最終更新日 2025-09-10

大和川口・博労淵の戦い(1614)

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大坂冬の陣 序盤の崩壊 ― 木津川口・博労淵の戦い(慶長十九年)の時系列による徹底分析

序章: 大坂城、西方の脆弱性

慶長19年(1614年)、徳川と豊臣の間に横たわっていた最後の細い糸は、ついに断ち切られた。方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文を口実に、徳川家康は豊臣家殲滅の最終段階へと駒を進めた 1 。関ヶ原の戦いを経て、かつて天下を覆った豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約65万石にまで削り取られ、その権威は往時の影もなかった 2 。しかし、大坂城には「太閤の子」豊臣秀頼を慕い、あるいは徳川の世に不満を抱く浪人たちが全国から集結し、その数10万ともいわれた。こうして、戦国最後の、そして最大の大戦である大坂の陣の幕が上がったのである。

豊臣方の首脳部では、開戦を前に軍議が紛糾していた。大野治長ら奉行衆が、天下の名城たる大坂城に籠もって徳川の大軍を迎え撃つ籠城策を主張したのに対し、真田信繁(幸村)や後藤基次といった歴戦の浪人衆は、徳川軍が完全に集結する前に宇治・瀬田といった要衝で積極的に迎撃すべきだと訴えた 3 。議論の末、採用されたのは両者の中間ともいえる「準籠城策」であった。すなわち、大坂城本体だけでなく、城を三重に囲む広大な惣構と、その外側に点在する砦群を防衛ラインとし、徳川軍の接近を阻むという戦略である。しかし、この戦略的不統一は、結果として各砦の連携不足と指揮系統の混乱を招く温床となり、序盤戦における豊臣方の致命的な弱点を露呈することになる。

特に大坂城の西方に位置する木津川河口部は、戦略的に極めて重要な意味を持っていた。この一帯は、大坂湾を通じて兵糧や弾薬、兵員を城内へ運び込むための生命線であり、水上交通の要衝であった 4 。かつて織田信長が石山本願寺を攻めた際、毛利水軍がこの木津川口から兵糧を運び込み、信長を苦しめた歴史がその重要性を物語っている 5 。徳川家康がこの補給路の遮断を最優先課題の一つと捉えていたことは疑いようがない。この生命線を守るため、豊臣方は木津川と尻無川が合流する地点に木津川口砦と博労淵砦を築き、西の守りの要とした 6 。これらの砦は、土塁や堀、柵などを組み合わせた戦国時代の典型的な防御施設を備えていたと推測される 8

対する徳川方は、慶長19年11月までに20万ともいわれる大軍を大坂城周辺に展開させ、完全な包囲網を完成させた 10 。家康は、この重要な西方戦線に、阿波の蜂須賀至鎮、紀伊の浅野長晟、備前の池田忠雄といった、かつて豊臣恩顧でありながら徳川方についた外様大名を巧みに配置した 1 。これは、彼らの忠誠心を試すと同時に、地の利に明るい彼らを効果的に活用するという、家康の老練な人事戦略の表れであった。

こうして、大坂城西方の河口部をめぐる攻防は、大坂冬の陣全体の趨勢を占う最初の試金石となった。そして、その戦いは、豊臣方の組織的な欠陥を浮き彫りにし、わずか10日あまりで外郭防衛線を崩壊させる一連の戦闘の始まりを告げるものであった。

表1:大坂冬の陣・序盤戦の時系列

日付(慶長19年)

合戦名

場所(大坂城からの相対位置)

結果

備考

11月19日

木津川口の戦い

南西部

徳川方勝利、砦陥落

大坂冬の陣の事実上の初戦。補給路に打撃。

11月26日

鴫野・今福の戦い

北東部

徳川方勝利、両砦陥落

双方に多大な損害を出した激戦 11

11月29日

博労淵の戦い

西部

徳川方勝利、砦陥落

木津川口に続き、西方の防御拠点が崩壊。

11月29日

野田・福島の戦い

西部

徳川方勝利、砦陥落

博労淵と同時に行われた攻勢 13

11月30日

-

-

豊臣方、残存砦を放棄

外郭防衛線を諦め、大坂城での籠城に移行 13


第一章: 開戦の狼煙 ― 木津川口砦の攻防(慶長十九年十一月十九日)

