戦国日本に伝来した葡萄酒は、外交、権力、信仰の象徴。家康は愛飲。気候・技術・味覚の壁で国産化は明治期まで遅れた。
天文18年(1549年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩の地に降り立ち、領主である島津貴久に一本の葡萄酒を献上した。この出来事は、日本と西洋の葡萄酒が公式に接触した最初の瞬間として、長らく語り継がれてきた 1 。それは、未知なる南蛮文化が日本の歴史の扉を叩いた、象徴的な逸話である。
しかし、この広く知られた物語は、戦国時代における葡萄酒の役割を解き明かす上で、壮大な歴史絵巻の序章に過ぎない。葡萄酒は単なる珍奇な飲み物ではなかった。それは、大航海時代の荒波を越えて日本に到達した、外交の道具であり、権力の象徴であり、そしてキリスト教信仰に不可欠な聖なる液体でもあった。その深紅の色合いには、当時の政治、経済、宗教、そして文化が複雑に映し出されている。
本報告書は、ザビエルの献上という一点から出発し、この異国の酒が戦国日本の社会で果たした多層的な役割を徹底的に調査・分析するものである。一体、誰が、どのような葡萄酒を、なぜ、どのように飲んだのか。そして、その一献が日本社会に何をもたらしたのか。史料の断片を丹念に繋ぎ合わせ、通説の影に隠された葡萄酒の実像に迫る。
戦国時代の日本に現れた葡萄酒は、まず第一に、宣教師たちが布教の許可を得るための極めて重要な「外交的贈答品」としての役割を担っていた。その価値は味覚的なものに留まらず、希少性と異国情緒、そして献上者がもたらす未知の文化の権威を象徴するものであった。
天文18年(1549年)8月、日本人ヤジローの案内で鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエル一行の主目的は、日本におけるキリスト教の布教であった 2 。そのためには、各地を治める大名の許可が不可欠であり、献上品はその交渉を円滑に進めるための重要な手段であった。ザビエルが伊集院の一宇治城で島津貴久に謁見し、日本で初めてキリスト教の正式な布教許可を得たことは、歴史的な事実として記録されている 1 。
この時、ザビエルが貴久に葡萄酒を献上したという逸話は広く知られている。しかし、この謁見の際に葡萄酒が献上されたことを直接的に証明する、同時代の確実な一次史料は限定的である。ザビエルが持参した聖母マリアの絵画を貴久やその母が大変喜び、模写を求めたという記録は存在するが 3 、葡萄酒に関する明確な記述は、日本側の史料には見当たらない。
この記録の非対称性こそが、物語が形成される背景を物語っている。宣教師側の書簡や活動記録全体を俯瞰すれば、葡萄酒がキリスト教のミサに不可欠なものであり 4 、彼らが常に携帯していた蓋然性は極めて高い。しかし、貴久への献上品リストにそれが明確に記されていないという事実との間には、わずかな溝が存在する。この「確実な携帯」と「不確かな献上記録」という史実の隙間が、後世の人々の想像力を掻き立て、「日本最初のワイン献上」という象徴的な物語を生み出す土壌となったのである。これは、歴史的事実を確定する上での史料批判の重要性を示す好例と言える。
鹿児島での布教活動の後、ザビエルは京を目指すが、当時の都は戦乱で荒廃しており、献上品も尽きていたため、天皇や将軍への謁見は叶わなかった 5 。この失敗から、ザビエルは日本の権力構造において、高価な献上品がいかに重要であるかを痛感する。
その教訓は、天文20年(1551年)に周防の山口で大内義隆に再度謁見した際に活かされた。ザビエル一行は正装に身を包み、インド総督の公式文書を携え、大時計、眼鏡、双眼鏡、美しいガラス製品、そして「南蛮酒(ポルトガルワイン)」を含む13品目の豪華な献上品を義隆に贈った 5 。この記録は、ザビエル自身の書簡などに基づいたものであり、戦国大名への葡萄酒献上に関する、極めて確度の高い史料である。
