大名物「玉堂肩衝」は、戦国乱世を渡り歩き、秀吉の権威を象徴。浅野家と徳川家の主従関係を繋ぎ、黒飴釉に瑠璃色の輝きを秘めた歴史の至宝。
本報告書は、大名物茶入「玉堂肩衝」(ぎょくどうかたつき)を主題とし、その美術的価値、波乱に満ちた伝来史、そして戦国時代から江戸時代にかけての政治的・文化的役割を総合的に考察するものである。稀代の名物は、単なる器物としての美を超え、時代の精神や権力者の欲望を映し出す鏡となる。本報告書では、第一部で「玉堂肩衝」という工芸品そのものの美を、第二部で権力者たちの手を渡り歩いた流転の歴史を、そして第三部では他の名物との比較を通じてその独自性を探求し、この一個の茶入が持つ多層的な価値を解き明かすことを目的とする。
戦国時代、優れた茶道具は「名物」と称され、一国一城にも匹敵するほどの絶大な価値を持つに至った 1 。これらは単なる美術工芸品ではなく、武将の威光を示すステータスシンボルであり 4 、戦功に対する領地以上の恩賞として与えられ 1 、また敵対勢力が恭順の意を示す際の献上品となるなど、外交や政治の駆け引きにおいて極めて重要な役割を担った 7 。
この潮流を決定づけたのが、織田信長である。信長は、家臣に茶会の開催を許可制とし、手柄を立てた者にのみ名物茶器を下賜することで、茶の湯を家臣団統制の手段として用いた 6 。この「茶の湯御政道」とも呼ばれる政策は、豊臣秀吉によってさらに発展させられ、茶道具の価値を絶対的なものへと押し上げた 4 。茶の湯の場は、武将たちが互いの腹を探り合う社交の場、時には密談の場としても機能し、茶道具の目利きであることは一流の武人たる証とされた 5 。本報告書は、このような時代背景の中で、大名物「玉堂肩衝」が、いかなる物語をまとい、いかなる役割を演じたのかを徹底的に解明するものである。
この部では、「玉堂肩衝」を一つの工芸品として詳細に分析し、その造形美と技術の粋を明らかにする。器物そのものが持つ静かな力こそが、数多の権力者を魅了した根源である。
「玉堂肩衝」は、中国の南宋時代(1127-1279年)あるいは元時代(1271-1368年)に作られたと推定される「漢作唐物肩衝茶入」に分類される 10 。唐物茶入とは、室町時代以前に中国から日本へもたらされた茶入の総称であり、その希少性と古格から極めて高く評価された。
さらに「玉堂肩衝」は、松平不昧らの格付けにおいて、千利休の時代以前から名品として世に知られていた最上位の茶道具を指す「大名物」に位置づけられている 10 。この格付けは、本作が茶の湯の黎明期から既にその価値を認められていたことを示している。文化財としては、昭和12年(1937年)2月16日に重要美術品に指定され、その歴史的・美術的価値が公に認められている 14 。
「玉堂肩衝」の寸法は、高さ8.9cm、胴径7.9cmと記録されており、均整の取れたやや大振りな姿をしている 10 。その器形は、抹茶を入れる濃茶器の一分類である「肩衝」(かたつき)の典型であり、その名の通り、器の上部にある肩が水平に力強く張り出しているのが最大の特徴である 16 。
古今の名物記は、その細部の特徴を次のように伝える。「口の捻り返しが鋭く、はっきりと衝き、胴はあまりふくらまず、腰もあまりすぼまらないので畳付(たたみつき、底の接地部分)が広い」 10 。この無駄なく引き締まった造形は、華美に流れることなく、沈着で威厳に満ちた気宇壮大な印象を鑑賞者に与える 10 。
本作の作陶技術の高さは、土と底の作りに顕著に現れている。使用されている土は、きめ細かく、鉄分を豊富に含むことを示す「金気(かなけ)を含み」という特徴を持つと評される 10 。この良質な陶土が、堅牢でありながら繊細な器壁の成形を可能にした。
