『馬術秘書』は、大坪流を中心に戦国馬術の精髄を記す伝書群。馬術は戦場の実用技術であり、大名の権威の象徴でもあった。騎射三物や立ち透かしなど技法を詳述。
本報告書は、日本の戦国時代という激動の時代において、「馬術」が武士にとってどのような意味を持ち、その技術と精神がいかにして伝承されたかを、『馬術秘書』という伝書群を通じて徹底的に解明するものである。ご依頼の『馬術秘書』は、特定の単一書籍を指す普遍的な名称ではなく、多くの場合、馬術流派に伝わる秘伝書の総称、あるいは特定の伝書群を指すものと解釈される。この点は「剣術秘伝書」という言葉が特定の書物を指さないのと同様である。現存する資料の中で、最も具体的かつ戦国時代に直結するのは、永禄三年(1560年)に齋藤安藝守好玄によって序文が記された『大坪流馬術秘書』である 1 。したがって、本稿ではこの『大坪流馬術秘書』を中核に据え、その内容と歴史的文脈を深く掘り下げる。大坪流には『絵図巻』や『手綱歌巻』など多数の巻物が存在し、これらが集合体として「秘書」を構成していたと考えられる 2 。この分析を通じて、戦国武士の馬術が単なる戦闘技術にとどまらず、彼らの社会的身分、政治的権威、さらには精神世界と不可分に結びついていた複合的な文化であったことを明らかにする。
武士の戦闘様式は時代と共に大きく変容した。「弓馬の家」という言葉が象徴するように、武士の登場期である平安時代から鎌倉時代にかけて、戦闘の主役は騎馬武者による弓射であった 3 。個々の武士が馬を駆り、弓矢で雌雄を決する一騎討ちが理想とされ、馬術と弓術は武士の必須技能として奨励された。
しかし、南北朝時代の動乱を経て、戦闘はより集団的、組織的なものへと移行する。馬上からの攻撃手段も多様化し、薙刀や長巻といった長柄武器が用いられるようになった 3 。そして、群雄が割拠する戦国時代に至ると、戦闘の様相はさらに激変する。槍を主力とする足軽集団による密集戦法が確立され、騎馬武者はかつてのような戦場の主役ではなくなった。彼らの役割は、機動力を活かした奇襲や部隊の指揮官へと変化し、武器も槍や、稀ではあるが馬上筒(火縄銃)といったものが用いられるようになった 3 。この戦術の変化は、馬術に求められる技術を根本から変えた。個人の武勇を誇示する華麗な騎射技術から、集団の中で統率を保ち、効率的に部隊を運用するための、より実戦的で統制の取れた操馬術へと、その重心が移っていったのである。
戦国時代の馬術は、二つの重要な側面を持っていた。一つは、刻一刻と変化する戦場で生き残り、勝利を掴むための実用的な「武芸」としての側面である。そしてもう一つは、大名が自らの統治の正当性と威光を内外に示すための儀礼的な「威儀」としての側面である。
「武芸」としての実用性は、槍衾のような対騎馬戦術の発展が何よりもの証左である 6 。騎馬突撃が有効な戦術でなければ、これほどまでに洗練された対抗策が生まれるはずがない。騎馬武者は依然として戦場における強力な戦力であり、その機動力をいかに活用するかは、勝敗を左右する重要な要素であった。
一方で、馬術は「威儀」の象徴でもあった。織田信長が京都で行った「御馬揃え」は、単なる軍事パレードではなく、天下にその強大な軍事力を誇示し、諸大名を威圧するための高度な政治的パフォーマンスであった 7 。また、武田信玄や伊達輝宗といった大名たちが信長に名馬を献上したことは、馬が外交の道具として極めて重要な役割を担っていたことを示している 9 。戦国大名は、武力によって成り上がると同時に、新たな秩序と権威を構築する必要に迫られていた。馬と馬術は、この「武芸」と「威儀」という二つの要請を同時に満たすことができる、稀有な文化装置だったのである。この二面性は、対立するものではなく、一人の大名の中で分かちがたく融合しており、『馬術秘書』に記された技術や思想も、この両側面から読み解くことで、その本質が明らかになる。
