堀江川口の戦い(1576)
天正四年、石山合戦の最中、毛利水軍は織田水軍を木津川口で撃破。村上水軍の焙烙火矢が猛威を振るい、本願寺への兵糧搬入に成功。この敗北が信長に鉄甲船建造を決意させ、日本の海戦史を転換させた。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
天正四年 木津川口海戦 ―制海権、信仰、そして天下の行方―
序章:石山を巡る十年戦争の転換点
本報告書は、天正4年(1576年)7月13日に摂津国大阪湾奥で繰り広げられた「堀江川口の戦い」について、その戦略的背景、戦術的展開、技術的側面、そして歴史的影響の四つの視点から、徹底的に分析・詳述するものである。この合戦は、歴史学的には一般に「第一次木津川口の戦い」として知られている 1 。これは、戦いの主戦場が、当時、巨大な城郭都市であった石山本願寺の生命線であった木津川の河口域であり、その制海権の奪取こそが合戦の至上目的であった事実を的確に示しているためである 2 。
この一戦は、単なる局地的な海戦に留まるものではない。元亀元年(1570年)より続く、織田信長の天下統一事業における最大の障害であった石山合戦の趨勢を、根本から揺るがすほどの衝撃をもたらした。織田方による石山本願寺への兵糧攻めを完膚なきまでに打ち破り、反信長勢力の士気を大いに高揚させたのである。特に、救援を成功させた毛利家の威信は最高潮に達し、西国における反織田包囲網の中核としての地位を不動のものとした。
しかし、歴史の皮肉は、この毛利方の完全勝利が、旧来の海戦術の時代の終焉を告げる号砲となった点にある。この屈辱的な大敗こそが、織田信長に「火攻めに屈しない船」という、前代未聞の発想を抱かせ、日本の海戦史に革命をもたらす「鉄甲船」を誕生させる直接的な引き金となったからである 3 。したがって、第一次木津川口の戦いは、戦国時代の海戦術、兵器開発、そして天下の行方そのものに決定的な影響を与えた、極めて重要な歴史的転換点として位置づけられる。
第一章:開戦前夜 ― 膠着する大坂包囲網
第一節:織田信長の天下布武と石山本願寺
天正4年(1576年)の時点で、織田信長と石山本願寺との所謂「石山合戦」は、既に6年の長きにわたって続いていた 6 。当初、信長は畿内における三好三人衆の掃討作戦の過程で本願寺勢力と衝突したが、法主・顕如が全国の門徒に檄を飛ばしたことで、戦線は紀伊、伊勢長島、越前など各地に拡大し、信長の天下統一事業における最大の障害となっていた 8 。
信長は、天正2年(1574年)に伊勢長島の一向一揆を根切りにし、翌年には越前の一向一揆も殲滅するなど、各地の門徒勢力を力で制圧していった 10 。そして、その矛先は総本山である石山本願寺に向けられた。石山本願寺は、現在の大阪城一帯に位置し、淀川、大和川などが流れ込む天然の要害に築かれた巨大な城郭都市であった 2 。信長は、この難攻不落の要塞を武力で攻め落とすことの困難さを認識し、周囲に砦を築いて三方から陸路を完全に包囲、補給を断つ「兵糧攻め」へと戦術を転換した 3 。
陸路を完全に遮断された石山本願寺にとって、唯一外部世界と繋がる道は、大坂湾に通じる木津川の河口であった。この水路を経由して、紀伊の雑賀衆など同盟勢力からの兵糧や弾薬の補給が細々と続けられており、まさに本願寺の生命線となっていた 7 。したがって、この木津川口を海上から封鎖し、本願寺を完全な孤立状態に陥れることが、信長にとっての最重要戦略目標となったのである。
第二節:反信長包囲網の西の中核、毛利家の動座
追い詰められた本願寺が最後の望みを託したのが、中国地方の覇者、毛利家であった。この毛利の動座の背景には、備後国に亡命中の前将軍・足利義昭の存在があった。義昭は、自らを京から追放した信長を打倒すべく、各地の有力大名に御内書を送り、執拗に反信長包囲網の形成を画策していた 13 。天正4年(1576年)春、義昭は本願寺の顕如と連携し、毛利輝元に大坂への出兵を強く促したのである 7 。
輝元にとって、本願寺支援は単なる将軍の要請に応えるという義理だけの問題ではなかった。当時、毛利家は備中兵乱を制し、宇喜多直家と同盟して備前・美作へと勢力を拡大するなど、東進の勢いを強めていた 7 。その先には、いずれ織田家との全面衝突が避けられないことは明白であった。本願寺を支援することは、信長の勢力を畿内に釘付けにし、毛利家の東方における戦略的優位を確保するための、極めて合理的な政治的・軍事的判断だったのである 7 。
