岡崎城は家康生誕の地、松平氏の拠点として三河統一を支えた。今川支配から独立し、一向一揆を乗り越え、田中吉政により近世城郭へ変貌。
三河国岡崎に位置する岡崎城は、日本の歴史、とりわけ戦国時代から江戸時代への移行期において、他に類を見ない二重の重要性を有する城郭である。その第一の意義は、言うまでもなく、江戸幕府の創始者である徳川家康が生誕した地としての象徴性にある 1 。この事実は、江戸時代を通じて岡崎城を「神君出生の城」として神聖視させ、単なる一地方の城郭を超えた特別な地位を与える根源となった 3 。
しかし、その象徴性の影には、もう一つの、より実質的かつ動的な歴史が存在する。それは、戦国時代の三河国における戦略的要衝としての価値である。西郷氏による砦の築城に始まり、松平氏の台頭と共に三河支配の拠点となり、今川氏と織田氏という二大勢力の狭間で翻弄され、そして徳川家康独立の原点となった。その歴史は、一地方領主が天下人へと駆け上がる激動の過程と軌を一にする。
本報告書は、この岡崎城が持つ二つの側面、すなわち「聖地」としての象徴性と、戦国を生き抜いた「要塞」としての実質的価値が、時代と共にいかに交錯し、変容していったかを、「戦国時代」という特定の時間軸に焦点を当てて徹底的に解明するものである。
岡崎城の歴史は、徳川家康生誕のおよそ一世紀前、15世紀中頃にまで遡る。その起源は、康正元年(1455年)頃、三河守護代であった西郷頼嗣(稠頼)によって築かれた砦にあるとされる 4 。当初、西郷氏の主たる拠点は菅生川の南に位置する明大寺の地にあった 6 。岡崎城が築かれた龍頭山は、その明大寺の北方を防衛するための補助的な軍事拠点であり、築城当初はあくまで支城としての性格が強かった 5 。この時点では、後のような三河国の中核をなす城郭ではなかったのである。
西郷氏がこの地を選んだ背景には、その卓越した地理的条件があった。城が築かれた龍頭山は、西から流れる矢作川と東から流れる菅生川(乙川)が合流する地点に突き出した半島状の台地であり、三方を川に囲まれた天然の要害を形成していた 5 。この立地は、水運の結節点を押さえる経済的利点と、西三河平野を一望できる軍事的利点を兼ね備えており、地域の支配拠点として極めて高い潜在能力を秘めていた。しかし、その価値が最大限に引き出されるのは、後の松平清康の時代を待たねばならなかった。
岡崎城には、別名「龍城」あるいは「竜ヶ城」という呼び名が伝わる 1 。これは、築城に際して龍神が現れ、この地を守護すると告げたという伝説に由来するものである 1 。この種の伝承は、単なる物語として片付けるべきではない。在地領主である西郷氏が、土地固有の神霊と自らの支配を結びつけることで、その統治の正当性を地域社会に示し、権威を高めるための政治的意図があったと考えられる。この龍の伝説は、後年の徳川家康生誕の奇瑞譚とも結びつき、岡崎城の神聖性を高める重要な要素となっていく 8 。
岡崎城の歴史は、その戦略的価値が段階的に認識され、格上げされていった過程そのものであると言える。西郷氏にとってはあくまで補助的な「砦」であったこの地が、三河平定を目指す松平清康の目に留まったことで、初めて地域の「本城」へと昇格する。この変化は、戦国時代の進行に伴い、平野部全体の支配と交通路の掌握がより重要になったことを示唆している。清康は、龍頭山の持つ地政学的なポテンシャルを、西郷氏以上に見抜いていたのであろう。
岡崎城の歴史における最初の大きな転換点は、享禄4年(1531年)に訪れる。安祥城を拠点としていた安祥松平家の第4代当主・松平清康が、岡崎松平家の西郷信貞を攻め、岡崎城を奪取したのである 1 。清康は本拠を伝統ある安祥から、より地理的優位性を持つ岡崎へと移転し、砦に過ぎなかった城郭の本格的な整備に着手した 4 。この決断により、岡崎城は単なる防衛拠点から、三河統一という野望を追求するための政治・軍事の中心地へと、その性格を大きく変貌させた。
清康の時代、松平氏は三河一国をほぼ手中に収めるほどの勢威を誇ったが、その勢いは突如として断ち切られる。天文4年(1535年)、尾張国守山での陣中において、清康は家臣の謀反により暗殺された(守山崩れ) 5 。この事件は松平氏の三河支配を瓦解させ、岡崎城と幼い跡継ぎは存亡の危機に立たされた。
清康の子・広忠(家康の父)は、尾張の織田信秀と駿河の今川義元という二大勢力の圧迫の中で、苦難の道を歩む 13 。一時は岡崎城を追われるなど流浪の身となったが、最終的に今川義元の庇護下に入ることで、かろうじて城主の地位を保った 15 。この時期の岡崎城は、もはや独立した戦国大名の居城ではなく、今川氏の対織田政策における最前線基地という従属的な役割を担うこととなった。
