伊勢亀山城は、関氏が若山城を築き、後に現在の地へ移転。豊臣政権下で岡本宗憲が近世城郭へ大改修。関ヶ原合戦後、城主が頻繁に交代し、天守誤解体事件で天守を失う。
伊勢亀山城は、現在の三重県亀山市に位置し、中世から近世にかけて北伊勢の政治・軍事の中心として重要な役割を担った城郭である。別名を粉蝶城(こちょうじょう)とも呼ばれるこの城は 1 、畿内と東国を結ぶ大動脈である東海道の要衝に築かれていた。さらに、伊勢街道や大和街道への分岐点でもあり、その地理的・戦略的重要性は極めて高かった 1 。城は鈴鹿川と椋川に挟まれた東西に延びる丘陵上に位置し、天然の地形を巧みに利用した堅固な防御施設であった 4 。
伊勢亀山城の歴史は、単一の城郭の歴史として語ることはできない。その本質は、鎌倉時代に在地領主・関氏によって築かれた中世城郭「若山城(亀山古城)」と、豊臣政権下で岡本宗憲によって築かれ、江戸時代に完成した近世城郭「亀山新城」という、二つの異なる段階を経て形成された点にある 5 。この変遷は、在地領主が割拠した中世から、中央集権体制が確立される近世へと移行する日本の社会構造の変化そのものを、城郭の姿を通じて映し出している。本報告書は、「戦国時代」という激動の時代を軸に、伊勢亀山城が辿った複雑かつ劇的な歴史を、その構造の変遷と共に詳細に解き明かすことを目的とする。
伊勢亀山城の起源は、鎌倉時代中期の文永2年(1265年)に遡る 5 。築城主は、鎌倉幕府の有力御家人であった関実忠(せきさねただ)である。伊勢平氏の流れを汲むとされる関氏は、実忠が伊勢国鈴鹿郡関谷を領有したことからその名を称するようになった 8 。実忠は、3代執権・北条泰時に仕え、承久の乱などでも軍功を挙げた人物であり、鎌倉幕府の中枢と深い繋がりを持つ実力者であったことが窺える 8 。
この時期に築かれた最初の城は、現在の城跡とは異なり、亀山市若山町に位置していたとされ、「若山城」あるいは「亀山古城」の名で知られている 1 。これは、在地に根差した武士が、自らの所領を防衛し支配するための拠点として築いた、中世武家館の典型的な姿であったと考えられる。
関氏は、鎌倉時代から戦国時代に至るまで、約300年、16代にわたって北伊勢に君臨した 5 。その勢力は、南勢の国司・北畠氏、中勢の長野氏と並び「伊勢三家」と称されるほど強大であり、鈴鹿郡一帯を支配する在地領主として確固たる地位を築いていた 10 。
関氏の居城であった若山城(亀山古城)は、中世の山城としての性格を色濃く持つ。江戸時代の地誌『伊勢亀山城』によれば、愛宕山の一部を切り崩して外堀とし、その東側の丘陵を城の中心地とした。土塁を巡らせた約一町(約109m)四方の主郭を持ち、巽(南東)と坤(南西)に櫓を構え、その間に大手門を設けていたとされる 11 。これは、防御を主眼に置いた、当時の典型的な城郭構造であった。
この関氏の時代に、城は若山から現在の場所へと移されたと伝えられているが、その正確な時期は明らかではない 5 。しかし、現在の城跡の発掘調査では戦国時代末期のものとみられる空堀が確認されており 5 、戦国の動乱が激化する中で、より戦略的に優位な現在の地へ拠点を移し、城郭を拡張していったものと推察される。
この若山城と、後に築かれる近世城郭・亀山城との間には、単なる場所の移動以上の、時代の断絶と連続性が象徴されている。若山城が在地領主による「領地支配と防衛」を目的とした閉鎖的な中世城郭であったのに対し、後に誕生する亀山城は、中央政権の権威を背景に、交通路を掌握し広域を統治するための「見せる城」「拠点城郭」へと、その性格を根本的に変えていくことになる。