室町時代は、能楽や茶道、華道といった芸道において、特定の「家」が流儀を確立し、その技術と精神性を「伝書」や「秘伝」という形で次代に継承する文化が成熟した時代であった。武芸もその例外ではなく、剣術や弓術、そして馬術においても、流派が形成され、その奥義は巻物や書物の形でまとめられた。これらの伝書は、単なる技術マニュアルではなく、流派の正統性と権威の源泉であり、師から弟子へと受け継がれるべき神聖な知の体系と見なされていた。
「馬術秘書」という名の伝書は、彦根城博物館に所蔵される「大坪流馬術秘書」(五冊)や、古書市場で確認される「大坪流馬術秘書」(大本二冊)など、具体的な伝本が主に大坪流の系統において確認されている 1 。これは、大坪流が他の流派、例えば弓馬の故実全般を扱う小笠原流とは異なり、「馬術を専門として門戸を開放した」ことに起因すると考えられる 11 。多くの門弟を抱え、技術を体系的に教授する必要性から、伝書が豊富に作成・整理され、結果として後世に残りやすかったと推察される。また、『大坪流馬方㧞摝抄』のような書物も存在し、大坪流が多様な伝書群を擁していたことがうかがえる 12 。
現存する『大坪流馬術秘書』の中でも、特に注目すべきは、永禄三年(1560年)に齋藤安藝守好玄(さいとうあきのかみよしはる)によって序文が書かれたものである 1 。この年は、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、天下統一への第一歩を踏み出した、まさに戦国時代の転換点であった。このような天下動乱の最中に、なぜ馬術の秘伝書が編纂されたのか。それは、戦乱が激化するほど、武士の根幹をなす「弓馬の道」の価値が再認識され、その技術と精神を正しく後世に伝えようとする気運が高まったことの現れであろう。著者とされる齋藤安藝守好玄は、大坪流の馬術を極めた達人であり、その膨大な知識を体系化し、次代の武士たちのために書き記したと考えられる。彼のこの行為は、馬術が単なる過去の遺物ではなく、戦国の世を生き抜くために不可欠な、生きた知であったことを雄弁に物語っている。
『馬術秘書』が解説する馬術の核心は、馬上から弓を射る「騎射」の技術であり、その代表的な修練法が「騎射三物(きしゃみつもの)」と呼ばれる流鏑馬、笠懸、犬追物である 13 。これらは、室町時代に最も華やかだったとされる修練馬術の精髄であった 13 。
これら騎射三物は、儀礼的な側面を持ちつつも、その本質は、戦場で敵と対峙した際に必要となる、動体視力、平衡感覚、そして人馬一体となった精密な操作能力を総合的に鍛え上げるための、実践的な訓練体系であった。
和式馬術、特に騎射を支える身体技法の中核に、独特の騎乗法である「立ち透かし」がある。これは、鐙の上に立ち、尻を鞍から浮かせることで、馬の上下動を膝の屈伸で吸収し、上半身を常に安定させる技術である 16 。この姿勢により、騎手は両手を自由に使うことができ、弓を構え、狙いを定め、矢を放つという一連の複雑な動作を、馬の揺れに影響されることなく安定して行うことが可能となった 19 。
この「立ち透かし」を物理的に可能にしたのが、日本の伝統的な馬具である和鞍(わぐら)と和鐙(わあぶみ)である。和鞍は、前輪(まえわ)と後輪(しずわ)が高くそびえ、騎手の体を前後からしっかりと固定する構造を持つ 16 。和鐙は、足裏全体を乗せることができる幅広の形状をしており、安定して体重を支えることができる 17 。この和鞍と和鐙が一体となって機能することで、騎手は鐙の上に確固として立つことができ、「立ち透かし」という高度な身体技法が実現されたのである。
