鎌倉時代の名工・来国俊作の薙刀は、優美な姿と精緻な出来栄えが特徴。戦国時代には実用性より美術品・権威の象徴として価値を高め、武将のステータスとなった。
本報告書は、日本の刀剣史に燦然と輝く一振り、重要文化財「薙刀 銘 来国俊」を主題とする 1 。鎌倉時代中期、山城国(現在の京都府)で隆盛を極めた刀工集団・来派。その中核を担った名工、来国俊の手によるこの薙刀は、彼の卓越した技量と高い美意識が結実した至高の作として知られる。
しかしながら、本報告書は、この薙刀が作刀された鎌倉時代という時代背景に留まることなく、あえて時代を下り、「戦国時代」という特異なレンズを通してその存在を再評価することを試みる。物の価値とは、それが生み出された時点の機能や意図のみによって定まるものではない。後世の社会や文化、価値観の変遷の中で絶えず再定義され、新たな意味を付与され続けるものである。実力のみが全てを覆す下剋上の世であり、同時に、武将たちが茶器一つに一国の価値を見出すという、他に類を見ない価値観が形成された戦国時代。その激動の時代において、この鎌倉の名品は、一体どのように受容され、いかなる価値を見出されたのであろうか。この問いの探求こそが、本報告書の核心をなすものである。
本報告は三部構成を採る。第一部では、まず対象物そのものの美術的・工芸的価値を徹底的に分析し、その本質を明らかにする。続く第二部では、視点を戦国時代に移し、兵器としての薙刀が辿った役割の変遷を概観する。そして第三部において、戦国武将特有の価値観の中で、この一振りが持ち得たであろう象徴的価値を多角的に考察する。これらの分析を通じて、時代を越えて受け継がれた名品の文化的意義を総括することを目的とする。
後代における価値の変遷を論じるにあたり、まずその考察の揺るぎない土台として、対象物そのものの物理的特徴と美術的価値、そして作者と流派の背景を深く理解することが不可欠である。本章では、「薙刀 銘 来国俊」の作刀としての本質を解き明かす。
文化庁が管理する国指定文化財等データベースの情報によれば、この薙刀は来国俊の作風と鎌倉時代の特色を色濃く反映した、極めて優れた一振りである 1 。
その物理的特徴は、以下の通り詳細に記録されている。
これらの専門的な特徴を一覧として以下にまとめる。
【表1:重要文化財「薙刀 銘 来国俊」の仕様一覧】
項目 |
詳細 |
典拠 |
種別 |
薙刀 |
1 |
銘 |
来国俊 |
1 |
文化財指定 |
重要文化財(指定年月日:昭和30年2月2日) |
1 |
時代 |
鎌倉時代 |
1 |
長さ |
40.3 cm |
1 |
反り |
1.6 cm |
1 |
造込み |
薙刀造、三ツ棟 |
1 |
地鉄 |
小板目肌、地沸、映りごころ |
1 |
刃文 |
小乱れ、小足・葉入る、小沸つく |
1 |
茎 |
生ぶ、銘「来国俊」 |
1 |
この薙刀の価値を深く理解するためには、作者である来国俊という刀工、そして彼が属した来派の歴史的背景を知ることが不可欠である。
来国俊は、来派の実質的な祖とされる来国行(らいくにゆき)の子と伝えられ、通称を「孫太郎(まごたろう)」といった 3 。彼の作刀期間は非常に長く、「正和四年 歳七十五」と銘切られた太刀が現存することや 6 、八十一歳や八十五歳の作例が記録に残ることから、当時としては驚異的な長寿を保ち、晩年まで作刀活動を続けたことが知られている 5 。
この長寿という事実は、刀剣界における長年の論争、すなわち「二字国俊」と「来国俊」の同人・別人説と深く関わっている 3 。銘を「国俊」と二字でのみ切る刀工と、「来国俊」と三字で切る刀工が存在し、両者の作風には明確な違いが見られる。
この作風の違いから両者を別人と見る説が有力であるが、国俊が長寿であったことを踏まえ、二字銘を若年期の力強い作、三字銘を壮年期以降の円熟した優美な作と見なし、同一人物の作風の変遷と捉える説も根強く存在する 5 。本報告の主題である薙刀は「来国俊」の三字銘であり、その小振りで気品高い姿は、まさに壮年期以降とされる優美な作風の典型例に合致する 1 。
