重要文化財「柴田井戸」は、青井戸茶碗の理想形。信長が柴田勝家に下賜し、その武骨な気概を映す。戦火を免れ、根津美術館に所蔵され、侘びの精神と武将の感性を伝える。
青井戸茶碗「銘 柴田」。この一碗は、単に優れた美術工芸品という範疇に収まる存在ではない。それは、戦国・安土桃山という激動の時代の精神性、権力と美意識が交錯する特異な文化を凝縮した、歴史の証人である。この茶碗の物語は、天下人・織田信長が茶の湯を政治の道具として用いた「御茶湯御政道」という戦略の中で、その筆頭家老であり、勇将として知られた柴田勝家に下賜されたことに始まる 1 。以来、この器は「鬼柴田」と恐れられた武将の武骨な気概と、主君の後継を争い散った悲劇的な生涯を象徴する存在として、四百数十年の時を超えて語り継がれてきた。
本報告書は、この「柴田井戸」について、その類稀なる造形美の分析に留まらず、それが生まれた歴史的背景、戦火を潜り抜け、数多の所有者の手を経て現代に伝わる流転の物語、そして日本の茶陶史、ひいては美意識の変遷における位置付けを、あらゆる角度から徹底的に調査し、その重層的な価値を解明することを目的とする。一碗の茶碗が内包する、深く、そして広大な世界をここに詳述する。
美術品としての「柴田井戸」そのものに焦点を当て、その物理的な特徴を詳細に分析し、なぜこの一碗が「青井戸随一の名碗」と称されるに至ったのかを解き明かす。
井戸茶碗は、その姿や作行きによって大井戸、小井戸、青井戸などに分類されるが、その中でも「青井戸」は、一般的に大井戸に次ぐもの、あるいは厚手でやや鈍重な「下手物」と見なされる傾向があった 3 。しかし、青井戸茶碗「銘 柴田」は、その通説を覆す傑出した存在として知られる。それは、青井戸という分類の典型的な特徴を備えながら、その弱点とされる鈍重さを微塵も感じさせず、むしろそれを気品と力強さへと昇華させているからに他ならない。小振りでありながら作行きは鋭く引き締まり、大井戸にも劣らない貫禄と気品を兼ね備えていると高く評価されている 3 。この卓越した完成度から、「青井戸の理想形」とも評され 4 、重要文化財および大名物としての格を与えられている 1 。
具体的な寸法は、高さ約7.1cm、口径約14.5cm、高台径約4.8cmを測り、井戸茶碗の中では比較的小振りな部類に入る 1 。形状は、青井戸の典型とされる、腰から口辺にかけて直線的に大きく開く、いわゆる「朝顔形」の姿を呈している 5 。しかし、単に開いているだけでなく、全体の姿は凛々しく引き締まり、見る者に爽快な印象を与える 3 。
この端正な姿に力強い動感を与えているのが、器の内外を巡る轆轤(ろくろ)目である。特に胴部には太く強い轆轤目が明瞭に残り、外側には5本の箆(へら)目が力強く施されている 1 。これらの造形要素が、静的な端正さの中に豪快さと鋭い緊張感を生み出し、この茶碗ならではの比類なき個性を形成している。
素地は、井戸茶碗に共通する砂交じりの粗い土であり、その素朴な土味が器全体の力強い印象の基盤となっている 1 。この土の上に、井戸特有の枇杷(びわ)色を呈する長石質の釉薬が厚く掛けられているのが基本である 1 。
この茶碗の大きな見どころは、その名の由来となった釉調の「景色」にある。「青井戸」と称される所以は、全体を覆う柔らかな枇杷色の中に、部分的に青みがかった発色が認められることによる 1 。さらに、ところどころ釉薬が弾け飛ぶように流れて青白い景色を生み出しており、これが静かな器面に豊かな表情を与えている 5 。この冴えた枇杷色と、落ち着いた青みが織りなす繊細な調和、そして柔らかで潤いのある釉薬の質感が、「柴田井戸」が放つ気品の源泉となっている 3 。