大坪流の伝書群には、『手綱歌巻』や『息合巻』といった巻物が含まれており、馬術が単なる力任せの操作ではなく、馬との繊細な意思疎通を重視していたことがわかる 2 。特に『手綱歌巻』は、手綱操作の要点を覚えやすい和歌の形式で伝えており、技術の伝承における工夫が見られる 21 。また、『息合巻』は、騎手と馬の呼吸(息合)を合わせることの重要性を説く。これは、馬の心理や生理を深く理解し、その動きを予測しながら一体となって動く「人馬一体」の境地を目指すものであり、和式馬術の精神的な深みを示している。
大坪流の知識体系が極めて実践的であったことを示すのが、『絵図巻』や『縄之巻』といった図解入りの伝書の存在である 2 。これらの巻物には、暴れ馬や特定の癖を持つ馬(癖馬)を矯正するための具体的な調教法や、その際に用いる特殊な馬具が、豊富なイラストと共に詳細に解説されていた。例えば、縄を用いた矯正法などが図解されている。これは、大坪流の馬術が、理想的な優良馬だけを対象とした観念的なものではなく、現実世界に存在する多様な個性や問題を持つ馬一頭一頭に個別に対応するための、経験に基づいた膨大な知の集積であったことを物語っている。このような視覚的な伝達方法は、文字だけでは伝えきれない複雑な技術や手順を、直感的かつ正確に後世に伝えるための優れた工夫であった。
『馬術秘書』をはじめとする馬術伝書は、単なる技術論(術)の解説にとどまらない。その中には、馬術の根底に流れるべき精神的な心得(法)が、和歌や道歌といった形で数多く詠み込まれている 21 。例えば、大坪流の『手綱歌巻』は、手綱捌きの要諦を歌にして覚えるためのものであった 2 。これらの歌は、技術の秘訣を凝縮して伝えると共に、「馬を慈しむ心」や「己を律する精神」といった、武士として、また馬を扱う者としての心構えを説く。このように、馬術は肉体を鍛える武芸であると同時に、精神を修養するための一つの「道」として捉えられていたのである。
馬術の「秘書」は、誰でも閲覧できる教科書ではなかった。それは流派の権威そのものであり、厳格に管理されるべき知的財産であった。その価値は、知識を独占することによって維持されていた。八条流には「一子相伝三巻の秘書」が存在したとされ、その奥義は選ばれた後継者にのみ伝えられた 22 。また、小笠原流には、秘法を盗み見た弟子を師が斬り殺そうとしたという逸話も残っており、秘伝の漏洩がいかに重大な禁忌とされていたかがうかがえる 23 。
このような「一子相伝」や「門外不出」の掟は、単に技術の流出を防ぐという目的だけでなく、より重要な社会的機能を担っていた。すなわち、秘伝の希少性を保つことで流派の権威を高め、大名家に師範として仕官する際の交渉力を担保するという、社会経済的な存立基盤を支える装置として機能していたのである。『馬術秘書』の真の価値は、そこに記された内容だけでなく、それが「秘伝」として厳重に管理・継承されたという、中世から戦国期にかけての社会的な文脈の中にこそ見出される。
戦国時代の優れた馬術家は、単に馬に乗る技術に長けているだけではなかった。彼らは、馬の生態、気性、そして健康状態に至るまでを深く理解した、総合的な「馬の専門家」であった。このことを象徴するのが、大坪流から分派した大坪本流の斎藤定易が著した『大坪本流武馬必要』である。この書物は、馬術書でありながら、日本で初めて「獣医」という言葉を用いた馬の医術書でもあった 24 。
