鶴首(つるくび)」があるが、「曾呂利」は鶴首に比べてさらに首が長く、肩の張りがなく、胴から底にかけての膨らみがより穏やかであるとされる 15 。その名称は、この流れるような、滞りのない全体の姿態そのものに由来するという説が有力である 3 。
材質に目を向けると、「曾呂利」の多くは「胡銅(こどう)」または「唐銅(からかね)」と呼ばれる銅合金で作られている 6 。胡銅とは古銅とも記され、銅を主体に錫(すず)や鉛などを混ぜて作られた合金を指す 6 。これらの用語は、主に中国大陸で製作され、日本へ渡来した金属器を指す場合が多く、「曾呂利」が基本的に大陸からの輸入品であったことを示唆している。現存する代表的な作例である五島美術館所蔵の「胡銅大曾呂利花生」は、南宋時代、すなわち13世紀の作と鑑定されており、この花入の様式が古くから存在したことを物語っている 6 。
そして、「曾呂利」を様式的に決定づける最も重要な特徴は、「無文(むもん)」あるいは「素紋(すもん)」であること、すなわち器の表面に一切の文様や装飾が施されていない点にある 2 。この徹底した無装飾性は、後のわび茶の美意識と深く共鳴する要素であり、「曾呂利」の価値を理解する上で欠かすことのできない要点となる。また、器の底部には「輪高台(わこうだい)」と呼ばれるリング状の高台が付くのが一般的であり、これも「曾呂利」の典型的な姿として認識されている 2 。
茶の湯の世界では、道具はその由来や材質、形状によって厳格に格付けされる。「曾呂利」花入は、その中でも特に高い格式を持つ道具として位置づけられてきた。
茶道具の格式を「真(しん)・行(ぎょう)・草(そう)」の三段階で分類する考え方において、金物(金属製)の花入は最も格の高い「真」の花入として扱われる 18 。「曾呂利」もこの例に漏れず、「真」の道具として、格式を重んじる茶会、特に書院造の座敷飾りを源流とする茶の湯において中心的な役割を担う器物であった。
さらに、「曾呂利」花入は、しばしば専用の「曽呂利盆」と呼ばれる花入盆と一対で用いられることがある 4 。床の間に花入を置く際、その下に盆を敷くという様式は、室町時代の書院飾りに由来するものであり、高い格式を示す作法である 4 。専用の盆を伴うことで、「曾呂利」は単独の器物としてだけでなく、床の間全体の空間構成を司る重要な要素として扱われていたことがわかる。このことは、「曾呂利」が単なる花器ではなく、茶の湯の空間美学を体現する道具として、極めて丁重に扱われていた事実を物語っている。
これらの物理的特徴と格式を総合すると、「曾呂利」という器物は、一見すると矛盾した要素を内包していることが見えてくる。すなわち、その出自は中国大陸からの渡来品(唐物)であり、材質は金属製、格式は最上位の「真」の道具という、極めて権威的な側面を持つ一方で、その姿は「無文」という、あらゆる装飾を排した極めて簡素なものである。室町時代の書院飾りにおいては、中国から渡来した豪華絢爛な青磁や文様のある銅器が権威の象徴として珍重された 20 。その価値観の中にありながら、「曾呂利」は出自の権威性と見た目の簡素さという二つの性質を併せ持っていた。この稀有な両義性こそが、後の時代に新たな美意識の受け皿となる素地を育んでいたのであり、古い価値観と新しい価値観の架け橋となる運命を秘めた器物であったと言えるだろう。
第一章で明らかにした「曾呂利」の器物としての特性は、戦国・桃山時代という新たな文化の胎動期において、特別な意味を持つようになる。本章では、「曾呂利」がなぜ「天下無双の名物」とまで称されるに至ったのか、わび茶の発展という文化的背景からその価値の変遷を追う。
わび茶の歴史を語る上で、千利休の師である武野紹鴎(1502-1555)の存在は決定的に重要である。堺の豪商の家に生まれた紹鴎は、村田珠光が創始したわび茶の精神をさらに深化させ、次代へと繋いだ人物であった 7 。彼は、当時の茶人が憧れた唐物の名物を多数所持する一方で、井戸から水を汲むための白木の釣瓶を水指に見立てたり、自ら竹を削って茶杓を作ったりするなど、既存の価値観にとらわれない創造的な茶の湯を追求した 21 。豪華な唐物と素朴な和物、その両方の価値を認め、融合させようとする紹鴎の審美眼こそが、わび茶の美学を飛躍的に発展させたのである。