ここで注目すべきは、葡萄酒が献上リストの中でどのような位置づけにあったかである。それは、大時計や眼鏡といった、当時の日本人にとっては驚異的であったであろう西洋の先進技術の産物と並列に扱われている。この事実は、葡萄酒が単なる「飲み物」というカテゴリーを超え、南蛮からもたらされた「文化的威信財」として認識されていたことを示唆している。大内義隆が葡萄酒を受け取った行為は、その味を評価する以前に、遠方の進んだ文化とその担い手である宣教師を受け入れるという、高度に政治的かつ文化的な意思表示であったと解釈できよう。
葡萄酒は、ザビエル以降も宣教師たちの手によって日本にもたらされ続けた。その希少性と異国風の魅力は、天下統一を目指す戦国の覇者たちの関心を引いた。しかし、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三英傑と葡萄酒との関わりは、史料的な確度において大きな隔たりがあり、それぞれの人物像を浮き彫りにしている。
革新的で南蛮文化に強い関心を示した織田信長は、葡萄酒を愛飲した最初の日本の支配者として、しばしば語られる。特に、ポルトガル産の赤ワインを指す「珍陀酒(ちんたしゅ)」を飲み、「血のようだ」と評したという逸話は有名である 6 。
しかし、この有名な逸話を裏付ける同時代の信頼できる史料は、実のところ存在しない 8 。信長と最も親しく接した宣教師の一人であるルイス・フロイスは、永禄12年(1569年)に信長に謁見した際の記録を残している。それによれば、フロイスが献上したのはフラスコに入った「コンフェイトス(金平糖)」と数本のロウソクであり、葡萄酒に関する記述はない 9 。
さらにフロイスは、信長の人物像について「酒を飲まず、食を節する」と記しており、むしろ禁欲的な側面を伝えている 11 。これは、酒豪が多かった当時の武将の中では異例であり、葡萄酒を常飲したという逸話とは明らかに矛盾する。
では、なぜ信長と葡萄酒の物語がこれほど広く信じられるようになったのか。それは、信長の持つ「革新者」「西洋文化の受容者」という強力な歴史的イメージが、証拠の有無を超えて、葡萄酒という南蛮文化の象徴的なアイテムとの結びつきを後世に「創造」させたためと考えられる。人々が信長の先進性に期待し、願望を投影した結果、史実とは異なる「物語」が形成されたのである。信長と葡萄酒の関係は、歴史上の人物がいかにパブリックイメージによって脚色されるかを示す、格好の事例と言えるだろう。
信長の後を継いで天下を統一した豊臣秀吉の時代にも、南蛮貿易は継続され、カステラや金平糖といった南蛮菓子は、権力者の贈答品として一層普及した 4 。
しかし、秀吉個人が葡萄酒を好んで飲んだという直接的な記録は、信長以上に乏しい。天正15年(1587年)にバテレン追放令を発布し、キリスト教を弾圧する一方で、南蛮貿易そのものは継続したため、権力の頂点にあった秀吉が葡萄酒を目にする機会がなかったとは考えにくい。一部には、側近の石田三成らがワインパーティーを開いていたという説も存在するが 14 、これも確証を欠く。秀吉と葡萄酒の関わりは、個人的な嗜好の問題としてよりも、南蛮文化の受容と統制という、彼の時代の大きな文脈の中で捉えるべきであろう。
信長や秀吉とは対照的に、徳川家康が葡萄酒を好んでいたことは、複数の信頼性の高い一次史料によって明確に裏付けられている。彼の葡萄酒への関心は、単なる外交儀礼や好奇心を超えた、個人的な嗜好であったことがうかがえる。
その最も確かな証拠の一つが、慶長10年(1605年)に家康が当時スペイン領であったフィリピンの総督に送った書簡である。その中で家康は、「中に葡萄にて作りたる酒あり、之れを受取りて大いに喜べり」と、葡萄酒の贈り物に対する率直な喜びを記している 15 。
さらに、江戸幕府の公式記録である『徳川実紀』には、慶長14年(1609年)から慶長18年(1613年)にかけて、スペイン領フィリピンの使節などから複数回にわたり葡萄酒が献上されたことが記録されている 15 。また、スペイン国王大使セバスチャン・ビスカイノの航海記にも、家康に葡萄酒2樽(シェリー酒と赤ぶどう酒と推測される)を献上したとの記述が見られる 15 。
家康の葡萄酒愛好を決定づけるのが、元和2年(1616年)に彼が薨去した後の遺品目録『駿府御分物御道具帳』の記述である。その中に、他の貴重な財産と並んで「葡萄酒二壺」が明確に記載されているのだ 15 。これは、葡萄酒が儀礼的な所有物を超え、彼の個人的な愛蔵品であったことを強く示唆している。
