安濃津城は、伊勢湾の要衝に築かれ、明応地震で壊滅も信包が再興。関ヶ原で焼失するも高虎が徳川の府城として大改修。繁栄と災禍を越え、歴史を刻む。
安濃津城の歴史を紐解く上で、その揺りかごとなった地、安濃津(あのつ)の特異な歴史を理解することは不可欠である。安濃津は単なる一地方の港町ではなかった。古代より日本の主要港湾「三津七湊」の一つに数えられ、伊勢湾における海上交通の結節点として、その名を全国に轟かせていた 1 。平安時代には京の外港として、また東国への玄関口として重要な役割を担い、伊勢神宮の荘園である御厨(みくりや)が置かれるなど、経済的にも宗教的にも伊勢国の中心地であった 1 。
その繁栄は国内に留まらず、国際的な評価をも獲得していた。中国明代に編纂された兵法書『武備志』には、筑前の博多津、薩摩の坊津と並び、安濃津が「日本三津」の一つとして記されている 3 。これは、安濃津が当時の東アジアにおける国際交易網の一翼を担う、重要な港湾都市であったことを物語る動かぬ証拠である。室町時代、応永二十五年(1418年)に将軍足利義持の伊勢参詣に随行した花山院長親は、その紀行文『耕雲紀行』に「こゝは、この国のうちの一都会にて、封彊もひろく、家のかす(数)もおほくて」と記しており、当時の安濃津が数千の家々が軒を連ねる伊勢国随一の大都市であった様を伝えている 5 。
しかし、この栄華は自然の猛威によって突如として終焉を迎える。明応七年(1498年)、南海トラフを震源域とする明応の大地震が発生し、巨大な津波が安濃津を襲った。都市は壊滅的な被害を受け、かつての繁栄は見る影もなく失われた 5 。災害から24年後の大永二年(1522年)にこの地を訪れた連歌師の宗長は、その日記『宗長日記』に「此津、十余年以来荒野となりて、四、五千間の家、堂塔あとのみ」「まことに鶏犬はみえず、鳴鴉だに稀なり」と、その凄惨な光景を書き残している 5 。一度は歴史の舞台から姿を消したかに見えた安濃津であったが、その地政学的な重要性から、戦国時代に入ると再び歴史の表舞台に登場する。元亀元年(1571年)には織田信包がこの地の特権を保証し、天正二年(1574年)には織田信長の長島一向一揆攻めに「阿農の津」が水軍を出して協力するなど、徐々に復興の道を歩み始めていた 5 。
この安濃津の地に城が築かれる意味は、単なる軍事的な理由に留まらない。それは、一度は自然災害によって「死んだ」土地の経済的潜在力を再認識し、その復興と支配を内外に示す象徴的な事業であった。安濃津城は、災害からの復興と新たな支配体制の確立を宣言するモニュメントとして、その歴史の第一歩を踏み出すことになるのである。
織田信包による本格的な築城以前、安濃津の地には伊勢の在地勢力によって築かれた前身となる城郭が存在した。津城、すなわち安濃津城の直接的な起源は、戦国時代の永禄年間(1558年~1569年)、伊勢中部に勢力を張った国人領主・長野氏の一族である細野藤光が、安濃川と岩田川の河口に広がる三角州に小規模な城を構えたことに始まるとされる 2 。
この最初の城は、低湿地帯という立地を活かし、二つの川を天然の外堀として利用する防御上有利な場所に築かれた 8 。しかし、その規模はまだ小さく、後世に見られるような堅固な石垣や天守を備えた城郭ではなく、在地領主が港湾を管理・防衛するための「砦程度の小城」であったと推測されている 10 。
ここで留意すべきは、安濃津城(津城)と、しばしば混同される「安濃城(あのうじょう)」との明確な違いである。安濃城は、現在の津市安濃町に存在した山城であり、同じく細野氏の居城であった 11 。こちらは伊勢最大級とも評される堅城で、永禄十一年(1568年)に織田信長軍が伊勢に侵攻した際には、城主・細野藤敦が籠城し、勇将・滝川一益の攻撃を一度は退けるほどの防御力を誇った 11 。安濃城が防衛を主眼とした山城であるのに対し、安濃津城は港湾都市に隣接する平城であり、その性格は大きく異なる。
