最終更新日 2025-08-28

明知城の戦い(1573)

天正二年、武田勝頼は東美濃の明知城を攻囲。織田信長は救援も城内の裏切りで落城。信長は敗北から学び、長篠の戦いへと繋がる新戦術を確立。勝頼の勝利は後の悲劇の序曲となった。

明知城の戦い(天正二年):武田勝頼の覇権と織田信長の蹉跌、長篠へ至る序曲

序章:天正元年の激動 - 戦いの火種

天正元年(1573年)、日本の歴史が大きく動いた年である。この年、甲斐の虎と畏れられた武田信玄が西上作戦の道半ばで病没し、天下布武を掲げる織田信長は長年の宿敵であった朝倉・浅井両氏を滅ぼし、さらには将軍・足利義昭を京より追放して室町幕府を事実上終焉させた 1 。この二つの大事件は、日本の勢力図を根底から塗り替え、新たな対立の構図を生み出した。その渦の中心に位置し、来るべき決戦の序曲となったのが、美濃国東部、通称「東濃」の山城・明知城を巡る攻防戦であった。

武田信玄の死と「西上作戦」の遺産

元亀3年(1572年)秋、武田信玄は将軍・足利義昭の檄文に応じる形で、生涯最後の大規模軍事行動である「西上作戦」を開始した 2 。その軍勢は遠江に侵攻し、三方ヶ原の戦いで徳川家康を完膚なきまでに打ち破り、織田信長を恐怖のどん底に突き落とした 3 。しかし、天下をその手に収めるかに見えた信玄は、三河・野田城を攻略後、病状が悪化。天正元年(1573年)4月12日、信濃・駒場の地でその生涯を閉じた 1

信玄の死は、「三年の間、喪を秘すべし」という遺言に従い、固く秘匿された 1 。だが、絶対的指導者の不在は、武田家という巨大な軍事組織に微妙な影を落とし始める。後継者となった四男・勝頼は、勇猛果敢な武将ではあったが、信玄が長年かけて築き上げたカリスマ性と権威には及ばなかった。信玄以来の宿老や一門衆を完全に掌握し、自らの指導力を内外に示すためには、父をも超える武功を挙げる必要があった 6 。信玄が西上作戦の過程で織田方に切り崩された東美濃の領土を奪還することは、単なる領土回復以上の意味を持っていた。それは、武田家新当主としての勝頼が、その力量を天下に、そして何よりも武田家臣団に示すための、最初の、そして最大の試金石だったのである 5 。この若き当主の焦燥ともいえる野心が、明知城へと向けられることになる。

織田信長、天下布武を加速

一方、信玄の死という報は、四方を敵に囲まれ窮地にあった織田信長にとって、まさに天佑であった。信玄という最大の脅威が去ったことで、信長は反転攻勢に打って出る時間的猶予を得た。天正元年(1573年)7月、将軍・足利義昭を槇島城に攻めて河内へ追放し、240年近く続いた室町幕府に終止符を打つと、返す刀で8月には越前の朝倉義景を、9月には北近江の浅井長政を立て続けに滅亡させた 2 。これにより、信長包囲網の主だった構成員は一掃され、畿内における信長の支配は盤石なものとなった。

畿内を平定した信長にとって、次なる視線は必然的に東へと向けられた。信玄存命中は、互いの嫡男の婚姻を通じて同盟関係にあった武田家だが 8 、勝頼の代となり、その関係は急速に冷却化していく。信長にとって、美濃と信濃の国境地帯である東美濃は、本拠地・岐阜城を防衛し、京への侵攻路を確保するための絶対的な緩衝地帯であった 9 。この地を完全に掌握し、対武田の最前線として機能させることは、天下布武を推進する上で死活的に重要な戦略課題となっていたのである。

