戦国日本に発泡酒は存在せず。欧州は泡を価値化、技術革新。日本酒は火入れで安定を追求。耐圧容器の欠如と文化的な嗜好が不在の理由。
ご提示いただいた「発泡性の泡を含んだ葡萄酒の一種」という定義に基づき、日本の戦国時代という特定の時空間において、この「発泡酒」が存在し得たのか、という問いは、歴史の深層を探る上で極めて示唆に富むものです。本報告書は、単に「戦国時代に発泡酒は存在したか」という問いに「否」と答えるだけに留まりません。その上で、「なぜ存在しなかったのか」、そして「なぜ存在し得なかったのか」という、より本質的な問いを、技術史、文化史、さらには思想史的観点から徹底的に解明することを目的とします。
本報告書の核心的アプローチは、ヨーロッパにおける発泡性葡萄酒の「発明」の物語と、戦国日本における醸造技術の「進化」の物語を並行して描き出すことにあります。そして、両者の技術的・思想的ベクトルが、いかに異なる方向を指し示していたかを明らかにすることで、「不在の理由」を構造的に論証します。
まず時代設定を明確にすることが不可欠です。現在我々が知る発泡性葡萄酒、特にシャンパンに代表される瓶内二次発酵製法が確立され始めたのは、17世紀後半のヨーロッパです 1 。これは日本の時代区分では江戸時代中期にあたり、本報告書の主題である戦国時代(15世紀後半から16世紀末)とは、明確な時間的隔たりが存在します。この時間差こそが、両者の醸造文化を比較分析する上での重要な出発点となるのです。
発泡酒は、単なる偶然の産物として生まれたわけではありません。それは、特定の技術的、文化的土壌から生まれた「発明品」であり、その誕生の物語は、当初の意図とは異なる価値が見出されていく過程そのものでした。
発泡性葡萄酒の歴史を語る上で、フランス・シャンパーニュ地方の修道士、ドン・ピエール・ペリニヨンの名はあまりにも有名です 1 。彼はしばしば「シャンパンの発明者」として伝説的に語られますが、歴史的真実はより複雑な様相を呈しています。ドン・ペリニヨンの本来の目的は、実は発泡を「防ぐ」ことにありました。シャンパーニュ地方は冷涼な気候のため、秋のブドウ収穫後に始まるアルコール発酵が冬の寒さで途中で停止し、春になり気温が上昇すると瓶の中で再び発酵を始めてしまうことが頻繁にありました。この意図せぬ二次発酵によって生じる「泡」は、当時の醸造家にとっては品質を損なう「欠陥」であり、制御不能な厄介者と見なされていたのです。彼の究極の目的は、この再発酵を阻止し、安定した非発泡の高品質な白ワインを造ることにありました 4 。
ドン・ペリニヨンの真の功績は、発泡の発明そのものではなく、後のシャンパンの品質を決定づける数々の基礎技術を確立した点にあります。例えば、異なる畑や品種のブドウを巧みにブレンドしてワインの味わいに深みと一貫性をもたらす「アサンブラージュ」の技術や、黒ブドウであるピノ・ノワールから圧搾法を工夫して透明な果汁を得る技術などは、彼の偉大な功績です 4 。これらは、シャンパンが単なる「泡立つワイン」から、複雑で洗練された香味を持つ高級酒へと昇華するための土台を築きました。
興味深いことに、発泡性ワインの製法を世界で初めて文献に記録したのは、フランス人ではなく、1662年にイギリスの医師クリストファー・メレットでした 2 。また、フランスからイギリスへ輸出された、冬の寒さで発酵が止まったワインが、イギリスの温暖な春を迎えて再発酵し、その泡立つ状態をイギリス人が好んで飲んでいたという記録も存在します 5 。ここから導き出されるのは、発泡酒の誕生がドン・ペリニヨンという一人の天才による単線的な発明物語ではない、ということです。むしろ、フランスの生産現場における「意図せぬ産物」と、それを新たな価値として積極的に評価し、消費したイギリス市場との相互作用の中で生まれた、複合的な歴史的事象であったと捉えるべきでしょう。生産技術だけでなく、それを評価し受容する文化と市場があって初めて「発明」は社会的に成立するという、普遍的な法則がここに見出せます。