茶の湯の世界では、茶碗を鑑賞する上で特に高台とその周辺、そして茶碗の内側である見込が「見どころ」として重視される。「柴田井戸」は、これらの点において井戸茶碗として備えるべき特徴、いわゆる「約束事」を完璧に満たしている 3 。
高台は、力強く削り出された典型的な「竹節高台」である 1 。そして高台脇から底全面にかけて、釉薬が焼成時に縮れて粒状になった「梅花皮(かいらぎ)」が見事に現れている 1 。この梅花皮は景色として非常に趣があると古来より珍重されてきた。高台内部の中心には、「兜巾(ときん)」と呼ばれる兜の頂のような鋭い突起がはっきりと立ち、これも井戸茶碗の重要な特徴の一つである 3 。
一方、茶碗の内側である見込は、轆轤の中心に大きく渦状の削り込みが見られる 5 。その周囲には、器を重ねて焼いた際にできる支えの跡である「目跡」が大きく5つ、そして高台の畳付(たたみつき)にも同じく5つの目跡が認められる 7 。これらの特徴が全て揃っていることは、この茶碗が単に美しいだけでなく、当時の茶人たちが共有していた鑑定眼、すなわち井戸茶碗を評価するための厳格な基準を完全に満たしていたことを意味する。この「約束事」を理解し、その価値を語ること自体が、戦国武将にとって必須の教養であった。
「柴田井戸」を戦国時代という歴史の文脈に置き、それが単なる器物ではなく、政治的・社会的な意味を帯びた一個のシンボルであったことを論証する。
織田信長は、茶の湯を個人の趣味として深く愛好しただけでなく、それを家臣統制や権威誇示のための強力な政治的ツールとして活用した。これは後に「御茶湯御政道」と呼ばれる、信長独自の統治術であった 10 。信長は「名物狩り」と称される手段で、畿内や堺の商人、寺社などが所蔵する著名な茶道具を精力的に蒐集した 11 。そして、戦で功績を挙げた武将への恩賞として、従来の領地や金銀に代えて、これらの名物茶器を与えたのである 10 。
これにより、名物茶器には一国一城にも匹敵するほどの価値が付与され、それを拝領すること、さらには信長の許可を得て茶会を催すことが、家臣にとって最高の栄誉となった 10 。この文脈において、茶道具は単なる美術品ではなく、信長を中心とする権力構造を可視化し、家臣の序列を示す政治的な装置として機能していたのである 11 。
柴田勝家は、「鬼柴田」「かかれ柴田」の異名で敵から恐れられた織田家随一の猛将であった 15 。かつては信長の弟・信行に与して信長に敵対したものの、その武勇を惜しまれて許されて以降は、忠節を尽くして織田家筆頭家老にまで上り詰めた人物である 15 。
勝家が信長からこの「柴田井戸」を拝領したことは、彼の数多の戦功に対する恩賞であったと伝えられている 1 。これは、信長の「御茶湯御政道」を象徴する下賜事例の一つであり、勝家が織田政権内で極めて重要な地位にあったことを物語っている。勝家はこの茶碗の他にも、名物「天猫姥口釜」を拝領しており、彼が武勇一辺倒ではなく、茶の湯の価値を深く理解する教養人であったことが窺える 17 。
信長が豪華絢爛な唐物茶器を多数所持していたにも関わらず、武骨の象徴である勝家にあえて朝鮮の無骨な雑器であった井戸茶碗を与えたことには、深い意図が感じられる。それは、勝家の「鬼柴田」という人物像と、井戸茶碗の持つ力強く飾らない「侘び」の造形美とを重ね合わせる、信長による絶妙な采配であったと考えられる。同時にこれは、足利将軍家以来の唐物中心の価値観から、武士階級の気風により合致した「侘び」の美意識へと、文化の軸足を移そうとする信長の文化戦略の一端を示すものであった可能性もある。
天正11年(1583年)、信長亡き後の覇権を羽柴秀吉と争った賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は、居城である越前・北ノ庄城に追い詰められ、妻のお市の方と共に天守に火を放ち自刃した 2 。この落城の際、城内の多くの財宝や名物が炎と共に失われたとされる。例えば、松永久秀が名物「平蜘蛛釜」と共に爆死したように、名物が主と運命を共にすることは珍しくなかった 18 。