二大勢力の狭間で揺れる東美濃と遠山氏

美濃国恵那郡、すなわち東濃地方は、岩村城を本拠とする国衆・遠山氏が支配する地であった 9 。遠山氏は、岩村、苗木、明知などの分家が連合体を形成しており、単一の強力な大名ではなかった 10 。その地理的条件から、西の織田、東の武田という二大勢力の間に挟まれ、常に両者の圧力に晒される宿命にあった。信長の叔母や妹が遠山一族に嫁ぐなど、織田家とは深い姻戚関係で結ばれる一方で 11 、国境を接する武田家の強大な軍事力にも抗えず、その支配に服属するという二股膏薬の状態を余儀なくされていた 7

この東美濃の地は、織田にとっては美濃防衛の東門であり、武田にとっては美濃・尾張へ侵攻するための橋頭堡であった 7 。両者にとって一歩も引けない戦略的要衝であるこの地で、信玄の死と勝頼の野心、そして信長の天下統一事業が交錯した時、明知城を舞台とする激戦の火蓋が切られるのは、もはや時間の問題であった。

第一部:前哨戦 - 明知城包囲への道

天正2年(1574年)の明知城の戦いは、突如として始まったわけではない。その背景には、東美濃のパワーバランスを決定的に武田方へと傾けた、二つの重要な前哨戦が存在した。信玄の西上作戦に連動して行われた「上村合戦」と、それに続く「岩村城の無血開城」である。これら一連の出来事により、明知城は織田方最後の孤塁として、武田軍の前に晒されることとなる。

元亀3年(1572年)「上村合戦」:明知遠山氏当主・遠山景行の戦死

武田信玄が西上作戦を本格化させる直前、織田信長は東美濃の国衆・遠山氏を完全に自らの支配下に置くべく、外交的介入を強めていた 7 。これに対し、武田方は信濃伊那郡代として高遠城に拠っていた猛将・秋山信友(虎繁)を別働隊として東美濃へ侵攻させた 13

元亀3年(1572年)12月、明知城主であった遠山景行は、信長の命を受け、東美濃の織田方国衆を率いる総大将として秋山勢を迎撃すべく出陣した 10 。しかし、上村(現在の長野県下伊那郡上村)において両軍は激突、武田自慢の騎馬軍団の前に遠山勢は大敗を喫し、総大将の遠山景行は壮絶な討死を遂げた(上村合戦) 7

この敗北は、単に一人の武将が失われた以上の深刻な影響を東美濃にもたらした。織田方の国衆を束ねる中心人物であった景行の死は、この地域における織田方の求心力を著しく低下させたのである。明知遠山氏の家督は、景行の孫である若年の遠山一行が継承し、景行の子で出家していた利景が還俗して後見人となったが 16 、一族を強力に統率するリーダーシップは失われた。この権力の空白と動揺が、武田方による調略を容易にし、後の岩村城、そして明知城の悲劇へと直結していく。

岩村城の陥落:女城主おつやの方と秋山信友の婚姻策

上村合戦と並行し、秋山信友の軍勢は東美濃における遠山氏の本城・岩村城へと迫っていた。当時の岩村城は、城主の遠山景任が病死した後、その妻であり信長の叔母にあたるおつやの方が、信長の五男・御坊丸(後の織田勝長)を養子に迎えて後見人となり、事実上の女城主として城を治めていた 11

信長は多方面に敵を抱え、岩村城へ援軍を送る余裕がない 17 。この状況を見抜いた秋山信友は、力攻めという愚策を避け、驚くべき策を弄した。それは、女城主おつやの方に対し、自らとの婚姻を条件に城を明け渡すよう求めるというものであった 13 。援軍の望みが絶たれた中、おつやの方は城兵の命を救うため、この屈辱的な条件を呑まざるを得なかった。岩村城は一滴の血も流すことなく開城され、東美濃の最重要拠点は武田の手に落ちた。おつやの方は敵将・秋山信友の妻となり、信長の息子であった御坊丸は人質として甲斐へと送られた 14 。この出来事は、織田方にとって軍事的な大敗北であると同時に、信長の叔母が敵将に嫁ぐという、計り知れない屈辱を伴う「裏切り」でもあった 19

