八戸城は、戦国動乱を経て盛岡藩が築き、八戸藩の藩庁となる。天守なき陣屋形式ながら藩政の中心として機能。廃城後も三八城神社や公園として八戸の歴史を伝える。
本報告書は、江戸時代に陸奥国三戸郡に築かれ、八戸藩の藩庁として機能した「八戸城」について、その歴史的背景、構造、変遷、そして現代における意義を詳細に解き明かすものである。八戸地方における城郭を語る上で、まず明確にすべきは、本稿の主題である近世城郭「八戸城」と、中世に南部師行が築いた「根城」とは、その起源、性格、歴史的役割において全く異なる存在であるという点である 1 。
八戸城は、単なる地方の城郭にとどまらない。その築城は、戦国時代を通じて繰り広げられた南部一族内の複雑な権力闘争が終焉を迎え、徳川幕府を中心とする新たな政治秩序の下で、この地方の支配体制が再編されていく過程を象徴する、歴史的な一里塚であった。寛永4年(1627年)に盛岡藩主・南部利直によって築かれたこの城は 4 、やがて予期せぬ形で誕生する八戸藩の政治的中心となり、明治維新に至るまで約250年間にわたり、北奥羽の歴史を刻み続けることになる。
八戸城と根城の本質的な差異を明確にするため、以下に両者の比較を示す。この対比は、なぜ近世において「八戸城」が新たに必要とされたのかという、本報告書全体の根幹をなす問いへの導入となる。
表1:八戸城・根城 比較表
項目 |
八戸城 |
根城 |
時代区分 |
江戸時代(近世) |
南北朝~安土桃山時代(中世) |
築城年代 |
寛永4年(1627年) 4 |
建武元年(1334年) 1 |
主な築城者 |
南部利直(盛岡藩主) 5 |
南部師行(根城南部氏祖) 1 |
城郭形態 |
平山城(政庁中心の陣屋形式) 6 |
平山城(防御拠点の連郭式) 8 |
政治的役割 |
八戸藩の藩庁 4 |
八戸地方の支配拠点 1 |
立地 |
馬淵川・新井田川間の台地先端 7 |
馬淵川西岸の河岸段丘 8 |
現在の状況 |
三八城公園、市街地 4 |
国史跡「根城の広場」(復元整備) 1 |
八戸城の築城背景を理解するためには、時計の針を戦国時代にまで戻し、南部一族が内包していた複雑な権力構造を紐解く必要がある。八戸城の礎は、物理的な石垣が組まれる遥か以前に、この時代の政治的激動の中で築かれていたのである。
南部氏は、その出自を甲斐源氏に持つ武家であり、鎌倉時代に源頼朝による奥州合戦の功により、糠部郡(現在の青森県東部から岩手県北部)の地頭職を得てこの地に入部したとされる 9 。しかし、戦国期に至るまで、南部氏は単一の絶対的な権力者によって統治される一枚岩の組織ではなかった。
一族は、宗家とされる三戸南部氏を中心に、一戸、四戸、七戸、九戸など、それぞれの本拠地の名を冠した有力な庶家が分立する連合体としての性格を色濃く持っていた 11 。中でも、南北朝時代に南朝方として活躍し、独自の歴史と高い独立性を保持していた八戸(根城)南部氏と、武勇に優れ、宗家を凌ぐほどの勢力を有した九戸氏は、三戸宗家と並び立つ存在であった 11 。この時期の八戸地方は、まさしく根城南部氏の支配領域であり、三戸宗家の権威が直接的には及びにくい、半ば独立した地域であったと言える 3 。
この不安定な権力均衡を揺るがす事態が、三戸南部氏24代当主・南部晴政の代に発生する。晴政には長らく男子がおらず、叔父・田子高信の子である信直を養嗣子として迎えていた。しかし、晩年に実子・晴継が誕生すると、晴政は実子に家督を継がせたいと望むようになり、信直との関係は急速に悪化する 9 。
晴政と信直の対立は一触即発の事態にまで発展し、信直は身の危険を感じて居城を脱出する。この南部家分裂の危機に際して、調停役として重要な役割を果たしたのが、一族の重鎮であった八戸氏当主・八戸政栄であった。政栄の仲介により、両者の武力衝突は回避された 13 。