戦国時代末期、尾張から急速に勢力を拡大した織田信長の目は、伊勢国にも向けられた。永禄10年(1567年)以降、信長の伊勢侵攻が本格化すると、北伊勢の要衝である亀山城もその渦中に巻き込まれることとなる 13 。
元亀4年(1573年)、関氏16代当主であった関盛信は、信長の軍門に降ることなく抵抗したためか、城を追放されるに至った 5 。これは、信長が伊勢支配を盤石にするため、旧来の有力国人を排除し、自らの支配体制を浸透させるための断固たる措置であった。しかし、一部の記録には、盛信が後に信長から赦免され、帰城を許されたとの記述も存在する 2 。このことは、信長が単に敵対勢力を排除するだけでなく、一度服属させた在地勢力の影響力を利用するという、柔軟かつ老獪な統治戦略を用いていた可能性を示唆している。
本能寺の変後、天下統一事業を継承した豊臣秀吉の時代、伊勢亀山城は歴史的な大変革期を迎える。天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐で戦功を挙げた家臣・岡本宗憲(岡本良勝とも)が、伊勢亀山に2万2千石を与えられて入封した 6 。
岡本宗憲は、関氏が築いた中世以来の城郭を土台としながらも、これを全面的に改修・拡張し、石垣や天守を備えた壮麗な近世城郭へと生まれ変わらせた。この大改修は、実質的な新城の築城ともいえる規模であり、宗憲を近世亀山城の初代城主と見なす説も有力である 6 。
この築城は、単なる軍事施設の強化に留まるものではなかった。それは、旧来の在地領主である関氏の権威を払拭し、豊臣という新たな中央政権の絶対的な力を、伊勢の国人や民衆、そして東海道を往来する全ての人々に見せつけるための、「権威の可視化」という高度な政治的行為であった。
岡本宗憲による築城では、本丸を中心に、二之丸、三之丸といった曲輪が新たに整備・拡張され、城の規模は飛躍的に増大した 1 。この城の設計、すなわち「縄張り」には、天下人である豊臣秀吉自身が関与したという伝承が残されている。幕末の亀山藩家老・近藤幸殖が詠んだ和歌に、「豊臣の きみの掛けにし 墨縄や たくみ妙なる 亀山の城」(豊臣の君=秀吉が自ら縄張りのための墨縄を引いた、巧みで素晴らしい亀山の城よ)とあるのがその証左である 8 。
この伝承の真偽は定かではないが、そう語られること自体が、この築城が単なる一武将の事業ではなく、豊臣政権の威信をかけた国家的なプロジェクトであったことを物語っている。文禄の役(朝鮮出兵)において船奉行という重責を担った岡本宗憲を 17 、東海道の要衝に配置し、壮大な城を築かせたことからも、秀吉がこの地をいかに重要視していたかが窺える。
この大改修に伴い、本丸には望楼型の天守が創建されたと伝えられている 6 。これが伊勢亀山城における最初の天守であり、戦国乱世の終焉と新たな支配者の到来を象徴する建造物であった。天守の存在は、軍事的な司令塔としての機能以上に、天下人の権威を代行する城主の威光を天下に示すという、極めて政治的な意味合いを持っていた。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は再び大きく揺れ動く。伊勢亀山城もまた、その激動の渦に飲み込まれていった。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、城主・岡本宗憲は西軍(豊臣方)に与した。しかし、西軍の敗北により、宗憲は戦後、徳川家康によって改易、すなわち領地を没収された 3 。
その後に亀山城主として入ったのは、皮肉にも、かつてこの地を追われた関盛信の子・関一政であった。東軍に属して戦功を挙げた一政は、家康から旧領である亀山に3万石で復帰することを許されたのである 2 。これは、関ヶ原の戦後処理における論功行賞の一環であり、在地での影響力を考慮した家康の巧みな采配であった。