彼が属した来派は、山城国において、古くからの名門である粟田口派(あわたぐちは)と人気を二分した刀工集団であった 5 。その出自は高麗(こうらい)からの渡来人であるとの伝承も持ち、「来」の姓の由来とされる 5 。実質的な祖である来国行は、腰反りが高く、丁子を交えた華麗な作風で一派の基礎を築いた 5 。その子である来国俊は、父の作風を受け継ぎつつ、新たに格調高い直刃の様式を完成させ、来派を全盛期へと導いた。彼の現存作のほとんどが国宝や重要文化財、重要美術品に指定されている事実は、その技量がいかに傑出していたかを何よりも雄弁に物語っている 5 。
この薙刀は、鎌倉時代中期という武士の世が確立した時代の空気の中で、当代随一の名工集団の、そのまた中心人物であった来国俊の、最も円熟した時期に生み出された一振りなのである。その成り立ちを鑑みれば、この薙刀が単なる実用的な武具としてのみ作られたのではないことは明らかである。その優美な姿と精緻な出来栄えは、戦場で敵を薙ぎ払うという薙刀本来の機能を超え、高貴な武士が佩用するにふさわしい、所持者の身分や権威、そして美意識を象徴するための品であった可能性が極めて高い。この、作刀当初から内包されていた強い「美術品」としての性格こそが、後の戦国時代において、実用性が低下した後も別の形で価値を保持し続けるための重要な素地となった。言うなれば、鎌倉時代の美意識が、遠く戦国時代の価値観に接続するための「布石」は、この薙刀が生まれた瞬間に既に打たれていたのである。
第一部で明らかにした「来国俊銘薙刀」の美術的・工芸的本質を踏まえ、本章では視点を大きく戦国時代へと移す。この時代、戦闘の様相は大きく変化し、それに伴い武器の主役も交代した。この歴史的文脈の中に薙刀という武器種を置き、その役割の変遷を分析することで、「来国俊銘薙刀」が戦国の世でどのような位置づけに置かれたかを理解する。
薙刀は、かつて戦場の花形であった。特に、個人の武勇が戦局に大きな影響を与えた南北朝時代には、軍記物語『太平記』などに描かれるように、豪勇の士が長大な薙刀を振り回し、敵兵を薙ぎ倒すという派手な活躍を見せた 9 。その長いリーチと斬撃の威力は、一対一、あるいは少数での戦闘において絶大な効果を発揮したのである。
しかし、戦国時代に入ると、戦いの様相は一変する。大名たちは数千、数万の兵を動員し、その主力となったのは専門の武士ではなく、大量に徴兵された足軽たちであった 10 。彼らは密集隊形を組み、特に「槍衾(やりぶすま)」と呼ばれる戦術は、敵の突撃を阻止する上で極めて効果的であった。このような集団戦において、薙刀の欠点が露呈する。大きく薙ぎ払うという動作は、密集した隊列の中では味方を傷つける危険性が高く、極めて扱いにくいものとなった 10 。対照的に、突くことを主眼とする槍は、集団での運用に適しており、比較的短い訓練期間で兵士を戦力化できるという利点もあった 11 。こうして、薙刀は戦場の主役の座を槍に明け渡し、次第にその姿を減らしていくこととなる 10 。
とはいえ、薙刀が戦場から完全に姿を消したわけではない。一部の僧兵たちは依然として薙刀を主要な武器として用い続けたし 12 、武将個人の武器としては存続した。例えば、敵将の首を取る際の最後の斬り合いや、城内での白兵戦といった、集団戦以外の局面では、その威力は依然として有効であった 13 。戦国時代末期の大聖寺城の戦いにおいて、武将・山口修弘が豊臣秀吉から下賜された薙刀を振るって奮戦したという逸話は、この時代においても薙刀が武将の武勇伝を彩る存在であり続けたことを示している 14 。しかし、それはもはや戦全体の趨勢を決する主力兵器としてではなく、限定的な状況下での個人の武具としての役割であった。