天正10年(1582年)、晴政が病没し、その直後に後継者であるはずの晴継も急死するという混乱の中、南部氏の次期当主の座を巡って再び対立が表面化する。九戸政実は実弟の実親を強力に推挙するが、ここで再び八戸政栄が動く。政栄は、九戸氏の権力増大を警戒し、信直の擁立に回った。一族内で絶大な影響力を持つ政栄の支持は決定的であり、これにより南部信直の宗家継承が確定したのである 13 。
信直の家督相続に強い不満を抱いた九戸政実は、豊臣秀吉による天下統一事業の最終段階である奥州仕置を契機に、公然と信直に反旗を翻す 12 。天正19年(1591年)に発生した「九戸政実の乱」である。
自領内の兵力だけでは、勇猛で知られる九戸勢の鎮圧は困難と判断した信直は、中央の権力者である秀吉に救援を要請した。これは、南部氏内部の問題を、天下人の権威をもって解決しようとする戦略であった。秀吉はこれに応じ、蒲生氏郷を総大将とし、浅野長政らを加えた再仕置軍を派遣した 15 。豊臣の大軍の前に九戸城は数日で陥落し、降伏した政実をはじめとする城兵の多くが処刑され、九戸氏は滅亡した 16 。
この乱の鎮圧は、南部氏の歴史における決定的な転換点となった。信直は、豊臣政権という公的な後ろ盾を得て、領内における最後の抵抗勢力を一掃し、南部一族に対する一元的な支配権を確立した。これにより、南部氏は中世的な武士団の連合体から、領国を一体的に支配する近世大名へと大きく脱皮を遂げたのである 9 。
九戸政実の乱を経て、八戸政栄率いる根城南部氏もまた、南部宗家の家臣団の一員としての地位を明確に位置づけられることとなった。信直の宗家継承に多大な貢献をした功労者でありながらも、もはや独立した領主としての立場は許されず、三戸宗家を中心とする新たな支配秩序の中に組み込まれていったのである 3 。
この一連の出来事、すなわち戦国時代を通じて続いた南部一族内の権力闘争の終結と、宗家による支配権の確立こそが、後の時代に根城南部氏を八戸の地から遠野へ移し、その旧支配地の中心に宗家の権威の象徴として「八戸城」を築くという、歴史的必然性を生み出す土壌となった。
戦国時代の動乱が収束し、徳川の世が訪れると、八戸地方は新たな時代を迎える。盛岡藩による直接支配の確立、そしてその拠点としての八戸城の建設は、この地の歴史における大きな画期であった。さらに、南部宗家における後継者問題が、図らずも八戸藩を誕生させ、八戸城に新たな役割を与えることになる。
江戸幕府の下で盛岡藩初代藩主となった南部利直は、広大な領内を安定的に統治するため、中央集権的な藩体制の構築を急いだ。その政策の一環として、寛永4年(1627年)、長年にわたり八戸地方を支配してきた根城南部氏に対し、遠野(現在の岩手県遠野市)への移封を命じた 3 。
この措置は、単なる領地の配置転換ではなかった。南北朝以来の名家であり、戦国期には宗家と渡り合うほどの影響力を持った根城南部氏を、その本拠地から切り離すこと。そして、彼らの権威の象徴であった根城を実質的に廃城とすること。これらは、八戸地方が旧来の支配体制から完全に脱し、盛岡藩の直接統治下に置かれたことを内外に示す、極めて強力な政治的宣言であった。これにより、建武元年(1334年)から約300年続いた根城南部氏の時代は、完全に幕を閉じたのである 1 。
根城南部氏の移封とまさに時を同じくして、利直は寛永4年(1627年)、新たな城の建設に着手した。これが八戸城である 4 。築城の地として選ばれたのは、馬淵川と新井田川に挟まれた「三八城山」と呼ばれる台地であった。この地は、かつて根城南部氏の一族である中館氏が館を構えていたとされ、既存の施設を基礎としながら整備が進められたと見られている 4 。