偶然の発見を安定した製品へと昇華させるためには、一連の技術革新、すなわち「技術的エコシステム」の構築が不可欠でした。瓶内二次発酵によって生じる二酸化炭素は、時に5∼6気圧という高い圧力に達します。この圧力に耐えうる頑丈なガラス瓶と、ガスを逃さずに瓶を密封する気密性の高いコルク栓は、発泡酒製造の絶対条件でした 3 。これらの技術は、特に17世紀のイギリスで石炭を燃料とする高温窯によって強度の高いガラス瓶が生産されるなど、顕著な進歩が見られました。
さらに、品質を飛躍的に向上させるイノベーションが19世紀に次々と生まれます。その一つが、コルク栓が圧力で飛び出すのを防ぐために留める針金、すなわち「ミュズレ」の発明です。これは1844年にメゾン・ジャクソンによって考案されました 5 。そしてもう一つが、シャンパンの歴史における画期的な出来事とされる、1818年のヴーヴ・クリコ社による「ピュピートル(動瓶台)」の考案です。これは、瓶を少しずつ回転させながら傾斜をきつくしていくことで、瓶内に発生した澱(おり)を効率的に瓶口に集めるための台です。この発明により、澱を取り除いた後のシャンパンは濁りのない透明な液体となり、その後の量産化と品質向上に絶大な貢献を果たしました 5 。
これらの事実は、発泡酒が単一の技術によって成立するものではないことを明確に示しています。「発酵を瓶内で再開させる」という原理そのものは比較的単純ですが、それを安全かつ高品質な商品として流通させるには、「高圧に耐える容器」「ガスを逃さない密閉」「栓の固定」「澱の除去」という、相互に依存し合う一連の技術群が不可欠でした。この技術的エコシステム全体の構築こそが、発泡酒を一つの産業として成立させるための決定的な要因であり、乗り越えるべき高い障壁だったのです。
技術的基盤が整うと、シャンパンはその華やかな泡立ちと希少性から、ヨーロッパの宮廷文化と強く結びついていきました。太陽王ルイ14世の食卓に上り 7 、ルイ16世とマリー・アントワネットの宮廷を彩り、さらにはナポレオン戦争後にはロシア皇帝アレクサンドル1世を魅了し、大量にロシアへ輸入されるまでになりました 8 。19世紀には、イギリスの王室の結婚式から上流階級のパーティーまで、あらゆる祝宴の席でシャンパンが振る舞われるのが常識となりました 9 。このようにして、シャンパンは単なる一飲料ではなく、「祝祭」「成功」「歓喜」を象徴する特別な飲み物としての文化的地位を確立していったのです。
一方、日本にこの発泡性葡萄酒が本格的に伝来するのは、幕末の開国を待たねばなりませんでした。その後も普及には相当な時間を要し、第二次世界大戦前後においても、ごく一部の高級ホテルで扱われるに過ぎない希少な存在でした 10 。日本での国産化の試みは、大正時代には始まっていましたが、品質と生産量が飛躍的に向上し、一般にも認知されるようになるのは1980年代以降のことです 10 。戦国時代から見れば、実に400年近い歳月が流れていました。
同時期の日本に目を転じると、そこにはヨーロッパとは全く異なる価値観に基づき、独自の高度な醸造文化が爛熟期を迎えていました。戦国時代の日本の酒造りは、発泡とは対極にある「静的な安定性」を希求し、その技術を極めていたのです。
戦国時代の日本人が、ヨーロッパの酒、すなわち葡萄酒と全く無縁だったわけではありません。1549年(天文18年)、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩の守護大名・島津貴久に謁見した際に献上した「赤き酒」が、日本人が葡萄酒を飲んだことが明確に記された最初の記録とされています 12 。その後、天下統一を推し進めた織田信長も、ルイス・フロイスをはじめとする宣教師たちから葡萄酒を贈られ、これを愛飲したと伝えられています 14 。