この紹鴎の道具観を象徴するのが、彼が所有した「曾呂利」花入であった。利休の高弟であり、利休の茶の湯を最も深く理解していたとされる山上宗二(やまのうえそうじ)が記した秘伝書『山上宗二記』には、後世に決定的な影響を与える一文が記されている。
「ソロリ、昔紹鷗所持、天下無双の名物也。但、胡銅花入、無文なるもの也」 2
この簡潔な記述は、「曾呂利」の価値を語る上で最も信頼性の高い一次史料であり、その核心を突いている。宗二は、「曾呂利」が紹鴎の旧蔵品であること、それが「天下無双」、すなわち世に二つとない名物であること、そしてその本質が「無文の胡銅花入」であることを見事に言い当てている。
紹鴎がこの無文の花入をなぜ「天下無双」とまで評価したのか。それは、前章で述べた「曾呂利」の持つ両義性、すなわち「唐物としての出自の権威性」と「無文という造形の簡素さ」が、紹鴎の目指した茶の湯の理想を完璧に体現していたからに他ならない。珠光が『心の文』で説いたように、わび茶の理想の一つは「和漢のさかいをまぎらかす」、つまり中国的な豪華さと日本的な質朴さの境界をなくし、一つのものとして調和させることにあった 20 。装飾を排した純粋なフォルムでありながら、大陸の長い歴史を感じさせる古格を持つ「曾呂利」は、まさにその理想を体現した器物であった。紹鴎の審美眼は、この簡素な銅器の中に、華美な装飾を凌駕する普遍的な美と深い精神性を見出したのである。
武野紹鴎によってその絶対的な価値を見出された「曾呂利」は、彼の弟子である千利休や、当代随一の権力者であった豊臣秀吉といった人物たちにも受け継がれ、愛蔵されたと記録されている 15 。茶道具の所有が武将の文化的ステータスを示す重要な指標であった当時、「曾呂利」は単なる美しい美術品ではなく、わび茶の精神性を理解する者としての文化的な権威の象徴として、天下人たちの間で珍重されていったのである。
この歴史的な名物の面影を今に伝えるのが、五島美術館が所蔵する「胡銅大曾呂利花生」である 6 。高さ30.5cm、南宋時代(13世紀)の作とされるこの花入は、長く伸びた首と穏やかに膨らむ胴、そして落ち着いた古銅の色合いが、まさに『山上宗二記』の記述を彷彿とさせる 6 。この花入の来歴は極めて輝かしく、江戸幕府徳川将軍家が伝来した宝物群である「柳営御物(りゅうえいごもつ)」の一つであったことが知られている 6 。
さらに、江戸時代前期の茶道具名物記である『玩貨名物記』(万治三年/1660年序)には、下総古河藩主であった土井利隆(1619-1685)が「一大そろり」を所持していたという記録が残されている 6 。この記録にある「そろり」が、現存する五島美術館本と同一のものであるかは断定できないものの、後に土井家から徳川幕府へ献上された可能性も指摘されている 23 。いずれにせよ、この記述は「曾呂利」が江戸時代に入ってもなお、大名家が秘蔵し、将軍家へと渡るほどの至宝として扱われ続けていたことを明確に裏付けている。
このように、「曾呂利」の価値は、器物そのものが持つ造形美だけに由来するのではない。むしろ、その価値は、武野紹鴎という一人の偉大な茶人の審美眼によって「発見」され、定義づけられたと言える。茶の湯の世界では、道具は単体で存在するのではなく、「誰が、どのように用いたか」という来歴、すなわち物語が付与されることで、その価値を飛躍的に高めていく 24 。紹鴎が「無文の胡銅花入」を「天下無双」と評価した行為そのものが、一つの文化的な事件であった。それは、「美は華美な装飾に宿るのではなく、純粋な形とそこに込められた精神性にこそ宿る」という、わび茶の根本思想を天下に宣言する行為に他ならなかったのである 25 。利休や秀吉が「曾呂利」を求めたのは、単に美しい花入が欲しかったからではなく、紹鴎が確立した「わびの精神性」そのものを継承し、所有したいという文化的な欲求の表れであったと考えるべきであろう。「曾呂利」は、単なる名物茶道具ではない。それは「わび茶」という文化革命の象徴であり、その価値は、紹鴎という一人の茶人の精神的な格闘と発見の物語と、分かちがたく結びついているのである。