しかし、関氏による統治も長くは続かなかった。関一政の後、徳川家康の外孫である松平忠明、そして三宅康信など、城主は目まぐるしく入れ替わっていく 2 。一見すると不安定な統治に見えるこの頻繁な交代劇の裏には、確立されつつあった江戸幕府の明確な意図が存在した。
その最大の理由は、伊勢亀山城が東海道の要衝に位置し、徳川家康、秀忠、家光という初期三代の将軍が上洛する際の休泊所、すなわち「幕府の宿所」としての極めて重要な役割を担っていたためである 1 。将軍の安全な通行路を確保し、快適な宿所を提供することは、幕府にとって最優先事項であった。このため、城主には信頼の置ける譜代大名が選ばれ、特定の勢力がこの地に長く根付くことを防ぐために、意図的に短期間で交代させられたのである。この城の特殊な性格は、将軍の宿舎として本丸御殿が使用されたため、城主自身の居館は格下の二之丸に置かれていたという事実からも鮮明に見て取れる 1 。城主の交代頻度の高さは、そのまま亀山という土地の戦略的価値の高さの証明であった。
表1:伊勢亀山城 城主の変遷(岡本宗憲以降)
時代 |
城主 |
在城期間 |
石高 |
特記事項 |
安土桃山 |
岡本宗憲 |
1590年~1600年 |
2万2千石 |
近世城郭を築城。関ヶ原合戦で西軍に属し改易。 |
江戸初期 |
関一政 |
1600年~1604年 |
3万石 |
関盛信の子。旧領復帰を果たすも、後に転封。 |
江戸初期 |
松平忠明 |
1604年~1610年 |
5万石 |
徳川家康の外孫。大坂の陣で活躍。 |
江戸初期 |
(幕府領) |
1610年~1615年 |
- |
津藩・藤堂高虎の預かり地となる。 |
江戸初期 |
三宅康信 |
1615年~1632年 |
1万石 |
天守誤解体事件時の城主。 |
江戸初期 |
本多俊次 |
1636年~1651年 |
5万石 |
城の大改修を実施。三重櫓、多聞櫓を築造。 |
江戸初期 |
石川憲之 |
1651年~1669年 |
5万石 |
|
江戸初期 |
板倉重常 |
1669年~1691年 |
5万石 |
|
江戸中期 |
松平乗紀 |
1691年~1710年 |
6万石 |
|
江戸中期 |
板倉重治 |
1710年~1717年 |
5万石 |
|
江戸中期 |
石川総慶 |
1717年~1730年 |
6万石 |
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江戸中期~幕末 |
石川氏(代々) |
1744年~1871年 |
6万石 |
延享元年に再度入封し、藩主家が安定。幕末を迎える。 |
寛永9年(1632年)、城主・三宅康信の時代に、伊勢亀山城は日本城郭史上でも類を見ない数奇な運命に見舞われる。城の象徴であった天守が、突如として解体されてしまったのである 1 。
通説によれば、この事件は驚くべき勘違いによって引き起こされたとされる。当時、江戸幕府は出雲松江藩主・堀尾忠晴に対し、「丹波亀山城」(現在の京都府亀岡市)の修築、あるいは天守の解体を命じた。ところが、堀尾忠晴はこれを「伊勢亀山城」のことであると誤解し、本来命令の対象ではなかった伊勢亀山城の天守を取り壊してしまったというのである 2 。
この前代未聞の出来事については、単なる間違いではなく、幕府の深謀遠慮があったとする説も存在する。すなわち、幕府は譜代大名の居城であっても、権威の象徴である天守の存在を快く思わず、この勘違いを好機として、黙認あるいは陰で誘導することによって天守を排除したのではないか、という見方である 21 。真相は定かではないが、いずれにせよこの一件により、伊勢亀山城は天守を永久に失うこととなった。