しかし、ここで重要なのは、彼らが口にした葡萄酒がどのようなものであったか、という点です。ポルトガルのゴアから日本までの航路は数ヶ月を要し、赤道を二度通過する過酷なものでした。通常のワインでは、この長旅の間に熱による劣化は避けられません。そのため、宣教師たちが献上品として持参したのは、発酵途中にブランデーなどの酒精を添加することでアルコール度数を高め、保存性を格段に向上させた「酒精強化ワイン」(ポルトガル産のポートワインやスペイン産のシェリー酒など)であった可能性が極めて高いと考えられます 16 。これらのワインは、甘口でアルコール度数が高く、酸化や腐敗に強いという特徴を持っています。
この事実は、戦国時代の権力者たちの葡萄酒体験が、特定のタイプに限定されていたことを示唆します。彼らにとって葡萄酒とは、キリスト教の布教許可を求める宣教師との外交的・政治的な駆け引きの中で供される「異国の珍品」であり、その味わいの記憶は「甘く、アルコールが強く、安定した酒」というものでした。これは、発泡性という概念とは全く結びつかない体験であり、日本の醸造文化に直接的な影響を与えるには至らない、あくまで点としての接触に過ぎなかったのです。
戦国時代の日本は、世界的に見ても極めて高度な醸造技術を確立していました。特に室町時代から戦国時代にかけて、奈良の正暦寺や興福寺といった大寺院で造られた「僧坊酒」は、その技術的頂点を示すものでした 18 。奈良・興福寺の塔頭(たっちゅう)である多聞院の僧侶たちによって、1478年から1618年という長きにわたり書き継がれた日記『多聞院日記』には、当時の先進的な酒造りの様子が詳細に記録されており、我々に驚くべき事実を伝えてくれます 21 。
この時代には、現代の日本酒造りの根幹をなす基幹技術がすでに確立されていました。
第一に、「諸白(もろはく)造り」です。これは、麹米と掛米(蒸して醪に加える米)の両方に、精米して糠を取り除いた白米を用いる製法です。これにより、玄米を用いるどぶろくなどと比べて、雑味の少ない洗練されたクリアな味わいの酒(清酒)を造ることが可能になりました 23。
第二に、「段仕込み」の技法です。これは、酒母に米、麹、水を一度に加えるのではなく、三回程度に分けて投入していく方法です。これにより、醪の中の酵母濃度を急激に薄めることなく、健全な発酵を安定して持続させることができ、より高いアルコール度数を得ることが可能になりました 23 。
第三に、「乳酸発酵の利用」です。当時の醸造書『御酒之日記』に記された「菩提泉」の製法では、まず生米を水に浸して乳酸菌を繁殖させ、酸性の状態を作り出した上で酵母を投入するという、現代の生酛(きもと)系酒母の原型ともいえる画期的な技術が用いられていました。これにより、雑菌の汚染を防ぎ、安全な醸造を実現していたのです 19 。
容器についても、当初は比較的小さな陶製の甕(かめ)で仕込みが行われていましたが 21 、戦国時代末期には箍(たが)で締められた大型の木桶が発明され、一度に仕込める量が飛躍的に増大し、大量生産への道が開かれました 26 。これらの技術は、日本の酒造りが経験と勘だけに頼るのではなく、極めて合理的かつ科学的な知見に基づいて行われていたことを示しています。
戦国時代の日本の醸造技術を象徴する、最も重要な技術が「火入れ」です。これは、搾り上がった酒を摂氏60度程度の湯煎で加熱処理する低温殺菌技術であり、日本酒の歴史における最大の発明の一つと評価されています 24 。
火入れの目的は二つあります。第一に、酒の中に生き残っている酵母の働きを完全に停止させることです。これにより、瓶や樽に詰められた後も発酵が続くことを防ぎ、酒の味が変化したり、意図せず泡立ったりするのを防ぎます 29 。第二に、酒を腐敗させる有害な微生物、特に「火落菌」と呼ばれる乳酸菌の一種を殺菌することです。火落菌が繁殖すると、酒は白く濁り、不快な酸臭を放つようになり、商品価値を完全に失ってしまいます。火入れは、この「火落ち」を防ぎ、酒質を安定させ、長期保存と広域流通を可能にするための決定的な技術でした 29 。
