本報告で取り上げる「青磁砧馬蝗絆(せいじきぬたばこうはん)」は、日本の茶道文化において、その名を知らぬ者のない高名な茶碗である。この茶碗は、一般に南宋時代(13世紀)に中国の主要な青磁窯の一つである龍泉窯で焼成されたと推測される、優美な輪花(りんか)形の青磁碗である 1 。その美術品としての価値もさることながら、平重盛や足利義政といった歴史上の重要人物が所持したとされる伝承、さらには数奇な運命を辿った修理の逸話によって、単なる器物を超えた物語性を帯び、我が国の文化史において特別な位置を占めるに至っている。この茶碗の評価は、その物質的な美しさのみならず、それに付随する豊かな物語によって形成されてきたと言えるだろう。
本報告書は、「青磁砧馬蝗絆」に関して現存する文献資料や近年の研究成果を渉猟し、その造形的特徴、名称の由来、伝来の経緯とそれにまつわる逸話の検証、そして文化史的意義を多角的に明らかにすることを目的とする。その際、専門用語の使用は避けられないものの、いたずらに外来語を交えることなく、日本の学術的文脈に根差した記述を心掛ける。これは、本茶碗が深く根差す文化の伝統に対する敬意の表れでもある。
「青磁砧馬蝗絆」の理解を深めるためには、まずその基本的な情報と物理的な特徴を把握する必要がある。
この茶碗の基礎情報を以下に整理する。
項目 |
詳細 |
出典例 |
正式名称 |
青磁輪花茶碗 銘 馬蝗絆(せいじりんかちゃわん めい ばこうはん) |
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通称 |
砧青磁(きぬたせいじ) |
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器種 |
青磁茶碗 |
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製作地 |
中国・龍泉窯(推定) |
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製作年代 |
南宋時代・13世紀 |
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材質 |
僅かに灰色を帯びた鉄分のある磁胎 |
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寸法 |
総高6.5cm、口径15.0cm、高台径4.6cm |
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(別資料:高さ6.8cm、重さ292g 5 ) |
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器形の特徴 |
口縁に六箇所の切り込みを付けた輪花形(葵口) |
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釉調の特徴 |
粉青色の青磁釉が比較的薄く、全面にむらなくかかる(砧手) |
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修理の状況 |
縦の貫入と腰下部横のひび割れを外側から六箇所、鉄の小鎹で締める |
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文化財指定 |
重要文化財(1970年5月25日指定) |
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現所蔵 |
東京国立博物館(独立行政法人国立文化財機構) |
