雲鶴匹田筒は、戦国武将と京商人の美意識が交錯する高麗茶碗の至宝。信長に「初花」を献上しつつも秘蔵された逸話を持つ。
本報告書は、「雲鶴匹田筒(うんかくひきたづつ)」と銘打たれた一碗の茶碗を主題とする。この茶碗は、単なる喫茶の器ではない。それは戦国から江戸、そして現代へと至る日本の歴史の潮流を映し出す鏡であり、時代の権力構造、美意識の変遷、そして文化のダイナミズムを内包する、極めて重要な文化遺産である。その流転の物語を丹念に紐解くことで、我々は器物一つが内包しうる歴史の重層性と、それを見出した人々の精神世界に迫ることができる。
室町時代末期から桃山時代にかけて、日本の茶の湯は大きな転換期を迎えた。中国から渡来した精緻で華やかな「唐物」を至上とする価値観から、より内省的で簡素な美を尊ぶ「侘び茶」の精神が興隆したのである 1 。この美意識の変革の中で、日本の茶人たちは新たな美の対象を見出した。それが、朝鮮半島で焼かれた、名もなき陶工たちによる日常雑器、すなわち「高麗茶碗」であった 2 。彼らは、その歪みや土の景色、素朴な佇まいの中に、完全無欠な唐物にはない、奥深い美しさ、すなわち「侘び」の体現を見出したのである 3 。
本報告書が光を当てる「雲鶴匹田筒」は、この高麗茶碗の中でも特に古格を誇り、戦国時代の動乱期において特異な逸話を持つ一碗である。第一章では、まずこの茶碗の源流である高麗象嵌青磁の技術と美学を解き明かし、その造形的な特徴を分析する。第二章では、時代を戦国に移し、茶道具が政治的価値を帯び、権力の象徴となっていった背景、特に織田信長による「名物狩り」という特異な文化政策を考察する。第三章では、本報告書の中心人物である京の豪商・匹田宗観に焦点を当て、彼が天下の名物「初花肩衝」を信長に献上する一方で、この「雲鶴匹田筒」を秘蔵したという逸話の深層に迫り、そこに込められた美意識と価値観を読み解く。第四章では、戦国の世を生き延びたこの茶碗が、江戸時代を経て現代に至るまでの流転の伝来を追い、その所有者たちがこの一碗に何を見出したのかを探る。最後に、これらの考察を総括し、「雲鶴匹田筒」という一碗の茶碗が語りかける、多元的な価値とその現代的意義について結論づける。
「雲鶴匹田筒」の美しさと価値を理解するためには、まずその出自、すなわち高麗王朝末期に花開いた象嵌青磁の技術と、日本の茶人たちがその中に見出した独自の美学に遡る必要がある。この茶碗は、高麗の陶工が生み出した技術の結晶であり、同時に日本の美意識によって新たな生命を吹き込まれた文化の混血児でもある。
「雲鶴匹田筒」は、朝鮮半島で焼かれた茶碗としては最も古い部類に属し、その製作年代は高麗時代末期まで遡ると考えられている 4 。この時代の朝鮮半島で隆盛を極めたのが、高麗青磁と呼ばれる美しい青磁であり、その中でも特に独創的な技法として知られるのが「象嵌青磁」である。これは、生乾きの素地の表面に文様を彫り込み、その凹部に白土や赭土(黒土)を埋め、余分な土を掻き落とした後に青磁釉を掛けて焼成する技法である 4 。この技術により、青磁の翡色(ひしょく)の地に、白や黒の文様がくっきりと浮かび上がる、絵画的な表現が可能となった。
盛期の高麗青磁に見られる象嵌文様は、極めて精緻で洗練されたものであった。しかし、「匹田筒」に見られる文様は、それらと比較するとやや大らかで、ある種の素朴さを湛えている 4 。例えば、胴部に描かれた鶴の姿は写実的というよりは稚拙とも言えるほどに簡略化されている 4 。だが、この技術的な「粗略さ」や「大まかさ」こそが、後の日本の茶人たちの心を捉えた。完成され尽くした完璧な美よりも、不完全さの中にこそ味わいや温かみを見出す「侘び」の精神と、この高麗の器が持つ素朴な風情は、期せずして共鳴したのである。高麗では日常の器であったかもしれないこの一碗が、日本では至上の茶道具として評価された背景には、器そのものの魅力に加え、それを受け入れる側の日本の美意識がいかに決定的な役割を果たしたかが示されている。
