中富川の戦い(1575)
天正十年、長宗我部元親は本能寺の変後の好機を捉え、中富川の戦いで十河存保を撃破。勝瑞城を攻略し阿波を平定した。四国統一に王手をかけるも、秀吉の四国征伐で夢は潰えた。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
中富川の戦い(天正十年):本能寺の変が拓いた、四国制覇への道
序章:天正十年、四国の天運 ― 本能寺に揺らぐ天下と、必然と化した決戦
導入:運命の分岐点、1582年6月2日
本報告書は、天正10年(1582年)に阿波国で繰り広げられた「中富川の戦い」について、その戦略的背景、戦闘の推移、そして歴史的意義を詳細に分析するものである。利用者様が提示された天正3年(1575年)は、長宗我部元親が四万十川の戦いで一条氏を破り、土佐一国の統一を成し遂げた記念碑的な年であるが 1 、本稿の主題である阿波の雌雄を決したこの合戦は、その7年後に発生した。この正確な年代認識は、合戦の歴史的文脈を理解する上で不可欠である。
天正10年(1582年)5月、四国の情勢は長宗我部元親にとって絶望的な局面を迎えていた。土佐統一後、破竹の勢いで阿波、讃岐、伊予へと勢力を拡大する元親を危険視した天下人・織田信長は、ついに四国征伐を決意。三男の織田信孝を総大将に、三好一族の長老である三好康長を先鋒とする大軍を編成し、まさに渡海せんとする状況にあった 3 。四国全土を覆わんとする織田の大軍を前に、元親の野望は風前の灯火であった。
しかし、同年6月2日、京の都からもたらされた一報が、全ての前提を覆す。「本能寺にて、信長、討ち死に」。明智光秀によるこの謀反は、日本史を揺るがす激震であった。信長の死という予期せぬ事態は、織田の四国征伐軍を瓦解させ、元親にとってはまさに「奇跡的な追い風」となった 3 。一方で、信長を最大の庇護者としていた阿波の十河存保(そごう まさやす)にとっては、それは名門・三好家再興の夢を打ち砕く、破滅への序曲に他ならなかった。
【深層的洞察】本能寺の変が創出した「限定的機会の窓」
本能寺の変が元親にもたらしたものは、単なる「幸運」ではなかった。それは、「限られた時間内に、四国統一という戦略目標を達成しなければならない」という、極めて高度な戦略的判断を強いる「機会の窓(Window of Opportunity)」の創出であった。信長の死によって織田軍の直接的脅威は消滅したものの 4 、元親は中央の権力の空白が永続しないことを正確に理解していた。いずれ信長の後継者を巡る争いが収束し、新たな天下人が定まれば、その視線は再び四国に向けられる。その時、四国がバラバラの状態であれば、個別に撃破されることは自明の理であった。
したがって、元親にとっての最優先課題は、「新たな中央権力が安定する前に、可能な限り迅速に四国全土を実効支配下に置き、既成事実を構築すること」であった。この強烈な時間的制約こそが、後に岡豊城で開かれる軍議において、家老衆が唱えた持久戦という慎重論を退け、一領具足(いちりょうぐそく)らが主張した短期決戦論を元親に採用させる決定的な要因となったのである 4 。中富川の戦いは、単なる領土拡大のための一合戦ではなく、この「時間との戦い」という壮大な大戦略の一環として位置づけられるべき、必然の決戦であった。
第一章:相克する二つの野望 ― 「土佐の出来人」と「没落する名門の末裔」
第一節:長宗我部元親 ― 四国制覇への執念
「土佐の出来人」と称された長宗我部元親は、戦国時代を代表する梟雄の一人である。幼少期は色白で物静かな性格から「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されたが、22歳という遅い初陣「長浜の戦い」で自ら槍を振るって敵陣に突撃し、獅子奮迅の活躍を見せたことで、周囲の評価は「鬼若子(おにわこ)」へと一変した 6 。この逸話は、彼の柔和な外見の内に秘められた、獰猛な武将としての本質を物語っている。
父・国親の跡を継いだ元親は、まず土佐国内の統一事業に邁進。宿敵であった本山氏や安芸氏を滅ぼし、天正3年(1575年)には土佐国司であった一条氏を四万十川の戦いで破り、名実ともに土佐一国を掌握した 1 。しかし、彼の野望は土佐一国に留まらなかった。戦国大名として勢力を維持・拡大するためには、手柄を立てた家臣や、半農半兵の戦闘員集団である一領具足たちに恩賞として与える新たな土地が不可欠であった 7 。山がちで耕地の少ない土佐の国情も、元親を国外への領土拡大へと駆り立てる大きな要因となった。