これらの記録から浮かび上がるのは、家康の時代に、葡萄酒が宣教師による「一点もの」の贈答品から、国際関係(特にスペインとの交易)の中で定期的に入手される「高級輸入品」へと、その性格を変化させつつあったという事実である。献上されたものの中に「甘い葡萄酒」との記述があることから 9 、彼が好んだのは保存性が高く甘口のシェリー酒のような酒精強化ワインであった可能性が高い。
表1:戦国三英傑と葡萄酒の関係性に関する史料的確度の比較 |
|
|
|
|
武将名 |
関わりを示す逸話 |
根拠となる主要史料 |
史料の性質 |
史料的確度 |
織田信長 |
珍陀酒を愛飲し、「血のようだ」と評した。 |
なし(フロイスの記録では金平糖を献上) 9 |
後世の創作・逸話 |
低 |
豊臣秀吉 |
南蛮文化を享受し、葡萄酒を飲んだとされる。 |
直接的証拠なし 4 |
時代背景からの推測 |
低 |
徳川家康 |
甘口の葡萄酒を愛好し、遺品にも含まれた。 |
自筆書簡、『徳川実紀』、『駿府御分物御道具帳』 15 |
一次史料(公的記録、私的文書) |
高 |
この比較表が示すように、葡萄酒との確かな関係が史料で裏付けられるのは徳川家康のみである。これは、広く流布する通説を史料に基づいて見直すことの重要性を示すと同時に、葡萄酒が日本社会においてその地位を徐々に変えていった過程を物語っている。
戦国時代の人々が「葡萄酒」と呼んだ液体は、一体どのようなものだったのか。その呼称の由来、品質、そして当時の社会における価値を検証することで、異国の酒が持つ実像がより鮮明になる。
戦国時代から安土桃山時代にかけて、ポルトガルからもたらされた赤ワインは「珍陀酒(ちんたしゅ)」または「ちんた酒」と呼ばれていた 14 。この異国風の響きを持つ名称の語源については、いくつかの説があるが、最も有力なのはポルトガル語に由来するというものである。
ポルトガル語で赤ワインは「ヴィーニョ・ティント (vinhotinto)」と言う。この「ティント (tinto)」という部分が、当時の日本人の耳には「ちんた」と聞こえ、それに「珍陀」という漢字が当てられたとする説である 6 。また、ポルトガル語でブドウ園やワイナリーを意味する「キンタ (
quinta)」が転訛したという説も存在する 6 。いずれにせよ、「珍陀」という漢字表記には、音写であると同時に「世にも珍しい陀羅尼(霊薬)のような酒」というニュアンスが込められていた可能性も考えられ、当時の人々がこの酒に抱いた神秘的な印象を伝えている 17 。
我々が現代において楽しむワインと、戦国時代の権力者が口にしたであろう「葡萄酒」は、その品質や味わいにおいて、全くの別物であった可能性が高い。その最大の理由は、大航海時代の輸送技術の限界にある。
ポルトガルから日本への航路は、アフリカの喜望峰を回り、インド洋を越え、赤道を二度通過する、数ヶ月にも及ぶ過酷な旅であった。高温多湿の船倉や激しい揺れは、繊細な醸造酒であるワインにとって致命的であり、多くは輸送中に熱劣化を起こして酸化し、酸っぱい液体(酸敗)へと変質してしまったと考えられる 6 。信長が飲んだとされるワインについて「かなり酸味の強いワインだった可能性がある」という指摘がなされるのは、このためである 6 。
この問題を解決するために重宝されたのが、シェリーやポートワインに代表される「酒精強化ワイン」であった。これらは、醸造の過程でブランデーなどの蒸留酒を添加することでアルコール度数を15%から20%程度に高めており、雑菌の繁殖を抑え、酸化を防ぐ効果があった。そのため、長期の船旅にも耐えることができたのである。徳川家康がフィリピン総督からの贈り物として喜び、遺品にまで残した「甘い葡萄酒」とは 9 、まさにこの種の甘口の酒精強化ワインであった可能性が極めて高い。したがって、当時の人々が珍重した「葡萄酒」とは、現代の一般的な辛口ワインの繊細な風味ではなく、薬酒にも似た、甘く、アルコール度数が高く、濃厚な味わいの液体であったと推測するのが合理的であろう。