「雲鶴匹田筒」は、その意匠から二つの主要な様式名で呼ばれる。一つは、胴部に四羽描かれた鶴の文様に由来する「雲鶴」である 4 。鶴と雲の組み合わせは、高麗青磁の象嵌文様としてしばしば見られる吉祥文様である 2 。特にこの茶碗は、後の江戸時代初期に日本からの注文によって釜山窯などで焼かれた「御本立鶴(ごほんたちづる)」茶碗と区別するため、「古雲鶴(こうんかく)」と称される 4 。この区別は、この茶碗がより古い時代、すなわち日本の茶人の嗜好が反映される以前に作られたものであることを示唆しており、その古格を物語る上で重要な呼称である。
もう一つの名は「狂言袴(きょうげんばかま)」である 4 。これは、鶴の文様と交互に四つ配された二重丸の菊文様が、当時の狂言師が着用した袴の文様に似ていたことから名付けられた 2 。一つの茶碗が「雲鶴」と「狂言袴」という、高麗象嵌青磁を代表する二つの様式名を併せ持つ事実は、この一碗がそれぞれの様式の特徴を顕著に備えた稀有な作例であり、茶人たちが多様な見所を見出していたことの証左である。単一の分類に収まらない多面的な魅力こそが、この茶碗の評価を一層高める要因となった。茶の湯における「見立て」の文化において、豊かな解釈を許容する意匠は、それ自体が計り知れない価値を持っていたのである。
「雲鶴匹田筒」の物理的な特徴は、その美学を裏付ける具体的な証拠を提供している。
表1:雲鶴匹田筒の基本情報
項目 |
寸法/重量 |
典拠 |
高さ |
7.7~8.0 cm |
4 |
口径 |
8.2~8.5 cm |
4 |
高台外径 |
5.9~6.0 cm |
4 |
高台高さ |
0.6~0.7 cm |
4 |
重さ |
220 g |
4 |
この茶碗は、総体に薄く作られており、きりりと引き締まった筒形でありながら、硬質な印象を与えない 4 。その理由は、製作過程で生まれた「意図せざる美」にある。薄手の素地に象嵌を施す際、文様を押し付けた部分がわずかにへこみ、器の側面全体に微妙な凹凸、すなわち「ゆらぎ」を生んでいる 4 。口作りも完全な正円ではなく、この凹凸に応じてわずかに歪んでいるが、それがかえって生硬になりがちな筒形の姿に、柔和で温かい趣を与えているのである 4 。
文様の配置も計算されている。胴部には飛鶴紋と二重丸に菊の文様がそれぞれ四つずつ交互に配され、高台脇には簡略化された蓮弁文が巡らされている 4 。これらの白と黒の象嵌文様は、落ち着いた青灰色の釉薬によく映え、器全体に新鮮で明るい印象を与える 4 。作り手の意図を超えた偶発的な要素、すなわち茶の湯で「景色」と呼ばれるものを尊ぶ美学が、ここには見事に体現されている。完璧な造形ではなく、土と炎と人の手が織りなす「ゆらぎ」の中にこそ、この茶碗の真の美は見出されるのである。
「雲鶴匹田筒」がその物語性を最も豊かにする時代、それが戦国時代である。この時代、茶の湯は単なる文化的趣味の域を超え、政治、外交、そして権力そのものと深く結びついていた。この一碗の茶碗の運命を理解するためには、当時の武将たちが茶道具に求めた多元的な価値と、織田信長が展開した特異な文化戦略を避けて通ることはできない。
戦国時代、優れた茶道具、すなわち「名物(めいぶつ)」は、土地や金銀に代わる、あるいはそれを凌駕するほどの価値を持つ最高の恩賞と見なされた 8 。その価値は絶大で、一つの茶入が城一つに匹敵するとさえ言われたのである 8 。武将たちは、茶会で入手した名物を披露することで自らの権威と財力を誇示し、社会的地位を確立しようとした 9 。
茶会はまた、武将たちにとって極めて重要な政治的・社会的な空間でもあった。それは、敵味方が一堂に会する社交場であり、情報交換の場であり、時には天下の趨勢を左右する密談の場としても機能した 10 。名物茶器は、こうした政治の舞台で重要な役割を果たした。恭順の意を示す際や和睦の証として献上され、外交の道具として用いられたのである 9 。