当初、元親は中央の織田信長と友好関係を築くという巧みな外交戦略を展開した。家臣の明智光秀を介して信長に接近し、嫡男・弥三郎(後の信親)の烏帽子親になることを依頼。信長から「信」の一字を拝領するなど、一時は「四国切り取り自由」の墨付きを得ることに成功する 3 。しかし、元親の勢力が四国全土に及ぶようになると、信長はこれを自らの天下統一事業に対する脅威と見なし、両者の関係は急速に悪化。これが前述の四国征伐計画へと繋がったのである 2 。
第二節:十河存保 ― 三好家再興の悲願を背負いて
元親の前に立ちはだかった十河存保は、かつて畿内に覇を唱えた名門・三好長慶の弟、三好義賢(実休)の次男として生まれた。後に叔父である讃岐の勇将・十河一存の養子となり、十河家を継いだ 10 。彼は、没落しつつあった三好一族の中で、その再興の悲願を一身に背負う最後の有力な後継者であった。
存保を取り巻く状況は過酷であった。兄である阿波国主・三好長治が、家臣団との対立や長宗我部元親の策謀によって非業の死を遂げると、阿波は混乱状態に陥る。存保は三好家の旧領である阿波の支配権を取り戻すべく、讃岐から勝瑞城に入り、織田信長の支援を取り付けて一時的に勢力を回復させた 10 。しかし、その最大の支柱であった信長が本能寺で横死したことで、彼は全ての希望を断たれた。
圧倒的な兵力差にも関わらず、存保が籠城ではなく野戦を選択した背景には、単なる無謀さだけではない、冷徹な現実認識と武門としての矜持があった。信長という後ろ盾を失った今、勝瑞城に籠城して時間を稼いだとしても、外部から救援が来る可能性は万に一つもなかった 5 。兵力で劣る以上、籠城戦は兵糧攻めによる緩やかな死を待つに等しい。ならば、敵の包囲網が完成する前に一か八かの野戦に打って出て、敵の先鋒に痛撃を与えることで活路を見出すほかない。加えて、阿波の国人衆や兵士たちの士気を保つためにも、城に引きこもるという弱腰な姿は見せられなかった。四国のかつての覇者・三好家の末裔としての意地が、彼に中富川での決戦を選ばせたのである 5 。この悲壮な決断は、彼の武将としての生涯を象徴している。
第三節:両軍の戦力 ― 決戦前夜の布陣
中富川での決戦を前に、両軍の戦力は対照的であった。
長宗我部軍は、総兵力23,000を数えた。これは元親が土佐一国から動員しうる最大兵力であり、この一戦で阿波の趨勢を決するという並々ならぬ覚悟を示している 4 。総大将・元親自らが本陣に控え、その弟で勇将として知られる香宗我部親泰、そして武勇の誉れ高い嫡男・長宗我部信親が主力部隊を率いた。
対する十河軍は、阿波・讃岐からかき集めた兵力わずか5,000。数において4倍以上の圧倒的な差をつけられていた 4 。しかし、その中核を成すのは、板西城主・赤沢宗伝、七条城主・七条兼仲、矢上城主・矢野虎村といった、歴戦の三好家譜代の勇将たちであり、その士気は決して低くはなかった。
さらに、この戦いには外部勢力の存在が重要な意味を持っていた。長宗我部軍には、織田信長と長年敵対してきた紀伊の雑賀衆が援軍として加わっていた 4 。彼らは当時最新鋭の兵器であった鉄砲の扱いに長けた、日本最強と謳われた傭兵集団である 14 。その参加は、長宗我部軍の火力を飛躍的に向上させ、戦術の幅を広げる上で大きな意味を持った 16 。
両軍の戦力構成は、以下の表に集約される。
表1:中富川の戦い 両軍戦力比較
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項目 |
長宗我部軍 |
十河(三好)軍 |
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総大将 |
長宗我部元親 |
十河存保 |
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主要武将 |
香宗我部親泰, 長宗我部信親, 桑野康明, 小笠原成助 |
赤沢宗伝, 七条兼仲, 矢野虎村, 三好右衛門 |
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総兵力 |
約23,000 |
約5,000 |
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援軍/同盟 |
雑賀衆 |
(織田信長の後援を喪失) |