輝元は、本願寺からの救援要請と義昭の檄に応じる形で、大々的な兵糧・弾薬の輸送を決定。その実行部隊として、瀬戸内海の制海権を掌握する毛利水軍の派遣を命じた。さらに輝元の視野は広く、甲斐の武田勝頼や越後の上杉謙信にも書状を送り、信長の背後を突くよう要請するなど、多方面での連携を画策していた 14 。これは、木津川口への水軍派遣が、より大きな対信長戦略の一環として位置づけられていたことを示している。
この一連の動きは、石山合戦の様相を大きく変質させた。当初は織田家と本願寺という宗教勢力との二者間の対立であったものが、毛利家という西国の大大名を巻き込み、将軍の権威を背景とした「代理戦争」の色彩を帯び始めたのである。本願寺は、自らの信仰と組織力だけでなく、外部の軍事力を引き込む「外交」という手段によって、絶体絶命の窮地から活路を見出そうとしていた。戦国後期の合戦が、単一勢力同士の衝突から、複数の勢力が複雑に連携・対立する、より広域なものへと変質していく過程を、この毛利家の参戦は象徴していた。
第二章:激突する二つの水軍 ― その戦力と戦術思想
第一節:「海の王者」毛利水軍の実像
毛利家の水軍は、その組織、練度、戦術思想において、戦国時代屈指の精鋭部隊であった。その統括は、毛利元就の三男であり、知将として名高い小早川隆景が担っていた 16 。そして、木津川口へ派遣された艦隊の現場指揮は、村上元吉や乃美宗勝といった歴戦の将が執った 7 。
この水軍の中核を成していたのが、「日本最大の海賊」と称された村上水軍である 2 。彼らは能島・来島・因島の三島を拠点とし、瀬戸内海の広大な海域を支配していた 19 。彼らは単なる大名傘下の兵というよりも、卓越した航海術と戦闘技術を背景に、水先案内や海上警護、時には傭兵として合戦に参加することで生計を立てる、独立性の高い海の専門家集団であった 19 。特に、瀬戸内海の複雑な潮流を完璧に読み解き、自在に船を操る能力は他の追随を許さず、その独自の戦闘教義は「三島流」として体系化され、後世にまで伝えられている 21 。
さらに、この度の出兵では、紀伊国を本拠とする鉄砲傭兵集団・雑賀衆も毛利方に加わっていた。彼らは和泉国貝塚で毛利水軍本隊と合流し、大船団の一翼を担った 10 。雑賀衆は、機動力に優れた小型船団を運用し、得意とする鉄砲射撃によって織田方を攻撃、毛利方の勝利に大きく貢献したと記録されている 25 。
毛利方の艦隊は、総勢600艘から800艘に及ぶ大船団であり、数において織田方を圧倒していた 1 。その構成は、大型の安宅船も含まれていたものの、主力は機動力に優れた関船や、村上水軍が得意とした小早であった 26 。そして、この戦いの帰趨を決した必殺兵器が「焙烙火矢(ほうろくひや)」である。これは素焼きの壺や玉に火薬を詰めた一種の手榴弾で、敵船に投げ込むと炸裂し、轟音と共に破片と火炎を撒き散らして船体と乗員に壊滅的な打撃を与える、恐るべき兵器であった 1 。
第二節:寄せ集めの織田水軍
対する織田方の水軍は、その成り立ちにおいて毛利水軍とは対照的であった。信長の急速な勢力拡大に伴い、急遽編成された「臨時編成軍」の性格が強かったのである。艦隊の指揮を執ったのは、和泉国の国人領主であった真鍋貞友(七五三兵衛)や沼間伝内(沼野伝内)といった在地勢力であった 7 。彼らは元々、和泉沿岸で活動していた水軍衆であり、信長に服属して大坂湾の海上警固の任に当たっていたが、毛利の正規水軍と大規模な海戦を繰り広げた経験は乏しかったと考えられる 29 。
この戦いにおける織田方の最大の弱点は、本来であれば織田家最強の水軍を率いるべき九鬼嘉隆が参戦していなかったことである 30 。嘉隆は天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆の鎮圧において、軍船を駆使した巧みな戦術で大功を挙げていた 10 。しかし、天正4年当時は、本拠地である志摩・伊勢方面において、信長に反旗を翻した北畠氏への対応などに追われており、大坂湾の決戦に駆けつけることができなかったのである 10 。主力指揮官の不在は、寄せ集めであった織田水軍の指揮系統と士気に深刻な影響を与えたことは想像に難くない。
織田方の艦隊は、総勢約300艘 1 。数隻の大型安宅船を中核に据え、その周囲を関船などの小型船で固める陣形を採っていた 10 。これは、安宅船の持つ高い防御力と、搭載された大鉄砲などの火力によって敵船を寄せ付けず、木津川河口を物理的に封鎖するという、比較的正攻法な戦術であった。