孤立する明知城:遠山一行と後見人・利景の苦境

総大将であった祖父・景行を上村合戦で失い、遠山氏の本城である岩村城が武田の手に落ちたことで、明知城の立場は一変した。周囲の支城は次々と武田方に寝返り、あるいは攻略され、明知城は東美濃における織田方の最後の砦として、完全に孤立無援の状態に陥った。若き城主・遠山一行と、その叔父であり後見人である遠山利景 10 は、絶望的な状況下で籠城し、武田軍の来襲に備えるしかなかったのである。

第二部:明知城の戦い - リアルタイム戦闘詳報

信玄の死から約9ヶ月、父の遺した東美濃という「負の遺産」を清算し、自らの武威を示すべく、武田勝頼はついに動いた。天正2年(1574年)1月、東美濃の完全制圧を目指し、その最後の標的である明知城へと大軍を差し向けた。ここに、織田・武田の存亡をかけた激戦の幕が切って落とされる。


表1:明知城の戦い 主要関係者一覧

勢力

人物名

役職・立場

合戦における役割

武田軍

武田 勝頼

武田家当主・総大将

東美濃侵攻軍を指揮。岩村城を拠点とする。

山県 昌景

武田四天王・部隊長

武田軍の先鋒。織田軍救援部隊の進路を遮断。

秋山 信友(虎繁)

岩村城主

東美濃方面の司令官として、勝頼の本隊を支援。

織田軍

織田 信長

織田家当主・総大将

明知城救援のため、自ら大軍を率いて出陣。

織田 信忠

織田家嫡男

父・信長と共に救援軍の将として出陣。

河尻 秀隆

織田家重臣

落城後、神篦城に配置され、対武田の防衛線を担う。

池田 恒興

織田家重臣

落城後、小里城に配置され、対武田の防衛線を担う。

明知遠山氏

遠山 一行

明知城主

祖父の死後、若年で家督を継ぎ、籠城戦を指揮。

遠山 利景

一行の後見人

甥の一行を補佐し、共に籠城。落城後、脱出。

遠山 友治

一行の叔父

籠城将の一人として奮戦するも、城中で討死。

飯羽間 友信

遠山氏一族

籠城中に武田方に内応し、落城の直接的な原因を作る。

坂井 越中守

織田家からの援将

織田家から派遣され明知城を守るが、討死。


天正2年(1574年)1月下旬:武田勝頼、東美濃へ侵攻開始

父・信玄の喪が公式には明けていないにもかかわらず、勝頼は最初の本格的な軍事行動を開始した。その目標は、父の代に織田方に奪われた東美濃の完全平定であり、武田新当主としての初陣を華々しく飾ることにあった 7 。勝頼は、武田四天王の一人である山県昌景をはじめとする主力部隊、総勢1万5千(一説には2万5千)ともいわれる大軍を率い、信濃の伊那方面から美濃国境へと雪崩れ込んだ 1

1月27日~:勝頼、岩村城に着陣。明知城への包囲網を形成

勝頼は、既に秋山信友が守る味方の拠点・岩村城に本陣を構え、ここを前線基地とした 7 。そして、諸将に命じて明知城の周辺に点在する織田方の城砦群、すなわち苗木城、明照城、大井城、串原城などを次々と攻略させた 21 。これにより、明知城は完全に包囲され、外部との連絡を一切絶たれた陸の孤島と化した。城内では、若き城主・遠山一行、後見人の利景、叔父の遠山友治、そして織田家からの援将・坂井越中守らが、絶望的な状況の中で籠城し、信長からの救援のみを頼りに耐え続けた 7

2月1日:織田信長、第一陣の救援部隊を派遣

明知城からの急報は、岐阜の信長のもとへ届いた。信長は即座に反応し、この日、尾張・美濃両国の兵を先発隊として出陣させた 7 。東美濃の防衛線が突破されることは、本拠地・岐阜の危機に直結するため、一刻の猶予もならなかった。

2月5日:信長・信忠親子、岐阜を出陣。御嵩城に着陣

先発隊に続き、信長は嫡男・信忠を伴い、3万とも号する大軍を率いて自ら岐阜城を出陣した 1 。その日のうちに、前線に近い御嵩城(現在の岐阜県可児郡御嵩町)に到着し、本陣を敷いた 22 。信長自らの出陣は、この戦いに対する並々ならぬ決意を示すものであった。