底の作りは、轆轤(ろくろ)で成形した器体を切り離す際に、糸ではなく板を用いる「板起し」という技法で作られている。そのため、底は平らで、中央がわずかに窪むという特徴を持つ 10 。この「板起し」の底は、時代の古い、格の高い唐物茶入に共通して見られる特徴である 18 。
「玉堂肩衝」の美しさを決定づけているのが、その釉薬の表情、すなわち「景色」である。器の全面は「艶高い黒飴釉」で覆われ、深みのある光沢を放っている 10 。
器の正面、すなわち茶席で客に向けて置かれる「置形(おきがた)」には、本体と同じ黒飴色の釉薬が高温で溶けて流れ落ちた「なだれ」が三筋ほど見られる 10 。この自然が生み出した釉薬の動きが、静的な器にダイナミックな表情を与え、主要な見所となっている。
そして、本作を唯一無二の存在たらしめているのが、肩の一部に偶然現れた「瑠璃色(るりいろ)の釉景」である 10 。深淵な黒飴色の世界に浮かぶ、鮮やかで神秘的な瑠璃色は、窯の中で起きた奇跡的な化学変化(窯変)の産物である。この予測不可能な美の発見こそが、茶人たちが名物を賞玩する際の最大の喜びであり、この一点の瑠璃色が「玉堂肩衝」の価値をさらに比類なきものへと高めている。
千利休の高弟であり、その茶の湯の神髄を最も深く理解したとされる山上宗二。彼が著した秘伝書『山上宗二記』は、戦国時代の茶の湯を知る上で欠くことのできない一級史料である 20 。この書物の中に、「玉堂肩衝」に関する極めて示唆に富んだ記述が存在する。
「玉堂肩衝 京針屋宗和にあり、此壺も口、當世へむきたる壺なり」 21
この一文は、単なる所蔵者の記録に留まらない、深い意味を内包している。ここで用いられている「當世へむきたる」という評価こそ、「玉堂肩衝」が持つ本質的な価値を解き明かす鍵となる。これは「現代的である」「時流に乗っている」という意味であり、本作が単に古くて由緒ある骨董品としてではなく、利休を中心とする安土桃山時代の茶の湯の、まさに最先端の美意識に完全に合致する器物として認識されていたことを示している。
この評価の背景には、当時の美意識の変化があった。室町時代の書院における静的な鑑賞から、戦国武将たちの実践的で動的な価値観が茶の湯に流れ込んだ。その中で求められたのは、優美さだけでなく、質実剛健な力強さや、研ぎ澄まされた緊張感であった。「玉堂肩衝」の鋭く返された口作りや、力強く張った肩のライン、そして引き締まった胴の造形は、まさにこうした戦国武将たちの気風と共鳴するものであった。それは、過去の遺物としてではなく、まさに「今」を体現するスタイリッシュな名品としての評価だったのである。多くの名物が所持者の名と共に列記される中で、このような具体的な審美眼に基づく評価が記されている事実は、「玉堂肩衝」が当時の茶人たちにとって、いかに特別な存在であったかを物語っている。名物の価値が固定的なものではなく、その時代の美意識と相互に作用しながら、常に新しく発見され、創造されていくものであることを、この一文は雄弁に物語っている。
「玉堂肩衝」の価値は、その造形美だけに留まらない。戦国乱世から徳川泰平の世に至るまで、時の権力者たちの手を渡り歩いた数奇な運命そのものが、この茶入に比類なき物語性を与えている。その伝来の軌跡は、日本の権力構造の変遷を映し出す縮図とも言える。
「玉堂肩衝」の来歴は、西国に一大文化圏を築いた戦国大名、大内義隆(1507-1551年)に始まるとされる 10 。京の文化を深く愛好した義隆は、京都から高僧や文化人を山口に招いた。その一人、大徳寺第92世の玉堂宗条(ぎょくどうそうじょう、1480-1561年)和尚に、義隆がこの肩衝茶入を寄進したことが、「玉堂」という銘の由来となったと伝えられている 15 。
