戦国時代に麦酒は伝来せず、南蛮貿易で日本にもたらされたのは葡萄酒だった。麦酒の初醸造は江戸後期、出島のドゥーフによる自家製で、戦国麦酒は後世の誤解である。
本報告書は、「麦酒は戦国時代に南蛮から渡来した、麦芽を原料とする発泡性の酒」という認識を歴史的探求の出発点とする。この通説ともいえるイメージが、史実とどの程度合致するのか、あるいは後世に形成されたものなのかを、現存する史料に基づき徹底的に検証することを目的とする。
16世紀中葉、ポルトガル船の来航に端を発する南蛮貿易は、日本の社会、経済、そして文化に未曾有の変革をもたらした 1 。鉄砲の伝来が戦国の合戦様式を一変させただけでなく、カステラ、タバコ、ジャガイモといった新たな文物が日本人の生活に深く浸透していったことは周知の事実である 3 。この激動の時代において、人々の嗜好品、とりわけ酒類の世界が、南蛮からもたらされた文化とどのように交錯したのかという問いは、歴史を深く理解する上で極めて重要である。
本報告は、以下の四部構成でこの問いに迫る。まず第一章では、南蛮貿易における実際の輸入品目を精査し、「麦酒」が交易品として存在した可能性を検証する。第二章では、当時の言語を記録した第一級史料である『日葡辞書』を分析し、語彙の側面から麦酒の存在を探る。第三章では、麦酒の不在が明らかになる中で、実際に存在が確認されている舶来酒、すなわち「葡萄酒」の実態を解明する。そして最終第四章では、時代を大きく下り、日本における麦酒の真の起源を特定する。この多角的な検証を通じて、戦国時代と「麦酒」をめぐる歴史的真実に光を当てる。
南蛮貿易の実態を理解することは、麦酒存在の可能性を判断する上での第一歩である。この貿易は、ポルトガル商人を仲介役として、日本、中国(明)、そしてポルトガルのアジア拠点(ゴア、マカオなど)を結ぶ、一種の三角貿易であった。その中核をなしたのは、当時世界有数の産出量を誇った日本の銀と、日本市場で高い需要があった中国産の生糸・絹織物との交換であった 5 。ポルトガル商人は、マカオで仕入れた生糸を長崎や平戸に運び、その対価として得た日本の銀を中国に輸出することで莫大な利益を上げていた 2 。
この基本構造の上で、日本には多様な品物がもたらされた。史料から確認できる主要な輸入品目は、中国産の生糸や絹織物を筆頭に、軍事需要に応えるための鉄砲や火薬、硝石、鉛、そしてヨーロッパ産の毛織物、東南アジアからもたらされる香料や鹿皮製品、さらには生薬や砂糖などが挙げられる 3 。これらの品々は、いずれも当時の日本において希少価値が高く、高い利益が見込めるものであった。
現存する南蛮貿易に関するあらゆる記録や輸入品リストを精査しても、そこに「麦酒」、あるいはそれに相当する品目を見出すことはできない。主要輸入品はもちろんのこと、カボチャやタバコ、眼鏡といった、いわば貿易の「おまけ」として日本にもたらされた品々の中にさえ、麦酒の名は登場しない 3 。
一点、留意すべき記録として、来航した南蛮船の乗組員が日本で食料を調達していた事実がある。長崎などでは、彼らの食用として牛、豚、鶏が飼育され、パンが焼かれるようにもなった 3 。しかし、これはあくまで日本に滞在する外国人や、次の航海に出る船員たちのための自己消費、あるいは現地調達であり、日本市場で売買される「交易品」ではなかった。この点は明確に区別する必要がある。
交易記録に麦酒が存在しない理由は、当時の経済的および物理的な制約を考慮することで、極めて合理的に説明できる。
第一に、経済合理性の欠如である。前述の通り、南蛮貿易の根幹は、日本の銀を対価として高利益率の商品を販売することにあった 2 。限られた船倉のスペースには、可能な限り収益性の高い商品を積載するのが最優先事項であった。この観点から見ると、麦酒は生糸や香辛料、火薬といった品々に比べて、重量および容積あたりの価値が著しく低い。わざわざヨーロッパから、あるいはアジアの経由地から、低単価でかさばる麦酒を日本まで運び、交易品として販売するという選択は、商人にとって経済的に全く魅力がなかったのである。