2月6日~7日:信長、鶴ヶ城(鶴岡山)に本陣を構え、武田軍と対峙

翌6日、信長はさらに軍を進め、明知城を一望できる戦略的要衝・鶴ヶ城(鶴岡山)に布陣した 1 。眼下には明知城を包囲する武田軍、そして岩村城に陣取る勝頼本隊。織田軍3万に対し、武田軍は1万5千。兵力では織田軍が圧倒的に優位であり、一見すれば、信長による力押しで武田軍を粉砕できるかに思われた。

2月上旬:山県昌景隊による織田軍進路妨害と膠着状態

しかし、百戦錬磨の武田軍は信長の動きを的確に予測していた。武田軍最強と謳われた赤備えを率いる猛将・山県昌景が、約6千の精鋭部隊を率いて鶴岡山の山麓を巧みに迂回し、織田軍が明知城へ向かうための進撃路を完全に遮断したのである 21 。東美濃の険しい山岳地形は、3万という大軍の展開を著しく困難にする。山県隊の鉄壁の守りの前に、信長は無理な突撃を敢行できず、両軍は睨み合いとなり、戦線は膠着状態に陥った。

この信長の判断は、単なる臆病さや逡巡ではなかった。第一に、敵将・山県昌景は武田軍屈指の戦上手であり、地形の不利を冒してまで決戦を挑むのはリスクが高すぎた。第二に、信長は畿内を平定した直後であり、背後には依然として長島一向一揆という憂いを抱えていた 23 。この状況で武田の主力部隊と大規模な消耗戦を演じることは、戦略的に得策ではない。信長は、無理な力攻めではなく、3万の大軍で圧力をかけ続けることで武田軍の兵站を疲弊させ、籠城する明知城が持ちこたえている間に、敵を撤退に追い込むという、より確実な持久戦のシナリオを描いていた可能性が高い。しかし、この計算された戦略は、城内における「裏切り」という全く想定外の変数によって、脆くも崩れ去ることになる。

2月10日以前:城内の裏切りと総攻撃、明知城の陥落

膠着状態が続く中、明知城内で戦況を覆す決定的な事件が起こる。籠城していた遠山氏の一族であり、飯羽間城主であった遠山友信が、武田方の調略に応じ、城内で謀反を起こしたのである 7 。この内応を合図として、城外の武田軍は一斉に総攻撃を開始した。内部から崩壊した明知城は、もはや抵抗する術を持たなかった。武田兵は堀を越え、塀を乗り越え、城内へとなだれ込む。壮絶な白兵戦の末、籠城将の遠山友治、織田からの援将・坂井越中守らは討死し、明知城はついに陥落した 7 。城主・遠山一行と後見人・利景は、九死に一生を得て城を脱出、三河の徳川家康のもとへと落ち延びていった 5

落城後:織田軍の撤退と武田軍の追撃

明知城陥落の報は、鶴岡山の信長本陣に大きな衝撃を与えた。救援すべき城を失った以上、この地に留まり続ける理由はない。信長は全軍に撤退を命令した。『明知年譜』などの記録によれば、この撤退する織田軍に対し、山県昌景の部隊が猛烈な追撃をかけたという。信長の周囲を固める親衛隊である馬廻り衆16騎のうち9騎が討ち取られ、信長自身も命の危険に晒されるほどの激しい追撃戦であったと伝えられている 21

2月24日:信長、岐阜へ帰還。国境防衛体制を再編

辛くも追撃を振り切った信長は、2月24日に岐阜へと帰還した 23 。そして直ちに、武田の侵攻によって崩壊した東美濃の防衛体制の再構築に着手する。新たな最前線となった神篦城に重臣・河尻秀隆を、小里城に池田恒興をそれぞれ配置し、城の改修(普請)を厳命した 7 。これは、これ以上の武田軍の西進を阻止するための、新たな防衛ラインの構築であり、明知城の敗北が信長に与えた衝撃の大きさを物語っている。