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拠点 |
岡豊城(出撃拠点)、一宮城(前線拠点) |
勝瑞城 |
この表が示す圧倒的な兵力差と、援軍の有無という戦略環境の激変は、本能寺の変がいかに両者の運命を分けたかを如実に物語っている。
第二章:決戦の刻 ― 中富川の戦い、時間軸による完全再現
第一節:岡豊城の軍議と出陣(1582年8月)
信長の死という千載一遇の好機を前に、元親の嫡男・信親は逸る心を抑えきれず、即時阿波へ出撃し、十河存保の居城・勝瑞城を攻略すべきだと進言した。しかし元親は、これを冷静に制止する。度重なる出兵による将兵や領民の疲労を考慮し、まずは万全の準備を整えることを優先したのである 4 。
岡豊城内で開かれた軍議は、長宗我部家の進むべき道を巡って二分した。『長元物語』によれば、家老衆は「阿波の中心部は平野であり、大軍を展開するには不利。敵はまだ半国を領しており、兵力も侮れない。まずは国境に近い山城に拠って敵の作物を刈り取り、敵方の疲弊と内部分裂を待つべきだ」という、長期・持久戦を主張した 4 。
これに対し、一領具足衆は全く異なる見解を示した。「この好機を逃せば、羽柴秀吉の甥を養子に持つ三好康長が、畿内からの援軍を率いて阿波に渡海してくるであろう。そうなれば土佐までもが脅かされる。そうなる前に、一気に十河存保を討ち果たし、阿波全土を完全に制圧すべきはこの時をおいて他にない」と、短期決戦を強く主張した 3 。
前述の通り、「時間」という戦略的要素を重視した元親は、一領具足の意見を採用。直ちに「十五歳より六十歳までの男子は、身分を問わず馳せ参じよ。立てた手柄に応じて望み通りの恩賞を与える」との布告を出し、領内から兵を総動員した 4 。こうして集まった23,000の大軍を率い、土佐神社で戦勝を祈願した後、元親はついに岡豊城を出立した。
第二節:進軍と対峙(8月26日~27日)
長宗我部軍は阿波街道を北上し、まず牛岐城(現・阿南市)に入って最終的な軍議を開いた。その後、8月26日には阿波府中(現・徳島市)の南に位置する夷山城、一宮城に到達した 4 。これに対し、十河存保はこれらの支城での防衛を早々にあきらめ、兵力を勝瑞城に集中させるという決断を下す。兵力で劣る以上、戦力を分散させるのは愚策と考えたのである 4 。
8月27日、長宗我部軍は勝瑞城の西方、井戸村(現・徳島市国府町)付近に全軍を集結させ、中富川の南岸に広がる中島に布陣を完了した 4 。
一方、十河軍は勝瑞城を最終防衛拠点とし、その西の守りの要である矢上の勝興寺城(矢上城)を前線本部とした。そして、勝瑞城の天然の堀ともいえる中富川の北岸に、決戦のための防衛線を構築した。川沿い約3kmにわたって土塁や柵を急造し、要所に鉄砲隊を伏せることで、長宗我部軍の渡河を全力で阻止する構えを見せた 17 。阿波の命運を賭けた両軍の対峙が始まった。
第三節:血戦、中富川を染めて(8月28日)
天正10年8月28日、ついに決戦の火蓋が切られた。
正午頃: 長宗我部元親は全軍に出撃を命令。先鋒を務める弟・香宗我部親泰の部隊3,000が、鬨の声を上げ、中富川の対岸目指して突撃を開始した 4 。
渡河作戦: 親泰隊の渡河を合図に、長宗我部軍の主力が動いた。嫡男・信親と一族の長宗我部親吉らが率いる主力部隊14,000が南東から、そして親泰隊が南西から、川を挟んで両翼を広げる形で十河軍の防衛線に殺到。さらに、この戦いを前に元親に恭順していた一宮城主・小笠原成助らの部隊6,000も、北方の黒田ノ原から攻撃に加わり、十河軍は三方から猛攻に晒されることとなった 4 。
十河軍の奮戦: 兵力で4倍以上の敵に包囲されるという絶望的な状況下で、十河軍は驚くべき抵抗を見せた。地の利を生かし、築き上げた防衛線に拠って奮戦。特に、三好家譜代の猛将、板西城主・赤沢宗伝や七条城主・七条兼仲らの部隊は鬼神の如き働きを見せ、長宗我部軍の渡河部隊に多大な損害を与え、一時は戦況を押し戻すほどの勢いであった 3 。
【逸話】赤沢宗伝の最期: この激戦の中、赤沢宗伝は敵将の一人を組み伏せ、鎧通しでとどめを刺そうとした。しかしその瞬間、履いていた草鞋の緒が切れ、体勢を崩してしまう。その隙を突かれ、起き上がった敵将に逆に討たれるという、あまりにも無念な最期を遂げたと伝わる。この逸話は後世、彼の廟所である愛染院(金泉寺奥の院)において、足腰の病を癒すという信仰へと繋がっていった 20 。