花入としての「曾呂利」が静謐なわび茶の世界を象徴する一方で、同時代には全く異なる文脈で「曾呂利」の名を持つ人物が語られていた。豊臣秀吉の側近として知られる曽呂利新左衛門である。本章では、この人物の実像と、彼をめぐる物語が持つ文化的な意味を探る。
曽呂利新左衛門は、豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)であったとされる人物である 5 。御伽衆とは、主君の側に仕え、話し相手や相談役を務める役職であり、秀吉は800人もの御伽衆を抱えていたという 27 。新左衛門の出自は和泉国堺の刀の鞘師(さやし)で、本姓は杉本、あるいは坂内とも伝えられる 5 。彼が作った鞘は、刀が「そろり」と滑らかに、そして実に見事に収まったことから、人々は彼を「曽呂利」という異名で呼ぶようになったとされる 5 。
しかし、彼の歴史上の実在性については、今日に至るまで議論が続いている。その名は貞享元年(1684)に刊行された堺の地誌『堺鑑』などに記述が見られるものの、同時代の確固たる一次史料に乏しく、実在を疑う説も根強い 5 。架空の人物、あるいは実在はしたものの、今日伝わる数々の逸話は後世の創作であるという見方が一般的である。
物語の中で描かれる新左衛門は、単なる道化役ではない。彼は、機知に富んだ話で秀吉を楽しませる一方で、時には辛辣な物言いで主君を諫めることもあった。しかし、その物言いには常に絶妙な軽妙さと「落ち」が用意されており、秀吉の怒りを買うことなく、かえって寵愛を深めたという 27 。これは、同じく秀吉に仕えながらも、その怒りを買って切腹に追い込まれた千利休の悲劇とは実に対照的である 27 。新左衛門の物語は、絶対的な権力者と巧みに関係を築き、生き抜いていく処世術の達人としての側面を強く描き出している。
曽呂利新左衛門の人物像は、彼をめぐる数々の頓知話(とんちばなし)の中に最も鮮やかに現れている。以下に代表的な逸話を紹介し、その背景にある価値観を分析する。
これらの逸話に共通するのは、新左衛門が武力や権威ではなく、純粋な「知恵」と「弁舌」を武器として、絶対的な権力者である秀吉と渡り合っている点である。彼は、猿に似ていると揶揄された秀吉に「猿が殿を慕って似せたのです」と切り返したり 12 、米蔵一つを丸ごと包む巨大な紙袋を用意して秀吉を驚かせたりと 33 、常に相手の意表を突く発想で難局を乗り越えていく。
曽呂利新左衛門の物語は、江戸時代に入ると庶民の間で絶大な人気を博すことになる。彼の逸話は、寛文三年(1663)刊行の『曽呂利物語』や、それ以降に出版された『曽呂利狂歌咄』といった仮名草子にまとめられ、広く読まれるようになった 11 。これらの物語が人気を博した背景には、絶対的な権力者である秀吉を、一介の町人出身者が知恵でやり込めるという痛快な筋立てが、封建社会に生きる庶民の留飲を下げ、一種の憂さ晴らしとして機能したことが考えられる 27 。
さらに、新左衛門は、その物語の形式、すなわち機知に富んだ会話と意外な結末(落ち)という構造から、安楽庵策伝と並んで「落語家の始祖」の一人と見なされるようになった 5 。彼の物語は、後の落語の原型となり、近代には二代目曽呂利新左衛門を名乗る落語家も登場するなど、その名は芸能の世界にも深く刻まれている 5 。