第三部:戦術と城郭の分析

明知城の戦いは、単に兵力の優劣だけで決した戦いではない。その勝敗を分けたのは、戦いの舞台となった城郭の構造、そして両軍が展開した戦術と思惑の交錯であった。堅城と謳われた明知城がなぜ陥落したのか、その要因を戦術的、地勢的見地から深く分析する。

難攻不落の山城「明知城」:畝状空堀群と縄張りの考察

明知城は、標高約500メートルの山頂に築かれた、戦国期における典型的な山城である 26 。しかし、その防御施設は極めて高度かつ技巧的であり、決して容易に攻略できる城ではなかった。

最大の特徴は、城の斜面に幾重にも掘られた「畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)」と呼ばれる防御施設である 27 。これは、山の斜面を縦に走る多数の竪堀と、それを連結する横堀を組み合わせたもので、あたかも畑の畝のように見えることからその名がある。この複雑な凹凸は、斜面を駆け上がろうとする敵兵の進軍速度を著しく削ぎ、兵の密集を許さず、横移動を強制させる。城兵は、動きを制限された敵兵に対し、城の上から矢や鉄砲、石などを浴びせかけ、効率的に損害を与えることができた。

さらに、城の中心部である主郭(本丸)と二の丸、それらを取り巻く帯曲輪は、急峻な切岸(人工的に削られた崖)によって守られ、竪堀と横堀を組み合わせた巧みな縄張り(城の設計)が施されていた 28 。特筆すべきは、城内に設けられた浄水機能付きの貯水池の存在である 29 。山城の最大の弱点である水の確保を、水源地から木樋で水を引き、砂や石でろ過するという高度な土木技術で克服しようとしていた形跡が見られる。

これほど堅固で技巧的な城が、なぜ比較的短期間で陥落したのか。その答えは、城の物理的な防御力ではなく、籠城していた集団の結束という「人的要素」の脆弱さに求められる。明知城を守っていたのは、遠山一族、織田家からの援軍、そして周辺の国衆といった、いわば「寄せ集め」の軍勢であった。武田軍による圧倒的な軍事的圧力と、巧みな調略工作の前に、この脆弱な結束は崩壊し、飯羽間友信による内応という最悪の事態を招いた 24 。明知城の戦いは、戦国時代の城攻めにおいて、いかに堅固な物理的防御も、内部からの崩壊の前には無力となりうるかを示す、典型的な事例と言えるだろう。

武田軍の戦略:電撃的な侵攻と心理的圧力

武田勝頼がこの戦いで展開した戦略は、父・信玄の戦術を継承しつつも、より迅速果敢なものであった。その要諦は「速度」「連携」「調略」の三点に集約される。

  • 速度: 勝頼は、まず周辺の支城を電撃的に攻略し、本城である明知城を迅速に孤立させた 21 。これにより、明知城の城兵に心理的な動揺を与え、信長の救援が間に合う前に勝敗を決するという意図があった。
  • 連携: 勝頼本隊による明知城への直接的な包囲圧力と、山県昌景率いる別働隊による織田救援軍の進路妨害が、完璧に連携して機能した。これにより、信長は3万の大軍を有しながらも、それを有効に活用することができなかった。
  • 調略: 強大な軍事力で圧力をかけると同時に、武田家が得意とした調略を仕掛け、城内の不満分子や日和見的な立場にあった飯羽間友信を寝返らせることに成功した 7 。これが、堅城を内部から崩壊させる決定打となった。