天守を失った伊勢亀山城であったが、寛永13年(1636年)に新たな城主として本多俊次が入封すると、再び大規模な改修が行われることになった 1 。この3年に及ぶ大改修によって、近世城郭としての伊勢亀山城の姿は、ほぼ最終的な完成形を迎える 24 。
失われた天守の代わりとして、本多俊次は本丸の北側に新たに「三重櫓」(御三階櫓とも)を建造した 1 。これは3重3階の独立式層塔型櫓であり、事実上の天守として城の新たな象徴となった 18 。
そして、岡本宗憲が築いたものの、天守が解体されて空き地となっていた壮大な天守台の上には、平屋建ての「多聞櫓」が築造された 1 。この多聞櫓は、平時には武器庫として利用され、城の防衛機能の一翼を担った。そして、この本多俊次によって建てられた多聞櫓こそが、幾多の変遷と明治の廃城令を乗り越え、今日までその姿を伝える唯一の現存建造物なのである。
伊勢亀山城は、東西に長く延びる丘陵の地形を最大限に活用して築かれた、典型的な「平山城」である 4 。その縄張り(城郭の設計)は、本丸を最高所に置き、そこから各曲輪を連ねて配置する「連郭式」が採用されている 3 。
古地図などによれば、城の中心である本丸から東へ向かって二之丸、東三之丸が、西には西出丸が、そして南側の平地には西之丸が配置されていた 4 。本丸には天守台、三重櫓、多聞櫓などが林立し、城の中枢を成していた 2 。二之丸には将軍の宿所である本丸を避けて城主の居館が置かれ、時を告げる太鼓櫓なども存在した 1 。
城の防御は、内堀と外堀によって固められていた。特に、天然の谷を堰き止めて広大な水堀とするなど、地形を巧みに利用した防御設計が見られる 3 。さらに、城の西端には、西の関宿方面を監視するための二重櫓「関見櫓」が設けられ、街道の監視というこの城の重要な役割を担っていた 14 。これらの城郭の全体像は、正保元年(1644年)に幕府の命令で作成された「伊勢亀山城絵図」や、宝永7年(1710年)頃の「勢州亀山惣絵図」といった古地図によって、今日でも詳細に知ることができる 28 。
伊勢亀山城の石垣は、その築かれた時代の技術と思想を雄弁に物語る、歴史の証人である。特に本丸の天守台の石垣には、異なる時代の築城技術が混在しており、城の歴史そのものが物理的に刻まれた「地層」となっている。
天守台の主要部分を構成するのは、自然石をほとんど加工せずに積み上げた「野面積み」である 25 。これは、岡本宗憲による築城、すなわち安土桃山時代の、機能性と築城の速度を重視した思想を反映したものである。
一方で、天守台の内側の一部には、石を加工して隙間なく精緻に積み上げる「谷積み(落とし積み)」と呼ばれる技法が用いられている 25 。これは、世の中が安定し、より高度で見た目の美しさも追求されるようになった江戸時代後期、幕末期に修築が施された跡と考えられている。一つの石垣が、異なる時代の思想、技術、そして社会情勢を無言のうちに語っており、城郭が単なる建造物ではなく、時代の精神を映す鏡であることを示している。現在も、これらの石垣や堀、土塁の一部は良好な状態で残り、往時の姿を偲ばせている 1 。
本多俊次によって旧天守台上に築かれた多聞櫓は、伊勢亀山城の歴史を今に伝える最も貴重な遺構である。木造平屋建て、入母屋造、本瓦葺という構造を持ち 20 、その白漆喰の壁と重厚な瓦屋根は、高石垣の上にあって凛とした佇まいを見せている。
この多聞櫓の最大の価値は、明治時代の廃城令やその後の戦災を免れ、三重県内に唯一現存する城郭建造物であるという点にある 2 。当初は武器庫として使われていたが、明治期に士族の生活を支えるための授産施設(木綿段通工場)として利用されたことが、結果的に解体を免れる一因となった 3 。