戦場での実用性が低下していく一方で、薙刀は新たな文化的役割を担い始める。それが「武家の女性が用いる武具」としての役割である。
戦乱の無い泰平の世となった江戸時代には、薙刀術は武家の女子が嗜むべき必須の武芸とされ、嫁入りの際には薙刀が重要な道具の一つとして持参される風習が確立した 15 。これは単なる護身術という意味合いに留まらず、「自分の身は自分で守る」という武家の女性としての気構えや、家を守るという貞淑な役割を象徴するものであった 18 。
この風習が一般化したのは江戸時代であるが、その源流は、薙刀が男性の主戦場から徐々に遠のき始めた戦国時代に求めることができる。薙刀には、刀身の身幅が細く反りの少ないものを悲劇のヒロイン静御前にちなんで「静型(しずかがた)」、身幅が広く反りの大きいものを勇猛な女武者巴御前にちなんで「巴型(ともえがた)」と呼ぶ分類がある 9 。特に巴型は、反りが大きいことで少ない力でも効率よく斬りつけることができ、体格で劣る女性にも扱いやすかったと考えられている 9 。
このように、薙刀は戦場での実用性が低下した結果、新たな文化的ニッチを見出し、特に女性の武具として、あるいは儀仗用としての性格を強めていったのである。
この一連の歴史的変遷は、一見すると薙刀という武器種の価値の低下を意味するように思われるかもしれない。戦場の主力兵器ではなくなったのだから、その価値が下がるのは当然だと。しかし、刀剣のような美術工芸品においては、逆説的な現象が起こる。実用性が第一の評価軸でなくなった時、それまで二義的であった他の要素、すなわち「作者の銘」「作刀された時代の古さ」「美術的な出来栄え」「由緒や伝来」といった側面が、その物の価値を規定する上で前面に浮かび上がってくるのである。
つまり、戦国時代の武将が、あえて鎌倉時代の名工が作った薙刀を所持するという行為は、もはや現代戦における戦力増強を目的としたものではない。それは、古き良き武士の理想の時代への憧憬や、自らの家系の権威、そして高度な美意識を周囲に誇示するための、極めて文化的な行為へとその意味を変質させたのだ。機能性の衰退が、文化資本としての価値を飛躍的に高めるという、価値の「昇華」が起こった。戦国時代という背景は、「来国俊銘薙刀」を単なる過去の遺物ではなく、新たな価値を持つ「宝物」として再発見させるための、決定的な舞台装置となったのである。
第二部で論じた通り、薙刀は戦国時代においてその実用的な役割を大きく変えた。この変化は、「来国俊銘薙刀」のような傑作を、単なる武器から文化的な価値を持つ「宝物」へと昇華させる土壌となった。本章では、戦国時代特有の価値観、特に「名物(めいぶつ)」と呼ばれる道具類が持った絶大な威信に焦点を当て、その中で「来国俊」の銘が持つ意味と、本薙刀が位置づけられ得たであろう価値について具体的に考察する。
戦国時代、特に織田信長の時代になると、武将たちの価値観に画期的な変化が生じた。信長は、戦功のあった家臣への恩賞として、従来のように土地を与えるだけでなく、高価な茶器を与えるという手法を導入したのである 20 。土地と違って分割や移動が容易であり、主君の意のままに価値を創出できる「名物」は、極めて効果的な統治ツールとなった。
これにより、優れた道具類は、単なる器物としての価値を遥かに超え、主君からの評価と信頼の証、すなわち武将の序列やステータスを可視化する指標となった。茶入である「初花(はつはな)」「新田(にった)」「楢柴(ならしば)」は「天下三肩衝(てんかさんかたつき)」と称され、その一つを所有することは天下人への道標とさえ考えられた 21 。また、武将・松永久秀は、信長に反旗を翻した際、降伏の条件として秘蔵の茶釜「平蜘蛛(ひらぐも)」の献上を求められたが、これを拒絶し、茶釜と共に爆死したと伝えられる 22 。名物が時に一国一城、あるいは自らの命以上の価値を持つとされた、特異な時代であった。