大坂冬の陣の事実上の火蓋は、慶長19年11月19日未明、大坂城南西の木津川口砦で切られた。この戦いは、徳川方の周到な準備と豊臣方の致命的な油断が交錯した、一方的な奇襲戦であった。

【戦前】徳川方の緻密な情報戦

徳川方の攻勢を主導した蜂須賀至鎮は、攻撃に先立ち、木津川口砦の偵察を徹底していた。その結果、砦から立ち上る炊煙が異常に少ないことを発見する 4 。戦国時代の常識として、炊煙の量は駐屯する兵の数を示す重要な指標である。この些細な、しかし決定的な情報から、至鎮は砦の守備が手薄であると看破した。これは、徳川方が経験に裏打ちされた高度な索敵能力を有していたことを示している。至鎮はこの好機を逃さず、即座に家康に使者を送り、夜襲の許可を求めた 14 。情報は速やかに最高司令部に伝達され、攻撃命令が下される。この迅速な情報伝達と意思決定のサイクルこそ、徳川軍の強さの源泉であった。

【戦前】豊臣方の致命的な油断

一方、豊臣方の備えは杜撰そのものであった。木津川口砦の守将には、キリシタン武将として知られ、かつて宇喜多秀家の下で軍師的存在として辣腕を振るった明石全登(掃部)が任じられ、約800の兵が配備されていた 4 。全登は歴戦の勇将であり、彼が万全の指揮を執っていれば、砦はそう簡単には落ちなかったであろう。

しかし、運命の11月19日、全登は大坂城での軍議に召集され、砦を不在にしていた 4 。これは単なる偶然ではない。豊臣方首脳部が、最前線の砦の重要性を軽視し、中央での議論を優先した結果であり、組織としての危機管理能力の欠如を物語っている。寄せ集めの浪人衆を完全に信頼できず、主要な指揮官を城内に留め置くことで統制を図ろうとしたのかもしれないが、その結果として最前線に致命的な脆弱性を生み出してしまった。留守は全登の弟・明石全延が預かったが、正規の指揮官の不在は兵の士気と統制に深刻な影響を与え、来るべき奇襲に対して全く無力な状態を招いたのである 11

【開戦:十一月十九日 未明】水陸からの挟撃

徳川方の攻撃部隊は、蜂須賀至鎮を総大将に、浅野長晟、池田忠雄らが加わった約3,000の兵力であった 4 。彼らは夜陰に乗じて水陸二手に分かれ、音もなく砦に接近した。蜂須賀勢が率いる40艘の軍船(当時の水軍の主力であった関船や小早と推測される 17 )が木津川の水路から砦の番所に突入。それと同時に、陸路を進んだ部隊も一斉に鬨の声を上げ、四方から砦になだれ込んだ 4

【戦闘経過】指揮官なき砦の崩壊

完全な奇襲を受けた砦内は、大混乱に陥った。留守を預かる明石全延は必死に抵抗を試みたが、指揮系統が麻痺した状態では、組織的な防御は不可能であった 11 。徳川方の圧倒的な兵力と周到な作戦の前に、豊臣方の守備兵はなすすべもなく敗走。戦いは戦闘と呼ぶのもはばかられるほど一方的な展開となり、砦は瞬く間に徳川方の手に落ちた。

【同時刻】伝法川口の制圧

徳川方の作戦は、木津川口砦の攻略だけに留まらなかった。これと並行して、幕府船奉行の向井忠勝が率いる水軍が、徳川義直、池田利隆らの兵船と共に、伝法川口の新家(地名)にあった豊臣方の輸送基地を奇襲した 4 。こちらも豊臣方の抵抗は微弱であり、徳川方はこの拠点も容易に占拠した。この二つの拠点の同時陥落により、大坂城と大坂湾を結ぶ水上の兵站線は、開戦初日にして完全に遮断されることになったのである。

【決着】補給路断絶という戦略的敗北

木津川口砦の陥落は、単なる一拠点の喪失ではなかった。それは、大坂城という巨大な籠城施設を支えるための水上補給路という生命線を断たれたことを意味した 4 。これにより、豊臣方は開戦早々、兵站面で極めて深刻な打撃を受け、長期的な籠城戦を戦い抜く上で、計り知れないハンディキャップを背負うことになった。