決着: しかし、個々の武将の奮戦も、圧倒的な物量の前には及ばなかった。長宗我部軍の波状攻撃の前に、十河軍の防衛線は次第に崩壊。矢上城主・矢野虎村、下六条城主・三好右衛門、坂東城主・坂東清利、そして七条兼仲、赤沢宗伝といった、三好家の屋台骨を支えてきた阿波の城主たちが次々と討死していった 4 。十河軍は壊滅的な打撃を受け、もはや野戦での抵抗は不可能と判断した存保は、わずかに残った兵力を率いて本拠・勝瑞城へと敗走した。
第四節:天災と人災 ― 湖と化した戦場(9月5日~20日)
野戦に勝利した長宗我部軍は、間髪入れずに敗走する十河軍を追撃し、勝瑞城を完全に包囲。阿波の覇権を賭けた戦いは、攻城戦という新たな段階へと移行した 4 。
9月5日: この膠着した戦況を一変させる、予期せぬ事態が発生する。突如として天候が崩れ、5日間にわたって記録的な豪雨が阿波一帯を襲ったのである 4 。
戦場の湖沼化: この豪雨により、四国三郎の異名を持つ吉野川の本流と、その支流である中富川が氾濫。勝瑞城が位置する低湿な板野平野一帯は、瞬く間に水没し、見渡す限りの広大な湖へと姿を変えた 4 。
長宗我部軍の苦境: 攻城戦の準備を進めていた2万を超える長宗我部の大軍は、完全に攻め手を失った。兵士たちは濁流から逃れるため、周辺の民家の屋根や木の上に登って避難するほかなく、完全に身動きが取れない状態に陥った 4 。
十河軍の奇襲: この天災を天佑と見た存保は、大胆な反撃に打って出た。城から多数の小舟を出撃させ、水上を自在に移動しながら、孤立無援となった長宗我部兵を攻撃したのである。屋根や木の上でなすすべもない敵兵を、小舟の上から長槍で突き、あるいは鉄砲で狙撃するという、凄惨なゲリラ戦を展開。この奇襲により、優位にあったはずの長宗我部軍は一方的に多大な損害を被ることとなった 4 。
【深層的洞察】洪水に関する史料の矛盾と解釈
この洪水については、史料によって二系統の記述が存在する。一つは、8月28日の野戦の最中に、長宗我部軍が戦術として予め堰き止めておいた川の水を放流したというもの 18。もう一つは、9月5日からの自然の豪雨によって大洪水が発生したというものである 4。
これらの記述を検討すると、8月28日の「堰を切った」という話は、戦術的に敵の渡河を妨害する程度の小規模なものであったか、あるいは『長元物語』のような軍記物に見られる英雄譚的な脚色である可能性が高い。平野全体を湖に変えるほどの大洪水を人為的に引き起こすのは、当時の技術では極めて困難であったと考えられる。一方で、9月の豪雨による大規模な自然洪水は、複数の史料で記述が一致しており、吉野川流域が古来より水害の多発地帯であったという地理的特性 23 を踏まえれば、極めて信憑性が高い。
結論として、戦術的な小規模の放水があった可能性は否定できないものの、戦局そのものを大きく左右し、合戦を長期化させた最大の要因は、9月に発生した自然の大洪水であったと解釈するのが最も合理的である。この天災が、圧倒的優位にあった長宗我部軍の足を止め、十河存保に一縷の望みを与えたのであった。
第五節:勝瑞城、落つ(9月21日)
数日後、降り続いた雨がようやく止み、平野を覆っていた水が引き始めると、戦いは最終局面を迎えた。長宗我部軍は陣形を立て直し、勝瑞城への総攻撃を再開。城の内外で、両軍の兵士が入り乱れる激しい白兵戦が繰り広げられた 4 。
城兵の奮戦も空しく、大勢は覆らない。追い詰められた存保は、自ら手勢を率いて敵本陣に突撃し、玉砕することを覚悟した。しかし、側近であった東村備後守の必死の諫言を受け入れ、最後の突撃を断念する 4 。
もはや万策尽き、全ての望みを絶たれた存保は、ついに降伏を決意した。天正10年9月21日、元親に降伏の誓詞を入れ、勝瑞城を明け渡すことを条件に、身の安全を保障された 4 。
阿波における三好氏支配の象徴であった勝瑞城は、こうして落城。十河存保は、わずかな家臣と共に、再起を期して讃岐の虎丸城へと寂しく退去していった 4 。
第三章:阿波平定と新たなる動乱の予兆
第一節:非情なる戦後処理
中富川の戦いで阿波の主要な城主のほとんどが戦死したことにより、国内に残っていた諸城は戦わずして次々と長宗我部氏に降伏した 4 。しかし、元親の阿波平定は、単なる軍事征服だけでは終わらなかった。彼は、支配を盤石にするため、冷徹非情な戦後処理に着手する。
その標的となったのは、意外にもこの戦いで味方として参陣した、一宮城主・小笠原成助と富岡城主・新開道善であった。元親は彼らに「三好方への内通」という謀反の嫌疑をかけ、和議や論功行賞を装って呼び出し、有無を言わさず謀殺するという手段に打って出たのである 3 。