八戸城の建設には二つの主要な目的があった。一つは、津軽氏との領地が接する国境地帯の要衝として、軍事的な抑えを効かせること。もう一つは、そしてこちらがより重要な目的であったが、盛岡藩の直轄地となった八戸地方を統治するための行政拠点としての役割であった 4 。利直自らが縄張りを行ったとされ、新たな支配の中心地を築くことへの強い意志が窺える 19 。
利直が築いた八戸城は、当初は盛岡藩の出先機関として機能していた。しかし、寛文4年(1664年)、盛岡藩2代藩主・南部重直が世継ぎを定めないまま急逝したことで、事態は急変する 6 。
当時の武家諸法度では、大名が嗣子なく死去した場合、その家は改易、すなわち取り潰しとなるのが原則であった。南部家10万石も断絶の危機に瀕したが、徳川幕府は南部家が古くからの名家であることや、初代利直の忠勤を考慮し、異例の裁定を下す 6 。その裁定とは、盛岡藩10万石を一旦没収した上で、改めて分割して再興を認めるというものであった。重直の異母弟である七戸重信に盛岡8万石を、そしてもう一人の異母弟である中里数馬(後の南部直房)に新たに2万石を与え、分家させるという内容であった 11 。
この幕府の決定は、大藩であった盛岡南部氏の勢力を削ぎ、幕府の統制下に置きやすくするという政治的意図があった。しかし、この結果として、盛岡藩の支藩ではなく、将軍家から直接領地を安堵される独立した藩として「八戸藩」が誕生することになった。
新たに2万石の大名となった南部直房は、八戸藩の初代藩主として、利直が築いた八戸城を自らの居城と定めた 4 。盛岡藩時代に建てられていた館を修築し、藩の政庁としての機能を整備。家臣団は、盛岡藩から分与された「御分国之節の御分士」と呼ばれる21名などを中核として編成され、城下町の拡張と整備にも着手した 4 。こうして八戸城は、八戸藩の政治、経済、文化の中心としての新たな歴史を歩み始めたのである。
八戸藩の藩庁となった八戸城は、戦国時代の城郭とは一線を画す、近世的な行政拠点としての性格を強く持っていた。天守を持たず、御殿を中心としたその構造は、徳川幕藩体制下における小藩のあり方を如実に示している。
八戸城は、馬淵川と新井田川が形成した沖積平野に突き出す台地の先端部、標高約20メートルの地点を利用して築かれた平山城である 5 。城の主要部分は、本丸と二の丸という二つの曲輪から構成されていた 4 。
本丸 は、城郭の北端に位置し、東西約150メートル、南北約200メートルの規模を有していた 4 。四方は土塁と水堀で囲まれ、藩主の公邸であり政庁でもある「御殿」がその中心に据えられていた。現在の三八城神社境内と三八城公園が、本丸の跡地にあたる 4 。
二の丸 は、本丸の南東に広がり、現在の八戸市庁舎、南部会館、そして龗神社を含む一帯に相当する 4 。ここには、藩主一族や家老格といった上級家臣の屋敷(角御屋敷など)が配置されたほか、藩校である文武学校や馬屋といった藩の重要施設が置かれていた 4 。また、八戸藩の祈祷寺であった豊山寺や、古くからこの地の信仰を集めていた法霊社(現在の龗神社)も二の丸の範囲に含まれており、城が単なる政治・軍事施設ではなく、信仰の中心地でもあったことを示している 4 。
本丸の中心施設であった御殿は、藩の政務を執り行う「表」の部分と、藩主とその家族が生活する私的な「奥」の部分から構成されていた 4 。この御殿は、時代と共に改築が重ねられた。
特に大規模な建て替えが行われたのが、文政10年(1827年)、8代藩主・南部信真の治世であった。この普請にあたっては、建て替え前の「古御殿御絵図面」と、新築後の「新御殿御絵図面」という二つの詳細な平面図が作成されている 4 。これらの絵図面によれば、新御殿では特に奥部分が大きく拡張されており、藩の威信を示すとともに、藩主の生活空間の充実が図られたことがわかる 4 。八戸市博物館には、この新御殿の姿を忠実に再現した復元模型が展示されており、往時の壮麗な建築を偲ぶことができる 4 。