この緒戦の敗北は、豊臣方の組織的欠陥が引き起こした必然的な結果であった。最前線の重要性を認識せず、主要な指揮官を安易に城へ呼び戻す中央集権的な指揮系統の欠陥が、徳川方の迅速な奇襲を成功させる最大の要因となった。これは、豊臣方首脳部の戦略的判断ミスが、現場の戦術的敗北に直結した典型例と言える。

一方で、この戦いを主導した蜂須賀至鎮の行動は、徳川政権下における外様大名の生存戦略を象徴している。彼の父・家政は豊臣恩顧の立場から、一時は大坂方への加担を真剣に考えたともいわれる 14 。そのような背景を持つ至鎮にとって、この戦いは徳川家への揺るぎない忠誠を証明する絶好の機会であった。彼の抜け駆けとも言える積極的な攻勢 14 は、単なる軍事的な功名心だけでなく、「蜂須賀家はもはや豊臣の恩顧ではなく、徳川の忠実な臣下である」という強烈な政治的メッセージでもあった。この勝利により、彼は家康と秀忠から感状を賜り 20 、家の安泰を確固たるものにした。緒戦の勝利は、徳川連合軍内部の結束を固め、外様大名の忠誠心を再確認させる上でも、重要な意味を持っていたのである。


第二章: 指揮官の不在、再び ― 博労淵砦の悲劇(慶長十九年十一月二十九日)

木津川口砦の惨敗からわずか10日後、大坂城西方において、豊臣方は再び同じ過ちを繰り返すことになる。博労淵砦の攻防は、薄田兼相という一人の武将の逸話と共に語られることが多いが、その背景には、失敗から学ばない豊臣方の深刻な組織的病理が存在した。

【戦間】攻勢の継続

木津川口を制圧した徳川方は、攻勢の手を緩めなかった。11月26日には、大坂城の北東方面に位置する鴫野・今福の両砦で激戦が繰り広げられた 11 。この戦いは双方に多大な死傷者を出す壮絶なものとなったが、最終的には徳川方が両砦を占拠。そして11月29日、徳川方の攻勢の矛先は、再び大坂城西方、木津川口砦の目と鼻の先に位置する博労淵砦に向けられた。

【戦前】「橙武者」薄田兼相の油断

博労淵砦の守将は、薄田兼相(隼人正)であった。彼は狒々退治の伝説 22 を持つなど、その武勇で知られた武将であり、豊臣方の期待も大きかった 7 。しかし、その期待は最も無様な形で裏切られることになる。

各種の軍記物によれば、兼相は戦いの前夜から持ち場である砦を離れ、神崎の遊郭で遊興に耽っていたとされる 7 。砦の前面は木津川が天然の堀となっており、容易に敵が渡河してくることはないだろうと油断し、夜襲の可能性を全く考慮していなかったのである 24 。このあまりに無責任な行動は、後に彼が「橙武者(だいだいむしゃ)」、すなわち見かけ倒しで正月の飾りのように役に立たない武者であると、味方からさえも揶揄される直接の原因となった 7

【開戦:十一月二十九日】抵抗なき進軍

博労淵砦への攻撃を仕掛けたのは、またしても蜂須賀至鎮が率いる部隊であった 7 。石川忠総らの部隊も加わり、その兵力は5,000を超えていた 23 。石川勢は九鬼守隆から船を借り受け、水上からも攻撃を仕掛けたとされる 26 。しかし、彼らが砦に迫っても、豊臣方からの組織的な抵抗は皆無に等しかった。主将不在で統率を失った守備兵たちは、徳川軍の姿を見るや、蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまったのである 23

【戦闘経過】留守居役・平子正貞の奮戦と最期

この絶望的な状況下で、ただ一人、武士の意地を見せたのが、兼相の留守を預かっていた足軽大将の平子正貞であった 27 。彼は、主将が持ち場を放棄するという屈辱的な状況の中、最後まで砦に踏みとどまり、奮戦した。しかし、大軍を前にしては衆寡敵せず、葦原に潜んでいたところを発見され、池田忠雄の家臣・横川重陳によって討ち取られた 26

平子家は代々討死を遂げてきた忠義の家系として知られており、正貞の死は七代にわたる討死として、その悲劇性が語り継がれることになった 25 。主君の不始末の責任を一身に背負い、命を落とした彼の最期は、薄田兼相の醜態と鮮やかな対比をなしている。