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寸法については、資料によって僅かな差異が見られる(総高6.5cm 3 と6.8cm 5 )。これは計測時期や方法の違いによるものと考えられるが、いずれにしても当時の喫茶の様式に適した大きさであったと推察される。龍泉窯の青磁は、特に鎌倉時代以降、禅宗寺院や武家社会を中心に喫茶文化が日本に広まる中で、中国からもたらされた貴重な文物「唐物(からもの)」として珍重された 6 。
「青磁砧馬蝗絆」は、その材質、器形、釉調において、南宋時代龍泉窯青磁の典型的な美しさを示している。胎土は、僅かに灰色を帯びた鉄分を含む磁胎であり 3 、別の記述ではかなり白いともされる 5 。器形は、口縁部に六箇所の切り込みを等間隔に入れ、輪花形(りんかがた)、あるいは葵の花弁が開いたような形から葵口(あおいぐち)とも呼ばれる形状をなしている 3 。この意匠は、最小限の装飾でありながら極めて効果的であり、南宋青磁の洗練された美意識を反映していると言えよう。
釉薬は、粉青色(ふんせいしょく)と形容される淡く美しい青緑色の青磁釉が、比較的薄く、器表全体にむらなく施されている 1 。この種の釉調は「砧手(きぬたで)」と称され、その清楚で端麗な色合いと品格の高さから、青磁の中でも特に優れたものとして評価されてきた 1 。口縁部の近くは、内外ともに釉薬がやや厚く掛けられているとの観察もある 5 。高台は低く小さく、丁寧に削り出されており、畳に接する部分である畳付(たたみつき)は釉薬が施されず、焼成によって土見せとなり、褐色を呈している 3 。
この茶碗を特徴づける最も顕著な点は、その修理跡である。器体には、縦方向の貫入(かんにゅう、釉薬の表面に見られる細かいひび模様)に加え、腰より下の部分を横に一周する大きなひび割れが見られる。このひび割れは、外側から六箇所にわたって、鉄製の小さな鎹(かすがい)を打つことによって堅固に留められている 1 。このひび割れの原因については、熱湯を注いだ際に生じた可能性が指摘されている 5 。このような薄手の磁器は、急激な温度変化に弱いという性質があり、その物理的特性が、この茶碗の歴史を大きく左右する出来事、すなわちひび割れとそれに続く修理の逸話を生んだ直接的な要因となったと考えられる。
この鎹による修理こそが、後に詳述する「馬蝗絆」という特異な銘の由来となり、単なる傷としてではなく、むしろこの茶碗の歴史的価値や美的評価を高める要素として語り継がれることになる 8 。この茶碗が当初から「清楚端麗で品格高く極めて稀な優品」 1 と評されるほどの高い美術的価値を有していたからこそ、破損後も廃棄されることなく、手間のかかる修理が施され、後世に伝えられることになったのであろう。
「青磁砧馬蝗絆」という名称は、「砧青磁」という青磁の種類を示す言葉と、「馬蝗絆」というこの茶碗固有の銘が組み合わさったものである。それぞれの語源には複数の説や解釈が存在し、その背景には日本の美意識や文化史的背景が深く関わっている。
「砧青磁」とは、主に中国南宋時代に浙江省の龍泉窯で焼成された、粉青色の美しい青磁の一群を指す呼称である。日本では古来、青磁の最上品として茶人たちに特に珍重されてきた 4 。その語源については、いくつかの説が伝えられているが、いずれが定説であるかは明確にされていない 11 。
第一の説群は、形状に由来するというものである。ある種の砧青磁の名品が、布を打って柔らかくしたり、艶を出したりするために用いる道具である「砧(きぬた)」の形に似ていたため、あるいは砧を打つ「槌(つち)」の形に似ていたために、この名が付けられたという説がある 4 。また、室町幕府八代将軍足利義政が所持していた相国寺塔頭慈照寺(銀閣寺)の花入が、絹を打つ砧の形に似ていたことに由来するという具体的な伝承も存在する 10 。さらに、国宝に指定されている『花生(はないけ) 万声(ばんぜい)』や重要文化財の「花生 千声(せんぜい)」といった著名な青磁花入の形状が砧に似ていることから名付けられたとする説もある 12 。