細野氏による安濃津城の築城は、長野氏一族の戦略が、従来の領地防衛という内向きのものから、交易路という経済的動脈を掌握する外向きのものへと転換したことを示す画期的な出来事であった。長野氏の本拠である長野城や、細野氏が拠点とした安濃城が山間部の防衛拠点であったのに対し、水害のリスクを抱える低湿地に敢えて城を築いたのは、安濃津という港の支配がもたらす経済的利益を重視したからに他ならない。この小規模な「砦」は、大規模な軍勢を籠城させるためではなく、港を管理し、通行する船から税を徴収する拠点としての機能が優先された結果の形態であったと考えられる。それは、戦国時代における経済の重要性の高まりを象徴する動きでもあった。
在地領主の砦に過ぎなかった安濃津城が、天下統一を目前にした織田政権の威光を背負う近世城郭へと劇的な変貌を遂げるのは、織田信長の弟・信包(のぶかね)の入城によるものである。永禄十一年(1568年)の信長の伊勢侵攻を経て、翌永禄十二年(1569年)、信包は伊勢中部の名族・長野氏の養嗣子となる形で安濃津城に入った 2 。当初、信包は伊勢上野城(現在の津市河芸町)を本拠としたが、その狭隘さから、広大な平野と港湾を擁する安濃津の地に、新たな本拠地を築くことを決意する 3 。
この大規模な築城事業において、設計(縄張り)を担当したのは、伊勢の情勢に最も精通していた織田家の重臣・滝川一益であったとする説が有力である 2 。信包は信長に従い各地を転戦する多忙な日々の中、約10年の歳月をかけて築城工事を進め、安濃津城を全く新しい城へと生まれ変わらせた 3 。堅固な石垣が普請され、幾重にも堀が巡らされ、城郭は本丸・二の丸・三の丸からなる広大なものへと拡張された 2 。
そして天正五年(1577年)、安濃津城の象徴となる五重の天守と小天守が落成する 2 。この天守は、兄・信長が築いた安土城の天主を彷彿とさせる壮麗なものであったと伝えられており、織田家の絶大な権力が伊勢の隅々にまで及んだことを視覚的に示す、強力なシンボルであった 3 。さらに、それまで柳山付近に散在していた町屋を城の直下に移転させ、城と町が一体となった計画的な城下町を形成した 7 。これは、城主が領内の経済と民衆を直接その支配下に置くという、新たな支配体制の空間的な表現でもあった。信包が築いた安濃津城は、敵を防ぐための「要塞」であると同時に、領民や周辺勢力に見せつけるための「劇場」でもあったのだ。
なお、かつて信包がこの津城、あるいは伊勢上野城において、落城した小谷城から妹のお市の方とその三人の娘(茶々、初、江)を迎え入れ保護したという逸話が広く知られていた 2 。しかし、近年の研究により、彼女たちを保護したのは信長や信包の叔父にあたる織田信次であり、その場所も尾張の守山城であったことが、『溪心院文』などの史料から明らかになっている 2 。
織田信包によって近代城郭として生まれ変わった安濃津城は、その堅固さゆえに、天下分け目の戦いである関ヶ原の合戦において、壮絶な攻防戦の舞台となった。文禄三年(1594年)、信包は豊臣秀吉の命により丹波柏原へ移封され、代わって豊臣家臣の富田一白が城主となった 2 。その子・信高の代、慶長五年(1600年)に天下は動乱の時を迎える。
城主・富田信高は、徳川家康率いる東軍への参加を決断し、会津の上杉景勝討伐に従軍していた 20 。しかし、石田三成らが西軍を蜂起させると、伊勢国は東西両軍が激突する最前線となる。家康は安濃津の戦略的重要性を鑑み、信高に急ぎ帰国して城の守りを固めるよう命じた 21 。信高は海路で辛くも帰城を果たしたが、その目前には絶望的な状況が広がっていた。毛利秀元を総大将とし、長宗我部盛親、吉川広家、鍋島勝茂ら西日本の諸将が率いる西軍三万余の大軍が、安濃津城に殺到したのである 2 。