【決着】西の守り、完全なる崩壊

博労淵砦もまた、木津川口砦と同様、あっけなく陥落した。薄田兼相は急報を聞いて戦場に駆けつけようとしたが、時すでに遅く、後の祭りであった 24 。この失態により、大坂城の西方を守る外郭砦はすべて失われ、豊臣方は大坂城での完全な籠城戦を余儀なくされることが決定的となった 2

薄田兼相の行動は、単に一個人の資質の問題として片付けることはできない。それは、豊臣方の「楽観主義」と「規律の欠如」という、組織全体の病理を象徴している。木津川口での敗戦から何も学ばず、わずか10日後に全く同じ過ちが、しかもより無様な形で繰り返されたという事実は、豊臣方の指揮系統に、失敗を分析し、教訓を次に活かすというフィードバック機能が全く存在しなかったことを示している。敗因を究明し、軍規を徹底するという、軍事組織として最も基本的な行動が取れなかったことこそが、第二の悲劇を招いた根本的な原因である。

さらに、「橙武者」という不名誉なあだ名の流布は、戦国時代における「物語」の力を示している。この逸話は、単なる嘲笑ではなく、敵の士気を削ぎ、味方の正当性を高めるための強力なプロパガンダとして機能した 7 。薄田兼相は、後の夏の陣の道明寺の戦いで奮戦し、壮絶な討死を遂げることで名誉を回復しようとするが 24 、一度広まった「物語」の力は絶大であり、今日に至るまで彼の評価に大きな影響を与え続けている。これは、合戦の勝敗が物理的な戦闘力だけでなく、情報戦や心理戦、そして後世に語られる「物語」によっても決定づけられることを示す好例と言えよう。


第三章: 戦略的帰結と歴史的意義

木津川口と博労淵での相次ぐ敗北は、大坂冬の陣の序盤戦における決定的な転換点となった。これらの戦いは、豊臣方の戦略を根底から覆し、関係した武将たちの運命を大きく左右するとともに、戦国時代の終焉を象徴する多くの教訓を残した。

豊臣方の籠城戦への移行

西方の防衛ラインが完全に崩壊したことで、豊臣方は野戦による抵抗を断念せざるを得なくなった。慶長19年11月30日、豊臣方は残っていた外郭の砦を自ら焼き払い、全軍を大坂城の広大な惣構の内側へと撤収させた 2 。これにより、豊臣方は野戦の可能性を完全に失い、徳川方の思う壺である完全な籠城戦へと追い込まれた。この戦略的後退は、徳川方にとって絶好の機会をもたらした。徳川軍は、和製の大筒やヨーロッパから輸入したカルバリン砲といった最新鋭の火砲を、大坂城を射程に収める位置まで前進させることが可能となったのである 31 。この後の絶え間ない砲撃は、物理的な損害以上に豊臣方の将兵や淀殿らの心理を揺さぶり、戦意を喪失させる上で絶大な効果を発揮した 2 。緒戦の敗北が、この致命的な状況を生み出す直接的な原因となった。

両軍の指揮・統制能力の比較

この二つの戦いは、両軍の組織としての成熟度の差を鮮明に映し出した。

  • 徳川方: 偵察による的確な情報収集、それに基づく迅速な意思決定、水陸両面からの連携作戦、そして蜂須賀至鎮のような外様大名の功名心を巧みに利用した人事配置など、近代的で合理的な軍事行動が際立っていた。
  • 豊臣方: 指揮系統の不統一、最前線の軽視、規律の欠如、そして失敗から学ばない組織的硬直性といった、多くの構造的欠陥が露呈した。明石全登と薄田兼相という二人の指揮官が、全く異なる理由でありながら、結果として同じ「不在」という失態を犯したことは、豊臣方の統制が末期的な状況にあったことを示している。