天文18年(1549年)、松平広忠が家臣によって殺害される(病死説もある)と 17 、岡崎城は名実ともに今川氏の直接支配下に置かれることになった。幼い竹千代(家康)は今川の人質として駿府へ送られ、主を失った岡崎城には今川氏から城代が派遣された 5 。史料によれば、今川家の重臣である山田景隆らが城代として三河の統治にあたっていたことが確認できる 20 。こうして岡崎城は、今川氏の三河支配を支える重要な支城として機能したのである。
松平氏が今川氏の支配下で苦難を強いられていた渦中の天文11年(1542年)12月26日、岡崎城内の一角で、歴史を大きく動かすことになる一人の男児が産声を上げた。城主・松平広忠(当時17歳)と、その正室・於大の方(当時15歳)の間に生まれた竹千代、後の徳川家康である 2 。この時、城の上に黄金の龍が現れ天に昇ったという伝説が伝えられている 1 。これは、第一章で述べた築城時の龍神伝説と結びつき、竹千代の誕生を非凡なものとして印象づけるための物語として、後世に広く語られることとなった。
人質として駿府で少年期を過ごした家康(当時は松平元康)に転機が訪れたのは、永禄3年(1560年)5月のことであった。今川義元が尾張に大軍を率いて侵攻し、桶狭間で織田信長に討たれるという、戦国史に残る番狂わせが起こったのである 15 。この敗戦により、三河における今川氏の支配体制は一挙に崩壊した。
当時、今川軍の先鋒として大高城(現在の名古屋市緑区)で兵糧入れの任にあたっていた家康は、主君・義元の討死の報に接すると、直ちに撤退を開始する。そして、今川方の将兵が混乱の中で放棄し、もぬけの殻となっていた故郷・岡崎城へと入った 5 。これは輝かしい凱旋ではなく、権力の空白を突いた、極めて迅速かつ現実的な政治判断であった。「捨城ならば拾わん」という言葉が伝えられるように、この行動こそが、家康が今川氏から独立し、戦国大名として自立する記念すべき第一歩となったのである 24 。この瞬間、岡崎城は再び松平氏の手に戻り、天下統一への長い道のりの原点となった 26 。
故郷・岡崎城に帰還した家康は、ここを拠点として三河統一という困難な事業に着手する。桶狭間の戦いがあった1560年から、本拠を浜松へ移す1570年までの約10年間、岡崎城は若き家康が率いる徳川氏(当時は松平氏)の唯一の本拠地であった 4 。この間、家康は離散していた家臣団を再結集させ、今川方の残存勢力を一掃し、徐々に三河国内での支配権を確立していった 25 。
しかし、その道のりは平坦ではなかった。永禄6年(1563年)、家康の支配基盤を根底から揺るがす大事件、「三河一向一揆」が勃発した 27 。これは、寺社への不入権を侵害された一向宗門徒の蜂起に、地域の国人領主が加わった大規模な内乱であった。さらに深刻だったのは、本多正信や蜂屋貞次といった腹心の家臣までもが一揆側に加担し、徳川家臣団が分裂する事態に陥ったことである 29 。この絶体絶命の危機において、岡崎城は家康方の司令塔として、また忠誠を誓う家臣たちの最後の砦として、その真価を発揮した。
約半年にわたる激しい戦闘の末、家康は辛うじて一揆を鎮圧することに成功する。この最大の試練を乗り越えた経験は、家康と家臣団の結束を逆説的に強固なものにした。一度は敵対した者さえも許し、再び家臣団に迎え入れた家康の度量は、後の「三河武士」の揺るぎない忠誠心の源泉となった 31 。そして、その苦難を共に乗り越えた岡崎城は、彼らにとって単なる居城ではなく、共通の記憶と誇りを宿す精神的な故郷、象徴的な場所としての地位を確立したのである 32 。
三河統一を成し遂げ、西の織田信長との同盟(清洲同盟)によって背後の安全を確保した家康は、次なる目標を東へと向けた。元亀元年(1570年)、家康は甲斐の武田信玄との対決に備えるため、本拠を遠江国の引間(後の浜松城)へ移すという大きな戦略的決断を下す 4 。
この本拠地移転は、単なる地理的な移動以上の意味を持っていた。それは、徳川家中に二つの政治的中心を生み出す結果となったのである。対武田の最前線であり、常に緊張下に置かれる浜松は、軍事と対外政策を司る革新的な拠点となった。一方、徳川家発祥の地である岡崎は、本国の安定統治と内政を担う伝統的な拠点としての役割を担うことになった。
家康の浜松移転に伴い、故郷・岡崎城は嫡男である松平信康に譲られた 4 。当時まだ若年であった信康には、平岩親吉らが傅役として付けられ、彼を補佐した 38 。これにより、徳川家は浜松の家康と岡崎の信康という二元的な支配体制を敷くことになり、岡崎は三河武士団の故郷として、信康の下で安定した統治が期待された。
