越前「豊原」は白山豊原寺と銘酒「豊原酒」の複合体。朝倉氏と共闘し繁栄するも、信長の兵火で滅亡。その記憶は現代の酒に受け継がれ、戦国の興亡を語る。
越前の地に、かつて「豊原」という名で知られた存在があった。それは単に一つの酒の銘柄を指す言葉ではない。戦国という激動の時代において、宗教的権威、経済的繁栄、そして軍事的な緊張が交錯する、一つの文化圏そのものであった。本報告書は、利用者様の探求に応えるべく、「豊原」が白山豊原寺という大寺院、その門前で醸された銘酒「豊原酒」、そして戦乱の渦中で重要な役割を担った土地という、三つの側面が不可分に結びついた複合的歴史存在であったという視座に立つ。
この分析を通じて、戦国時代というレンズを通して「豊原」の栄華と没落の全貌を、宗教、経済、軍事という三つの側面から立体的に解き明かすことを目的とする。一杯の酒の背後に広がる、権門寺院の興亡、技術革新の光、そして戦国武将たちの野望が織りなす壮大な物語を紐解いていく。
なお、本報告書の調査対象は、越前国坂井郡(現在の福井県坂井市)に存在した白山豊原寺、およびそれに関連する事象に限定する。北海道札幌市に現存する同名の寺院は、真宗大谷派に属し、歴史的連続性を持たないため、本稿の対象外であることを予め明記しておく 1 。
白山豊原寺の歴史は、奈良時代にまで遡る。伝承によれば、大宝二年(702年)、越前の修験者であった泰澄大師が、霊峰白山への信仰の拠点として開創したと伝えられる 5 。泰澄は自ら十一面観音像を刻んで本尊とし、豊原八社権現を祀る神仏習合の寺院としてその礎を築いた 7 。平安時代に入ると天台宗の寺院となり、同じく白山信仰の拠点であった平泉寺(現・福井県勝山市)と共に、越前における白山信仰の二大拠点「越前馬場」として、絶大な権勢を誇るようになる 7 。
その権勢を支えたのは、強固な経済的・軍事的基盤であった。平安時代には、藤原利仁やその子孫である藤原以成といった有力者から多くの荘園が寄進され、寺院の経済力は飛躍的に増大した 7 。これにより、豊原寺は単なる信仰の場に留まらず、広大な寺領を経営する一個の荘園領主としての性格を強めていく。
室町時代にはその繁栄は頂点に達し、「豊原三千坊」と称されるほど多くの僧坊が山間に立ち並んだ 5 。この言葉は、単に建物の多さを示すだけでなく、そこに居住する多数の僧侶や、彼らが形成する強大な組織力を象徴している。豊原寺は多くの僧兵を擁し、源平合戦では木曽義仲に味方し、南北朝の動乱では守護の斯波氏を助けるなど、時の権力抗争にも積極的に関与した 6 。これは、豊原寺が自らの権益を守り、勢力を拡大するためには武力行使も辞さない、自立した権門であったことを明確に示している。
寺院の繁栄は、門前町の賑わいにも現れていた。門前では定期的に市が開かれ、多くの人々で賑わった。特筆すべきは、甲冑師や鍛冶師といった武具職人が集住していた点であり、これは豊原寺が擁する僧兵の武力を維持・強化するための生産拠点としての役割も担っていたことを示唆している 5 。宗教的権威を核としながら、経済力と軍事力を両輪として発展した白山豊原寺は、戦国時代を迎えるにあたり、越前において無視できない一大勢力となっていたのである。
豊原寺の繁栄を象徴するもう一つの顔が、僧坊酒「豊原酒(ほうげんしゅ)」の存在である。本来、仏教の戒律では飲酒は禁じられている(不飲酒戒) 8 。しかし、日本では神仏習合の過程で、神への献上物として酒が重要視され、寺院内で酒が造られることは珍しくなかった 9 。さらに、荘園から上納される豊富な米を元手に酒を醸造し、それを販売することは、寺院にとって重要な財源確保の手段となっていた 11 。こうして、中世の有力寺院は競って高品質な酒造りに取り組み、「僧坊酒」と呼ばれる銘酒を次々と生み出していったのである 13 。