この味方に対する粛清は、単なる元親の猜疑心から来たものではない。それは、阿波を恒久的に支配するための、極めて冷徹な政治的計算に基づいていた。小笠原成助のような在地領主は、元々は三好氏の配下であり、長宗我部優勢という状況を見て味方に付いただけの、いわば「機会主義的な同盟者」に過ぎない。将来、中央の情勢が変化し、三好残党や新たな勢力が阿波に介入してきた場合、彼らが再び寝返る可能性は十分にあった。そのような不安定要素を抱えたままでは、阿波を四国統一の拠点とすることはできない。
したがって、元親は彼らを「裏切りの疑い」という口実で排除し、その非情な処置を見せつけることで他の国人衆を恐怖によって完全に屈服させた。そして、空いた城には弟の香宗我部親泰をはじめとする一族や譜代の家臣を配置し、阿波の直接支配体制を確立したのである。これは、戦国大名が征服地を安定させるための常套手段であり、元親の政治家としての一面を色濃く示している。
第二節:四国統一への王手と束の間の栄光
戦後処理を終えた元親は、阿波国内の残敵掃討を進めた。勝瑞城を破却して三好氏支配の象徴を消し去り、岩倉城に籠る三好康俊を攻略 3 。さらに天正11年(1583年)には、木津城の篠原自遁を淡路へと追放し、阿波国内の抵抗勢力は土佐泊城の森村春を除いてほぼ一掃された 4 。
中富川の戦いにおける決定的勝利により、阿波一国は完全に長宗我部氏の手に落ちた。これにより元親は、父祖の代からの悲願であった四国統一に、ついに王手をかけることとなる 5 。この勢いのまま讃岐、伊予へと侵攻し、天正13年(1585年)春には伊予の河野氏を降伏させ、事実上、四国全土をほぼ手中に収めるに至った 2 。長宗我部元親の栄光は、まさに頂点に達したのである。
第三節:中央の嵐 ― 秀吉の影
しかし、元親が四国平定という内なる戦いに邁進している間、中央の情勢は目まぐるしく変化していた。本能寺の変後の混乱を、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと立て続けに制した羽柴(豊臣)秀吉が、新たな天下人として急速に台頭していたのである。
秀吉は、かつての織田信長がそうであったように、長宗我部氏による四国の私的支配を断じて認めなかった 28 。元親が四国統一をほぼ成し遂げた天正13年(1585年)、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将とする10万を超える大軍を四国へ派遣する。世に言う「四国征伐」である。
阿波、讃岐、伊予の三方から上陸した豊臣軍の圧倒的な物量の前に、元親の築き上げた四国支配はあまりにも脆く、わずか2ヶ月ほどで崩壊。元親は降伏を余儀なくされ、領地は先祖伝来の土佐一国のみ安堵されるという結果に終わった 6 。中富川の戦いからわずか3年、四国の覇者としての元親の夢は、天下統一というさらに大きな時代の奔流に飲み込まれ、儚く消え去った。
結論:中富川の戦いが歴史に残した意味
天正10年(1582年)の中富川の戦いは、四国の戦国史において極めて重要な画期をなす合戦であった。その歴史的意義は、以下の三点に集約される。
第一に、この戦いは 長宗我部元親の軍事的キャリアにおける頂点 であった。土佐の一豪族から身を起こした元親が、四倍以上の兵力差をもって阿波の旧支配者を打ち破ったこの勝利は、彼を名実ともに四国の覇者へと押し上げた、最大かつ最も決定的な戦果であった。
第二に、この戦いは 戦国大名・三好氏の完全なる終焉 を意味した。かつては畿内を支配し、室町幕府をも動かした名門・三好氏は、この戦いで阿波における支配体制を物理的にも、そして赤沢宗伝や七条兼仲といった有能な家臣団という人材的にも、完全に破壊された。これにより、戦国大名としての三好氏の歴史は、事実上の終止符を打たれたのである 21 。
第三に、この戦いは 戦国期四国の勢力図を完成させると同時に、その短命さをも象徴する ものであった。この勝利によって、四国は「長宗我部氏による統一」という形で、歴史上初めて、そして唯一、一つの政治的勢力圏としてまとまりを見せた。しかし、その統一は、中央で確立されつつあった豊臣政権という巨大な権力の前に、あまりにも脆く、儚いものであった。中富川の戦いは、戦国時代の四国における最後の、そして最大の地域内抗争であり、その終結は、四国が「独立した地域」としての時代を終え、日本の統一国家体制へと組み込まれていく新たな時代の幕開けを告げるものであった 5 。