第二に、品質維持という物理的な制約である。16世紀当時、麦酒の醸造技術や保存技術は現代とは比較にならないほど未熟であった。特に、長期保存を可能にする殺菌技術や完全な密閉容器は存在しない。赤道を越え、数ヶ月にも及ぶ高温多湿の船旅は、麦酒にとって致命的な環境であった。航海の途中で発酵が進みすぎて酸っぱくなったり、雑菌が繁殖して腐敗したりするリスクが極めて高く、商品として品質を維持したまま日本へ届けることは、事実上不可能に近かった。これらの経済的・物理的要因が重なり、麦酒は南蛮貿易の品目から必然的に除外されたと考えられる。
交易記録に麦酒の名が見られないという事実に加え、当時の言語を記録した史料を分析することは、この問題をさらに深く掘り下げる上で不可欠である。その鍵を握るのが、1603年(慶長8年)にイエズス会の宣教師たちによって長崎で編纂・刊行された『日葡辞書』( Vocabulario da Lingoa de Iapam )である 10 。この辞書は、布教活動のために日本語を学ぶ宣教師向けに作られたもので、古代語から近世語への過渡期にあたる室町時代末期の日本語約3万2000語を収録している。当時の日本社会に存在した事物、概念、文化を客観的に知るための、他に代えがたい一級の歴史史料としての価値を持つ。
『日葡辞書』を繙くと、当時の日本に存在した酒文化の豊かさと、それを理解しようとした宣教師たちの熱意に驚かされる。酒に関する項目には、極めて詳細な語彙が記録されている 12 。例えば、「清酒 (sumizaqe)」「濁り酒 (nigorizaqe)」「諸白 (morofacu)」「焼酎 (xochu)」「甘酒 (amazaqe)」「古酒 (coxu)」といった酒の種類が細かく分類され、それぞれにポルトガル語での説明が付されている。
さらに驚くべきは、醸造に関する専門用語まで網羅されている点である。「麹 (coji)」はもちろんのこと、酒造りの基礎となる酒母を指す「酛 (moto)」という言葉についても、「日本の酒を作り始めるもとになる最初の米(飯)。それは、あとからつぎ足される物が加わって、次第に量を増し、勢いづいて行く」と、その役割を正確に理解した上で解説している 12 。これは、宣教師たちが日本の高度な醸造文化を深く観察し、学んでいたことを示している。
日本の酒に関するこの詳細な記述の中に、舶来の酒としてただ一つ、明確に存在する項目がある。それが「葡萄酒 (budoxu)」である 12 。これは、葡萄酒が1603年時点で日本の社会において認識され、ある程度流通していたことの動かぬ証拠となる。
それとは対照的に、ポルトガル語で麦酒を意味する「Cerveja(セルヴェージャ)」 14 に相当する日本語の単語、あるいはその音訳語(例えば「せるべえじゃ」のような言葉)は、『日葡辞書』の中に一切見当たらない。現代のポルトガル語辞典には当然「cerveja - ビール」という対訳が掲載されているが 15 、戦国時代の終わりから江戸時代の初頭にかけて編纂されたこの歴史的な辞書には、その痕跡すらないのである。
『日葡辞書』におけるこの「記録の不在」は、単なる偶然の欠落ではなく、麦酒が当時の日本に存在しなかったことを示す極めて強力な状況証拠となる。
第一に、辞書の編纂目的を考えれば、その理由は自明である。宣教師たちがこの辞書を作ったのは、日本人と円滑に意思疎通をはかり、布教活動を効果的に進めるためであった。もし麦酒が交易品として、あるいは日常的な飲物として日本に存在し、人々の会話や交渉の場で話題に上るようなものであったならば、宣教師たちがそのための単語を必要とし、辞書に収録しないはずがない。彼らが日本の多様な酒をあれほど詳細に記録し、かつ自らが持ち込んだ葡萄酒をも記録したにもかかわらず、同じくヨーロッパの一般的な飲料である麦酒に関する語彙を全く記録しなかったという事実は、記録する必要性がなかった、すなわち「麦酒が当時の日本社会に存在しなかった」ことを雄弁に物語っている。
第二に、文化的・宗教的なフィルターの存在が挙げられる。宣教師たちが日本に持ち込んだ葡萄酒は、単なる嗜好品ではなかった。それはキリスト教のミサで用いる聖餐のための「聖なる飲み物」という、極めて重要な宗教的意味合いを持っていた。布教活動において不可欠なこの品物は、彼らが記録し、日本人にも説明する必要のある最重要アイテムの一つであった。一方、麦酒にはそのような宗教的付加価値はない。この価値の差が、わざわざ日本まで運ばれ、辞書にまで記録された葡萄酒と、全く顧みられなかった麦酒の運命を分けた決定的な要因の一つと考えられる。