「豊原酒」に関する直接的な醸造記録は現存しないものの、その技術水準は極めて高かったと推論できる。その根拠は、同時代の文献において、当代随一とされた他の銘酒と肩を並べる存在として言及されている点にある。例えば、室町時代の知識人である一条兼良が著したとされる往来物(手紙文例集)『尺素往来』には、「兵庫、西宮の旨酒、及び越州豊原、賀州宮腰等」という一節がある 14 。これは、「豊原酒」が、当時最高の酒とされた摂津の西宮や兵庫の酒、加賀の宮腰の酒と並び称される、全国区のブランドであったことを証明している 16 。
これほどの評価を得ていたからには、その醸造技術もまた、当時の最先端であったと考えるのが妥当である。室町時代の先進的な酒造りでは、現代の清酒醸造の基礎となる数々の革新的な技術が確立されていた。具体的には、麹米と掛米の両方に精白米を用いることで雑味のないクリアな酒質を実現する「諸白(もろはく)造り」 17 、醪(もろみ)を数回に分けて仕込むことで安定した発酵を促す「段仕込み」 11 、そして低温加熱殺菌によって酒の劣化を防ぎ、長期保存を可能にする「火入れ」といった技術である 19 。
特に、奈良・菩提山正暦寺で造られた「菩提泉(ぼだいせん)」は、生米を水に浸して乳酸菌を繁殖させ、その酸性水を用いて酒母(しゅぼ)を造る「菩提酛(ぼだいもと)」という画期的な製法を生み出した 8 。これにより、有害な雑菌の繁殖を抑え、優良な酵母だけを安全に培養することが可能となり、酒造りの安定性と品質は飛躍的に向上した 19 。全国にその名を轟かせた「豊原酒」が、こうした同時代の最高水準の技術を取り入れ、旧来の濁り酒とは一線を画す、洗練された味わいの「清酒」であったことは、ほぼ間違いないであろう。豊原寺が持つ潤沢な米、労働力、そして知識が集積する環境が、この銘酒を生み出す土壌となったのである。
「豊原酒」の歴史的・技術的な位置づけを客観的に理解するため、同時代に名を馳せた他の主要な僧坊酒と比較分析したものを下表に示す。これにより、現存しない「豊原酒」の姿をより立体的に浮かび上がらせることができる。
銘柄名 |
生産寺院(所在地) |
宗派(関連信仰) |
推定される技術的特徴 |
味の傾向(文献・現存品からの推測) |
主な言及文献 |
豊原酒 (ほうげんしゅ) |
白山豊原寺(越前) |
天台宗(白山信仰) |
諸白造り、段仕込み、火入れ |
洗練された芳醇旨口 |
『尺素往来』 |
菩提泉 (ぼだいせん) |
正暦寺(大和) |
真言宗 |
菩提酛(乳酸発酵利用)、諸白造り、段仕込み、火入れ |
濃醇で複雑な酸味と甘み 24 |
『御酒之日記』、『多聞院日記』 |
天野酒 (あまのさけ) |
金剛寺(河内) |
真言宗 |
諸白造り、段仕込み |
濃厚な甘口 27 |
『多聞院日記』 |
百済寺酒 (ひゃくさいじしゅ) |
百済寺(近江) |
天台宗 |
諸白造り |
不明 |
『尺素往来』 |
多武峯酒 (とうのみねしゅ) |
談山神社(大和) |
(神仏習合) |
諸白造り |
不明 |
『尺素往来』 |
戦国時代の越前は、複数の宗教勢力が複雑に絡み合い、緊張関係を形成していた。その中でも最大の対立軸は、白山信仰を背景とする天台宗系の寺院勢力と、隣国・加賀から急速に勢力を拡大してきた浄土真宗本願寺派(一向一揆)であった 29 。豊原寺は、同じく白山信仰の拠点である平泉寺と共に、前者の代表格であり、越前の支配者である守護大名・朝倉氏と密接な関係を築くことで、その存続を図っていた 30 。
この協力関係が最も顕著に現れたのが、永正三年(1506年)に勃発した九頭竜川の戦いである。加賀の一向一揆勢力が大軍を率いて越前に侵攻した際、豊原寺は平泉寺と共に朝倉貞景の軍に加わり、一揆軍と激しく戦い、その勝利に貢献した 7 。この戦いの後も、豊原寺は一揆軍の標的となり攻撃を受けるが、塔頭(たっちゅう)の明王院や華蔵院の僧兵たちの奮戦と朝倉軍の援軍によって、これを撃退している 7 。