織田軍の誤算:救援の遅れと武田軍の迎撃戦術

信長の出陣は、報せを受けてから数日という迅速なものであったが、結果として明知城の陥落には間に合わなかった。これは、いくつかの誤算が重なった結果である。

第一に、東美濃の山岳地帯における大軍の進軍速度の限界を読み誤った可能性がある。道は険しく、大軍が展開できる場所は限られており、進軍は遅々として進まなかった。

第二に、その地理的制約を的確に読み、最も効果的な地点で進路を妨害した山県昌景の卓越した戦術眼を前に、有効な打開策を見出せなかった。

そして最大の誤算は、あれほど堅固に見えた明知城が、内部からの裏切りによってかくも早く崩壊するとは想定していなかった点であろう。この戦いでの手痛い敗北は、信長に国衆に頼る防衛戦略の限界を痛感させた。そして、来るべき武田主力との決戦においては、より周到な準備と、敵の戦術を無力化する新たな発想が必要であることを教えた。この教訓こそが、翌年の長篠の戦いにおける、馬防柵と鉄砲隊による革新的な戦術へと繋がっていくのである。

第四部:戦後の波紋と歴史的意義

東美濃の一城を巡る攻防は、局地戦に留まらず、織田・武田両家の戦略、そして戦国全体の歴史の流れに大きな影響を与えた。この戦いの結果は、勝者である武田勝頼の運命を輝かせると同時に、その後の悲劇への道を拓き、敗者である織田信長には次なる勝利への貴重な教訓を残した。

武田勝頼の威信向上と東美濃支配の確立

明知城の攻略は、武田家の家督を継いで以来、勝頼が挙げた最初の大きな軍事的成功であった。信長自らが率いる大軍を撤退に追い込み、父・信玄の代に失った東美濃の拠点を完全に奪還したことは、勝頼の武威を内外に轟かせるに十分であった 7 。これにより、信玄以来の宿老たちも若き当主の実力を認めざるを得なくなり、武田家における勝頼の求心力は飛躍的に高まった。さらに、明知城を含む東美濃一帯を完全に掌握したことで、武田氏は美濃・尾張への侵攻ルートを確保し、織田信長の喉元に匕首を突きつける形となったのである。

しかし、この輝かしい勝利は、同時に勝頼の心に危険な「慢心」の種を蒔いた可能性が否定できない。明知城で信長の大軍を事実上「撃退」し 21 、続く同年6月には徳川方の最重要拠点であった高天神城をも陥落させたことで 5 、勝頼の中に「織田・徳川に恐るるに足らず」という過信が芽生え始めたとしても不思議ではない 6 。特に、野戦を避けて撤退していった信長の姿は、武田の騎馬軍団の突撃力の前には、織田の兵など敵ではないという誤った認識を植え付けたかもしれない。この勝利によって増長した自信こそが、翌天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて、信長が周到に準備した馬防柵と三千丁の鉄砲隊が待ち受ける中へ、無謀な正面突撃を敢行させる最大の要因となったと分析できる。明知城の勝利は、勝頼にとって生涯最大の栄光の一つであると同時に、武田家滅亡へと続く最大の悲劇への序曲でもあったのだ。

明知遠山氏のその後:亡命と再起

城を追われた若き当主・遠山一行と後見人・利景は、三河へと逃れ、徳川家康の庇護下に入った 10 。彼らは故郷を失ったものの、再起の機会を虎視眈々と窺っていた。

その機会は、翌天正3年(1575年)5月に訪れる。長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田勝頼に壊滅的な打撃を与えると、その勢いを駆って織田信忠を総大将とする軍勢が東美濃の奪還作戦を開始した。一行と利景もこの軍勢に従い、武田方が占拠していた小里城を攻め落とすなどの功を挙げ、ついに故郷である明知城を奪還、旧領への復帰を果たした 21 。その後、遠山氏は徳川家の家臣として存続し、江戸時代には明知に陣屋を構え、旗本として家名を後世に伝えていくことになる 34

長篠の戦いへ:最終決戦への布石

明知城での敗北は、織田信長に対武田戦略の根本的な見直しを迫るものであった。在地領主である国衆の力に頼った緩衝地帯戦略は、武田の強大な軍事力と巧みな調略の前にはもはや通用しない。この事実を痛感した信長は、国境地帯に河尻秀隆や池田恒興といった譜代の重臣を配置し、城を改修させることで、織田家による直接的な防衛体制へと戦略を転換した 7