驚くべきは、この低温殺菌法が、フランスの科学者ルイ・パスツールがビールやワインの劣化を防ぐために同様の原理を発表する、実に300年も前に、日本では経験的に発見され、実用化されていたという事実です 28 。『多聞院日記』には、1569年(永禄12年)の時点で、すでに酒の火入れが行われていたことが明確に記されています 24 。
この「火入れ」という技術の存在は、日本の醸造文化が目指していた方向性を雄弁に物語っています。それは、「発酵という生命活動を、最も良い状態で意図的に停止させ、酒を静的な安定状態へと導く」という思想です。これは、瓶の中で「発酵を意図的に再開させ、泡という動的な状態を新たに創出する」ことを目指す発泡酒の思想とは、まさしく正反対のベクトルを向いています。戦国時代の醸造家が目指した最高品質の酒とは、火入れによって達成される「腐らず、味が変わらず、清らかに澄んだ酒」でした。この価値観が支配的であった社会において、瓶の中で再び泡立ち始める酒は、火入れが不完全な「失敗作」あるいは「劣等品」と見なされたであろうことは、想像に難くありません。技術レベルの問題以前に、目指すべき「理想の酒」の姿そのものが、発泡酒の概念とは根本的に相容れなかったのです。
ヨーロッパと日本の醸造文化が、それぞれ異なる技術的・思想的背景を持っていたことを踏まえ、「もしも」の問い、すなわち「なぜ戦国の日本で発泡酒は生まれなかったのか」という問いに対して、多角的な視点からその根源的な理由を解き明かします。
表1:発泡性葡萄酒(シャンパーニュ)と戦国時代の日本酒:技術・思想・背景の比較
比較項目 |
発泡性葡萄酒(17世紀以降の欧州) |
戦国時代の日本酒 |
発祥時期 |
17世紀~18世紀 1 |
(清酒基幹技術は)室町時代に確立 25 |
主要な醸造思想 |
瓶内での二次発酵による新たな価値(泡)の創出 5 |
火入れによる発酵の停止と品質の安定化・長期保存 28 |
発泡性の捉え方 |
祝祭性・高級感を演出する「魅力」 8 |
品質劣化・不安定を示唆する「欠陥」または「未完成」の兆候 20 |
主要技術革新 |
瓶内二次発酵、アサンブラージュ、動瓶、ミュズレ 5 |
諸白造り、段仕込み、火入れ(低温殺菌) 19 |
容器と密閉技術 |
耐圧ガラス瓶とコルク栓・針金 3 |
陶製の甕、木製の桶・樽 21 |
主要な飲用層 |
王侯貴族、富裕層 7 |
武士階級、寺社、裕福な町人 32 |
まず、戦国時代の人々が酒の発泡現象自体を知らなかった、ということはあり得ません。火入れを行わない「生酒」や、醪を粗く濾しただけの「濁り酒(どぶろく)」は、容器の中で酵母が生き続けているため、自然に炭酸ガスを発生させます 34 。したがって、発泡する酒の存在は、日常的に経験し得る現象でした。
問題は、その「泡」がどのように評価されていたかです。当時の高級酒の主流は、前述の通り、諸白造りによって生み出される、清らかに澄んだ「清酒」でした 20 。濁りや泡は、むしろ未完成で素朴な「田舎酒」の特性 20 、あるいは品質が不安定な状態の象徴と捉えられていた可能性が濃厚です。特に、一度澄んだはずの清酒が再び泡立つことは、祝祭性の表現ではなく、火落菌による腐敗の始まりを告げる危険信号と認識されていた可能性すらあります 29 。