一方で、茶の湯は武将たちにとって精神的な支柱でもあった。明日をも知れぬ戦場の殺伐とした日常の中で、一碗の茶と向き合う静かな時間は、精神を統一し、平常心を取り戻すための貴重な機会であった 11 。彼らが名物を渇望した理由の一つには、本物の道具だけがもたらす深い精神的な満足感と癒しを求めた側面もあったのである 11 。
この茶道具の政治的価値を最大限に利用し、自らの支配体制の確立に用いたのが、織田信長であった。信長は畿内を平定する過程で、服従させた大名や有力な商人、寺社から、その証として高名な茶道具を強制的に献上させた。これは「名物狩り」として知られている 11 。
しかし、信長の政策は単なる美術品の収集に留まらなかった。それは、文化的な価値を定義し、その分配を独占することによって、新たな支配体制を構築しようとする、極めて高度な政治戦略であった。信長は、千利休をはじめとする当代一流の茶人を茶頭(さどう)として重用し、彼らに名物の鑑定を行わせることで、その価値に「お墨付き」を与えた 8 。そして、家臣が功を挙げた際の恩賞として、土地の代わりにこれらの名物を与え、さらには茶会を催すこと自体を許可制にしたのである 8 。
この一連の政策が意味するものは大きい。まず、領地には限りがあるが、名物であれば価値を「創造」することが可能であり、恩賞の源泉を無限にすることができた 8 。次に、家臣たちは信長から名物を拝領し、茶会への参加を許されることを無上の名誉と感じるようになった。これにより、武力や経済力といった従来の権力基盤に加え、「文化的な価値を定義し、分配する権利」という新たな権力、すなわち「文化資本」が信長のもとに集中した。名物茶器は、この新しい支配システムの通貨として機能し、家臣たちは茶の湯という共通の価値観を通じて、信長を頂点とする強固なヒエラルキーの中に組み込まれていったのである。これは物理的な支配に留まらない、価値観を通じた精神的な支配であり、信長の革新的な統治術の核心をなすものであった。
戦国の覇者・織田信長が推し進めた「名物狩り」の渦中に、一人の京商人がいた。その名は、大文字屋匹田宗観(ひきたそうかん)。彼と彼が所有した二つの名物、すなわち「初花肩衝」と「雲鶴匹田筒」を巡る逸話は、信長の巨大な権力と、一茶人の間に生まれた美意識の交錯と葛藤を、鮮やかに描き出している。
匹田宗観は、戦国時代の京都において大きな影響力を持った豪商であり、屋号を「大文字屋」と称した 4 。彼は単なる富裕な商人ではなく、茶の湯の世界においても高名な人物であった。その系譜は、侘び茶の祖と仰がれる村田珠光の弟子・松本宗護の、さらにその弟子にあたる 4 。この事実は、宗観が単なる道具の収集家ではなく、侘び茶の精神性を深く理解し、実践する本格的な茶人であったことを物語っている。戦国時代の京都や堺では、宗観のような豪商が経済力のみならず、文化の担い手としても重要な役割を果たしており、彼らは武将たちにとっても無視できない存在であった 11 。
宗観が所有していた数々の名物の中でも、ひときわ輝きを放っていたのが、唐物肩衝茶入「初花(はつはな)」であった。この茶入は、「楢柴肩衝」「新田肩衝」と並び「天下三肩衝」と称される、中国(南宋もしくは元時代)で焼かれた茶入の最高峰の一つである 15 。その優美な姿と釉景は、足利義政によって春先に咲く初花になぞらえて命名されたと伝えられる、まさに天下の名宝であった 16 。
永禄12年(1569年)、天下布武を進める織田信長は、その権威の象徴として名物の収集を開始する。この「名物狩り」の最初の標的の一つとして白羽の矢が立ったのが、宗観が所持する「初花」であった 17 。抗う術もなく、宗観はこの大名物を信長に献上した 4 。この出来事は、信長の権力が、もはや京都の豪商たちの懐深くにまで及んだことを天下に示す、象徴的な事件であった。
ここで、歴史は興味深い一節を伝える。天下第一の茶入と謳われた「初花」を信長に差し出した宗観であったが、彼が所有していたもう一つの名品、「雲鶴匹田筒」だけは深く秘蔵し、手放さなかったというのである 4 。この宗観の選択は、何を意味するのか。