これらの事実は、豊原寺の立場を明確に物語っている。彼らは、自らの宗教的信条や寺領の権益を守るため、越前の政治的・軍事的秩序を維持しようとする朝倉氏と運命を共にすることを選択した。豊原寺にとって、一向一揆は単なる宗教上のライバルではなく、自らの存立基盤そのものを脅かす敵対勢力であり、その侵攻を阻止することは、寺院の死活問題であった。こうして、豊原寺は朝倉氏の支配体制に深く組み込まれ、その庇護の下で安定を享受していたのである。
豊原寺の運命を決定的に変えたのは、天正元年(1573年)8月の織田信長による越前侵攻であった。この戦いで、100年以上にわたり越前を支配してきた朝倉義景が滅亡し、豊原寺は最大の庇護者を一挙に失うことになった 31 。越前に生じた巨大な権力の空白は、瞬く間に新たな混乱を呼び起こす。信長は当初、朝倉氏の旧臣である桂田長俊を守護代に任じて越前を統治させようとしたが、彼の統治は他の旧臣たちの反発を招き、翌天正二年(1574年)には富田長繁が扇動した土一揆によって殺害されてしまう 33 。
この混乱に乗じて越前を完全に掌握したのが、他ならぬ一向一揆勢力であった。長年の宿敵であった一揆勢の支配下に入った豊原寺は、もはや抵抗する術を持たなかった。一揆軍に攻め込まれた豊原寺は降伏を余儀なくされ、あろうことか、一揆軍の主要な軍事拠点として利用されることになったのである 32 。特に、一揆軍の司令官の一人である下間頼照が豊原寺に本陣を置いたという事実は、豊原寺が単なる兵の駐屯地ではなく、一向一揆による越前支配の中枢、すなわち「敵軍の司令部」へと完全に変貌したことを意味している 32 。
この運命の転換が、豊原寺の悲劇的な結末を決定づけた。天正三年(1575年)8月、織田信長は、自らに反旗を翻した越前の一向一揆を根絶やしにするため、大軍を率いて越前に再侵攻する。信長の目的は、宗教勢力の弾圧そのものではなく、自らの天下統一事業に敵対する武装勢力の物理的な殲滅にあった。彼の行動原理は、極めて合理的かつ非情な軍事思想に基づいている。
信長軍の前に一揆勢は総崩れとなり、各地で凄惨な殺戮が繰り広げられた 33 。そして同年9月2日、信長の矛先は豊原寺に向けられた。この時、信長が攻撃対象としたのは、泰澄大師が開いた天台宗の名刹としての豊原寺ではなかった。彼が目標としたのは、敵将・下間頼照が本陣を構える「一向一揆軍の要塞」であった。結果、信長軍の総攻撃を受けた豊原寺は、山内の堂塔伽藍ことごとくが焼き払われ、灰燼に帰した 5 。
豊原寺の滅亡は、自らの宗教的信条によって信長に敵対した結果ではない。それは、依存していた政治権力(朝倉氏)の崩壊という外部要因によって、否応なく敵対勢力(一向一揆)の渦に巻き込まれ、最終的に新たな天下人(織田信長)の合理的な軍事行動の対象となった、戦国期における中間勢力の悲劇の典型例であったと言えるだろう。
天正三年の焼き討ちによって壊滅的な打撃を受けた豊原寺であったが、その法灯が完全に途絶えたわけではなかった。焼き討ち後、豊原の地は柴田勝家の甥である柴田勝豊に与えられ、彼は当初、豊原寺の跡地に城を築いたとされるが、翌年には丸岡に本拠を移している 5 。その後、江戸時代に入ると、豊原寺は歴代の福井藩主や丸岡藩主の保護を受け、中心的な僧坊であった華蔵院(けぞういん)によって限定的ながら再興が図られた 5 。結城秀康から50石の寺領を寄進されるなど、白山信仰の拠点としての地位はかろうじて保たれたものの、かつての「豊原三千坊」と謳われた威勢を取り戻すには至らなかった 7 。