ここに、価値観の転換が起こるか否かの分岐点が存在します。ヨーロッパでは、王侯貴族という、常に新しい刺激や贅沢を求める消費者が、偶然生まれた泡立つワインの物珍しさや見た目の華やかさを「面白い」と評価し、それに新たな価値を与えました 7 。一方、戦国日本の酒の主要な消費者は武家や寺社であり、神事や儀式に用いられることも多かったため、求められたのは伝統に裏打ちされた「安定性」や「清浄さ」でした 18 。この需要構造の違いが、価値観の転換を促すか否かの分水嶺となったのです。日本では、既存の価値観(清澄、安定)をより高める方向、すなわち諸白造りや火入れといった技術の洗練へと向かい、「泡」を積極的に評価する文化的・社会的動機が生まれることはありませんでした。
たとえ戦国時代の日本に、発泡酒を造ろうという奇抜な発想を持つ人物がいたとしても、それを実現することは物理的に不可能でした。その最大の理由が、容器の問題です。
発泡酒の製造に不可欠な、高い内圧に耐えうる「ガラス瓶」が、当時の日本には存在しませんでした。宣教師が献上品としてガラス瓶を持ち込むことはありましたが 12 、それは極めて希少な輸入品であり、国内で生産・調達できるものではありませんでした。当時の日本の主要な酒の容器は、陶製の甕(かめ)や木製の樽・桶でした 21 。これらの容器は、瓶内二次発酵によって生じる高いガス圧に耐える強度を持ち合わせておらず、仮に発酵させれば容易に破損してしまったでしょう。
さらに、瓶の口を完全に密封し、発生した炭酸ガスを液体中に溶け込ませるための「コルク栓」や、そのコルクを圧力に抗して固定するための「針金(ミュズレ)」に相当する密閉技術も、当時の日本には存在しませんでした。木製の栓や紙による封では、高まる圧力を封じ込めることは到底不可能です。
結論として、発想の有無を問う以前に、発泡酒を製造するための物理的な手段、すなわち耐圧容器と密閉技術という技術的エコシステムの根幹が、当時の日本には完全に欠落していました。これこそが、「戦国の発泡酒」が生まれなかった、最も直接的かつ決定的な理由であると言えます。
本報告書の分析を通じて、戦国時代の日本に「発泡酒」が存在しなかった理由は、単一のものではなく、思想的、技術的、そして文化的な要因が複合的に絡み合った結果であることが明らかになりました。
第一に、 思想的障壁 です。戦国時代に爛熟期を迎えた日本の先進的な醸造技術は、「火入れ」という画期的な低温殺菌技術を頂点とする、「安定化」と「静化」を理想としていました。これは、瓶内での発酵の再開を促し、「動的な価値」を創出する発泡酒の思想とは、完全に正反対のベクトルを持っていました。
第二に、 技術的・物質的障壁 です。発泡という現象を物理的に製品として成立させるために不可欠な、高い内圧に耐える「耐圧ガラス瓶」と、ガスを封じ込める「コルク栓」などの密閉技術が、当時の日本には決定的に欠けていました。これは、乗り越え不可能な物理的制約でした。
第三に、 文化的障壁 です。酒に発生する「泡」を、祝祭性を帯びた新たな魅力として評価する社会・文化的土壌が、日本には未成熟でした。むしろ、武家や寺社が求める高級酒の証は、濁りや泡のない「清澄さ」であり、泡は未完成や品質劣化の兆候と見なされる傾向にありました。
最終的に、次のように結論付けられます。発泡性葡萄酒は、特定の技術的エコシステムの構築と、泡を祝祭の象徴として積極的に受容したヨーロッパの宮廷文化が生んだ「発明」でした。一方で、戦国時代の日本酒は、「火入れ」という世界に類を見ない安定化技術を核として、安全な長期保存と広域流通を可能にするという方向性で、きわめて高度な「進化」を遂げていました。
両者は、発酵という共通の自然現象に対し、一方は「再活性化による動的な価値の創造」、もう一方は「沈静化による静的な価値の完成」という、全く異なる思想的アプローチで向き合ったのです。したがって、戦国時代の日本に発泡酒が生まれなかったという事実は、日本の醸造文化の未熟さや劣等性を示すものでは決してありません。むしろそれは、独自の価値観に基づき、ヨーロッパとは異なる技術の頂を極めていたことの、力強い歴史的証左であると言えるでしょう。