肥前の三城は、キリシタン大名大村純忠が苦難の中で築いた城。絶望的な「三城七騎篭り」を奇策で乗り越えるも、玖島城への本拠移転と幕府の命により廃城。信仰と戦乱の記憶を今に伝える。
肥前国大村、現在の長崎県大村市三城町にその跡を残す三城(さんじょう)は、戦国時代に築かれた一介の平山城である 1 。しかし、その歴史は、日本初のキリシタン大名として知られる大村純忠の波乱に満ちた生涯と分かちがたく結びついており、単なる城跡という言葉では到底語り尽くせぬ重層的な意味を内包している。この城は、純忠が直面した脆弱な権力基盤、キリスト教受容という革新的な政策、そして周辺勢力との絶え間ない緊張関係という、まさに存亡の危機の中から生まれた「苦難の城」であった。
さらに三城は、元亀3年(1572年)に繰り広げられた伝説的な篭城戦「三城七騎篭り」の舞台として、その名を戦国史に刻んでいる 4 。圧倒的な兵力差を覆したこの戦いは、戦国時代の局地戦のリアルな様相と、極限状況における人間の知恵と勇気を今に伝える貴重な物語である。
本報告書は、これらの断片的な事実を丹念に繋ぎ合わせ、三城という一つの城郭を通して、戦国時代における信仰、権力、そして生存戦略がいかに複雑に絡み合っていたかを解き明かすことを目的とする。築城の背景から構造、歴史的役割の変遷、そして現代における価値までを包括的に分析し、三城が日本史に投げかける光を多角的に考察するものである。
三城がなぜ、そしてどのようにして築かれたのか。その答えは、大村純忠が領主として直面していた深刻な政治的・宗教的危機の中にこそ見出すことができる。この城は、彼の野心や領土拡大の象徴ではなく、崩壊の瀬戸際にあった自らの支配体制を守るための、最後の砦であった。
大村純忠の治世は、その始まりから大きな不安定要素を内包していた。彼は肥前国島原を治める有馬晴純の次男として生まれ、大村純前の養子として大村家の家督を継いだ人物である 7 。この家督継承は、純前に実子、後の後藤貴明がいたにも関わらず、宗家である有馬氏の強い影響力のもとで行われた、極めて「いびつな」ものであった 7 。
この経緯により、純忠は家中に多くの不満分子を抱えることとなった。彼は大村家にとって「よそ者」であり、その権力基盤は極めて脆弱であった 10 。彼の統治は、絶対的な君主としてのものではなく、複数の老臣との合議によってかろうじて維持される連合政権に近い形態を取っていた 7 。
さらに、この家督問題は純忠に生涯最大の敵をもたらした。大村家の正統な後継者と目されながら、政略によって武雄の後藤氏へ養子に出された実兄・後藤貴明である 11 。貴明は、自らの運命を狂わせた根源は大村純忠にあるとして、執拗にその命と領地を狙い続けた 9 。純忠にとって、この兄との宿命的な対立は、常に背後から突きつけられた刃であった。
内外に敵を抱え、脆弱な権力基盤に喘ぐ純忠が活路を見出したのが、当時日本に到達したばかりのキリスト教と、それに付随する南蛮貿易であった。永禄5年(1562年)、平戸でのトラブルにより新たな貿易港を探していたイエズス会とポルトガル商人に対し、純忠は領内の横瀬浦(現在の長崎県西海市)を開港地として提供した 7 。
当初の動機は、南蛮貿易がもたらす莫大な経済的利益にあったことは想像に難くない。しかし、宣教師たちとの交流を通じて、純忠はキリスト教の教義そのものにも深く傾倒していく 7 。そして翌永禄6年(1563年)、彼は家臣たちと共に洗礼を受け、日本史上初となるキリシタン大名、ドン・バルトロメオとなった 7 。
この改宗は、単なる個人的な信仰告白に留まらなかった。それは、伝統的な仏教的価値観に縛られた譜代の家臣団を、キリスト教という新たなイデオロギーの下で再結束させ、自らの求心力を高めようとする高度な政治的判断でもあった。しかし、彼の行動はあまりにも急進的であった。改宗後、先祖代々の寺社仏閣を破壊し、領民に改宗を迫るなど、過激なキリスト教化政策を推し進めたのである 7 。この行為は、伝統を重んじる家臣や仏教徒の激しい反発を招き、彼の孤立をさらに深める結果となった。