そして何よりも、この敗戦は、いつか必ず訪れるであろう武田軍主力との野戦における決戦に備え、新たな戦術の開発を加速させる契機となった。武田の騎馬軍団の破壊力をいかにして無力化するか。その答えが、鉄砲の大量配備と、馬防柵という野戦築城を組み合わせた、革新的な防御戦術であった。明知城で喫した手痛い敗北は、信長にとって、来るべき長篠の決戦に勝利するための、何物にも代えがたい貴重な教訓となったのである。

結論:明知城の戦いが残したもの

天正2年(1574年)の明知城の戦いは、日本の戦国時代における勢力争いの縮図である。それは、織田・武田という二大勢力の狭間で翻弄され、存亡の危機に立たされた在地領主・遠山氏の悲劇の物語である。同時に、偉大な父の影を乗り越えようと、若き当主・武田勝頼が自らの権威を賭けて挑んだ野心的な戦いでもあった。そして、天下人への道を歩む織田信長が、手痛い敗北から戦略的な教訓を学び、次なる勝利への布石を打つ重要な転換点でもあった。

この東美濃の一城を巡る攻防は、決して単独の戦いで完結するものではない。それは、信玄の死から始まり、勝頼の台頭を経て、戦国史上最大級の決戦と称される長篠の戦いへと直結していく、壮大な歴史のダイナミズムの一部なのである。明知城の石垣と空堀は、今なお、天下の趨勢を決する大きな流れの中で、この地が果たした重要な役割を静かに物語っている。

巻末資料


表2:明知城攻防戦 詳細年表(元亀3年~天正3年)

年月日

出来事

関連人物・備考

元亀3年 (1572) 12月

上村合戦

武田の秋山信友軍が、織田方の遠山景行軍を破る。景行は討死。

元亀3年 (1572) 末

岩村城開城

秋山信友が信長の叔母・おつやの方と婚姻し、無血開城。

天正元年 (1573) 4月12日

武田信玄、病没

西上作戦が中断。信長の脅威が一時的に去る。

天正元年 (1573) 7月~9月

信長、朝倉・浅井を滅亡

信長包囲網が事実上崩壊。信長は畿内を平定。

天正2年 (1574) 1月下旬

武田勝頼、東美濃へ侵攻

勝頼が1万5千の大軍を率いて侵攻を開始。

天正2年 (1574) 1月27日

勝頼、岩村城に着陣

周辺の織田方諸城を次々と攻略し、明知城を包囲。

天正2年 (1574) 2月1日

織田軍、第一陣を派遣

信長、尾張・美濃の兵を救援の先発隊として派遣。

天正2年 (1574) 2月5日

信長・信忠、岐阜を出陣

信長が3万の軍を率いて自ら出陣。御嵩城に着陣。

天正2年 (1574) 2月6日

信長、鶴岡山に布陣

明知城を望む鶴岡山に本陣を構え、武田軍と対峙。

天正2年 (1574) 2月上旬

山県昌景、織田軍の進路を遮断

信長軍は進軍を阻まれ、戦線は膠着状態に陥る。

天正2年 (1574) 2月10日以前

明知城、陥落

城内の飯羽間友信が内応。武田軍の総攻撃により落城。

天正2年 (1574) 2月24日

信長、岐阜へ帰還

河尻秀隆らを配置し、新たな防衛線を構築。

天正2年 (1574) 6月

高天神城の戦い

勝頼が徳川方の要衝・高天神城を攻略。勝頼の威信は頂点に。

天正3年 (1575) 5月21日

長篠の戦い

織田・徳川連合軍が武田勝頼軍に圧勝。武田家は致命的な打撃を受ける。

天正3年 (1575) 5月下旬

明知城、奪還

長篠の戦勝後、織田信忠軍が東美濃に侵攻。遠山一行・利景が明知城を奪還。

引用文献

  1. 東美濃―明知城落城 http://tenkafubu.fc2web.com/eastmino/akechi/01.htm
  2. 【解説:信長の戦い】槇島城の戦い(1573、京都府宇治市) 足利義昭が挙兵もあえなく敗退、室町幕府は事実上滅亡。 https://sengoku-his.com/480
  3. 三方ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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