引用文献
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- 長宗我部元親 - 幕末から維新・土佐の人物伝 https://www.tosa-jin.com/tyousogabe/tyousogabe.htm
- 「中富川の戦い(1582年)」長宗我部氏が阿波国を制圧する分け目の戦。三好との激戦で勝瑞城を攻略! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/46
- 中富川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AF%8C%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 中富川の戦い - 戦国のすべて https://sgns.jp/addon/p.php?p=177&uid=NULLGWDOCOMO
- 長宗我部元親の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8098/
- (5)長宗我部元親の四国統一 https://www.city.nankoku.lg.jp/download/?t=LD&id=3269&fid=18695
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- 長宗我部VS三好の最終決戦となった『中富川の戦い』!その激戦の行方とは?前編 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=8BUzTXV_o_0
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- 紀伊国・雑賀の里 - 和歌山市観光協会 https://www.wakayamakanko.com/img/pdf_saika.pdf
- 雑賀衆 と 雑賀孫市 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/saiga.htm
- 信長6万の軍勢をも退けた雑賀孫一と鉄砲衆...秀吉・家康も恐れた「雑賀衆」の強さとは? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/9889
- 長宗我部元親、四国をほぼ制覇 /そして四国統一の最終段階で、完全に孤立す。/ 中富川の戦い/ 引田の戦い - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ktwztq8kqbw
- 中富川の合戦 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Nakatomigawa.html
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- 阿波 板西城 中富川の戦における三好方の勇士・赤澤宗伝の史跡を訪ねて http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-438.html
- 長宗我部VS三好の最終決戦となった『中富川の戦い』!その激戦の行方とは?後編 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Sw6y1vKCixQ
- [合戦解説] 10分でわかる中富川の戦い 「長宗我部元親と四国統一の夢」 /RE:戦国覇王 https://www.youtube.com/watch?v=C_Fpe-3Eu6E
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- 古戦場めぐり「中富川の戦い(徳島県徳島市)」 | mixiユーザー(id:7184021)の日記 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1954438481&owner_id=7184021
- 【長宗我部元親・後編】天下人の下で戦う元親に起こった悲劇とは?ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 第15回 - 城びと https://shirobito.jp/article/1577