麦酒の不在が確定的となった今、では実際に戦国時代の日本に存在した「南蛮渡来の酒」とは何だったのか。その答えは、前章でも触れた通り「葡萄酒」である。数々の歴史記録が、日本の権力者たちがこの異国の酒を味わっていた事実を伝えている。
記録上、日本の大名が西洋の酒を口にした最初期の事例として、1549年(天文18年)にフランシスコ・ザビエルが薩摩の守護大名・島津貴久に謁見した際、美しいガラス瓶に入った赤ワインを献上したという記録がある 16 。その後も、天下人たちは葡萄酒と深く関わった。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、豊臣秀吉は博多でポルトガル船を視察した際に葡萄酒を賞味し、大変気に入り土産として持ち帰ったとされる 16 。また、茶人・神谷宗湛の日記には、石田三成が主催した茶会で、長崎から取り寄せた葡萄酒が伊達政宗や小西行長といった錚々たる武将たちに振る舞われた様子が記されている 16 。さらに、江戸幕府を開いた徳川家康も甘口の葡萄酒を好み、フィリピン総督から献上された際に大いに喜んだという記録が残っている 16 。
戦国時代よりも少し前の1483年(文明15年)、関白・近衛政家の日記『後法興院記』には、「珍蛇(ちんた)」という酒を飲んだという記述が見られる 16 。これは、記録に残る日本人が西洋の酒を飲んだ最古の例とも言われるが、この「珍蛇」の正体こそ、ポルトガル語で赤ワインを意味する「tinto(ティント)」の音を漢字で写したものである、という説が有力である。未知の赤い酒を、当時の人々がその音を手掛かりに「ちんた」と呼び、認識しようとしていた様子がうかがえる興味深い事例である。
これらの記録から見えてくるのは、葡萄酒の消費がごく一部の天下人や有力大名、そして彼らに近しい人々に限定されていたという事実である。葡萄酒は、南蛮貿易における主要な交易品として大量に輸入され、一般に流通したものではなかった。むしろ、宣教師が布教の許可を得るためや、権力者との関係を良好に保つための外交上の贈答品、あるいは最高級の珍品としての性格が極めて強かった。
葡萄酒を手に入れることができたのは、宣教師と直接接触できる、あるいは南蛮貿易の利益にアクセスできる限られた権力者のみであった。献上という形式は、それが対等な商取引ではなく、権力者への敬意や影響力行使の手段であったことを示唆している。したがって、戦国時代における葡萄酒の存在は、社会全体に影響を与えるほどの広がりはなく、トップリーダー層における文化的な挿話として捉えるのが妥当である。
この背景には、葡萄酒が持っていた二重の価値がある。宣教師にとっては「聖なる飲み物」であり、日本の権力者にとっては「珍奇な異国の酒」、すなわち自らの権威を高めるステータスシンボルであった。この二重性こそが、輸送の困難を乗り越えて葡萄酒が日本まで運ばれた理由である。宗教的にも文化的にも付加価値を持たない麦酒が、この役割を担うことはできなかった。この差が、戦国時代における葡萄酒の存在と麦酒の不在を決定づけたのである。
戦国時代における麦酒の不在を証明したところで、歴史の探求は新たな問いに直面する。「では、日本における麦酒の歴史は一体いつ始まったのか」。その答えを求めて、我々は時代を約200年進め、舞台をポルトガルやスペインとの交流が途絶えた鎖国下の日本、唯一西洋に開かれた窓口であった長崎・出島へと移す必要がある。
日本で初めて麦酒を醸造した人物、それは戦国武将でも南蛮商人でもなく、長崎出島のオランダ商館長であったヘンドリック・ドゥーフである 19 。彼の商館長在任期間(1803年~1817年)のうち、19世紀初頭、具体的にはヨーロッパからの船の来航が途絶えた1809年から1814年の間に、この歴史的な試みが行われたとされている 22 。