この茶入の物語を劇的なものにしたのが、大内家の滅亡にまつわる逸話である。天文20年(1551年)、義隆は重臣・陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭い、長門の大寧寺で自刃に追い込まれた(大寧寺の変)。この時、山口の龍福寺に住していた玉堂和尚は、戦火の中からこの「玉堂肩衝」を携え、九州の豊後を治める大友氏のもとへ命からがら落ち延びたとされる 10 。
この主君の悲劇と、それを乗り越えて名物を守り抜いた和尚の物語は、後世の軍記物『陰徳太平記』(正徳2年、1712年成立)に記されたものである 24 。事件から160年以上も後に成立した書物であるため、この逸話が歴史的事実であるかについては慎重な検討を要する。しかし、重要なのはその真偽以上に、この「物語」が「玉堂肩衝」という器物に与えた影響である。この逸話によって、「玉堂肩衝」は単なる美しい茶入から、「主家の滅亡を乗り越えた、文化と忠義の象徴」という、深く人の心を揺さぶる付加価値を獲得した。名物の価値とは、物理的な属性だけでなく、こうした来歴の物語によっても増幅されるのである。
後に玉堂和尚が京に上り、この茶入を豪商・針屋宗和に売却した際、人々は「玉堂にあらず、欲堂(よくどう)なり」と噂したという逸話も残っている 21 。これは、この茶入がもはや単なる商品ではなく、人の道徳的評価と分かちがたく結びついた、特別な存在と見なされていたことを如実に示している。
九州から京の都へ渡った「玉堂肩衝」は、立売(たちうり)の豪商として知られた針屋宗和(はりやそうわ)の所有となる 21 。当時の茶会記である『津田宗及茶湯日記』や『宗湛日記』には、天正5年(1577年)および天正15年(1587年)に、宗和が自身の茶会でこの名物を披露したことが記録されており、京の茶人たちの間で垂涎の的であったことが窺える 21 。やがて、全国の名物茶器を精力的に収集していた天下人・豊臣秀吉がこの名品を手に入れることとなる。
「玉堂肩衝」が歴史の表舞台で最も華々しい役割を演じたのが、天正18年(1590年)の小田原征伐の時であった。『真書太閤記』などによれば、秀吉は相模国石垣山に本陣を構えると、その中に茶室をしつらえ、この「玉堂肩衝」と、同じく名高い葉茶壺「橋立」を飾り、茶会を催したと伝えられる 21 。この茶会に招かれた客は、徳川家康、細川幽斎、そして千利休という、当代随一の武将、文化人、茶人であった。
この陣中茶会は、決して単なる慰労や趣味の会ではなかった。天下統一事業の総仕上げという、日本史の転換点となる緊迫した戦場において、最高級の茶道具を披露し、静寂と精神性が求められる茶の湯を執り行うこと自体が、秀吉の絶対的な権力と精神的余裕を内外に誇示する、高度に計算された政治的パフォーマンスであった。それは、籠城する後北条氏に対する圧倒的な威圧であると同時に、徳川家康をはじめとする有力大名たちに対し、自らが武力のみならず文化においても日本の頂点に立つ支配者であることを宣言する行為に他ならなかった。この時、「玉堂肩衝」は、秀吉の文化的権威を可視化するための、極めて重要な舞台装置として戦略的に用いられたのである。
秀吉の死後、天下は徳川のものとなり、「玉堂肩衝」の運命も新たな局面を迎える。この茶入は秀吉から重臣の浅野長政に下賜され、その後、徳川家康、そして長政の子である浅野長晟へと伝わった。ここから、江戸時代を通じて安芸広島藩主・浅野家と徳川将軍家の間を幾度となく往復するという、他に類を見ない特異な歴史が始まる 10 。
その複雑な軌跡は以下の通りである。
この伝来史の中で特に注目すべきは、寛永9年(1632年)の献上と即日返還の事例である。これは単なる物のやり取りではない。江戸幕府の体制が確立していく初期において、大名が代替わりする際に、自らの家で最も価値ある家宝を将軍に献上することは、絶対的な忠誠心を示す象徴的な行為であった。それに対し、将軍が即座にその至宝を返還することは、「汝の忠誠は確かに受け取った。その信頼の証として、この宝を再び汝に預ける」という、将軍からの絶大な恩寵と信任を示す行為に他ならない。