この価値は、単に物の希少性や美しさだけで決まるのではない。足利将軍家や有力大名がかつて所持したという「由緒(伝来)」や、千利休のような当代随一の目利きによる鑑定が、その価値を保証し、増幅させた 21 。
刀剣もまた、この「名物」文化における重要なカテゴリーであった。信長は短刀「薬研藤四郎(やげんとうしろう)」を愛し、その最期を共にしたと伝わるし 24 、多くの武将が名刀の収集に熱を上げた。茶器が新たな価値の主役として躍り出た時代においても、刀剣は武威の象徴であると同時に、その美術的価値や歴史性によって、茶器と並び称される「名物」として珍重され続けたのである。
残念ながら、「薙刀 銘 来国俊」そのものが戦国時代に誰によって所持され、どのような伝来を辿ったかを直接示す史料は現存していない。しかし、我々は状況証拠を積み重ねることで、この一振りが当時いかに高い価値で評価されたであろうかを、極めて高い確度で類推することができる。その鍵は、同時代の武将たちが「来」の銘を持つ刀剣をいかに渇望し、珍重したかという事実にある。
これらの断片的な記録は、一つの明確な事実を示している。「来」の銘、とりわけ「来国俊」の名は、戦国武将にとって最高のブランドであり、それを所有することは、武門の誉れであり、絶大なステータスシンボルであったということだ。
その評価を決定的なものにしたのが、来国俊作の大太刀「蛍丸(ほたるまる)」にまつわる伝説である。この刀は、南北朝時代の武将・阿蘇惟澄(あそこれずみ)が多々良浜の戦いで振るい、激戦で無数の刃こぼれを生じた。しかしその夜、惟澄の夢に蛍の群れが現れ、刀身に集うと、翌朝には刃こぼれがすっかり癒えていたという 28 。この美しくも神秘的な逸話は、来国俊の刀が、単に人の手による優れた武器というだけでなく、神仏の加護や超自然的な力が宿る「宝刀」として認識されていたことを示す好例である 30 。このような「物語」は、物の価値を物理的な存在から精神的な領域へと飛躍させる。
これらの状況証拠を統合すれば、戦国時代における「来国俊銘薙刀」の仮想的な価値評価が可能となる。もしこの一振りが、戦国大名の前に差し出されたとしたら、それは間違いなく「極めて格式の高い、歴史的・美術的価値を誇る至宝」として扱われたであろう。
戦国時代の「名物」の価値を構成する要素は、「作者の格」「由緒(歴史)」「美術的価値」「希少性」、そして「物語性」であった。本薙刀をこれらの基準に照らし合わせてみよう。
以上の要素から、この薙刀は「名物」としての価値評価基準を完璧に満たしていると言える。その価値は、戦場で実用的な槍一万本を遥かに凌駕する。これを主君から下賜されることは武将生涯の名誉となり、時には政略の道具として、あるいは同盟の証としてさえ機能し得たであろう。それはもはや「薙刀」という武器の一種としてではなく、「来国俊」というブランドを体現する、比類なき文化財として存在したはずである。
本報告書で考察してきたように、「薙刀 銘 来国俊」の価値は、時代の潮流の中でその重心を移しながら、重層的な意味をまとってきた。
そして現代、武器としての本来の役目を完全に終え、様々な時代の価値観をその身に映し出しながら伝来したこの一振りは、最終的に「重要文化財」として我々の前に存在している。それは、単に美しい古美術品なのではない。鎌倉武士の剛健な精神、戦国武将の激しい価値の転換、そして江戸時代の洗練された文化といった、日本の武家社会における精神史そのものを内包した、まさに**「歴史の結晶」**なのである。
この薙刀を、あえて作刀された時代から引き離し、戦国という視座から捉え直す作業は、一つの物が時代を越えて生き続ける中で、いかに多様な意味をまとい、その存在を豊かにしていくかを理解する、またとない機会を与えてくれる。それは、過去から未来へと受け継がれていく文化財の普遍的な価値そのものを、我々に示唆しているのである。