純忠の急進的な政策は、ついに内部からの爆発を招いた。キリスト教化に反発する家臣団は、宿敵である後藤貴明と密かに結託し、反乱の機会をうかがっていた 7 。そして永禄6年(1563年)、反乱は現実のものとなる。純忠は居館を襲撃され、命からがら多良岳へと逃亡する事態に陥った 7 。
この混乱の最中、彼の希望であった貿易港・横瀬浦もまた、キリスト教を快く思わない商人らによって焼き討ちに遭い、開港からわずか一年で灰燼に帰した 7 。純忠の描いた、キリスト教と南蛮貿易による領国安定化の夢は、一度は完全に潰えたのである。
その後、純忠は辛うじて領地を奪還するも、その支配力は地に落ちていた。内外の敵からの脅威、そして一度は裏切った家臣団への不信。こうした極度の緊張状態の中、純忠は新たな政治・軍事、そして信仰の中心地を確立する必要性に迫られた。その結論こそが、永禄7年(1564年)に開始された三城の築城であった 4 。三城は、後藤貴明という外部の敵だけでなく、領内の反乱分子からも自らの新しい政治体制を守るための、まさに最後の砦として計画されたのである。この城の存在理由そのものが、純忠が歩んだ茨の道の険しさを物語っている。
三城は、その築城背景にこそ革新的な要素を持つが、城郭としての物理的な構造は、戦国時代中期における伝統的な防御思想を色濃く反映したものであった。しかし、その内部には、日本の城郭史上極めて異例な機能が内包されていた。
三城は、大村市中心部に広がる富松丘陵の先端、標高約13メートルの丘陵上に築かれた平山城である 6 。この場所は、既存の城下町に隣接しており、領国支配の拠点としての利便性と、丘陵地形を利用した防御性を両立させる意図で選地されたと考えられる 7 。
城の全体構造、すなわち縄張りは、『新編 大村市史』に掲載された縄張り図からその一端をうかがい知ることができる 18 。これによると、城は丘陵の最高所に本丸(主郭)を置き、その周囲に複数の曲輪(城内の区画)を配置した構成であった。城郭の縄張りは、曲輪の配置方法によって、本丸を中心に同心円状に曲輪を配置する「輪郭式」、本丸を片隅に置き他の曲輪が片側を囲む「梯郭式」、主要な曲輪を直線状に並べる「連郭式」などに大別される 19 。三城の場合、丘陵という自然地形を巧みに利用しており、特定の形式に完全に当てはめるのは難しいが、本丸から段々に曲輪が連なる梯郭式や連郭式の要素を組み合わせた、複合的な縄張りであったと推測される。
三城の最大の特徴は、石垣をほとんど用いず、土を盛り上げた土塁と、地面を掘り下げた空堀を主たる防御施設としている点である 6 。これは、織田信長や豊臣秀吉の時代に全国へ広まる、高く堅固な石垣を駆使した近世城郭の技術が導入される以前の、戦国時代中期における典型的な城郭の姿である。
現在、城跡には往時の姿を偲ばせる遺構が良好な状態で残されている 3 。特に、本丸跡とされる長崎県忠霊塔の南側から東側にかけては、深く掘られた空堀が明瞭に確認でき、北東部には土塁の一部も現存している 17 。これらの土の構造物は、石垣のような圧倒的な威圧感はないものの、敵の侵攻を阻み、城兵が効果的に防戦するための計算された設計であった。
近年の九州新幹線西九州ルート建設などに伴い、三城城跡およびその城下では複数回にわたる発掘調査が実施され、文献史料だけでは知り得なかった城内の具体的な姿が明らかになりつつある 22 。
調査によって、城内には複数の建物が存在したことが確認された。中でも、梁間が3間(約6.1メートル)を超え、桁行が6間(約10.8メートル)にも及ぶ大型の建物跡が発見されており、これが城主の館や政務を執り行う施設であった可能性が考えられる 22 。
特に注目すべきは、建物の柱を支える礎石として、仏塔の一部である五輪塔の火輪が転用されていた事例である 22 。これは、純忠が断行した徹底的な寺社破壊という政策を、考古学的に裏付ける極めて象徴的な発見と言える。旧来の宗教的権威の象徴物を物理的に破壊し、それを自らの新しい支配体制の礎とするという行為は、純忠の強い意志と、当時の価値観の激しい転換を物語っている。