八戸城には、城の象徴ともいえる天守や、大規模な隅櫓は存在しなかった。建設計画自体はあったものの、明治維新を迎えるまで実現することはなかった 4 。その実態は、御殿や蔵、門などを中心とした行政施設であり、「城」というよりは「陣屋」に近い性格のものであった 6 。これは、2万石という八戸藩の石高や、武家諸法度による城郭建築の厳しい規制を反映したものであり、幕府への恭順の意を示すものでもあった。
当初、この施設は公式には「御屋敷」などと呼ばれていた。しかし、天保9年(1838年)、異国船の出没が相次ぐ中で沿岸警備に尽力した8代藩主・信真の功績が幕府に認められ、八戸藩主は「城主格」へと昇格した 4 。これにより、幕府から公式に「城」と称することが許され、八戸城は名実ともに「城」となったのである。この昇格は、軍事的な実態の追認ではなく、藩の忠勤に対する政治的な褒賞であり、江戸時代の武家社会における「格式」の重要性を示す興味深い事例である。
八戸藩の成立に伴い、城の周辺では計画的な城下町の整備が進められた。その町割りは、近世城下町の典型的な構造を示している 4 。
城に最も近い内丸や堀端丁といった区画には、藩の重臣など上級武士の屋敷が配置された。その南側には、三日町や八日町といった町人町が東西に長く形成され、商業の中心地となった。さらにその外縁部には、下級武士や足軽の屋敷町が広がり、城下町の防御ラインを兼ねていた 4 。この江戸時代に形成された都市の骨格は、大正時代の大火や戦後の開発を経た現在もなお、八戸市中心街の道路網に色濃くその名残をとどめている 4 。
文献史料や絵図に残された八戸城の姿は、近年の考古学的調査によって、より具体的で立体的なものとなっている。平成6年(1994年)から継続的に行われている発掘調査は、失われた城郭の構造を明らかにし、そこで営まれた人々の生活に光を当てている 4 。
三八城公園の再整備事業などに伴い、八戸市教育委員会はこれまで30ヶ所以上にも及ぶ地点で発掘調査を実施してきた 23 。これらの調査で得られた最大の成果の一つは、「文久改正 八戸御城下略図」に代表される江戸時代の絵図面が、極めて正確な測量に基づいて作成されていたことを物理的に証明した点にある 28 。遺構の配置や規模が絵図の記述と高い精度で一致することが次々と確認され、文献史料の信頼性を考古学的に裏付けた。
近年の調査の中でも特に画期的であったのが、本丸の正門にあたる「大手御門」の礎石の発見である。八戸市公会堂近くの市道工事に伴う調査で、絵図に描かれた通りの場所から、門柱を支えた巨大な礎石2基が発見された 28 。一つは重さ推定320キロにも及ぶ巨大なもので、柱の間隔は約3.4メートルと算出された。これは、廃城後に大手御門の具体的な遺構が確認された初めての事例であり、八戸城の正面玄関の正確な位置と規模を特定する上で、計り知れない価値を持つ発見であった 28 。
また、平成23年(2011年)の調査では、これまでその存在が確認されていなかった城の「外堀跡」が初めて発見された 29 。これにより、八戸城の防御範囲が従来考えられていたよりも広かった可能性が示され、城の縄張りに関する理解を大きく前進させた。
発掘調査は、建造物の痕跡だけでなく、当時の人々の暮らしぶりを伝える数多くの遺物をもたらした。
本丸の御殿跡周辺からは、藩主やその家族が用いたと考えられる、上質で色鮮やかな磁器や、繊細な絵付けが施された京焼の陶器などが多数出土している 23 。また、神事などの儀礼で使われた素焼きの土器「かわらけ」や、高級な贈答品でもあった精製塩の容器「焼塩壺」といった、一般の武家屋敷や町家の遺跡からは見られない特殊な遺物も発見されており、藩主の格式高い生活文化を物語っている 23 。