戦国時代において、葡萄酒の価値は金銭で測れるものではなかった。当時の一般的な日本酒の価格は、一升あたり70文(現代の価値で約8400円)程度で流通していた記録があるが 18 、葡萄酒はそもそも市場で売買される商品ではなかった。
その入手経路は、宣教師や南蛮商人による大名への献上や贈答に限られており 4 、極めて希少性の高い品であった。その価値は、同じく南蛮渡来の珍品である時計、ガラス製品、ビロード生地、マスケット銃などと同列に扱われ、所有すること自体が、異文化にアクセスできる者の権力と先進性を誇示するステータスシンボルであった 5 。砂糖が信長によって戦略的に家臣に分け与えられたように 21 、葡萄酒もまた、為政者がその希少性を政治的に利用する側面を持っていたのである。
ヨーロッパから伝来した葡萄酒は、日本の土壌に根付いていた古来の葡萄文化や、新たにもたらされたキリスト教信仰と交錯し、独自の文脈を形成していった。それは、単なる文化の「輸入」に留まらない、複雑な受容と変容の物語である。
キリスト教、特にカトリックの典礼において、葡萄酒は極めて重要な意味を持つ。最後の晩餐に由来するミサ(聖餐式)では、パンが「キリストの体」、葡萄酒が「キリストの血」の象徴(聖体・聖血)とされ、信者がこれを拝領することは信仰の中心的な儀式であった 4 。
日本でのキリスト教布教が拡大するにつれ、各地の教会で執り行われるミサの回数も増加し、それに伴って葡萄酒の需要は必然的に高まった。しかし、ヨーロッパからの輸入品は高価で入手も不安定であり、常にそれに頼ることは困難であった。
この問題を解決するため、当時の宣教師やキリシタンたちが、日本に自生する山葡萄を原料として、ミサに用いるための代用酒を醸造していた可能性が指摘されている 24 。熊本大学の研究では、肥後地方のキリシタンの間で飲まれていた「葡萄酒」は、輸入されたものではなく、山葡萄を発酵させた醸造酒であった可能性が示唆されている 24 。これは、外来の宗教儀式を日本で実践するために、日本の在来資源を用いた「代替品の創造」、すなわち文化のローカライゼーション(土着化)が起きていたことを示す興味深い事例である。宮崎県のワイナリーが九州地方の方言で山葡萄を意味する「がらみ」の名を冠して再現した「伽羅美酒」は、こうした歴史的背景を持つ酒を現代に伝える試みと言える 15 。
一方で、日本には西洋のワイン文化が伝来するより遥か以前から、独自の葡萄栽培の歴史が存在した。特に甲州(山梨県)では、日本固有の品種である「甲州」種が、鎌倉時代、あるいはそれ以前の奈良時代から栽培されていたという伝説が残っている 25 。
甲州市にある大善寺の本尊、薬師如来像が薬壺の代わりに右手に一房の葡萄を持っていることは、この地における葡萄と信仰の古くからの結びつきを象徴している 27 。この像の由来は、奈良時代の僧・行基が夢告により葡萄栽培をこの地に伝えたという伝説と結びついており、葡萄が単なる果物ではなく、薬効を持つ貴重なものとして認識されていたことを示している 28 。
戦国時代に入ると、甲斐国では武田信玄も葡萄を食し、献上されていたという伝承が残っている 28 。また、この時期に活躍したとされる医師・永田徳本が、竹を用いた「甲州式葡萄棚」と呼ばれる棚栽培の技術を広め、葡萄の生産性を向上させたと伝えられている 27 。このように、戦国時代の日本には、すでに葡萄を栽培し、それを薬や食料として利用する文化的な素地が存在していたのである。
日本には古くからの葡萄栽培の歴史があり、戦国時代には南蛮人によってワインそのものももたらされた。にもかかわらず、なぜ日本では明治時代になるまで本格的なワイン醸造が根付かなかったのか。その理由は、技術、気候、そして味覚という三つの大きな壁に集約される。
第一に、気候の壁である。ヨーロッパの主要なワイン産地が比較的乾燥しているのに対し、日本の夏は高温多湿である。このような環境は、ワインの醸造・発酵過程で雑菌が繁殖しやすく、また完成したワインの貯蔵にも適さない。不慣れな技術で醸造を試みても、飲料に耐えうる品質のワインを安定して造り出すことは極めて困難であった 29 。