ドゥーフが麦酒醸造に至った動機は、文化的な好奇心からではなく、極めて切実な事情によるものであった。当時、彼の祖国オランダはナポレオン戦争の動乱に巻き込まれ、フランスに併合されていた。その影響で、アジアとの航路はイギリスに封鎖され、長崎・出島への補給船が数年間にわたって完全に途絶えてしまったのである 22 。出島のオランダ商館は世界から孤立し、食料や飲料を含む生活必需品が枯渇する事態に陥った。
故郷の味である麦酒が飲めなくなったドゥーフは、自ら醸造することを決意する。彼は、オランダから持ち込んでいたショメール編の家庭百科事典『家政百科』のオランダ語版を参考に、手探りで醸造を試みた 20 。しかし、当時の日本には、麦酒の防腐と香味付けに不可欠なホップが存在しなかった。ドゥーフは自身の回想録に、ホップがなかったために「三、四日しか保たなかった」と記しており、出来上がったものは長期保存の効かない不完全なものであったことがわかる 22 。それでも、これが日本国内で麦酒が醸造された最初の確かな記録である。
戦国時代の葡萄酒と、江戸時代のドゥーフによる麦酒とを比較すると、その歴史的文脈には決定的な違いがある。
第一に、行為の性質が異なる。戦国時代の葡萄酒は、外交や文化交流の一環として外部から「もたらされた(伝来した)」ものであった。それに対し、ドゥーフの麦酒は、外部との接触が絶たれた閉鎖的環境下で、個人的な消費のために「その場で生み出された(自家醸造)」ものである。目的と背景が根本的に異なっている。
第二に、文化の担い手も異なる。戦国期の担い手はカトリック国のポルトガル・スペインであったのに対し、江戸期の担い手はプロテスタント国のオランダであった。布教を固く禁じられていたオランダ人にとって 24 、麦酒は宗教的な意味合いを全く持たない、純粋な嗜好品であり生活必需品であった。この担い手の違いが、もたらされた(あるいは生み出された)文化の質の違いに反映されている。
そして最も重要な点は、歴史の断絶である。ドゥーフの試みは、あくまで個人的・一時的なものであり、彼の離日後、その醸造技術が日本人に継承されたり、麦酒を飲む文化が日本に根付いたりすることはなかった。日本人が初めて麦酒を飲み、その感想を記録に残すのは、さらに時代が下った幕末の1860年(万延元年)、遣米使節団が訪問先のアメリカで振る舞われた時のことである 26 。ドゥーフの醸造は、後の日本のビール産業に直接繋がることのない、孤立した歴史的エピソードとして位置づけられるべきなのである。
本報告書における多角的な検証の結果、以下の結論が導き出された。
当時の日本に実在した舶来の酒は「葡萄酒」であり、それも一般に流通する商品ではなく、ごく一部の権力者たちが外交儀礼や自らの権威の象徴として限定的に消費する、極めて希少な品であった。
日本における麦酒史の真の黎明は、戦国時代から約200年後の江戸時代後期、長崎・出島においてオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフが、補給途絶という非常事態下で行った個人的な自家醸造にその端緒が見られる。しかし、これも後の日本のビール文化に直接繋がるものではなかった。
「戦国時代の麦酒」という、ロマンを掻き立てる魅力的なイメージは、異なる時代の出来事(16世紀の南蛮貿易と19世紀の出島のオランダ人)や、異なる酒(葡萄酒と麦酒)の記憶が混同されて生まれた、後世の創作あるいは誤解である可能性が極めて高い。歴史の探求とは、こうした通説やイメージを史料に基づいて丹念に検証し、より複雑でニュアンスに富んだ真の姿を明らかにする知的作業に他ならない。
項目 |
葡萄酒 (Vinho) |
麦酒 (Cerveja) |
戦国時代の存在 |
○(記録多数あり) |
×(記録なし) |
伝来の担い手 |
ポルトガル・スペインの宣教師、商人 |
(該当せず) |
当時の主な文脈 |
大名への献上品、キリスト教の聖餐用、高級な珍品 |
(該当せず) |
『日葡辞書』(1603)の記述 |
○("budoxu"として明確に記載) 12 |
×(一切の記載なし) 12 |
日本初の醸造記録 |
(明治期まで確かな記録なし) 27 |
19世紀初頭(オランダ商館長ドゥーフによる自家醸造) 19 |
日本人の初飲用記録 |
15世紀末~16世紀中頃(近衛政家、島津貴久など) 16 |
1860年(万延元年遣米使節) 26 |