戦場において、馬は武士の命運を左右する重要なパートナーである。その能力を最大限に引き出し、常に最高の状態で維持するためには、乗りこなす技術(乗馬術)だけでなく、馬の体調を見抜き(相馬術)、病気や怪我を治療する知識(馬医術)が不可欠であった。斎藤定易は、これらの知識を一つの体系として統合し、『武馬必要』にまとめた。これは、戦国時代の馬術が、現代でいうところの「総合馬学」ともいうべき、包括的な知の体系であったことを示している。『馬術秘書』を読み解く際には、単に乗馬技術の書としてだけでなく、こうした失われた総合知の視点を持つことが、その本質を理解する上で極めて重要となる。
大坪流の流祖とされる大坪式部大輔慶秀(道禅)は、室町時代前期の人物である 26 。彼の出自や生没年には諸説あるものの、将軍足利義満や義持に仕え、その卓越した馬術の技をもって名声を得たと伝えられている 11 。この「将軍家師範」という権威は、大坪流が後世、数ある馬術流派の中で特別な地位を築く上で、極めて重要な基盤となった。
戦国時代における馬術流派の勢力図を理解する上で、大坪流と小笠原流の比較は不可欠である。小笠原流は、鎌倉時代に成立し、弓術、馬術、礼法を一体化した「弓馬故実」を伝える、格式高い流派であった 30 。その教えは、一騎討ちが主流であった時代の戦闘様式と、武家の儀礼秩序を色濃く反映していた 31 。
しかし、集団戦が戦の常識となった戦国時代において、戦場で求められる馬術は変化した。個人の名誉や華麗な儀礼よりも、集団の中で統率を保ち、効率的に敵を制圧する実用的な技術が重視されるようになったのである。この時代の要請に応えたのが大坪流であった。小笠原流が故実全般を扱うのに対し、大坪流は「馬術を専門として」技術を深く探求し、門戸を広く開放して多くの弟子を育てた 11 。この専門性と実用性が、戦国武将たちの支持を集め、大坪流を武家馬術の主流へと押し上げる原動力となった。戦術の変化が、馬術流派の盛衰に直結したのである。
大坪流の実用性を高く評価し、その神髄を体得した代表的な戦国大名が、徳川家康である。家康は「海道一の馬乗り」と称されるほどの馬術の達人であり、大坪流の免許皆伝を得ていたと伝えられる 33 。ある時、家康が危険な橋を渡る際に、あえて馬から降りて渡ったという逸話がある。これを見た人々は、達人らしからぬ臆病な振る舞いだと嘲笑したが、これはまさに大坪流が教える「馬の身を思いやる」という実利的な思想の実践であった 33 。見栄や形式よりも、パートナーである馬の安全と、確実な任務遂行を優先する。この逸話は、大坪流の教えが単なる観念論ではなく、天下を争う指導者の行動規範として深く根付いていたことを示している。
大坪流はその隆盛と共に、荒木流や大坪新流など、数多くの分派を生み出した 29 。中でも特筆すべきは、江戸時代中期に福岡藩士・斎藤定易によって開かれた大坪本流である 24 。斎藤定易は、従来の馬術をさらに発展させ、「五馭の法」という画期的な体系を編み出した 35 。これは馬術を、①乗馭(じょうぎょ、乗馬法)、②相馭(そうぎょ、馬の鑑定法)、③礼馭(れいぎょ、儀礼作法)、④軍馭(ぐんぎょ、軍事運用)、そして⑤医馭(いぎょ、医療・飼養法)の五つの分野に分類・整理したものである。この「五馭の法」は、馬に関する知識をより高度に、そして包括的に体系化したものであり、大坪流が持つ総合的な知の性格をさらに深化させたものとして高く評価される。
戦国時代には、主流となった大坪流以外にも、それぞれに特色を持つ多様な馬術流派が並立し、群雄割拠の様相を呈していた。
以下の表は、戦国時代に存在した主要な馬術流派の特徴を比較したものである。これにより、各流派がどのような性格を持ち、戦国という時代の中でいかなる役割を果たしていたかを概観できる。
特徴 |
大坪流 |
八条流 |
小笠原流 |
武田流 |
流祖 |
大坪慶秀 11 |
八条房繁 26 |
小笠原長清 37 |