第二に、技術の壁である。日本の伝統的な酒造りは、米を原料とし、麹菌の糖化作用と酵母のアルコール発酵を同時に行う「並行複発酵」という高度で複雑な技術に基づいていた。一方、ワイン醸造は、葡萄果汁に含まれる糖分を酵母が直接アルコールに変える「単発酵」であり、根本的に微生物の利用法が異なる 30 。麹菌を使いこなす知見はあっても、ワイン酵母に関する知識や純粋培養の技術はなく、安定した醸造は望めなかった。
第三に、味覚の壁である。当時の日本人が親しんでいたのは、米由来の甘みやうまみを持つ日本酒であった。ワイン特有の酸味や渋みは、多くの日本人にとって馴染みのない、受け入れがたい味わいであったと考えられる 25 。明治時代にワインが導入された当初も、その酸味ゆえに砂糖や蜂蜜を加えて「甘味葡萄酒」としなければ普及しなかったという事実は、この味覚の壁がいかに高かったかを物語っている 29 。
原料(葡萄)は存在したにもかかわらず、ワイン醸造が定着しなかったのは、日本の食文化が長年かけて最適化してきた「米と麹菌」という技術的・文化的経路から、ワインが大きく逸脱していたためである。この三重の壁を乗り越えるには、明治期の殖産興業という国家的な後押しを待たねばならなかった。
戦国時代の「南蛮の酒」を語る上で、ポルトガル人がもたらした葡萄酒とは別に、もう一つの系統が存在したことを認識する必要がある。それは、琉球王国を経由して東南アジアから伝わった「南蛮酒」である。
当時の琉球は、シャム(現在のタイ)やマラッカなどと活発な中継貿易を行っており、その中でヤシやサトウヤシの樹液などを原料とする蒸留酒(アラックなどに類する酒)を輸入していた 31 。この酒は、15世紀の朝鮮の記録に「南蛮国酒」として登場し、「色は黄で、味は焼酒(焼酎)に似ており、非常にきつく、数杯飲むと大いに酔う」と描写されている 31 。
特筆すべきは、この酒がしばしば「南蛮国薬酒」と呼ばれていたことである 31 。中国の薬学書『本草綱目』には、シャムの酒が焼酒(蒸留酒)をさらに蒸留し、香料や薬草を加えて造るという記述があり、強い芳香を持つ薬酒として認識されていたことがわかる 31 。
これは、葡萄を原料とする醸造酒である「葡萄酒」とは、原料も製法も全く異なるアルコール飲料である。しかし、どちらも「南蛮」から渡来した珍しい酒として、当時の人々、あるいは後世の研究において混同される可能性があった。戦国時代の酒文化を正確に理解するためには、ヨーロッパ由来の「葡萄酒」と、東南アジア由来の蒸留酒である「南蛮酒」とを明確に区別することが不可欠である。
本報告書で詳述してきたように、戦国時代の「葡萄酒」は、単一のイメージで語り尽くせる存在ではない。それは、フランシスコ・ザビエルによってもたらされた外交の切り札であり、大内義隆が受け入れた先進文化の象徴であった 5 。また、織田信長の革新的なイメージを彩る幻影であり 9 、そして徳川家康がその甘美な味わいを愛した、史料に残る確かなる嗜好品でもあった 15 。
同時に、葡萄酒はキリシタンたちにとっては信仰に不可欠な聖なる液体であり、その宗教的需要は、日本在来の山葡萄を用いた代用品の醸造という、文化の土着化さえ促した 24 。その一方で、日本には古来の葡萄栽培の伝統がありながらも、ヨーロッパとは異なる気候、未熟な醸造技術、そして日本人の味覚という三重の壁に阻まれ、ワイン造りの文化はついに根付くことがなかった 29 。
戦国時代において、葡萄酒が日本社会に広く浸透することはなかった。その享受は、ごく一部の権力者やキリシタンに限られていた。しかし、その限定的な存在であったからこそ、葡萄酒は時代の特質を鮮やかに映し出す鏡となった。それは、大航海時代のグローバルな文化交流の波が日本の岸辺に打ち寄せた確かな痕跡であり、異文化と接触した際の日本の権力者の反応、宗教的実践の葛藤、そして日本と世界の技術的・文化的差異を如実に物語っている。
日本人が自らの手で葡萄酒を本格的に造り、社会に普及させるようになるのは、二百年以上にわたる鎖国の時代が終わり、国家主導で西洋文化が導入される明治時代を待たねばならなかったのである。戦国時代の一献の葡萄酒は、その後の長い歴史の伏線となる、遠い異国の香りを運ぶ一滴であった。