伊予肱川畔の大洲城は、宇都宮氏の地蔵ヶ岳城に起源。戦国期に城主が交代し、藤堂高虎が近世城郭の基礎を築き、脇坂安治が天守を完成。明治に解体されるも、平成に木造復元され、現代に新たな歴史を刻む。
愛媛県南予地方、清流肱川が大きく蛇行する地点に築かれた平山城、大洲城。別名、地蔵ヶ岳城、比志城とも呼ばれるこの城は、中世の砦から近世城郭へと姿を変え、数多の武将たちの興亡を見つめてきた歴史の証人である 1 。本報告書は、特に日本の歴史が最も激しく動いた「戦国時代」という視座から、大洲城の全貌を解き明かすものである。
一般に、その起源は源平合戦の頃に伊予の豪族・河野氏が築いたとの伝承も存在するが、史料を精査すると、その直接的な始まりは鎌倉時代末期に遡ることが確認される。すなわち、伊予国守護として中央から派遣された宇都宮豊房が、元弘元年(1331年)にこの地に「地蔵ヶ岳城」を築いたのが、大洲城の確かな歴史の第一歩である 3 。この認識の差異そのものが、伊予国における在地勢力と中央から派遣された支配者との複雑な関係性を象徴しており、本報告書の探求の出発点となる。
鎌倉時代末期、下野国(現在の栃木県)を本拠とする名門・宇都宮氏の一族、宇都宮豊房が伊予国守護として下向した 7 。元弘元年(1331年)、彼は肱川沿いの小高い丘「地蔵ヶ岳」に城を築き、これが大洲城の直接的な起源となった 3 。
この築城地の選定には、当時の伊予国における政治力学が色濃く反映されている。伊予国の伝統的な中心地であった道後平野を避け、山間の大洲に拠点を構えた背景には、既に同平野に強固な地盤を築いていた在地豪族・河野氏への配慮があったと推測される 2 。これは、中央の権威を背景に持つ外来の守護大名が、地域の現実的な勢力との緊張関係の中で、いかにして支配の足掛かりを築いたかを示す重要な事例である。中央の権威(守護職)と、地域の現実的な勢力(在地豪族)との間に存在する力学は、戦国時代を通じて伊予の歴史を動かす主要な要因の一つとなる。
しかし、この立地選定は単なる消極的な理由だけではなかった。大洲は伊予国内の東西(道後平野と宇和郡)を結ぶ交通の要衝であり、また土佐国への玄関口でもある戦略的な地点であった。ここに拠点を置くことは、伊予国内の物流と軍事動向を把握し、かつ土佐の一条氏のような他国の勢力との連携を容易にするという、極めて高度な戦略的意図があったと考えられる。
当時の地蔵ヶ岳城は、石垣を多用した近世城郭とは異なり、自然地形を巧みに利用した土塁や空堀を中心とする中世的な山城であったとみられる。近年の発掘調査では、後の時代の盛土の下から、当時の建物の壁土などが発見されており、その存在を考古学的に裏付けている 10 。また、築城に際して「おひじ」という娘の人柱伝説が残るが、これは後世の創作である可能性が高いものの、城の脇を流れる川が「肱川」と呼ばれるようになった由来とされ、築城が難工事であったことを物語る伝承として興味深い 2 。
宇都宮氏は約237年間にわたり大洲を拠点とし、戦国時代には南伊予の有力な国人領主として、宇和郡の西園寺氏と勢力を二分する存在となった 3 。8代目当主・宇都宮豊綱の時代には、西園寺氏との戦いで西園寺実充の子・公高を討ち取るなど、その武勇と勢威を示した 11 。
しかし、戦国時代の伊予は群雄割拠の状態にあり、豊綱は土佐の一条氏と姻戚関係を結ぶことで、伊予の覇権を巡って宿敵・河野氏と激しく対立した 11 。この対立は単なる地域紛争に留まらなかった。河野氏が中国地方の覇者である毛利氏の支援を受ける一方、宇都宮氏は一条氏と連携するという構図は、伊予国を舞台とした大勢力間の代理戦争の様相を呈していた 8 。
この緊張関係は、永禄11年(1568年)に頂点に達する。毛利氏の強力な援軍を得た河野氏との間で繰り広げられた「鳥坂峠の合戦」において、宇都宮・一条連合軍は決定的敗北を喫した 11 。この敗戦により、豊綱は毛利方に捕らえられ、備後国でその生涯を終えたと伝えられる。これにより、二百数十年続いた大名としての伊予宇都宮氏は滅亡した 8 。在地勢力である河野氏が、中央から派遣された守護大名の末裔を最終的に打倒したこの出来事は、在地勢力が中央の権威を飲み込んでいく戦国時代特有の下剋上という歴史的潮流を、伊予国という舞台で体現したものであった。宇都宮氏の手を離れた大洲城は、河野氏の武将・大野直昌が預かることとなり、新たな時代を迎える 3 。