第二の説は、茶道の大家である千利休の命名に由来するというものである。利休がひび(貫入)の入った青磁を見た際に、そのひびの様子を、砧を打つ音の響きや、その音色が詠まれることが多い謡曲「砧」の世界観に重ね合わせ、「響きがある」と感嘆して名付けたという説である 10 。利休が所持していた特定の青磁器に由来するという説もこれに含まれる 12 。
これらの諸説は、必ずしも相互に排他的なものではなく、「砧」という言葉が喚起する音の響き、道具としての具体的な形状、さらには千利休や足利義政といった茶道や美術の世界における権威との結びつきなど、複数の連想が複合的に作用し、「砧青磁」という呼称が定着していった可能性が考えられる。特に、文化的に重要な名称が権威ある人物と結びつけられることで、その価値や正当性が高められる傾向は、美術史においてしばしば見られる現象である。
この茶碗固有の銘である「馬蝗絆」の語源については、伝統的な解釈と、近年の研究による新説が存在する。
古来より広く受け入れられてきた解釈は、茶碗のひび割れを修繕するために打たれた鉄の鎹が、あたかも大きな蝗(いなご)が馬の背にとまっているように見える情景に見立てられた、というものである 8 。この解釈の最も重要な典拠は、江戸時代の儒学者、伊藤東涯(いとうとうがい)が享保十二年(1727年)に著した『馬蝗絆茶甌記(ばこうはんさおうき)』である。この記録には、「鉄釘六鈴(てっていりくれい)を以てこれを束(つか)ね、絆(ほだ)すこと蝗(いなご)の如(ごと)し。還(かえ)って趣(おもむき)あるを覚え、仍(よ)って馬蝗絆茶(ばこうはんちゃ)かすがいと号(ごう)す」と記されている 13 。すなわち、六つの鉄の釘(鎹)で茶碗を繋ぎ止めている様子が蝗のようであり、それがかえって風情があると感じられたため、「馬蝗絆」と名付けられたというのである。「馬蝗(ばこう)」とは馬の背にとまった蝗を意味し、「絆(はん)」は物をつなぎとめるもの、あるいはその行為を指す 14 。この伊藤東涯による権威ある記述が、長年にわたり「蝗説」を不動のものとしてきたと言えるだろう。また、中国語において「馬蝗」が鎹そのものを指す言葉として使われるため、この銘がついたという説も存在する 14 。
この伝統的な「蝗説」に対し、近年、新たな解釈が提示されている。研究者の岩田澄子氏は、その著書『天目茶碗と日中茶文化研究 中国からの伝播と日本での展開』(宮帯出版社、2016年)の第三章において、「馬蝗」とは蝗ではなく、吸血性の環形動物であるヒル(蛭)を指すという新説を提唱した 16 。
この「ヒル説」によれば、「馬蝗絆」の銘は、青磁茶碗のひび割れが鎹によって堅固に補修され、あたかもヒルが吸い付くようにぴったりと密着している様子から名付けられたと解釈される 16 。ヒルが対象物に強く吸着する様と、鎹が割れ目をしっかりと繋ぎ止めている様子の類似性は、語源解釈として一定の合理性を持つ。この新説は、従来の蝗説に対する有力な代替解釈として学界で注目を集めており、歴史的名称の解釈が新たな研究や言語学的分析によって覆される可能性を示す好例と言える。
ただし、この「ヒル説」に対しては、ヒルという生物が一般的に抱かせる生理的な嫌悪感から、「馬蝗絆の美しいイメージが損なわれることが少々懸念される」といった意見も一部には存在する 18 。これは、学術的な正確性の追求と、美術品に長年付与されてきた美的・情緒的価値観との間に生じ得る緊張関係を示唆しており、興味深い点である。
「青磁砧馬蝗絆」は、その長い歴史の中で、数多くの著名な人物の手に渡り、様々な逸話をまとってきた。ここでは、主要な伝承とその背景、そして史実性の検討を行う。
「馬蝗絆」にまつわる最も古い伝承の一つは、平安時代末期の武将、平重盛(1138-1179)によるものである。
伊藤東涯の『馬蝗絆茶甌記』によれば、この茶碗は安元初年(1175年頃)、平重盛が中国・宋の育王山(いくおうざん)に多額の黄金を喜捨した際の返礼として、時の住持であった仏照禅師(ぶっしょうぜんじ)から贈られたものとされている 9 。有名な「金渡し(きんわたし)の墨跡」と共に日本へ渡来したとも伝えられている 13 。