また、城跡からは鉄砲の弾が多数出土しており、この城が実戦を想定した武装拠点であったことを示している 5 。同時に、茶道具や中国製の陶磁器、日常食器である「かわらけ」なども発見されており、城主クラスの文化的で安定した生活の一端も垣間見える 5 。
さらに、歴史記録によれば、三城の築城後まもなく、城内には「御やどりの教会」(無原罪の聖母教会)が建設されたとされている 13 。城下から出土した花十字紋瓦の存在も併せて考えると 13 、三城は単なる軍事拠点や政庁に留まらず、大村領におけるキリシタン信仰の中心地としての機能も併せ持っていたことがわかる。日本の城郭史において、その中枢部に教会を内包した城は極めて稀であり、三城の特異性を際立たせている。古い器(伝統的な土作りの城郭技術)に、新しい酒(キリスト教文化)を盛るという、まさに戦国時代の価値観の転換期を象徴する遺構であると言えよう。
三城の名を不朽のものとしたのが、元亀3年(1572年)に起こった「三城七騎篭り」である。この戦いは、絶望的な兵力差を覆した奇跡的な防衛戦として、また戦国時代の局地戦の様相を鮮やかに伝える物語として、後世に語り継がれている。
元亀3年、大村純忠の実兄であり宿敵でもある後藤貴明は、三城攻略の好機と見た。彼は、純忠のキリスト教信仰が領内の混乱を招いていることを口実に、平戸の領主・松浦隆信、そして諫早の領主・西郷純堯に共闘を呼びかけた 25 。こうして結成された後藤・松浦・西郷連合軍、その数およそ1500が、三城へと殺到した 5 。
この攻撃は完全な奇襲であった。当時、大村家の家臣の多くはそれぞれの知行地に帰っており、本拠である三城の守りは手薄であった 27 。城内にいたのは、城主・大村純忠のほか、名を馳せた武将はわずかに七人。それに小者や兵、そして彼らの妻子を合わせても、総勢70から80名ほどしかいなかったと伝えられている 5 。1500対80弱という、絶望的な兵力差であった。
圧倒的な敵を前に、純忠と城兵は知略と総力で立ち向かった。まず、兵力が極端に少ないことを敵に悟られぬよう、城内に数多くの旗指物を立て、さらには女性や子供にも武具を着せて走り回らせ、大軍が立て篭もっているかのように見せかける偽装工作を行った 26 。
攻城戦が始まると、城兵は必死の抵抗を見せた。城壁をよじ登ろうとする敵兵に対し、石や熱湯、さらには灰を浴びせかけ、弓矢や鉄砲でこれを撃退した 26 。文字通り、城内の誰もが兵士となり戦った総力戦であった。
しかし、多勢に無勢、戦況は次第に篭城側にとって不利になっていく。そしてついに最大の危機が訪れた。城内から内応者が出現し、南側の門を内から開け放ってしまったのである。これを好機と見た西郷勢が、怒涛の如く城内へと突入した 26 。もはや落城は時間の問題であった。
万策尽きたことを悟った純忠は、死を覚悟した。彼は残った七人の武将たちと最後の別れの杯を交わすと、静かに立ち上がり、謡曲「二人静」を舞い始めたという 26 。極限の緊張と絶望の中で繰り広げられたこの逸話は、純忠の武将としての矜持と、篭城戦の悲壮さを今に伝えている。
純忠が死を覚悟したその時、戦場の神は思わぬ形で彼に微笑んだ。城外に、一人の男が潜んでいたのである。彼の名は富永又助(後の忠重)。かつて大村家に仕えていたが、当時は浪々の身であった 25 。彼は主君の危機を聞きつけ、十数人の手勢を率いて駆けつけたものの、既に城は包囲されており、手出しができないまま城外の小山に身を潜めていた 26 。
城内に西郷勢が突入し、敵の陣形が前後に長く伸びたのを見た富永は、一世一代の奇策を思いつく。彼は手勢と共に西郷軍の本陣に近づくと、「我らは大村純忠に恨みを持つ者。是非ともお味方致したく、大将にお目通りを願いたい」と偽りの投降を申し出た 26 。勝利を確信し油断していた西郷軍の総大将・尾和谷軍兵衛は、これを安易に受け入れてしまう。そして、まんまと陣中深くに招き入れられた富永は、尾和谷軍兵衛に一閃、見事にその首級を挙げたのである 25 。