この両軍の構成は、単なる兵力差(2倍以上)以上に、軍の「質」の決定的な差異を示している。毛利水軍が、長年にわたり瀬戸内海という実戦の場で鍛え上げられ、統一された戦闘教義を持つ「海の専門家集団」であったのに対し、織田水軍は、信長の陸上での覇権確立に伴い、急遽その支配下に組み込まれた在地勢力中心の「臨時編成軍」であった。信長がこの重要な海域の封鎖を、主力たる九鬼嘉隆ではなく在地勢力に任せていたという事実は、彼が毛利水軍の真の実力と、この海戦の戦略的重要性を過小評価していた可能性を示唆している。この戦いは、兵器の優劣以前に、組織としての練度、経験、そして指揮系統の差が、勝敗の根底にあったのである。
表1:両軍戦力比較
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項目 |
毛利方水軍(本願寺支援軍) |
織田方水軍(本願寺包囲軍) |
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総指揮 |
毛利輝元(全体)、小早川隆景(水軍統括) |
織田信長 |
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現場指揮官 |
村上元吉、乃美宗勝、浦宗勝 など |
真鍋貞友、沼間伝内 など |
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中核戦力 |
村上水軍、小早川水軍、雑賀水軍 |
和泉・摂津の国人水軍衆 |
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推定艦船数 |
約600~800艘 |
約300艘 |
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主力艦種 |
関船、小早 |
安宅船、関船 |
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特殊兵器 |
焙烙火矢(ほうろくひや) 、火矢 |
大鉄砲、火矢 |
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戦術的特徴 |
潮流を利用した機動戦、焙烙火矢による面制圧 |
安宅船を主軸とした海上封鎖 |
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組織的特徴 |
海の専門家集団(常設軍) |
在地勢力の連合体(臨時編成軍) |
第三章:血戦、大阪湾 ― 木津川口の一日(時系列解説)
天正4年7月13日 未明~早朝:毛利大船団、大阪湾に現る
夜の闇が白み始める頃、大阪湾に未曾有の大船団が出現した。毛利輝元の命を受け、瀬戸内海を東進してきた毛利水軍である。その数、実に600艘から800艘 2 。兵糧米8万俵をはじめとする膨大な物資を積んだ輸送船団を、村上元吉率いる精鋭の戦闘艦隊が厳重に護衛する堂々たる陣容であった 10 。淡路島の南を回り込み、紀淡海峡を抜けて湾内に侵入した船団は、和泉国貝塚の沖合に達する。そこでは、同盟軍である雑賀衆の船団が待ち構えていた。両軍はここで合流し、最終的な作戦会議を行った後、決戦の地、木津川河口へと進路を向けた 10 。
午前:織田水軍、迎撃態勢を完了
毛利大船団来襲の報は、直ちに織田方の陣営に伝わった。真鍋貞友、沼間伝内らが率いる織田水軍約300艘は、急ぎ木津川河口へと進出する 7 。彼らは、数隻の大型安宅船を艦隊の中央に防波堤のように配置し、その左右を関船で固め、河口を完全に塞ぐ横一列の海上封鎖線を形成した 10 。彼らに与えられた任務はただ一つ、いかなる犠牲を払ってでも毛利の輸送船を本願寺に近づけないことであった。戦場となった大阪湾奥は、複数の河川が流れ込み、浅瀬や干潟が点在する複雑な地形をしていた 2 。風向きや潮の流れが船の動きを大きく左右するため、両軍の指揮官は刻一刻と変わる海の状況を睨みながら、静かな、しかし張り詰めた緊張の中で対峙した 23 。
正午過ぎ:戦端、開かる