武田信光 37 |
成立時代 |
室町初期 11 |
戦国初期 26 |
鎌倉時代 31 |
鎌倉時代 37 |
技術的特徴 |
馬術専門、癖馬矯正など実践的技術 2 |
実戦的、詳細は不明な点も多い 22 |
弓馬の故実、礼法と一体化 31 |
実践的な騎射(流鏑馬など) 37 |
思想・哲学 |
馬を思いやる実利主義 33 |
不明(実戦重視か) |
格式・礼法を重んじる 31 |
不明(実戦重視か) |
主要な採用者 |
徳川家康、諸大名 33 |
細野氏(上杉家、尾張藩) 22 |
足利将軍家、儀礼を重んじる武家 32 |
細川家(小倉藩) 37 |
戦国期の位置づけ |
実用性から主流派へ 31 |
大坪流と並び称される有力流派 26 |
儀礼面で権威を保つも戦術的価値は低下 31 |
騎射の専門流派として存続 37 |
「武田の騎馬軍団」と聞くと、多くの人が映画や小説の影響で、重装騎兵が密集隊形を組んで敵陣に突撃する姿を思い浮かべるであろう。特に長篠の戦いにおいて、この騎馬軍団が織田・徳川連合軍の三千丁の鉄砲による三段撃ちの前に壊滅した、という物語は広く知られている。しかし、近年の歴史研究、特に藤本正行らの実証的な研究により、この通説は大きく見直されている 40 。
まず、当時の日本にはヨーロッパの騎士団のような、騎兵だけで構成された独立した兵科としての「騎馬隊」は存在しなかった可能性が高い 41 。騎馬武者とは、自らが率いる足軽(歩兵)部隊の指揮官であり、同時に高い機動力と戦闘能力を持つ中核戦力であった 40 。武田軍の強さの源泉は、騎馬武者だけの集団ではなく、彼らが巧みに指揮する歩兵部隊との連携による、機動的な戦術運用にあったと考えられる 3 。長篠の戦いにおける鉄砲の数も、信頼性の高い史料である『信長公記』の分析から、三千丁ではなく「千丁ほど」であったとする説が有力となっている 41 。したがって、「騎馬隊の無謀な突撃」という単純な構図ではなく、より複雑な戦術的判断の応酬の中で、武田軍が敗北に至ったと理解するべきである。
騎馬武者であることは、多大な経済的負担を伴うものであった。馬そのものの価格に加え、飼葉代、馬丁(口取り)や従者などの人件費がかさみ、馬を所有し維持できたのは、相応の石高を持つ上級武士に限られていた 6 。
また、騎馬は決して無敵ではなかった。戦国時代には、長槍を隙間なく突き出して騎馬の突進を阻止する「槍衾(やりふすま)」や、野戦陣地として急造される「馬防柵」といった、効果的な対抗策が編み出されていた 6 。
戦闘に用いられた日本の在来馬、例えば木曽馬などは、サラブレッドに比べて体高が130cm前後と小柄であった 3 。しかし、彼らは胴長短足で頑丈な体躯を持ち、急峻な山道でも巧みに移動できる能力と、粗食に耐える強靭な消化器官を備えていた 25 。その最高速度は時速36km程度と推定され、戦場での機動力を十分に発揮することができた 3 。
戦国時代、馬は単なる兵器や移動手段ではなかった。それは武将の権威と格式を可視化する、極めて重要な象徴であった。
織田信長が天正九年(1581年)に京都で挙行した「御馬揃え」は、その最たる例である 7 。これは、朝廷や諸大名、民衆の前で、美しく飾られた数多の軍馬と、それに騎乗する武士たちの威容を見せつけることで、織田家の天下掌握を天下に知らしめるための壮大な軍事パレードであった 8 。信長自身も「名馬マニア」として知られ、100頭以上の馬を所有していたという 9 。
また、馬は外交の重要なツールでもあった。武田信玄や伊達輝宗といった有力大名が、こぞって信長に名馬を献上している 9 。これは、相手への敬意を示すと同時に、自国の馬産地の豊かさを誇示し、友好関係を強化するための儀礼であった。