宇都宮氏の滅亡後、大洲城は天下統一という巨大な歴史の渦に飲み込まれ、その城主は目まぐるしく入れ替わる。この時代こそ、大洲城が中世の山城から近世城郭へと劇的な変貌を遂げる、最も重要な過渡期である。
表1:大洲城 城主変遷表(戦国期~江戸初期)
城主名 |
在城期間 |
石高 |
主要な出来事・役割 |
伊予宇都宮氏 |
1331年~1568年 |
- |
地蔵ヶ岳城として創建、約237年間統治 |
大野直昌(河野氏配下) |
1568年~1585年 |
- |
宇都宮氏滅亡後、城を預かる |
小早川隆景 |
1585年~1587年 |
35万石(伊予国) |
四国平定後、湯築城の支城とする |
戸田勝隆 |
1587年~1594年 |
16万石 |
苛政により一揆を招く。朝鮮にて病没 |
藤堂高虎 |
1595年~1609年 |
7万石→20万石 |
近世城郭への大改修、縄張りと城下町の基礎を築く |
脇坂安治 |
1609年~1617年 |
5万3500石 |
天守を創建し城郭を完成させる。藩政の基礎を確立 |
加藤貞泰 |
1617年~ |
6万石 |
大洲藩初代藩主として入封。以後加藤氏が世襲 |
天正13年(1585年)、羽柴秀吉による四国平定軍が伊予に侵攻すると、当時宇都宮氏旧臣の大野氏が治めていた大洲城は、小早川隆景率いる軍勢の前に開城した 3 。四国平定後、伊予35万石を与えられた小早川隆景は、道後の湯築城を本拠とし、大洲城をその支城と位置づけた 3 。これは、中央の新たな支配者からも、大洲が南伊予を統治するための重要な戦略拠点として認識されていたことを示している。
天正15年(1587年)、隆景が九州へ転封となると、豊臣家臣の戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石の領主として大洲城に入城した 3 。勝隆は、豊臣政権の支配を徹底するため、徹底した検地を断行し、旧領主である西園寺氏の残党を粛清するなど、極めて苛烈な統治を行った 19 。その圧政は、土地に深く根差した在地勢力や領民の激しい反発を招き、大規模な一揆を引き起こした 17 。このような強引な支配者の交代が引き起こした摩擦は、天下統一の過程で各地に見られた現象であった。勝隆は文禄の役の最中に朝鮮で病没し、その短い治世は混乱のうちに幕を閉じた 3 。
文禄4年(1595年)、築城の名手として後世に名を残す藤堂高虎が7万石で入城し、大洲を居城とした 3 。彼は単なる城主としてではなく、豊臣政権の蔵入地(直轄領)代官も兼ねており、南伊予における政権の代理人という極めて重要な役割を担っていた 3 。
高虎の入城は、大洲城の歴史における最大の転換点であった。彼は、地蔵ヶ岳城の遺構を利用しつつも、全く新しい思想に基づき城郭の大規模な改修に着手した 4 。彼の最大の功績は、蛇行する肱川を天然の外堀として巧みに取り入れ、本丸・二の丸・三の丸を効果的に配置した壮大な縄張り(城の設計図)を完成させたことである 4 。これにより、大洲城は中世の山城から、防御性に優れた近世城郭としての骨格を確立したのである 4 。
この城郭の進化は、天下人の戦略と密接に連動していた。高虎のような、主君を次々に変えながらも築城という高度な専門技術で生き抜いたテクノクラート的な武将は、この時代にこそ重用された。彼による大改修は、単なる城の軍事的な強化に留まらず、豊臣政権(後には徳川政権)の支配力を伊予の隅々まで浸透させるためのインフラ整備という側面を持っていた。大洲城の近世城郭化は、日本の支配体制が中世的な割拠状態から近世的な中央集権体制へと移行する、より大きな歴史的プロセスの縮図であったと言える。