これに対し、信高の手勢と、援軍に駆けつけた分部光嘉の兵、さらに領内の地侍や町人義勇兵をかき集めても、籠城側の兵力はわずか1,700名に満たなかった 24 。兵力差は実に15倍以上。慶長五年八月二十四日、西軍による総攻撃の火蓋が切られた 26 。城下町は放火され、黒煙が天を覆う中、西軍は四方から怒涛の如く城に押し寄せた 22 。城方は鉄砲隊を巧みに用いて奮戦するも、圧倒的な兵力差の前に外郭、三の丸、二の丸が次々と突破されていく 27 。
城主・信高も自ら槍を手に本丸の門前にて奮戦したが、敵兵に幾重にも囲まれ、絶体絶命の危機に陥る 22 。その時、緋縅の鎧に身を固めた一人の若武者が単騎で敵陣に突入し、瞬く間に数人の敵兵を討ち取って信高を救出した。この勇猛な若武者こそ、夫の窮地を救わんと戦場に駆けつけた信高の妻(宇喜多氏の娘)であったという逸話は、この籠城戦の壮絶さを今に伝えている 21 。
しかし、個々の奮戦も及ばず、城の陥落は時間の問題であった。後詰めの援軍も期待できない中、西軍は高野山の高僧・木食応其(もくじきおうご)を仲介役として降伏を勧告 27 。信高はこれを受け入れ、八月二十六日、安濃津城は開城した 27 。この戦いによって、信包が心血を注いで築いた五重の天守をはじめ、城内の建造物のほとんどが灰燼に帰した 2 。
戦術的には、安濃津城は落城という「敗北」を喫した。しかし、この戦いの真の価値は、局地的な勝敗にはない。信高と籠城兵の決死の抵抗は、毛利秀元や長宗我部盛親といった西軍の主力を伊勢の地に数日間釘付けにした。この時間的・戦力的損失は、九月十五日の関ヶ原本戦における西軍の敗因の一つに繋がったとも考えられる。関ヶ原で東軍が勝利した後、家康は信高の奮戦を「戦術的敗北がもたらした戦略的貢献」として高く評価し、二万石の加増をもってその功に報いた 2 。安濃津城の焼失は、徳川の天下を磐石にするための、価値ある犠牲だったのである。
関ヶ原の戦いで焦土と化した安濃津城に、新たな生命を吹き込んだのが、戦国時代屈指の築城の名手として知られる藤堂高虎であった。慶長十三年(1608年)、戦功により伊予宇和島へ転封となった富田信高に代わり、伊予今治から藤堂高虎が伊勢・伊賀二十二万石の領主として入封した 2 。この配置は、徳川家康による深謀遠慮の現れであった。依然として大坂城に豊臣秀頼が健在である状況下で、津は対大坂の最前線基地として極めて重要な戦略拠点であり、家康は最も信頼する外様大名の一人である高虎にその守りを託したのである 3 。
高虎は慶長十六年(1611年)から、安濃津城の大規模な改修に着手する 29 。それは単なる修復ではなく、徳川の府城として、全く新しい思想に基づいた城郭と城下町を一体的に建設する壮大な事業であった。まず、城の縄張りは、本丸の北側を拡張し、本丸・西ノ丸・東ノ丸を内堀が、さらにその外側を広大な二ノ丸が囲む「輪郭式」の平城へと根本的に改められた 31 。石垣はより高く、より堅固に積み直され、堀の幅も拡張された 34 。
そこには、高虎流築城術の粋が集められていた。高く切り立つ直線的な石垣、隅角部を長方形の石材で強固に固める「算木積(さんぎづみ)」、そして軟弱な地盤に石垣を築く際に基礎を安定させるため、石垣の裾に設けられた幅の狭い通路状の平坦地「犬走り」などは、高虎が設計した城に共通して見られる特徴である 7 。特に、本丸の周囲は脆弱な土塀ではなく、長大な多聞櫓でほぼ全周を囲むという徹底した防御思想が貫かれており、津城を鉄壁の要塞へと変貌させた 36 。
天守の扱いについては、高虎の合理主義的な姿勢が窺える。関ヶ原の戦いで焼失した五重天守を高虎は再建しなかった、というのが長年の通説であった 36 。しかし近年の研究では、富田氏が再建した三重天守と二重小天守が寛永年間の絵図に描かれていることが確認されている 2 。この天守は寛文二年(1662年)の火災で焼失し、その後は太平の世が到来したことと幕府への遠慮から再建されなかった、という説が有力視されている 2 。いずれにせよ、高虎は権威の象徴である天守よりも実用性を重視し、本丸の北側両隅に丑寅(北東)・戌亥(北西)の二基の三重櫓を築き、これらを天守に代わる城の象徴とした 3 。