曽呂利新左衛門というキャラクターは、単なる面白い頓知話の主人公ではない。彼の出自は堺の職人・商人であり、その武器は武士のそれとは全く異なる「知恵」と「技術」である 5 。堺は、武家社会とは異なる価値観、すなわち経済力と自治意識を持つ町衆(ちょうしゅう)が力を持った都市であった 8 。新左衛門の物語は、まさにこの勃興しつつあった町衆階級の自己意識と価値観を体現している。彼は、権力構造の中で巧みに立ち回り、実利を得ていくが、決して体制そのものを転覆させようとはしない 31 。これは、武家社会に適応しつつも、その中で自らのアイデンティティと利益を確保しようとした町衆の現実的な処世術を反映していると言える 27 。曽呂利新左衛門の物語群は、武士の時代にあって、経済と文化の新たな担い手として台頭し始めた町衆が、自らの存在価値を肯定し、理想の人物像を投影した「町衆の英雄譚」だったのである。
これまで、器物としての花入「曾呂利」と、人物としての「曽呂利新左衛門」をそれぞれ独立して考察してきた。本章では、本報告の中心的な問いである、これら二つの全く異なる対象がなぜ同じ名で呼ばれるのか、その関係性に迫る。
「曾呂利」という言葉の語源については、大きく分けて二つの説が存在する。一つは、花入の「そろりとした形状」に由来するという【形状由来説】 3 。もう一つは、人物「曽呂利新左衛門」の名に由来するという【人名由来説】である 4 。
これらの説を史料に基づいて検討すると、時系列的な前後関係が明らかになる。【形状由来説】を強力に裏付けるのは、第二章で述べた『山上宗二記』の記述である。この文献は天正16年(1588)頃に成立したとされ、その時点で武野紹鴎が所持した花入が「ソロリ」と呼ばれていたことが明確に記録されている 2 。これは、曽呂利新左衛門の説話が『曽呂利物語』(1663年)などの書物によって広く流布する江戸時代よりも、遥か以前から花入の名称として「そろり」が確立していたことを示す決定的な証拠と言える。
一方で、【人名由来説】も完全に否定することは難しい。もし新左衛門が秀吉の御伽衆として同時代に実在し、鞘師としての腕前から「曽呂利」の異名で呼ばれていたとすれば、花入の名称と人物の異名が同時期に存在した可能性も考えられる。
しかし、これらの史料的証拠を総合的に判断すれば、花入の名称としての「そろり」が先行し、後に頓知話の主人公である鞘師・新左衛門のキャラクター像と、彼の名の由来(鞘に刀が「そろり」と収まる)が結びつき、あるいは混同され、両者が同じ「曾呂利」という言葉と漢字で語られるようになったと考えるのが最も合理的であろう。
表2:二つの「曾呂利」―器物と人物の比較
項目 |
花入「曾呂利」 |
人物「曽呂利新左衛門」 |
分類 |
茶道具(花入) |
人物(御伽衆、鞘師) |
時代 |
南宋時代(作例)、桃山時代(名物として確立) |
安土桃山時代(活躍したとされる時代) |
背景 |
わび茶の隆盛、唐物名物への憧憬 |
堺の町衆文化、御伽衆の役割 |
特徴 |
胡銅製、無文、細長く簡素な形状 |
機知、頓知、軽妙洒脱、権力に媚びない |
価値 |
「天下無双の名物」(『山上宗二記』) |
「落語の祖」 |
主要関連人物 |
武野紹鴎、千利休、豊臣秀吉 |
豊臣秀吉 |
史料・典拠 |
『山上宗二記』、『玩貨名物記』 |
『堺鑑』、『曽呂利物語』、『曽呂利狂歌咄』 |
実在性 |
確実(五島美術館所蔵品など) |
不確か(伝説上の人物の可能性) |
二つの「曾呂利」の物語を解き明かす上で、両者がともに「堺」という都市を背景に持つという点は極めて重要である 5 。中世から戦国時代にかけて、堺は日明貿易の拠点として栄え、大陸からの唐物名物が集積する国際貿易都市であった。これは、花入「曾呂利」が名物として評価される土壌となった。同時に、堺は環濠に囲まれた自治都市として、武士階級の支配とは一線を画す自由闊達な気風を育んだ。この気風の中から、武野紹鴎や千利休といった偉大な茶人、そして曽呂利新左衛門のような個性的な町衆が生まれたのである。