さらに高虎は、城の改修と並行して本格的な城下町の整備にも着手した 4 。慶長10年(1605年)には商人を誘致して塩屋町を創設するなど、大洲を単なる軍事拠点から、地域の政治・経済の中心地へと発展させる礎を築いた 3 。大洲城から対岸の冨士山(とみすやま)へ抜ける軸線を意識したとされる町割りは、現在の大洲市街地の骨格にもその名残を留めている 29 。
慶長14年(1609年)、関ヶ原の戦いを経て徳川家康の信頼を得た藤堂高虎が伊勢国津へ転封となると、その後任として「賤ヶ岳の七本槍」の一人として知られる猛将、脇坂安治が淡路国洲本から5万3500石で入城した 3 。
大洲城の象徴である四層四階の天守は、この脇坂安治の時代に、高虎が整備した堅固な天守台の上に築かれたと考えられている 4 。一説には、安治が前任地である洲本城の天守を移築したとも伝えられており、また地名をそれまでの「大津」から、前任地の「洲本」にちなんで「大洲」に改めたのも安治であるとの伝承がある 3 。この天守の完成により、大洲城は近世城郭としての威容を整えた。
ここに、近世城郭建設の一つの実態が見て取れる。すなわち、藤堂高虎のような戦略家兼土木技術者が「縄張り」と「インフラ整備」という城の骨格と機能性を設計し、その上に脇坂安治のような武功派の武将が「天守」という権威の象徴であり最終的な防衛拠点となる建造物を完成させるという、役割分担によるリレー形式の事業であった。これは、戦国末期から江戸初期にかけての城郭建設における一つのパターンであり、大洲城はその好例である。
脇坂安治はまた、藩政の面でも重要な足跡を残した。「給人所法度」を定めるなど、中世的な土豪の支配体制を排し、藩主の権力に直結した庄屋制度を確立した 3 。これは、後に続く加藤氏による大洲藩の安定した統治の基礎を築く上で、極めて重要な意味を持つものであった。
元和3年(1617年)、脇坂氏が信濃国飯田へ転封となった後、伯耆国米子から加藤貞泰が6万石で入城した 3 。貞泰は、詩歌や馬術にも長じた文武両道の武将とされ、民政にも心を配ったと伝えられている 37 。
貞泰の入城をもって伊予大洲藩が実質的に成立し、以後、明治維新の版籍奉還まで13代、約250年間にわたり加藤氏による安定した治世が続くこととなる 3 。貞泰が入城した時点では、藤堂高虎や脇坂安治によって城郭の主要部分はほぼ完成していたと考えられ、加藤氏はその完成された城を拠点に藩政を敷いた 3 。
初代藩主・貞泰は入部後わずか7年で急死し、跡目相続を巡る混乱もあったが、二代藩主・泰興の時代に藩体制は確立された 34 。この時期、弟・直泰への1万石の分知によって新谷藩が成立し、大洲藩の石高は一時的に5万石となったが、後に6万石に復帰している 41 。
戦乱の時代が終わり泰平の世が訪れると、大洲城の役割は純粋な軍事拠点から、藩政を司る行政の中心、そして藩主の権威を象徴する場へと大きく変化していった。
江戸時代を通じて、大洲城は火災や地震といった自然災害に度々見舞われた。現在、我々が目にすることができる4棟の現存櫓は、いずれも創建当初のものではなく、江戸時代中期から末期にかけて再建・改修されたものである 43 。
これらの再建年代が江戸中期から幕末に集中していることは、創建から150年以上が経過し建物の老朽化が避けられなかったこと、そして度重なる災害が修復を余儀なくさせたことを示している。特に、三の丸南隅櫓の再建に関する棟札には、藩の財政難を反映して費用を切り詰めた工夫が見られるとの記録があり 44 、泰平の世における城の維持が、軍事的な緊急性ではなく、藩の財政状況と密接に結びついていたことを物語っている。城は「戦うためのもの」から「維持・管理するもの」へと変質し、その過程で当時の経済状況や建築技術の現実が刻み込まれていったのである。
文化面では、大洲藩は学問を奨励する「好学の藩風」で知られ、著名な陽明学者である中江藤樹が若き日に仕えたことでも有名である 42 。藩校「止善書院明倫堂」などが設けられ、多くの優れた学者や医者を輩出し、地域の文化発展に大きく貢献した 42 。