しかし、「柴田井戸」は奇跡的にこの戦火を免れ、後世へと伝えられた 19 。勝家が自害に際して、お市の連れ子であった浅井三姉妹を城から脱出させた逸話は有名だが 16 、この茶碗もまた、その混乱の中で信頼できる家臣の手によって城外へ持ち出されたと推測される。この茶碗の生存は、それが単なる勝個人の所有物を超え、信長から下賜された公的な価値を持つもの、あるいは柴田家の武功と名誉を象徴する「家宝」として認識され、何としても後世に伝えねばならないと考えられていた可能性を示唆している。その存在自体が、戦国の世における「モノ」が背負った象徴的な重みを物語っているのである。
柴田勝家の死後、この一碗がどのような人々の手を経て現代に伝わったのか、その四百年以上にわたる旅路を追跡する。
勝家没後の直接の伝来経路は史料に乏しく不明な点が多いが、この茶碗に付属する内箱の蓋裏に記された朱漆の書付が、歴史の空白を埋める重要な手がかりとなる 3 。
その書付には「柴田修理所持青山家臣朝比奈氏伝来」と明記されている 3 。これにより、江戸時代のいずれかの時期に、美濃郡上藩などを領した青山家の家臣であった朝比奈氏の所蔵となっていたことが判明する。この「朝比奈氏」が具体的に誰を指すのか特定は困難であるが、幕末期に郡上藩の家老を務めた朝比奈茂吉など、青山家に仕えた朝比奈氏の存在が確認されている 22 。この書付は、この茶碗が持つ歴史的価値、すなわち「柴田勝家所持」という来歴を保証し、後世に伝えるために記されたものと考えられる。それは、江戸時代において既にこの茶碗の「物語」が、その価値を決定づける極めて重要な要素として認識されていたことの証左である。
時代が下り幕末期になると、「柴田井戸」は大坂の豪商であり、武者小路千家とも深い繋がりを持った茶道具商・千種屋(ちぐさや)平瀬家の所蔵となる 5 。これは、長らく文化の担い手であった武家から、経済力を蓄えた町人へと名物が移動していく、時代の大きな変化を象徴する出来事であった。
そして明治36年(1903年)、同じく大坂を拠点とした実業家であり、後に藤田美術館の礎を築くことになる藤田傳三郎の一族(藤田家)の所有へと移る 3 。これは、明治維新後の産業革命によって生まれた新たな富裕層が、日本の伝統文化のパトロンとして名物蒐集に乗り出したことを示す典型的な事例である。
その後、「柴田井戸」は「鉄道王」と称された大実業家であり、日本・東洋古美術の稀代のコレクターとして知られる初代・根津嘉一郎の有するところとなった 2 。根津嘉一郎による蒐集は、武家から豪商、そして近代産業を牽引した実業家へと至る、この茶碗の伝来の最終段階を飾るものであった。
昭和16年(1941年)、根津嘉一郎のコレクションを保存・公開するために根津美術館(東京・南青山)が開館すると、「柴田井戸」はその中核をなす収蔵品となった 2 。これにより、この名碗は一個人の所有物から、国民が共有する貴重な文化遺産へとその位置づけを大きく変え、今日に至るまで同館を代表する至宝として大切に保管・展示されている 1 。この茶碗が辿った流転の歴史は、封建社会の崩壊と近代資本主義の勃興、そして近代国家における文化財保護思想の確立という、日本の社会経済史のダイナミズムそのものを映し出している。
時代 |
所有者/所蔵機関 |
関連事項・根拠 |
典拠資料 |
安土桃山時代 (16世紀後半) |
織田信長 |
「御茶湯御政道」の一環として所持。 |
1 |
安土桃山時代 (天正年間) |
柴田勝家 |
信長より戦功の恩賞として拝領。「柴田」の銘の由来となる。 |