この儀礼的な交換を通じて、徳川将軍家と有力外様大名である浅野家との間の主従関係は更新され、より強固なものとなった。戦国時代に名物が実力行使の恩賞として機能したのとは異なり、泰平の世においては、より洗練された象徴的な主従関係の維持装置として用いられたのである。「玉堂肩衝」は、この高度な政治的儀礼において、両者の信頼関係を媒介し、可視化するという、極めて重要な役割を果たした。その流転の歴史は、時代の変化と共に名物が持つ意味合いが変容していったことを物語っている。
「玉堂肩衝」の歴史的・美術的個性を一層鮮明にするため、この部では他の名物、特に茶道具の世界で絶対的な権威を持つ「天下三肩衝」と比較分析を行う。また、同時代の茶会記の記述を紐解き、当時の茶人たちがこの器に注いだ熱い眼差しを再現する。
「天下三肩衝」(てんかさんかたつき)とは、数ある肩衝茶入の中でも最高峰に位置づけられる「初花(はつはな)」「新田(にった)」「楢柴(ならしば)」という三つの名器を指す言葉である 2 。これらは茶道具のヒエラルキーの頂点に君臨する存在であり、その所有は天下人の証とさえ考えられた。
「玉堂肩衝」は、前述の通り「大名物」の格付けを持ち、漢作肩衝の中でも傑出した名品とされながらも 10 、この「天下三肩衝」という至高のカノンには含まれていない。この事実は、名物の世界における格付けの厳密さと、評価軸の多様性を示唆している。
「玉堂肩衝」の個性を理解する上で極めて有益なのが、同じく水戸徳川家に伝来し、現在、公益財団法人徳川ミュージアムに共に所蔵される「新田肩衝」との比較である 30 。二つの名物を並べて比較することで、それぞれの持つ美と物語の特質が浮き彫りになる。
以下の表は、「玉堂肩衝」と「天下三肩衝」の代表格である「新田肩衝」「初花肩衝」の情報を比較したものである。
項目 |
玉堂肩衝 |
新田肩衝 |
初花肩衝 |
分類 |
大名物、漢作唐物肩衝 |
大名物、漢作唐物肩衝、 天下三肩衝 |
大名物、漢作唐物肩衝、 天下三肩衝 |
寸法 |
高さ: 8.9cm, 胴径: 7.9cm 10 |
高さ: 8.5cm, 胴径: 7.7cm 31 |
高さ: 8.8cm, 胴径: 7.9cm 32 |
形状 |
鋭い口の捻り返し、力強く張った肩、広い畳付 10 |
全体に丸みを帯びた姿、撫肩(なでがた) 31 |
均整の取れた優美な姿 34 |
釉薬・景色 |
艶高い黒飴釉、共色のなだれ、肩に 瑠璃色の釉景 10 |
元は海松色(みるいろ)、大坂の陣で被災し黒褐色に変化 31 |
茶褐色の釉が流れる景色 33 |
主な伝来 |
大内→玉堂和尚→針屋→秀吉→浅野・徳川家往還→水戸徳川家 10 |
珠光→三好→信長→秀吉→家康→水戸徳川家 31 |
足利義政→…→信長→秀吉→家康→徳川宗家 36 |
逸話・評価 |
玉堂和尚の脱出劇、「當世へむきたる壺」(山上宗二記)、浅野・徳川間の儀礼的メディア 15 |
大坂の陣で被災し、灰中から発見・修復 、「天下一の肩衝」(利休) 35 |
天下を取るより難しいとされた蒐集の対象、北野大茶湯で披露 2 |
現所蔵 |
徳川ミュージアム 23 |
徳川ミュージアム 30 |
徳川記念財団 34 |
この比較から浮かび上がるのは、「玉堂肩衝」と「新田肩衝」が、それぞれ全く異なる種類の「物語」を背負った名物であるということだ。「新田肩衝」は、「天下三肩衝」という絶対的な権威を持つカノンに属し、大坂の陣での焼失と、家康の命による灰の中からの奇跡的な復活という、歴史的大事件にその名を刻んだドラマを持つ 31 。その価値は、確立されたブランドと劇的なサバイバルストーリーに大きく依拠している。