明治維新の動乱と廃城令により、かつて18棟あったとされる櫓の多くは失われた 44 。しかし、奇跡的に4棟の櫓が現存し、いずれも昭和32年(1957年)に国の重要文化財に指定された 3 。これらは大洲城の往時の姿を今に伝える、極めて貴重な歴史遺産である。
表2:現存四櫓 建築概要比較表
櫓名 |
文化財指定 |
再建年代 |
所在地 |
構造 |
特筆すべき意匠・機能 |
台所櫓 |
国指定重要文化財 |
安政6年 (1859) |
本丸 |
二重二階櫓 |
籠城用の厨房機能(土間、排煙窓)、現存最大規模 |
高欄櫓 |
国指定重要文化財 |
万延元年 (1860) |
本丸 |
二重二階櫓 |
格式を示す高欄の設置(全国的にも稀少) |
苧綿櫓 |
国指定重要文化財 |
天保14年 (1843) |
二の丸 |
二重二階櫓 |
肱川に面した要所、実戦的な石落とし、洪水対策のかさ上げ |
三の丸南隅櫓 |
国指定重要文化財 |
明和3年 (1766) |
三の丸 |
二重二階櫓 |
現存最古、防弾用の太鼓壁、奇襲用の隠し狭間 |
各櫓はそれぞれに固有の特徴を持っている。
明治維新後、城は廃城となり、多くの建物が破却された。城の象徴であった天守は、地元有志の活動により一時的に保存されたものの、老朽化が進み、明治21年(1888年)に惜しくも解体された 1 。
天守の復元は、長年にわたる大洲市民の悲願であった。その夢が学術的に裏付けられ、忠実な再現を可能にしたのは、奇跡的に残された三種の至宝とも言うべき史料の存在であった。
これらの豊富な史料に基づき、平成6年(1994年)に復元事業が本格的に始動した 59 。戦後の城郭復元は鉄筋コンクリートによる外観復元が主流であったが、大洲城はあえて困難な「木造での完全復元」を目指した。これは、単に建物を再現するだけでなく、失われつつあった伝統的な城郭建築技術(木組み、左官、屋根工事など)を現代に甦らせ、後世に継承するという重要な文化的使命を帯びていた 59 。
当時の建築基準法では認められない規模であったため、約2年にわたる折衝を経て保存建築物として法の適用除外を勝ち取り 1 、総工費約13億円をかけて、平成16年(2004年)、往時と同じ伝統工法を用いた四層四階の木造天守が116年ぶりにその雄姿を現した 1 。その高さ19.15メートルは、戦後に木造で復元された天守としては日本一を誇る 1 。この「本物」へのこだわりが、単なる観光施設ではない、「生きた文化財」としての大洲城の価値を決定づけ、後の他に類を見ない文化財活用へと繋がる礎となったのである。
大洲は、戦災を免れたことで江戸時代の町割りが色濃く残り、歴史的な建造物が点在することから「伊予の小京都」と称される 68 。大洲城は、この美しい城下町の核として、今もなお地域のシンボルであり続けている。城の麓を流れる肱川では、古くは江戸時代の大洲藩の古文書にも記録が残る「鵜飼い」が、昭和32年(1957年)に観光事業として復活し、夏の風物詩として親しまれている 71 。城と川、そして伝統文化が一体となった景観は、大洲ならではの魅力である。
平成に復元された天守は、新たな歴史を刻み始めている。2020年、大洲城は日本で初めて、天守そのものに宿泊できる「キャッスルステイ」を開始した 40 。これは、城を単に「見る」文化財から「体験する」文化財へと転換させる画期的な取り組みである。甲冑武者による出迎えや、藩主さながらの夕食など、歴史に没入するような体験を提供している 77 。この事業による収益の一部は、大洲城をはじめとする文化財の維持保存に充てられ、持続可能な文化継承の新たなモデルケースとして、国内外から大きな注目を集めている 63 。
大洲城の歴史は、中世の礎、戦国時代の激動、近世の安定、近代の喪失、そして現代における再生と活用の物語である。それは、一地方の城の歴史に留まらない。時代の要請に応じてその役割を変えながら、地域の人々の情熱によって未来へと受け継がれていく、日本の文化遺産の姿そのものを象徴している。大洲城は、過去を雄弁に語るだけでなく、未来を創造する「生きた城」として、これからも存在し続けるであろう。