1 |
安土桃山時代末期~江戸時代 |
(不明) |
天正11年(1583年)の北ノ庄城落城後、詳細な伝来は不明。 |
19 |
江戸時代 |
青山家臣 朝比奈氏 |
内箱蓋裏の朱漆書付「柴田修理所持青山家臣朝比奈氏伝来」による。 |
3 |
幕末 |
千種屋 平瀬家 (大坂) |
大坂の豪商・茶道具商の手に渡る。 |
5 |
明治36年 (1903年) |
藤田家 (大坂) |
近代実業家による蒐集。 |
3 |
昭和初期~ |
根津嘉一郎 |
「鉄道王」と称された大コレクターによる蒐集。 |
2 |
昭和16年 (1941年)~現在 |
根津美術館 |
国民的文化遺産として公開・保管。昭和27年(1952年)に重要文化財指定。 |
1 |
「柴田井戸」を茶陶史というより広い視野の中に置き、他の名碗との比較を通じて、その独自性と歴史的価値を客観的に評価する。
井戸茶碗は、元来、15世紀から16世紀にかけて朝鮮半島で焼かれた、名もなき陶工による日用の飯茶碗や祭器であったと推測されている 19 。しかし、その素朴で作為のない姿、荒々しい土の味わい、そして轆轤目や梅花皮といった自然発生的な景色が、安土桃山時代の千利休に代表される日本の茶人たちの美意識、すなわち「侘び」の精神と深く共鳴した 9 。
この「侘び」とは、完全なものよりも不完全なものに、華やかなものよりも枯れたものの中に、より深い豊かさや美しさを見出す感性である 27 。豪華絢爛な唐物茶碗とは対極にある井戸茶碗の無骨な佇まいは、まさにこの美意識を体現するものであった。この価値観の転換は、単なる器が、物語と美意識を内包した文化的アイコンへと昇華する「見立て」という創造的な行為によって成し遂げられた。特に、生死が常に隣り合わせであった戦国の世を生きる武将たちにとって、この飾らない力強さは、自らの生き様と重なるものとして強く心に響いたのである 9 。
井戸茶碗は、その姿や大きさによって、主に「大井戸」「小井戸」「青井戸」の三種に大別される 6 。
「柴田井戸」は、この青井戸の典型的な作例とされる。しかし、その呼称の定義にはやや曖昧さが伴う。そのような中で「柴田井戸」が「ザ・青井戸茶碗」「青井戸の理想」とまで評されるのは 4 、この一碗が、後世の鑑定家や茶人たちが「青井戸」というカテゴリーを語る上で参照すべき「基準器」としての役割を果たしてきたからに他ならない。その引き締まった姿と気品に満ちた作行きが、青井戸の目指すべき美の理想形を示したのである。
「柴田井戸」の価値をより明確にするため、他の著名な井戸茶碗と比較分析を行う。
これらの比較を通じて、「喜左衛門」が揺るぎない「王者の風格」を、「筒井筒」が洗練された「雅な機知」を象徴するとすれば、「柴田」はまさしく、戦国の世を生きた「武将の気概」を最も純粋に、そして力強く体現した名碗であると結論づけることができる。
本報告で詳述してきたように、青井戸茶碗「銘 柴田」は、単に造形的に優れた茶碗という存在ではない。それは、戦国武将・柴田勝家の武骨な気概と悲運の生涯、天下人・織田信長の卓抜した政治思想、侘び茶の精神文化の興隆、そして近世から近代に至る日本の社会変動の歴史までを、その一身に深く刻み込んだ、重層的な歴史の証人である。
その造形は、荒々しい力強さと端正な気品という、本来相容れない二律背反の美を見事に体現している。その流転の歴史は、武士から商人、そして近代実業家へと移り変わる、各時代の権力者たちの価値観の変遷を鮮やかに映し出す鏡となっている。
一碗の茶碗が、四百数十年の時を超えて我々に何を語りかけてくるのか。それは、モノが記憶し、物語を紡ぎ、時代を象徴する力を持ちうるという、文化の深遠さである。「柴田井戸」は、日本の歴史と美意識を学ぶ上で、比類なき価値を持つ生きたテクストなのである。