高虎の事業は城郭内部に留まらなかった。彼は城下町の再整備にも着手し、それまで町外れを通っていた伊勢参宮街道を城下町の中心部へと引き込んだ 29 。これにより、津は伊勢神宮への参拝客で賑わう宿場町としての機能を飛躍的に高め、経済的な大発展を遂げた。軍事拠点(城)、経済の中心(市場)、そして政治の中心(藩庁)を一体化した高虎の都市計画は、近世城下町の優れたモデルケースであった。また、彼は平時には政務と経済の中心である津城を、有事の際には内陸の堅城である伊賀上野城を拠点とする二元体制を構築しており、その卓越した危機管理能力を示している 27 。
藤堂高虎によって完成された津城は、その縄張り(城郭の設計)と構造に、近世城郭としての機能美と堅固な防御思想が凝縮されている。城郭の中心は本丸であり、城主の居館や政務の中枢が置かれた 36 。本丸には西ノ丸と東ノ丸が付随し、これら中枢部全体が幅の広い内堀によって守られていた。さらにその外周を、上級家臣の屋敷や藩の行政機関が置かれた広大な二ノ丸が取り囲み、最外周は外堀によって区切られるという、典型的な「輪郭式平城」の構造を有していた 31 。
城の防御力を物語るのが、現存する石垣である。津城の石垣は、複数の時代の築城技術が共存する「石の博物館」とも言える様相を呈している。天守台の南面や西面などには、自然石をあまり加工せずに積み上げた「野面積み」に近い、古式の石垣が部分的に残存しており、これらは織田信包や富田信高の時代に築かれたものと考えられている 32 。
一方で、藤堂高虎による大改修で築かれた本丸北面などの石垣は、石材の接合部を加工して隙間を減らした「打込接(うちこみはぎ)」という、より進んだ技法が用いられている 8 。特に、石垣のコーナー部分には、長方形に加工した石の長辺と短辺を交互に組み合わせて強度を飛躍的に高める「算木積」が見事に施されており、高虎の築城技術の高さを物語っている 8 。高虎は、旧時代の遺構を全て破壊するのではなく、天守台のように既存の基礎を修築・補強しながら、防御の要となる箇所に最新技術を投入するという、極めて合理的な改修を行った。この新旧の技術の混在は、彼の現実主義的な築城思想の物的な証左である。
また、石垣の石材には、様々な文様が刻まれた「刻印」が多数確認できる 8 。これらの刻印は、石材の切り出しから運搬、そして石垣の普請に至る各工程で、担当した大名家や石工集団を識別するために付けられた目印であったと考えられている 41 。これは、数万、数十万の石材を扱う大規模な築城工事が、高度に組織化された分業体制の下で行われていたことを示す貴重な痕跡である。
表1:主要城主による安濃津城の変遷比較
時代 |
主要城主 |
石高(目安) |
城の性格・目的 |
主な構造(天守・縄張・石垣) |
永禄年間 |
細野藤光(長野氏) |
- |
港湾支配の拠点 |
小規模な砦、土塁中心 |
天正年間 |
織田信包 |
- |
伊勢支配の拠点、権威の象徴 |
五重天守、本丸・二の丸・三の丸整備、初期の石垣 |
文禄・慶長年間 |
富田信高 |
5万石 |
関ヶ原への備え |
信包期を継承、天守焼失後に再建説あり |
慶長年間以降 |
藤堂高虎 |
22万石 → 32万石 |
対大坂の要塞、津藩の藩庁 |
天守なし(三重櫓で代用)、輪郭式へ大改修、高石垣(打込接、犬走り) |
藤堂高虎によって大改修された津城は、その後、明治維新に至るまで約260年間にわたり、藤堂家が治める津藩の藩庁として、また伊勢国の政治経済の中心として存続した 2 。江戸時代を通じて、城下町は伊勢神宮参拝の宿場町として大いに栄え、「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」と伊勢音頭に謡われるほどの繁栄を誇った 2 。