ここに、二つの名物の出自の違いが重要な意味を持つ。献上された「初花」は、誰もがその価値を認める唐物(中国製)の茶入であり、豪華絢爛な美の頂点に立つ存在であった 15 。それは、信長が求める公的な権威、政治的なステータスを象徴する道具であったと言える。一方、手元に残された「匹田筒」は、高麗(朝鮮半島)で焼かれた、素朴で侘びた風情を持つ茶碗であった。その価値は、誰もが一目でわかる華やかさにあるのではなく、使い込み、深く見つめることで初めて理解される、内省的な美にあった。
宗観の行動は、信長の権威的な価値基準に対する、一人の茶人としての静かなる抵抗、あるいは自らの美意識の表明として解釈することができる。彼は、信長が理解し、欲するであろう「政治的価値」を持つ「初花」を差し出すことで、覇者に対する公的な義務を果たした。そして同時に、自らが茶人として真に愛し、侘び茶の精神を体現する「私的価値」を持つ「匹田筒」を守り抜いたのである。この逸話は、巨大な権力が押し付ける価値観と、それに対峙する個人の美意識との間の緊張関係を、見事に映し出している。宗観は、権力者の論理と茶人の論理が衝突する中で、自らのアイデンティティを懸けて、一つの茶碗を秘蔵したのである。
宗観が「匹田筒」に寄せた深い愛着と、その美意識が同時代の茶人たちにも共有されていたことは、後の記録からも明らかである。宗観の子・宗味の時代になると、「匹田筒」は、茶の湯の大成者である千利休が所持した名物筒茶碗「挽木鞘(ひきぎのさや)」と並び称せられるほどの評価を得ていた 4 。
「挽木鞘」は、その立ち伸びた筒形の姿が、茶葉を挽く茶臼の挽木に被せる鞘に似ていることから利休によって名付けられたとされる、狂言袴手の名碗である 18 。当代随一の茶人であった利休の愛蔵品と比肩されたという事実は、「匹田筒」が、数ある高麗茶碗の中でも最高峰の一つとして、茶の湯の世界で確固たる地位を築いていたことを証明している。この評価はまた、利休が茶の湯を大成する以前から、匹田宗観のような先駆的な茶人たちの間で、高麗物の筒茶碗に対する確固たる評価軸が存在していたことを示唆する。利休は、こうした先行する世代の美意識を受け継ぎ、それをさらに深化させていったのであり、「雲鶴匹田筒」は、その美意識の系譜を語る上で欠くことのできない、重要な一碗なのである。
戦国の動乱を生き延び、京の豪商・匹田宗観によって秘蔵された「雲鶴匹田筒」は、その後も時代の変遷とともに数奇な運命を辿ることになる。その伝来の道のりは、京の豪商から大坂の道具商へ、そして若狭の大名家へと、日本の社会構造の変化と文化財の移動の歴史を象徴している。
表2:雲鶴匹田筒の伝来年表
時代区分 |
年代 |
所有者/経由者 |
関連事項 |
典拠 |
戦国時代 |
永禄年間 (1558-1570) |
京都 大文字屋 匹田宗観 |
当初の所有者。「初花肩衝」を信長に献上するも、この茶碗は秘蔵した。 |
4 |
|
天正年間 (1573-1592) |
匹田宗味(宗観の子) |
千利休所持の「挽木鞘」と並び称される。 |
4 |
江戸時代後期 |
嘉永二年 (1849) |
大坂 谷松屋宗長 |
伝来不明の期間を経て、谷松屋宗長を経由する。 |
4 |
|
嘉永二年 (1849) |
若狭小浜藩 酒井家 |
谷松屋宗長を経て、若狭藩主酒井家の蔵となる。 |
4 |
近代以降 |
不詳 |
京都 某家 |
若狭酒井家から離れ、現在に至る。 |
4 |
匹田宗観・宗味親子の後、この茶碗の消息はしばらく歴史の表舞台から途絶える。そして再びその名が記録に現れるのは、二百数十年後の江戸時代後期、嘉永二年(1849年)のことである 4 。この年、「匹田筒」は、大坂の有力な道具商であった谷松屋宗長の手を経て、次の所有者である若狭酒井家へと渡った 4 。