膠着状態を破ったのは毛利方であった。まず、艦隊の中から機動力に優れた小早を中心とする数十艘の先鋒隊が飛び出し、織田方の封鎖線へと接近を開始する。これは、敵の陣形と戦意を探るための陽動であった 26 。対する織田方の安宅船は、これを好機と見て、射程の長い大鉄砲の火蓋を切った。轟音とともに鉛の弾が毛利方の小早に殺到するが、熟練の操船技術を持つ村上水軍の兵士たちは、巧みに船を操ってこれを回避し、決定的な打撃を受けない。海戦の火蓋は切られたが、まだ両軍ともに本格的な衝突には至っていなかった。
午後:焙烙火矢、戦場を覆う
陽動部隊が織田方の注意を引きつけている隙に、毛利水軍の主力が動いた。村上水軍の真骨頂である、小早船団による集団突撃戦術である。彼らは瀬戸内の海で培った巧みな操船術を駆使し、織田方の大型安宅船の懐へと猛然と突進していく 19 。安宅船は堅牢で火力も高いが、その巨体ゆえに小回りが利かない。村上水軍の小早は、その死角に巧みに入り込み、瞬く間に安宅船を取り囲んだ。
そして、この海戦の勝敗を決する兵器が解き放たれる。「焙烙火矢」である。安宅船に肉薄した毛利方の兵士たちは、次々と焙烙の導火線に火をつけ、織田方の船の甲板めがけて投げ込んだ 27 。着弾した焙烙は、凄まじい爆音と共に炸裂。陶器の破片が高速度で飛散し、周囲の兵士を殺傷する。それ以上に致命的だったのは、炸裂と同時に撒き散らされる火炎であった 26 。当時、船の主材料は木材であり、防水のために油や松脂が塗られていた。焙烙の火は瞬く間に船体へと燃え移り、織田方の艦船は次々と炎上していった 1 。戦場は、爆発音、炎、黒煙、そして負傷者の断末魔の叫びが渦巻く、阿鼻叫喚の地獄と化した。
この戦いは、両軍の戦術思想の衝突でもあった。織田方の戦術は、安宅船という防御力の高い「点」のプラットフォームから、大鉄砲という「点の火力」で敵を遠距離から撃破する思想に基づいていた。一方、毛利方の戦術は、焙烙火矢という兵器を多数の小型船から広範囲に投擲し、敵陣に浸透して内部から破壊する「面の制圧」思想であった。結果として、機動力と連携を活かして懐に飛び込んだ毛利方の「面の制圧」戦術が、織田方の「点の火力」が有効に機能する前に、そのプラットフォーム自体を焼き払い、破壊してしまったのである。
夕刻:織田艦隊の壊滅と勝敗の決着
焙烙火矢による猛攻を受け、織田艦隊は完全に指揮系統を失い、大混乱に陥った。炎上する船から海へ飛び込む者、燃え盛る船上でなすすべもなく討ち取られる者。その混乱の中、艦隊を率いていた真鍋貞友、沼間伝内、そして伝内の父・伊賀守、一族の沼間義清らが相次いで討死を遂げた 28 。将を失った織田水軍は、もはや組織的な抵抗を続けることができず、完全に壊滅。残存艦は堺などへ算を乱して敗走していった。
海上封鎖線は完全に崩壊した。毛利方の護衛艦隊が敗走する織田の残敵を掃討する中、後方に控えていた輸送船団が、悠々と木津川を遡上し、石山本願寺の城内へと大量の兵糧と弾薬を運び込んだ 1 。陸上からこの光景を目の当たりにした本願寺の籠城兵や門徒たちは、救いの神の到来に歓喜の声を上げ、その声は大阪湾まで響き渡ったと言われている。毛利水軍の、戦術的にも戦略的にも完璧な勝利であった。
第四章:勝者の歓喜と敗者の屈辱 ― 戦いの帰結と影響
第一節:本願寺、息を吹き返す
第一次木津川口の戦いにおける毛利方の勝利は、石山本願寺にとってまさに干天の慈雨であった。大量の兵糧と弾薬が運び込まれたことで、籠城を継続する力と士気を回復し、信長の兵糧攻めは完全に破綻した 1 。これにより、10年に及ぶ石山合戦はさらに長期化することとなり、信長の天下統一事業に大きな遅滞をもたらした 35 。
一方、勝利した毛利家は、当時最強と謳われた織田軍に(水上とはいえ)完勝したことで、その武威を天下に轟かせた。将軍・足利義昭を擁し、反信長勢力の盟主としての威信は揺るぎないものとなり、西国における毛利家の影響力は頂点に達した。
第二節:信長の怒りと新たなる構想
自慢の水軍が、為すすべもなく壊滅したという報告は、織田信長に激しい衝撃と屈辱を与えた。しかし、信長という人物の非凡さは、単に感情に溺れることなく、敗因を冷徹に分析し、次なる一手を構想した点にある。彼は、毛利水軍の勝因が焙烙火矢という火器にあることを見抜いた。そして、導き出した結論は、「敵の攻撃が火であるならば、燃えない船を造ればよい」という、常人には思いもよらない、合理的かつ革新的なものであった 3 。