一方、「玉堂肩衝」はカノンには属さない。しかしその代わりに、主君の滅亡、忠義の僧の脱出行、天下人の陣中茶会での披露、そして泰平の世における主従儀礼の媒介という、より人間的で政治的な機微に富んだ、唯一無二の「伝記」を持つ。水戸徳川家が、この対照的な二つの名物を共に所蔵したという事実は、彼らが単に権威ある器を蒐集しただけではなく、それぞれが持つ固有の物語性、すなわち歴史的価値そのものを深く理解し、愛蔵していたことを示している。この二つの名物は、茶道具の価値が「権威とドラマ」によって形成される場合と、「固有の伝記と美」によって形成される場合の良い対比となっており、戦国から江戸期にかけての「価値」がいかに多層的であったかを我々に教えてくれる。
博多の豪商であり、利休や秀吉とも交流の深かった茶人・神屋宗湛(かみやそうたん)。彼が遺した茶会記録『宗湛日記』には、「玉堂肩衝」が実際に茶席でどのように扱われ、鑑賞されていたかを伝える生々しい記述が残されている 26 。
この年、宗湛は京で針屋宗和の茶会に招かれ、「玉堂肩衝」を拝見する機会を得た。その時の記録は極めて詳細である。「肩衝は土赤めにして黒めなり」「薬はづれ三四分ほど下までなだれ一つ有」「薬の内になだれ二つあり」 26 。宗湛は、釉薬のかかっていない土の色味(土見)から、釉薬の流れ(なだれ)、釉薬が弾けて素地が見える箇所(薬はづれ)に至るまで、まるで鑑定するように器を観察している。
それから10年後、今度は伏見の浅野長政邸で開かれた茶会で、宗湛は「玉堂肩衝」と再会する。この時の記録には、「表になだれ三つ」「惣の藥黑めにして、に梨地の如く飴色の藥ふき出」といった描写が見られる 26 。これは、見る角度や光の加減によって、器が異なる表情を見せる豊かさを伝えている。「梨地の如く」という表現は、黒飴釉の中に細かく煌めく斑点が浮かび上がっていたことを示唆しており、その複雑な釉調に宗湛が深く感銘を受けた様子が伝わってくる。
これらの記録は、「玉堂肩衝」が美術館のガラスケースの中で静かに佇む鑑賞物ではなく、実際に茶会という場で人々の手に取られ、熱心な眼差しのもとでその細部までが愛でられていたことを伝える貴重な一次史料である。宗湛の微に入り細を穿つ観察眼は、名物の鑑賞が、単に全体の形姿を眺めるだけでなく、釉薬の流れ一つ、土の色味一つにまで宇宙的な広がりを見出そうとする、茶の湯の精神性を色濃く反映している。
大名物「玉堂肩衝」。その軌跡は、西国に栄華を誇った大内氏の滅亡に始まり、天下人・豊臣秀吉の権威を象徴する舞台装置となり、徳川泰平の世においては幕府と有力大名の主従儀礼を媒介するメディアとして機能し、そして御三家筆頭である水戸徳川家に安住の地を見出した。その流転の歴史は、戦国乱世から近世へと至る日本の社会構造と権力、そして文化の変遷を映し出す、一つの壮大な物語である。
本報告書で明らかにしてきたように、「玉堂肩衝」の価値は単一の尺度では測れない。それは、南宋の陶工が生み出した優れた造形美、権威ある人物たちを渡り歩いた由緒ある伝来、主家の滅亡と忠臣の物語といった劇的な逸話、そして時代の要請に応じてその役割を変えていった政治的象徴性といった、幾つもの層が重なり合って形成されている。それは、もはや単なる「物」ではなく、時代時代の権力者や文化人たちの欲望、美意識、そして政治的思惑が深く刻み込まれた、歴史の記憶装置なのである。
現在、徳川ミュージアムに「新田肩衝」と共に所蔵される「玉堂肩衝」は 23 、戦国という激動の時代を生き抜いた証人として、現代の我々に多くのことを語りかける。それは、一個の小さな陶器がいかにして歴史を動かし、また歴史によって翻弄されてきたかの物語である。この名物を守り、その価値を理解し、次代へと伝えてきた数多の人々の営みに思いを馳せる時、我々は日本の文化が持つ奥深さと、それを未来へ継承していくことの重要性を改めて認識するのである。