一方、二の丸の上級家臣屋敷地とみられる場所からは、江戸や花巻(盛岡藩領)で作られた土人形やままごと道具といった玩具類が出土した 23 。当時の日記類の記録から、八戸藩の上級武士は参勤交代などで江戸に滞在する際、様々な品物を購入して国元へ送っていたことがわかっている 23 。これらの玩具は、参勤交代制度を通じて、遠く離れた八戸の地にまで中央の文化や流行がもたらされていたことを示す、具体的な物証である。
これらの出土品は、八戸城が単なる地方の行政施設ではなく、江戸を中心とする全国的な物流・文化ネットワークの中に位置づけられ、洗練された生活文化が営まれる舞台であったことを生き生きと伝えている。
明治維新という時代の大きな転換点は、八戸城にもその役割の終焉をもたらした。しかし、物理的な城郭が失われた後も、その場所と記憶は形を変えながら現代の八戸市に受け継がれている。
明治4年(1871年)、廃藩置県によって八戸藩は廃止され、八戸県を経て青森県に編入された 22 。藩庁としての役割を失った八戸城もまた廃城となり、城内にあった御殿をはじめとする多くの建造物は解体され、民間へ払い下げられた 4 。
しかし、全ての建物が失われたわけではなかった。一部は移築という形で奇跡的にその姿を現代に伝えている。
廃城後の広大な城跡地は、新たな時代の要請に応じてその姿を変えていった。本丸御殿があった中心部には、明治7年(1874年)、八戸藩の藩祖である南部直房や、南部氏の遠祖とされる新羅三郎義光らを祭神とする「三八城神社」が創建された 4 。社名の「三八城(みやぎ)」は、三戸郡の「三」、八戸の「八」、そして城の「城」に由来すると言われ、旧藩士や領民たちの精神的な拠り所となった 34 。
さらに時代が下り、戦後の昭和21年(1946年)、旧藩主である八戸南部家12代当主・南部利克氏より城跡の土地が八戸市に寄付されたことを受け、この地は都市公園「三八城公園」として整備された 37 。かつて武士たちが闊歩した場所は、今では桜の名所として知られ、展望デッキや遊具が設けられた市民の憩いの場となっている 36 。
移築された旧東門に加え、八戸城の往時を偲ばせるもう一つの貴重な建造物が現存する。二の丸にあった「角御殿」の表門である 4 。
「古桜門」とも呼ばれるこの門は、現在、南部会館の表門として利用されている 5 。4本の柱を用いた大規模な棟門形式であり、その荘重な造りは上級武士の屋敷の格式を今に伝えている 6 。昭和53年(1978年)に積雪の重みで一度倒壊したが、修復工事を経て往時の姿を取り戻し、青森県重宝に指定されている 4 。
これらの現存遺構は、建物群のほとんどが失われた八戸城の建築様式や規模を具体的に伝える、かけがえのない歴史遺産である。
八戸城の歴史は、戦国時代の動乱を乗り越え、南部氏が近世大名としての支配体制を確立する過程で幕を開けた。江戸時代を通じて、それは八戸藩2万石の政治・経済・文化の中心として、地域の発展の礎となった。天守を持たない陣屋形式の構造や、後に「城主格」へと昇格した経緯は、徳川幕藩体制下における地方大名の巧みな生存戦略と、時代の要請に応じた役割の変化を物語っている。
廃城という歴史の節目を迎えた後も、その場所は三八城神社、三八城公園として、地域の精神的・市民的な中心であり続けている。藩政時代には「権力の中心」であった場所が、近代以降は「信仰の中心」へ、そして現代では「市民生活の中心」へとその役割を変えながらも、常に八戸の町の中心にあり続けているのである。
八戸城の歴史を深く掘り下げることは、単に一つの城の沿革を知るにとどまらない。それは、八戸という都市の成り立ちを理解し、戦国から近世、そして近代へと至る日本の大きな歴史の転換を、北奥羽の一都市の姿を通して見つめることに他ならない。