この平重盛所持の伝承については、いくつかの観点から史実性を疑問視する声が強い。最大の論点は年代の不一致である。「馬蝗絆」は13世紀の南宋龍泉窯の作と鑑定されており 2 、12世紀後半(1175年頃)に活動した平重盛の時代にこの茶碗が存在したとは考えにくい 9 。
しかしながら、この伝承が完全に根も葉もないものと断じることもまた難しい。この茶碗が、後の足利将軍家を経て、江戸時代には豪商・角倉家に長く伝えられてきたという事実は、何らかの由緒ある古い来歴を持つ器物であったことを示唆している 9 。また、茶碗が内側に緞子(どんす)を張った中国製の漆塗りの曲げ物(容器)に収められていたという事実は、これが通常の交易品とは異なる、何らかの特別な経緯で中国から日本へもたらされた可能性を物語っている 9 。
鎌倉時代は日宋貿易が活発に行われ、禅宗文化の伝播と共に多くの中国の文物が日本にもたらされた時代であった 19 。平重盛自身も、日宋貿易に関与し、宋の文物に触れる機会があったことは十分に考えられる。それゆえ、重盛が宋から何らかの貴重な青磁器を贈られたという出来事自体はあり得たかもしれないが、それが現存する「馬蝗絆」そのものであったとするには、年代的な齟齬を解消する積極的な証拠が現在のところ見当たらない。この伝承は、貴重な文物に更なる権威と古さを付与しようとする、後世の人々の願望が生んだものかもしれない。
室町時代中期、東山文化のパトロンとして知られる第八代将軍足利義政(1436-1490、在位1449-73)もまた、「馬蝗絆」を所持していたと広く伝えられている 8 。
足利義政は、京都・東山に山荘を営み、絵画、書跡、工芸品など、多くの美術品を収集した。これらは「東山御物(ひがしやまごもつ)」と総称され、後の日本の美術や茶道に大きな影響を与えた 21 。「馬蝗絆」がこの東山御物の一つであったとすれば、その価値は計り知れない。しかしながら、能阿弥らによって編纂されたとされる将軍家所蔵品の目録類、例えば『御物御画目録』などには、「馬蝗絆」の名は記載されていないという指摘がある 23 。この事実は、義政所持の伝承の確実性に疑問を投げかける一因となっている。
「馬蝗絆」に関する最も有名な逸話は、足利義政の時代に起こったとされるものである。義政がこの茶碗を愛用していたところ、底にひび割れが生じてしまった。義政はこれを惜しみ、代わりの品を求めて家臣に命じ、茶碗を中国(当時は明王朝)へ送らせた。しかし、明の職人たちは「これほど見事な青磁はもはや作ることができない」と述べ、元の茶碗のひび割れを鉄の鎹で留めて日本へ送り返してきたという 8 。この鎹で修理された姿が、かえって趣深いものとして評価され、「馬蝗絆」の価値を一層高めたと伝えられている 9 。
この劇的な修理の逸話もまた、その史実性については慎重な検討が必要である。この話の主要な典拠は、やはり平重盛伝承と同じく、義政の時代から約300年後の江戸時代に書かれた伊藤東涯の『馬蝗絆茶甌記』である 23 。同時代の記録にこの出来事が見当たらないことから、その信憑性には疑問符が付く。
東京国立博物館の研究員である三笠景子氏は、室町幕府の公式記録に「馬蝗絆」の名が見られないことなどを根拠に、足利義政がこの茶碗を所持し、中国へ送って修理させたという逸話の史実性に疑義を呈している 23 。さらに、江戸時代にこの茶碗を所蔵していた角倉家が、自家の蔵品の価値を高める目的で、儒学者である伊藤東涯に依頼して、このような由緒ある物語を創作、あるいは潤色させた可能性も指摘されている 23 。
「馬蝗絆」の伝来を語る上で欠かせないのが、京都の豪商であった角倉家である。
足利将軍家の手を離れた後、「馬蝗絆」は長く角倉家に秘蔵されたと伝えられている 3 。角倉家は、江戸時代初期に朱印船貿易や河川開発などで財を成した一族である。室町幕府の権威が衰退し、戦国時代を経て社会が大きく変動する中で、将軍家や大名家が所蔵していた多くの美術品が、経済力を持つ豪商などの手に渡った例は少なくない 24 。角倉家がどのような経緯で「馬蝗絆」を入手したのか、具体的な記録は残されていないが、彼らの財力と文化的関心の高さが、この名碗を蒐集し得た背景にあると考えられる。