緒戦における一連の敗北は、兵力や個々の武将の武勇以前に、組織としての総合力で豊臣方が徳川方に大きく劣っていたことを証明した。

武将たちのその後の運命

この戦いは、関わった武将たちのその後の人生にも決定的な影響を与えた。

  • 蜂須賀至鎮: 木津川口と博労淵での戦功が高く評価され、大坂の陣の後、淡路一国を加増され、阿波・淡路合わせて25万7千石の大名へと躍進した 14 。さらに徳川家康から松平の姓を賜るという破格の栄誉を受け 34 、徳川家から絶大な信頼を得ることに成功。これにより、徳島藩25万石の基礎を盤石なものとした。
  • 明石全登: 緒戦での失態にもかかわらず、その将器を惜しまれ、後の夏の陣ではキリシタン部隊を率いて奮戦した 35 。天王寺・岡山の戦いでは、家康本陣への決死の突撃を敢行するなど鬼神の働きを見せたが、大坂城の落城と共に行方不明となった。戦死したとも、海外へ逃亡したともいわれ、その最期は今なお歴史の謎に包まれている 37
  • 薄田兼相: 「橙武者」の汚名を雪ぐべく、夏の陣の道明寺の戦いに出陣。後藤基次らが討死する中、水野勝成らの大軍を相手に奮戦し、壮絶な討死を遂げた 24 。彼の最期は、一度失った名誉を死をもって取り戻そうとする、戦国武士の意地と悲哀を物語っている。

大坂冬の陣全体における意義

木津川口・博労淵の戦いは、大坂冬の陣の趨勢を序盤で決定づけた極めて重要な戦闘であった。これにより豊臣方は戦略的選択肢を著しく狭められ、徳川方は物理的にも心理的にも圧倒的優位に立つことができた。最終的に豊臣方が和議を受け入れ、大坂城の堀を埋め立てられるという致命的な結果 13 に繋がった遠因は、この緒戦の惨敗にあったと言っても過言ではない。

表2:木津川口の戦いと博労淵の戦いの比較概要

項目

木津川口の戦い

博労淵の戦い

日付

慶長19年11月19日

慶長19年11月29日

場所

木津川・尻無川合流点付近

木津川流域・博労地区

徳川方 主将

蜂須賀至鎮、浅野長晟

蜂須賀至鎮、石川忠総

徳川方 兵力

約3,000

5,000以上

豊臣方 守将

明石全登(掃部)

薄田兼相(隼人正)

豊臣方 兵力

約800

不明(同程度か)

守将の状況

不在 (大坂城での軍議のため)

不在 (遊郭での遊興のため)

留守居役

明石全延(弟)

平子正貞

戦闘の様相

徳川方の完全な奇襲。組織的抵抗はほぼなし。

徳川方の攻勢に対し、守備兵は即座に潰走。

結果

砦は即日陥落。

砦は即日陥落。平子正貞は討死。


結論: 緒戦に凝縮された豊臣方敗北の必然

慶長19年(1614年)11月、大坂城西方の河口部で繰り広げられた木津川口・博労淵の戦いは、単なる局地的な前哨戦ではなかった。それは、豊臣方の敗北が運命づけられていたことを示す、象徴的な出来事であった。この二つの戦いは、兵力差という単純な問題ではなく、情報戦の巧拙、兵站に対する意識、指揮系統の成熟度、軍規の厳正さ、そして戦略目標の明確さといった、近代的な軍事組織に不可欠な要素の全てにおいて、徳川方が豊臣方を圧倒していたことの動かぬ証拠である。

指揮官の相次ぐ不在という、戦時下では信じがたい失態は、明石全登や薄田兼相といった個人の資質を越えた、豊臣政権そのものの末期的な組織的欠陥を浮き彫りにしている。木津川口での敗北という明確な失敗から何一つ教訓を得られず、わずか10日後に全く同じ過ちを繰り返した事実は、この組織が自己修正能力を完全に失っていたことを物語る。

栄華を誇った豊臣家が、なぜこれほどまでに脆く崩れ去ったのか。その答えの多くは、大坂城西方の河口で起きた、この二つの戦いの中に凝縮されている。戦国時代の終焉は、真田丸の攻防戦のような局所的な奮戦の影で、このような組織としての静かな、しかし確実な崩壊によって決定づけられていたのである。この緒戦の敗北こそが、豊臣家滅亡へと続く、後戻りのできない第一歩であった。

引用文献

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  6. 穢多崎砦 / 木津川口砦(大阪府大阪市) | 滋賀県の城 - WordPress.com https://masakishibata.wordpress.com/2016/08/11/kidu-etazaki/
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