総大将を討たれた西郷軍は、指揮系統を失い大混乱に陥った。城内からこの異変に気付いた純忠と七騎は、これを千載一遇の好機と捉え、最後の力を振り絞って反撃に転じた。さらに、城外で戦況を日和見していた大村方の家臣たちも、主君の奮戦と敵の混乱を見て続々と援軍に駆けつけ始めた 26 。形勢は完全に逆転した。勢いを失った西郷軍は敗走し、これを見た後藤・松浦の軍勢もまた、不利を悟って兵を引いた 25 。
こうして、誰もが不可能だと思った三城の防衛は、一人の浪人の奇策によって成し遂げられた。この勝利は、単なる精神論や偶然の産物ではない。寄せ集めであった連合軍の統率の脆弱性、偽装工作という巧みな情報戦、そして何よりも、正規の家臣団ではない「浪人」という流動的な存在が戦局を決定づけた点に、その本質がある。主君を見捨てた家臣がいる一方で、家臣ですらない人物が命を懸けて忠義を尽くし、その結果として再び家臣たちが集う。この戦いは、忠誠という概念そのものが揺れ動いていた戦国時代ならではのダイナミズムを象徴する戦例であり、この劇的な勝利こそが、純忠の脆弱な権力基盤を一時的にせよ、強固なものへと変えたのである。
この歴史的な篭城戦には、双方合わせて多くの武将が関わった。その複雑な人間関係とそれぞれの役割を明確にするため、以下に主要な関係者を一覧として示す。
立場 |
氏名 |
官途・通称・役職 |
篭城戦における動向・備考 |
典拠 |
篭城側(城主) |
大村純忠 |
ドン・バルトロメオ |
城主として篭城戦を指揮。死を覚悟し「二人静」を舞う。 |
25 |
篭城側(七騎) |
今道純近(純周) |
遠江守 |
裏門の守備を担当。七騎の一人。 |
25 |
|
大村純辰 |
|
裏門の守備を担当。七騎の一人。 |
25 |
|
朝長純基 |
|
大門の守備を担当。七騎の一人。 |
25 |
|
朝長純盛 |
|
大門の守備を担当。七騎の一人。純忠の娘婿。 |
25 |
|
藤崎純久 |
|
裏門の守備を担当。七騎の一人。 |
25 |
|
宮原純房 |
|
裏門の守備を担当。七騎の一人。 |
25 |
|
渡辺純綱 |
伝弥久 |
裏門の守備を担当。七騎の一人。 |
25 |
篭城側(援軍) |
富永忠重 |
又助 |
旧臣。奇策を用いて西郷軍の総大将を討ち取り、勝利の最大の功労者となる。 |
25 |
攻城側(総大将格) |
後藤貴明 |
伯耆守、又八郎 |
大村純忠の実兄。連合軍を率いて攻城。 |
11 |
攻城側 |
松浦隆信 |
肥前守 |
平戸領主。後藤貴明の要請に応じ参戦。援軍の到来を見て撤退。 |
25 |
攻城側 |
西郷純堯 |
石見守 |
諫早領主。後藤貴明の要請に応じ参戦。総大将を討たれ軍が混乱し撤退。 |
25 |
攻城側 |
尾和谷軍兵衛 |
馬場権平 |
西郷軍の総大将。富永忠重の奇策により討死。 |
25 |
「三城七騎篭り」という栄光の歴史を刻んだ三城であったが、その歴史的役割は永くは続かなかった。戦国時代の終焉と新たな時代の到来と共に、三城はその役目を終え、歴史の表舞台から静かに姿を消していく。
三城の運命を大きく変えたのは、純忠の子であり、大村藩初代藩主となった大村喜前の決断であった。喜前は慶長4年(1599年)、新たな居城として玖島城(くしまじょう、現在の大村公園)を築き、大村氏の本拠を三城から移したのである 2 。
この本拠地移転の背景には、喜前自身の戦争体験に基づいた、明確な戦略思想の変化があった。豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に従軍した喜前は、最前線での戦闘経験を通じて、「海に面した城は堅固である」という教訓を身をもって学んでいた 33 。三方が大村湾に囲まれた玖島の地は、まさに天然の要害であり、内陸の丘陵に位置する三城よりも防御性に優れ、また海上交通路を確保する上でも圧倒的に有利な立地であった 32 。