角倉家所蔵時代の「馬蝗絆」に関する最も重要な記録が、前述の伊藤東涯による『馬蝗絆茶甌記』である。東涯は享保十二年(1727年)、角倉家(吉田宗臨の九世の孫である玄懐の代)においてこの茶碗を実見し、その来歴や銘の由来などを詳細に記述した 3 。この書物によって、平重盛伝承、足利義政による中国での修理逸話、そして「馬蝗絆」の銘が蝗に由来するという説などが広く知られるようになり、この茶碗の物語性を決定づける上で極めて大きな役割を果たした。角倉家は、単にこの茶碗を所有するだけでなく、その文化的価値を記録し、後世に伝えるという重要な役割を担ったと言えるだろう。
その後、「馬蝗絆」は京都室町の豪商・三井家に伝わったとされる 3 。
「馬蝗絆」の修理逸話に関連して興味深いのは、織田信長の弟であり、著名な茶人でもあった織田有楽(うらく、1547-1622)もまた、「馬蝗絆」に酷似した薄造りの青磁茶碗を所持しており、それが同様にひびが入って鎹で修理されていたという記録である 23 。
この事実は、いくつかの可能性を示唆している。第一に、当時、南宋龍泉窯で作られた薄手の青磁器は、その繊細な美しさゆえに高く評価され、日本にも複数将来されていた可能性がある。第二に、これらの薄手の青磁器は、その構造的脆弱性から破損しやすく、鎹による修理は、貴重な舶来品を維持するための一般的な対処法の一つであったのかもしれない 11 。もしそうであれば、「馬蝗絆」の修理逸話の核心部分、すなわち鎹による補修という行為自体は、必ずしも特異な出来事ではなかった可能性も考えられる。織田有楽の茶碗の存在は、「馬蝗絆」の物語をより広い文化的文脈の中に位置づける上で参考となる。
「青磁砧馬蝗絆」は、その美術的価値と豊かな物語性によって、日本の文化史において特筆すべき存在となっている。
「青磁輪花茶碗 銘 馬蝗絆」は、昭和四十五年(1970年)五月二十五日付で、国の重要文化財(工芸品の部)に指定された 2 。文化庁のデータベースによれば、その指定理由は「砧手にて形姿、釉調共に清楚端麗、品格高く、極めて稀な優品で、古来より著名である」とされている 3 。この評価は、後述する鎹による修理の痕跡やそれにまつわる逸話とは別に、器物そのものが持つ本来的な美術的価値の高さを明確に認めるものである。
この名碗は、数々の所有者を経て、現在は東京国立博物館(東京都台東区上野公園)に所蔵されており、独立行政法人国立文化財機構が所有者となっている 1 。同館の常設展示や特別展などでしばしば公開され、多くの人々に鑑賞の機会を提供している。
「馬蝗絆」の文化史的意義を考える上で、日本の茶の湯文化との関わりは不可欠である。
鎌倉時代から室町時代にかけて、中国禅宗の導入と共に日本でも喫茶の風習が広まった。これに伴い、中国(宋・元・明)から舶載された絵画、書跡、陶磁器、漆器などの美術工芸品、いわゆる「唐物」が、支配階級や富裕層の間で極めて高く珍重された 19 。青磁器は、その美しい釉色と洗練された器形から、唐物の中でも特に人気が高く、権力や富の象徴ともなった 7 。
足利将軍家は、能阿弥・芸阿弥・相阿弥の三阿弥を中心に、多くの唐物名品を収集し、これらは「東山御物」として知られる。これらの唐物は、書院における会所飾りや初期の茶の湯において用いられ、後の時代の茶道具の規範を形成する上で重要な役割を果たした 21 。戦国時代に入ると、織田信長や豊臣秀吉といった天下人もまた、名物茶道具を権威の象徴として積極的に蒐集し(いわゆる「名物狩り」)、茶会での披露や、功績のあった家臣への褒賞としても用いた 27 。「馬蝗絆」のような由緒ある伝承を持つ唐物青磁茶碗は、こうした時代背景の中で、計り知れないほどの価値を持つものとして扱われたと想像される。