しかし、明治四年(1871年)の廃藩置県により、城はその役目を終える。津城は廃城となり、天守の代わりを務めた丑寅・戌亥の三重櫓をはじめ、城内にあった全ての建造物は破却され、その姿を消した 43 。さらに近代化の波の中で、明治末期から昭和にかけて市街地化が進み、城を幾重にも囲んでいた広大な外堀や内堀の大部分が埋め立てられて道路や宅地へと変わっていった 9 。特に、戦後の都市復興計画によって本丸南側の幅100メートルにも及んだとされる内堀が埋め立てられたことは、城の往時の姿を偲ぶ上で大きな損失であった 3 。
現在、往時の城域のうち、本丸と西ノ丸、そして内堀の一部が「お城公園」として市民の憩いの場となっている 31 。公園内には、昭和三十三年(1958年)に市民の寄付によって、本来の丑寅櫓台の上に鉄筋コンクリート造の模擬隅櫓が建設された 3 。この櫓は史実に基づいた復元ではないが、城の姿を今に伝えるシンボルとして親しまれている 3 。また、西ノ丸跡には、江戸時代末期に設立された藩校「有造館」の正門であった「入徳門」が移築され、現存する数少ない城郭関連建造物として貴重な存在となっている 18 。
本丸跡には、津藩の礎を築いた藤堂高虎の勇壮な騎馬像が建てられ、その偉業を後世に伝えている 3 。苔むした高石垣と、それを映す水堀が織りなす風景は、春には桜の名所として多くの人々で賑わい、四季折々の美しさを見せる 9 。
現在の津城跡は、戦国から江戸時代にかけての歴史を刻む本物の石垣、江戸末期の学問の記憶を留める移築門、昭和期の市民の想いが形となった模擬櫓、そして平成に建てられた藩祖の像が共存する、まさに歴史が重層的に存在する空間である。それは、時代ごとに人々が「城」という存在にどのような価値を見出し、記憶を継承しようとしてきたかの変遷そのものを物語っている。三重県指定史跡、そして続日本100名城として、安濃津城は今なお、伊勢の要津にその歴史を静かに語り続けている 2 。
表2:安濃津城 関連年表
年代 |
出来事 |
室町時代 |
安濃津が「日本三津」の一つとして繁栄。 |
1498年(明応7年) |
明応の大地震と津波により、安濃津が壊滅的な被害を受ける。 |
永禄年間(1558-69年) |
長野氏の一族・細野藤光が安濃津城を築城する。 |
1569年(永禄12年) |
織田信包が長野氏の養子となり入城。城の大規模な拡張を開始する。 |
1577年(天正5年) |
信包により、五重天守と小天守が完成する。 |
1595年(文禄4年) |
富田一白が入城。その後、子の信高が城主を継ぐ。 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦いの前哨戦「安濃津城の戦い」が勃発。西軍の猛攻により落城し、天守を含む城郭が焼失する。 |
1608年(慶長13年) |
藤堂高虎が伊勢・伊賀二十二万石の領主として入城する。 |
1611年(慶長16年) |
高虎による津城と城下町の大規模な改修が本格的に開始される。 |
1662年(寛文2年) |
城内で火災が発生。この時に富田氏が再建したとされる天守が焼失したという説がある。 |
1820年(文政3年) |
第10代藩主・藤堂高兌が藩校「有造館」を創設する。 |
1871年(明治4年) |
廃藩置県により津城は廃城となり、城内の建造物は破却される。 |
明治末期~ |
市街地化に伴い、外堀や内堀の埋め立てが始まる。 |
1958年(昭和33年) |
市民の寄付により、丑寅櫓台跡に模擬隅櫓が建設される。 |
1967年(昭和42年)~ |
城跡が「お城公園」として整備され、市民の憩いの場となる。 |
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