さらに、この時代は城郭のあり方そのものが大きく変化する過渡期でもあった。鉄砲や大砲が合戦の主役となるにつれ、従来の土塁と空堀を中心とした城ではその威力に耐えられなくなりつつあった 36 。玖島城が、加藤清正の指導を受けたとされ、高く堅固な石垣や複数の櫓を備えた近世城郭として計画されたのに対し、三城はもはや時代遅れの城となりつつあったのである 34 。
この移転は、軍事技術的な必然性だけでなく、大名の支配体制の変化も反映していた。家臣団を城下に集住させ(兵農分離)、強力な中央集権体制を築くという近世大名の統治スタイルにとって、広大な城下町の建設が可能な玖島は、三城よりもはるかに適した場所であった 31 。三城の放棄と玖島城への移行は、単なる「引越し」ではない。それは、大村氏の統治思想が、自領の防衛に終始した「戦国時代の在地領主」から、安定した幕藩体制下で領国を経営する「江戸時代の近世大名」へと、質的に転換したことを象徴する画期的な出来事であった。
玖島城への移転後も、三城は支城としてしばらく存続したようであるが、その命脈が完全に絶たれる時が来る。寛永14年(1637年)、三城は江戸幕府の厳命により完全に破却され、廃城となった 6 。
この時期は、日本史上最大規模のキリシタン一揆である「島原の乱」が鎮圧された直後である。幕府が、日本初のキリシタン大名・大村純忠の象徴であり、キリスト教の記憶と深く結びついた三城の存在を危険視し、その完全な破壊を命じた可能性は極めて高い。また、この措置は、元和元年(1615年)に出された「一国一城令」の徹底という、全国的な城郭整理政策の一環であったという側面も持つ 39 。いずれにせよ、三城は徳川幕府によるキリスト教禁制と中央集権体制確立の波の中で、その歴史に幕を閉じたのである。
廃城後、歴史の表舞台から姿を消した三城であったが、その故地は現代において新たな価値を見出されている。城の中心であった本丸跡には、明治維新から太平洋戦争までの長崎県出身戦没者を祀る「長崎県忠霊塔」が建立され、慰霊の場として静かな時を刻んでいる 5 。
現在、城跡一帯は「三城城跡」として大村市の史跡に指定され、往時を偲ばせる空堀や土塁などの貴重な遺構が大切に保存されている 3 。大村市教育委員会によって継続的に発掘調査や範囲確認調査が行われており、その歴史的価値の解明は今もなお進められている 23 。
現地には城の歴史を解説する案内板が設置され、隣接する富松神社の駐車場が利用できるなど、歴史愛好家や観光客が訪れやすい環境も整えられている 6 。かつて激しい攻防が繰り広げられた丘は、今や地域の歴史を学び、平和を祈るための静謐な空間となっている。
肥前国に築かれ、わずか数十年でその役割を終えた三城。その物理的な存在は決して長大なものではなかった。しかし、この城が日本史に刻んだ意味は、決して小さなものではない。本報告書で論じてきた内容を総括し、三城の歴史的意義を改めてここに記したい。
第一に、三城は日本初のキリシタン大名・大村純忠という、類い稀な戦国武将の苦難、信仰、そして不屈の精神を最も色濃く反映した城である 40 。彼の生涯を理解する上で、この城の存在は不可欠な鍵となる。
第二に、三城は戦国時代末期の日本において、キリスト教という外来の宗教が一地方領主の権力闘争といかに深く結びついたかを示す、稀有な事例を具体的に物語る遺構である 42 。それは、宗教と権力が交錯した時代の、生々しい証言者である。
第三に、三城は日本の城郭史・軍事史における過渡期の姿を留めている。土塁主体の城から石垣の城へ、内陸の城から海城へという戦略思想の変化の潮流の中で、三城はまさにその転換点に位置していた。
そして最後に、この城を舞台とした「三城七騎篭り」という物語は、単なる局地的な戦闘記録を超えて、リーダーシップ、忠誠、そして常識を覆す奇策といった普遍的なテーマを我々に問いかける 5 。絶望的な状況を覆したこの劇的な篭城戦は、後世に語り継がれるべき貴重な歴史の教訓である。
結論として、三城は、その土塁や空堀といった物理的な遺構以上に、戦国という激動の時代を生きた人々の選択と葛藤の記憶を宿す、重層的な歴史の証人なのである。その丘に立つとき、我々は、信仰に生き、存亡を賭けて戦った人々の声なき声を聞くことができるだろう。