この谷松屋は、単なる古物商ではない。江戸時代中期から続く関西屈指の茶道具商であり、大名茶人として名高い松平不昧公や、近代屈指の数寄者であった藤田傳三郎などの出入り道具商を務めた名門である 20 。彼らのような目利きの道具商は、名物の価値を鑑定し、その信用を保証し、新たな所有者へと橋渡しする、文化財の伝来において極めて重要な役割を担っていた。歴史の狭間に埋もれていたかもしれない「匹田筒」が、再びその価値を認められ、大名家の蔵に収まることになった背景には、谷松屋宗長の確かな鑑識眼があったことは想像に難くない。
嘉永二年、「匹田筒」を新たに入手した若狭小浜藩の藩主は、第12代藩主・酒井忠義(さかいただあき)であった 23 。忠義は、幕末の激動期にあって、天保14年(1843年)から嘉永3年(1850年)までと、安政5年(1858年)から文久2年(1862年)までの二度にわたり、京都所司代という幕府の要職を務めた重要人物である 23 。
この茶碗が酒井家に渡った嘉永二年(1849年)は、まさに忠義が一度目の京都所司代を務めていた期間の後半にあたる。京都所司代は、朝廷の監視や西国大名の動向把握を任務とする、幕末の政治的緊張の最前線に立つ重職であった。このような激務と緊張の中にあった忠義が、戦国時代の豪商が覇者に屈することなく守り抜いたという逸話を持つこの名物を手に入れたことには、深い意味があったと考えられる。それは、大名家としての格式と文化的な権威を示す行為であると同時に、政治的に不安定な時代における精神的な慰めや、自らの拠り所を求める行為であった可能性も否定できない。茶道具の伝来という文化的な事象が、その時代の政治・経済状況と密接に連動していることを示す、興味深い事例である。
若狭酒井家に渡った後の「匹田筒」の足跡は、再び詳らかではなくなる。しかし、記録によれば、その後、現在は京都の某家の所蔵となっている 4 。この茶碗には、特に見るべき豪華な箱や袋などの付属品はないとされているが、三通の添状が付属しているという 4 。これらの書状が誰によって書かれ、どのような内容が記されているのかは不明であるが、この茶碗が辿ってきた数百年の歴史を証明する、かけがえのない資料であることは間違いない。一つの茶碗が、多くの人々の手を経て、その物語とともに現代にまで継承されているという事実そのものが、奇跡と言えるだろう。
「雲鶴匹田筒」という一碗の茶碗が辿った流転の歴史は、それが単一の価値観で測られる単なる器物ではなく、時代ごとに異なる意味と価値をまとってきた、極めて多元的な文化遺産であることを示している。
高麗時代末期に朝鮮半島の窯で生み出された時、それはおそらく名もなき陶工による日常の器の一つに過ぎなかったであろう。しかし、海を渡り日本にもたらされたこの茶碗は、侘び茶の精神が興隆する中で新たな美を見出される。戦国時代、京の豪商・匹田宗観の目によってその価値を見出された時、それは豪華な唐物とは異なる、簡素で内省的な美の象徴となった。そして、天下人・織田信長の権威に屈することなく秘蔵されたという逸話は、この茶碗に「権力に抗する美意識の象徴」という、不滅の物語を与えた。
江戸時代後期、大坂の道具商を経て若狭の大名・酒井家の蔵に収められた時、それは大名家の格式と文化的権威を示すコレクションの一部となった。幕末の動乱期に、幕府の要職にあった藩主が求めたのは、その造形美に加え、戦国の逸話が持つ歴史的な重みであったかもしれない。そして現代、我々の前に存在する「匹田筒」は、日本の歴史、美意識の変遷、そして日朝間の文化交流史を物語る、貴重な歴史の証人となっている。
結論として、「雲鶴匹田筒」の真の価値は、その端正な造形や美しい象嵌文様だけに留まるものではない。その価値の核心は、匹田宗観と織田信長の逸話に代表される、豊かでドラマティックな「物語」と分かちがたく結びついている。一つの器物が、これほどまでに多くの歴史的文脈を吸収し、人々の記憶に刻まれ、後世に語り継がれること自体が、日本の茶の湯文化の奥深さと、その中で育まれた独特の価値観を雄弁に物語っている。この茶碗は、もはや過去の遺物ではない。それは、我々が歴史を、そして美とは何かを思考するための、今なお力強く語りかける、生きた触媒なのである。