さらに、江戸時代にかけて確立されていく武家の格式において、乗馬の可否は身分を分ける決定的な指標であった 47 。大名行列における飾り馬(鼻馬)の数 48 、江戸城登城の際に馬から降りる場所を定めた下馬札 49 、さらには馬具の装飾に至るまで 4 、馬にまつわるあらゆる事柄が、厳格な身分秩序を反映していた。乗馬は、武士の中でも選ばれた者の特権であり、その姿を披露すること自体が名誉だったのである 51 。
優れた武士にとって、馬は単なる道具や家畜ではなかった。それは戦場で生死を共にする、かけがえのない「相棒」であった。徳川家康が、自らの名声よりも馬の安全を優先した逸話 33 に見られるように、真の達人は馬の能力や心理を深く理解し、その身を思いやる心を持っていた。この、乗り手と馬が一体となる「人馬一体」の境地は、武芸の理想とされた。
この精神性は、鎌倉時代以降、武士階級に深く浸透した禅の思想と通底するものがある。禅は、自己の内面と向き合い、雑念を払い、生死を超越した境地を目指す 52 。馬術の修行もまた、馬という他者(生き物)との対話を通じて己の心を制御し、恐怖や驕りを克服する精神修養の道であった 54 。
馬術の修行は、常に落馬という死の危険と隣り合わせであった 56 。伊達政宗が落馬によって足を骨折し、出兵計画が頓挫したという記録も残っている 57 。この常に存在する死の可能性は、武士に『葉隠』が説くような「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」という死生観を、日常的に意識させる役割を果たした 59 。毎朝、心の中で一度死んでおくことで、その日一日を真剣に生きるという覚悟。失敗を恐れず、いざという時には潔く死地に赴く精神。馬術の稽古は、こうした武士道的な死生観を肉体と精神に刻み込む、実践の場でもあったのである 60 。
明治維新を迎え、日本の軍制が西洋式に転換されると、日本の伝統的な馬術、すなわち和式馬術は、実用の場を急速に失っていった 62 。陸軍ではフランス式やドイツ式の馬術が導入され、蹄鉄の普及など馬の扱い方も西洋化が進んだ 25 。かつて武士の必須技能であった騎射三物のうち、犬追物は明治時代に廃絶され、笠懸も一時は大きく衰退した 65 。
しかし、この伝統の灯が完全に消えたわけではない。小笠原流や武田流といった流派の宗家や門人たちの尽力により、流鏑馬神事などの形でその技術と精神は現代に継承されている 32 。各地の神社で奉納される流鏑馬は、単なる観光行事ではなく、800年以上にわたって受け継がれてきた武家文化の生きた姿である。近年では、NPO法人や保存会が設立され、後継者の育成や文化の普及に努めている 67 。
本報告書で分析した『馬術秘書』とその周辺に連なる伝書群は、単に失われた馬術技術を記録した古文書ではない。それは、戦国という極限状況の中で、武士たちが馬という生き物とどのように向き合い、その能力を最大限に引き出そうとしたかの、知恵と経験の結晶である。
そこには、癖馬を乗りこなすための実践的な調教法、戦場で生き残るための高度な騎乗術、そして馬の健康を管理する医術までをも含む、総合的な知の体系が記されている。さらに、技術の奥底には、馬を単なる道具ではなく命を預けるパートナーとして敬う思想、そして死と隣り合わせの状況で己を律する精神性が流れている。
『馬術秘書』は、実用と儀礼、技術と精神が分かちがたく結びついていた、戦国武士の豊かで重層的な世界観を現代に伝える、かけがえのない文化遺産である。その価値を正しく理解し、次代に伝えていくことは、日本の歴史と文化の深さを再認識する上で、極めて重要な意義を持つと言えよう。