そして、明治維新が豊原寺にとどめを刺す。明治政府が発した神仏分離令は、神仏習合の形態を色濃く残していた豊原寺の存立基盤を揺るがした。さらに追い打ちをかけるように、明治二年(1869年)、再興の中心であった華蔵院が火災で焼失 5 。これにより、豊原寺はついにその維持が不可能となり、分離された白山神社のみを残して、泰澄大師の開基から1167年にわたる歴史に幕を下ろし、廃寺となったのである 5 。
寺院の消滅は、地域の衰退と連動していた。山上にあった豊原村の住民も次々と山を下り、過疎化が進行。そして昭和三十八年(1963年)の豪雪(三八豪雪)が最後の引き金となり、集落は廃村となった 5 。こうして、物理的な存在としての「豊原」は、歴史の彼方へと完全に姿を消した。
しかし、その記憶はかろうじて現代に繋がれている。信長の兵火を免れたいくつかの仏像や、『白山豊原寺縁起』といった貴重な史料は、還俗して豊原姓を名乗った旧華蔵院の院主の子孫である豊原家によって、今日まで大切に守り継がれてきた。そして2010年、豊原家は私設の「豊原三千坊史料館」を開設し、往時の栄華を伝える仏像群を公開している 5 。物理的には滅びた豊原寺の記憶は、人々の尽力によって、今なお静かに語り継がれているのである。
豊原寺と共に、銘酒「豊原酒」もまた、天正三年の兵火によってその醸造の歴史を断たれた。しかし、物理的に失われた後も、その名は人々の記憶の中で生き続けた。それは単なる過去の酒ではなく、越前の地が誇るべき「伝説の銘酒」として、高品質な酒の代名詞として語り継がれていったのである。
その事実を何よりも雄弁に物語る、驚くべき歴史的出来事が存在する。焼き討ちから実に178年の歳月が流れた江戸時代中期の宝暦三年(1753年)のことである。当時の越前丸岡藩主が、地元の酒造家であった久保田家に対し、「失われた室町時代 伝説の酒『越前豊原の酒』をふたたび」という、極めて明確な使命を与えて酒蔵を創業させたのである 35 。これが、現在も続く久保田酒造のはじまりであった。
この事実は、驚嘆に値する。二世紀近くもの時を経てもなお、「豊原酒」のブランド価値が少しも色褪せることなく、藩主自らがその「再興」を命じるほどに絶大であったことを示している。これは単なる懐古趣味ではない。藩主の狙いは、かつての栄光のシンボルを復活させることで、地域の活性化を図り、藩の威信を高めるという、経済的・政治的な意図にあったと推察される。
つまり、「豊原」の名、特に「豊原酒」の伝説は、地域の誇りと経済的価値を体現する強力な文化的シンボルとして機能し続けていたのである。たとえ寺院が灰燼に帰し、酒蔵が失われても、その名声という無形の文化遺産は人々の心に深く刻まれ、新たな創造の源泉となった。この一点をもってしても、「豊原」が歴史に遺した影響の大きさを測ることができるだろう。
本報告書で詳述してきたように、越前の「豊原」は、単一の事象で語り尽くせる存在ではない。それは、白山信仰を核とする宗教センターであると同時に、数千の僧兵を擁する独立した軍事勢力であり、そして全国に名を馳せた銘酒「豊原酒」を生み出す先進的な経済・技術主体でもあった。これら三つの顔を持つ、極めて複合的な権門であった。
その栄華と悲劇的な末路は、戦国時代という時代の特質を鮮やかに映し出している。中世を通じて強大な力を誇った寺社勢力が、いかに地域の政治・経済に深く根を下ろしていたか。そして、織田信長に代表されるような、旧来の権威を意に介さない中央集権的な新たな権力者の前では、その伝統と権威がいかに脆く、政治的・軍事的状況の激変によって一瞬にして失われうるものであったか。「豊原」の物語は、その歴史的現実を生々しく我々に突きつける。
一杯の酒の存在から始まったこの探求は、結果として、中世日本の宗教、経済、そして戦争のダイナミズムが凝縮された、一つの権門寺院の壮大な興亡史へと繋がった。物理的には滅び去った「豊原」であるが、その記憶とブランドは文化的遺伝子として後世に受け継がれ、新たな創造の種となった。その歴史的意義は、今なお我々に多くの示唆を与え続けている。