平成24年度(2012年)には「平成の大修理」と呼ばれる大規模な保存修理工事が完了し、江戸時代後期の板壁の状態から、創建当時に近い白漆喰の大壁へと復元された 3 。この多聞櫓は、三重県の史跡および有形文化財に指定されており、伊勢亀山城の歴史と記憶を継承する、かけがえのないシンボルとなっている。
目まぐるしく城主が交代した伊勢亀山城であったが、江戸時代中期になるとようやく安定期を迎える。板倉氏、松平氏などを経て、延享元年(1744年)に石川氏が6万石で入封すると 2 、以降、明治維新に至るまで11代にわたってこの地を治めることになった 1 。
長期にわたる石川氏の治世下で、亀山藩の藩政は安定し、城下町も整備された。その時代の面影を伝える遺構として、西之丸に屋敷を構えていた石川氏の家老・加藤家の長屋門と土蔵が現存しており、亀山市の文化財に指定されている 2 。
約260年続いた江戸幕府が終焉を迎え、明治時代になると、全国の城郭は存亡の危機に立たされる。明治6年(1873年)に発布された廃城令により、伊勢亀山城もその例外ではなく、現存する多聞櫓を除いた三重櫓、各門、御殿といった建造物のほとんどが取り壊され、その壮麗な姿を失った 1 。
しかし、失われた建造物の一部は、移築という形で命脈を保っている。特に、二之丸にあった御殿の玄関と式台の一部は、城下の遍照寺の本堂として移築され、現存している 2 。これは、往時の大名御殿の建築様式を伝える、極めて貴重な遺構である。城跡の主要部分は、本丸が児童公園、二之丸が小学校の敷地となるなど、近代化の波の中で大きくその姿を変えていった 12 。
かつての威容を失った伊勢亀山城跡であるが、今日では歴史を伝える貴重な文化遺産として、保存と活用が進められている。城跡一帯は亀山公園として整備され、特に桜の名所として多くの市民に親しまれている 12 。
県の史跡・有形文化財である多聞櫓は、平成の大修理を経て往時の姿を取り戻し、城の歴史を伝える中核施設として公開されている 31 。近年では、二之丸の帯曲輪が土塀と共に復元整備されるなど 1 、史跡としての景観を向上させる取り組みも行われている。また、登城記念となる「御城印」の販売も開始され、歴史愛好家や観光客が訪れる新たな魅力となっている 20 。城跡周辺には、加藤家長屋門や遍照寺の移築御殿、さらには江戸時代の宿場町の面影を色濃く残す旧東海道関宿など、城下町の歴史を体感できるスポットが点在しており 2 、地域全体の歴史遺産として一体的に継承されている。
伊勢亀山城が辿った歴史は、鎌倉以来の在地領主が割拠した時代から、織豊政権による中央集権化の波、そして江戸幕府による盤石な支配体制の確立と、日本の歴史における大きな転換点をことごとく体現している。
一つの城が、時代の要請に応じてその姿と役割を劇的に変え続けた稀有な例であり、特に天守を巡る数奇な運命は、中央権力と地方の城との緊張関係を象徴的に物語っている。関氏による中世の山城から、豊臣政権の威光を示す近世城郭へ。そして、徳川幕府の戦略的拠点として、その城主が頻繁に入れ替えられた激動の時代。伊勢亀山城は、常に歴史の表舞台で重要な役割を演じ続けてきた。
今日、我々が目にすることができる多聞櫓や、異なる時代の技術が刻まれた石垣は、そうした激動の歴史を乗り越えてきた静かな証人である。それらは単なる古い建造物や石の構造物ではない。北伊勢の地で繰り広げられた権力者たちの興亡と、時代の大きなうねりを現代に伝え、我々に日本の城郭文化の奥深さと地域の歴史の豊かさを教えてくれる、かけがえのない遺産なのである。