「青磁砧馬蝗絆」の文化史的意義を最も象徴するのが、鎹による修理跡の評価である。通常であれば器物の価値を損なうはずのひび割れや修理跡が、この茶碗においては欠点としてではなく、むしろその器に新たな趣や物語性を付与する「景色(けしき)」として、茶人たちによって積極的に評価されてきた 13 。
これは、不完全さや儚さの中に美を見出す日本の伝統的な美意識である「わび・さび」の精神と深く通底するものである 30 。また、破損した陶磁器を漆と金で修復し、その修理跡を新たな装飾として楽しむ「金継ぎ(きんつぎ)」の文化にも見られるように、傷を隠蔽するのではなく、それを歴史の一部として受け入れ、新たな美的価値を見出すという日本独自の感性がここに表れている 31 。
伊藤東涯が『馬蝗絆茶甌記』の中で、鎹で修繕された姿を「還って趣あるを覚え」と記したように 13 、この修理は茶碗の価値を減じるどころか、新たな美的魅力を付加したものと認識されていた。この「馬蝗絆」の存在とそれにまつわる逸話は、金継ぎという日本独自の修復技術が生まれ、発展する精神的な土壌を形成した一因であるとする見方も存在する 30 。このように、「損傷」が「価値」へと転換されるプロセスは、「馬蝗絆」の文化史的重要性を際立たせている。
中国明時代の職人が南宋時代の青磁の品質を再現できなかったという逸話 2 (その史実性は別として)は、現存する宋代の名品の希少性と価値をさらに高める効果を持った。このような「失われた技術」や「過去の黄金時代」への憧憬は、古美術品の評価を形成する上でしばしば見られる現象であり、「馬蝗絆」を何としても保存し、修理してでも使い続けようという動機を強化したであろう。
「青磁砧馬蝗絆」は、その長い歴史を通じて、単なる一個の茶碗を超えた多層的な価値をまとい、日本の文化史に深くその名を刻んできた。
この茶碗の価値は、まず第一に、南宋時代龍泉窯青磁の最高水準を示す作例の一つとしての、その優れた造形美と釉調の美しさにある。均整の取れた輪花形の器形、澄んだ粉青色の釉薬は、それ自体で極めて高い美術的価値を有している。
それに加え、平重盛による宋からの将来伝承、足利義政による中国での修理逸話、そして角倉家をはじめとする数々の歴史上の人物との関わりを示す物語群が、この茶碗に比類なき歴史的・文化的重層性を付与している。これらの伝承の史実性については、現代の学術的観点からは議論の余地が残されている部分も少なくない。しかし、重要なのは、これらの物語が真実であるか否かという点以上に、そうした物語が生まれ、語り継がれることによって、この茶碗の評価が形成され、高められてきたという事実である。この茶碗と物語の共生関係こそが、「馬蝗絆」を特別な存在たらしめている核心と言えよう。
特に、鎹(かすがい)による修理跡を欠点ではなく「景色」として積極的に愛でるという評価軸は、不完全さの中に美を見出す日本の茶道文化における独自の美意識を象徴するものであり、文化史的にも大きな意義を持つ。これは、物を大切にし、その歴史や傷跡をも含めて愛でるという、現代にも通じる価値観を示唆している。
「馬蝗絆」の物語とその美意識は、後世の茶人や美術愛好家にも多大な影響を与え、日本の工芸品に対する価値観や美意識の形成に寄与してきた。現代においても、東京国立博物館の至宝の一つとして、多くの人々に鑑賞され、研究対象とされ続けている。その存在は、単なる古美術品という枠を超え、歴史、文化、美意識を後世に語り継ぐ貴重な媒体としての役割を担っている。
「馬蝗絆」をめぐる研究は、名称の由来(伝統的な蝗説と近年のヒル説の対立)、あるいは各逸話の史実性の検証など、今なお進行中である。今後、新たな資料の発見や研究の進展によって、この名碗に対する我々の理解はさらに深まり、その物語に新たな一章が書き加えられる可能性も秘めている。このように、「青磁砧馬蝗絆」は、過去の遺産であると同時に、未来に向けて新たな解釈や価値創造の可能性を秘めた、生きた文化財なのである。