この共通の背景から、新左衛門自身が茶人であり、武野紹鴎の弟子で千利休とは兄弟弟子であったという説も生まれている 31 。もしこれが史実であれば、二つの「曾呂利」は直接的な接点を持つことになる。すなわち、茶人であった新左衛門が、師である紹鴎所持の有名な花入「そろり」を知っており、自身の異名と重ね合わせた、あるいは周囲が彼の機知と花入の洗練された姿を結びつけてそう呼んだ、という可能性である。
しかし、この「茶人説」は、新左衛門の伝説が後世に形成される過程で付与された脚色である可能性が高い。伝説上の人物の権威を高めるために、当時最高の文化人であった紹鴎や利休との関係性が創作されたと考えるのが自然であろう。
むしろ、二つの「曾呂利」の関連は、直接的な因果関係ではなく、戦国・桃山時代の文化を育んだ「堺」という都市の精神風土が生んだ、一種の文化的共鳴(レゾナンス)の結果と捉えるべきではないだろうか。花入の「そろり」は、わび茶の美意識、すなわち「簡素さの中に宿る深い精神性」を象徴する言葉となった。一方、人物の「曽呂利」は、町衆の価値観、すなわち「権威を恐れぬ知恵と軽妙洒脱さ」を象徴する存在となった。これら二つの価値観は、ともに堺の町衆文化という同じ土壌から生まれたものである。一方は内省的・精神的な美の追求(茶の湯)であり、もう一方は外向的・社会的な知恵の称揚(頓知話)であった。
そして、「そろり」という一つの音が持つ「滑らかさ」「滞りのなさ」という語感が、この二つの異なる文化的ベクトルを、偶然にも見事に表現していたのである。精神の深淵へと滑らかに沈潜していく感覚と、社会の難局を滑らかに切り抜ける感覚。この二つのイメージが、「そろり」という言葉の上で交差し、共鳴した。かくして、「曾呂利」という言葉は、単なる記号ではなく、堺という都市が生んだ二つの精神的潮流を呼び覚ます喚起の言葉(キーワード)となった。人々は「曾呂利」という言葉を聞くとき、無意識のうちに、簡素を極めた名物花入の静謐な佇まいと、権力者を笑いのめす快男児の痛快な姿を重ね合わせていたのではないだろうか。二つの「曾呂利」は、同じ文化的土壌から咲いた、表裏一体の花であったと言えるのである。
本報告は、日本の戦国時代という視点から、「曾呂利」という言葉が指し示す二つの対象、すなわち花入と人物について、その詳細と文化的背景を徹底的に調査・分析した。
器物としての花入「曾呂利」は、その簡素で無文の姿にもかかわらず、中国大陸渡来の胡銅器という出自を持ち、茶の湯の世界では最上位の「真」の道具として格付けられた。この器物の真価は、わび茶の先駆者である武野紹鴎によって見出され、「天下無双の名物」と称揚されたことで決定づけられた。それは、豪華絢爛な唐物を至上とする旧来の価値観から、内面的な精神性を重んじるわび茶の美意識へと移行する、時代の転換点を象徴する器物であった。その価値は千利休や豊臣秀吉、そして後の徳川将軍家へと受け継がれ、日本の美意識の歴史に深くその名を刻んだ。
一方、人物としての曽呂利新左衛門は、その歴史上の実在性こそ不確かであるものの、豊臣秀吉の御伽衆として、機知と頓知で絶対権力者と渡り合った快男児として語り継がれた。堺の鞘師という出自を持つ彼の物語は、武力ではなく知恵と弁舌を武器とする、勃興しつつあった町衆階級の理想像を投影したものであった。彼の逸話は江戸時代に書物として広く流布し、庶民の娯楽として、また落語の源流の一つとして、日本の大衆文化に大きな影響を与えた。
そして、これら二つの「曾呂利」は、語源的には花入の「そろり」とした形状が先行した可能性が高いものの、その背景にある堺という都市の精神風土において深く結びついている。「曾呂利」という言葉は、これら二つの異なる事象を内包することで、極めて重層的な文化的記号となった。それは、静謐で内省的な「わび」の精神と、闊達で社会的な「機知」の精神という、戦国・桃山時代に花開いた町衆文化の二つの重要な側面を同時に映し出す鏡である。
一つの言葉の中に、器物への深い審美眼と、人間への温かい眼差しが共存している点にこそ、「曾呂利」という文化概念の比類なき豊かさと、それを育んだ時代の奥深さが見出されるのである。