信長は直ちに、配下で最も信頼する水軍の将・九鬼嘉隆を呼び寄せ、前代未聞の巨大船の建造を厳命した 2 。これが後に「鉄甲船」と呼ばれる、日本の海戦史を塗り替える軍船である。その特徴は、船体の主要部分を鉄板で覆うことで焙烙火矢や火矢に対する防御力を飛躍的に高め、さらに当時最新の大砲や大鉄砲を多数搭載することで、従来の軍船とは比較にならないほどの圧倒的な火力を備えることにあった 18 。
第三節:第二次木津川口の戦いへの序曲
この屈辱的な敗戦から2年後の天正6年(1578年)11月、信長の厳命によって建造された6艘の鉄甲船を中核とする新生・九鬼水軍が、再び木津川口で毛利水軍と激突する(第二次木津川口の戦い) 7 。毛利方は、2年前の勝利の再現を狙い、再び焙烙火矢を主力兵器として戦いを挑んだ。しかし、鉄の装甲で覆われた鉄甲船には焙烙火矢の炎も爆風も全く通用せず、逆に鉄甲船が搭載した大砲が一斉に火を噴き、毛利方の指揮官が乗る船を粉砕した 18 。
戦いの様相は2年前とは完全に逆転していた。伝統的な戦術が、全く新しい技術の前に完全に無力化されたのである。毛利水軍は甚大な被害を受けて敗走し、織田方は見事に雪辱を果たした 2 。この勝利によって大坂湾の制海権は完全に織田方のものとなり、石山本願寺は外部からの補給を完全に断たれた。経済的に追い詰められた本願寺は、この2年後の天正8年(1580年)、ついに信長との和睦を受け入れ、10年以上にわたる戦いに終止符を打つことになる 2 。
この一連の出来事は、第一次木津川口の戦いが、日本の海戦史における大きな分水嶺であったことを示している。この戦いで頂点を極めた「焙烙火矢と小早による近接破壊戦術」は、皮肉にも、その敗北から生まれた「鉄甲船による装甲と大砲による遠距離砲撃戦術」によって、わずか2年で時代遅れのものとされた。信長の敗戦からの学びと革新は、日本の海戦のパラダイムを、「人」の技量と「船」の機動力が主体であった時代から、「技術」の優越と「兵器」の火力が雌雄を決する時代へと、大きく転換させる引き金となったのである。
終章:歴史を変えた海戦
天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いは、瀬戸内海の潮流を知り尽くした村上水軍の卓越した操船術、焙烙火矢という画期的な兵器、そしてそれを支える組織としての練度において、毛利水軍が織田水軍を圧倒した、戦術的には必然の勝利であった。それは、中世以来の日本の伝統的な海戦術が、その到達点として最後に放った鮮烈な輝きであったとも言える。
しかし、この戦いの真の歴史的意義は、その勝利そのものよりも、敗者にもたらした影響の大きさにある。この一戦は、焙烙火矢の絶大な有効性を証明すると同時に、その根本的な対策の必要性を織田信長に痛感させた。そして、その敗北から生まれた鉄甲船という全く新しい概念の兵器は、その後の日本の海戦のあり方を不可逆的に変えてしまった。
一度の完膚なきまでの敗戦を、単なる屈辱として終わらせない。その原因を徹底的に分析し、常識を覆す発想で対抗策を編み出し、最終的に勝利を手にする。この海戦の顛末は、織田信長という人物の持つ革新性と、失敗から学び次へと繋げる驚異的な適応能力を、何よりも雄弁に物語っている。この日の大阪湾での大敗なくして、後の織田水軍の覇権、ひいては信長の天下統一事業の完成はなかったと言っても過言ではないだろう。第一次木津川口の戦いは、まさに歴史を変えた海戦として、戦国史にその名を深く刻んでいるのである。
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- 戦国武将から学ぶVol. 1 織田信長「信長の合戦に見る人材活用術」 - d's JOURNAL https://www.dodadsj.com/content/200209_sengoku001/
- 第二次木津川口の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 木津川口海戦(第一次・第二次)/ 雑賀攻め |失敗続きの信長、大規模海戦を決断!! - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=UtnB3hwS__E
- 燃えない甲鉄船で毛利船団を殲滅! 九鬼嘉隆は日本一の海賊大名と呼ばれたが… - 歴史人 https://www.rekishijin.com/18021
- 「石山本願寺合戦」~木津川口海戦 - 新庄まつり https://shinjo-matsuri.jp/db/2019_1