しかし、この二元体制は、やがて悲劇的な結末を迎える。天正7年(1579年)、城主・信康が、同盟者である織田信長から武田氏への内通を疑われ、父・家康の命令によって自刃に追い込まれるという事件が発生した(信康事件) 4 。
この事件の真相については、信長の娘である正室・徳姫との不和を信長に訴えられたためとする説、家康と信康の父子間に対立があったとする説、徳川家中の派閥抗争説など、諸説紛々としており、定説を見ていない 37 。しかし、浜松を拠点とする家康側近の「革新・軍事派」と、信康を戴く岡崎の「伝統・内政派」との間に、深刻な路線対立や権力闘争が存在した可能性は極めて高い。浜松の現実主義的な論理と、岡崎の伝統を重んじる論理の衝突が、織田家との同盟という外部要因によって増幅され、最悪の形で噴出した結果と見ることもできる。岡崎城は、この徳川家最大の内部抗争の舞台となったのである。
嫡男・信康の死という悲劇の後、岡崎城は特定の城主を置かず、石川数正や本多重次といった重臣が城代として管理する体制へと移行した 1 。この事件は岡崎城の歴史に暗い影を落とし、徳川家臣団に癒えがたい傷を残した。後の天正13年(1585年)に城代の石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔するという前代未聞の事件が起こるが、その遠因の一つがこの信康事件にあったとする見方も存在する。
天正18年(1590年)、小田原北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移封する。これに伴い、家康生誕の地であり、徳川氏の故郷でもある岡崎城は、豊臣家臣の田中吉政に与えられた 1 。この瞬間、岡崎城の戦略的意味は180度転換した。徳川家の「故郷」から、関東の家康を監視・牽制するための「対徳川の最前線基地」へと、その役割を劇的に変えたのである 6 。
この新たな軍事的役割を果たすため、田中吉政は岡崎城の大規模な改修に着手した。それは、家康時代までの土塁を中心とした中世的な城郭から、石垣を多用し天守を戴く、当時の最新技術を結集した「織豊系城郭」への質的な大転換であった 3 。
我々が今日イメージする壮麗な「岡崎城」の原型は、徳川家康ではなく、彼を封じ込めるために送り込まれた豊臣系大名・田中吉政によって築かれたのである。これは、岡崎城の歴史における最大の逆説であり、城郭の姿が政治的意図をいかに色濃く反映するかを示す好例と言えよう。
吉政の事業は城郭内に留まらなかった。彼は城下町にも大規模な都市計画を施し、岡崎の町の基礎を築いた 19 。
結果として、家康の生誕地は、皮肉にも豊臣政権の威信と最新の築城技術を誇示する場となり、その姿を大きく変えた。江戸時代に入り、この吉政が築いた強固な城郭が「神君出生の城」として神聖視され、さらに改修されていく。つまり、敵が築いた土台の上に、後の時代の神聖性が上塗りされていったのである。
岡崎城の縄張り(城全体の設計)は、その長い歴史の中で大きく変遷を遂げた。西郷氏時代の簡素な「砦」から、松平氏の時代には本丸を中心に複数の曲輪を連ねる「連郭式」の中世城郭へと発展した 6 。そして、戦国時代の末期、田中吉政の手によって、本丸から見て一方に二の丸、三の丸を配置し、城下町全体を堀で囲む「梯郭式」の総構えを持つ近世城郭へと完成された 12 。
城内に現存する石垣は、岡崎城の歴史を物語る貴重な証人である。岡崎近郊で産出される花崗岩が用いられ、自然石をほぼそのまま積み上げた古い様式の「野面積み」から、石をある程度加工して組み合わせた「打込接」まで、様々な時代の技法を観察することができる 1 。特に、現在の天守台の石垣は、隅部の角を整形した石で固める「算木積み」が未発達な点などから、関ヶ原の戦い以前、すなわち田中吉政による築造である可能性が高いと考えられている 5 。
岡崎城の縄張りには、他の城には見られない特徴的な構造が存在する。本丸の北側、地続きの台地を断ち切るために掘られた深く長大な空堀「清海堀」は、城の防御の要であった 52 。また、天守のある本丸と持仏堂曲輪を直接結ぶために堀の上に架けられた「廊下橋」は、日本唯一の珍しい遺構とされる 49 。近年の発掘調査では、江戸時代の絵図には描かれていない戦国期以前の堀や土塁の跡も確認されており、岡崎城が幾重にもわたる改修を経てきた歴史の重層性を示している 12 。
岡崎城は、徳川家が関わった数々の合戦において、重要な後方支援拠点としての役割を果たした。元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄に大敗を喫した家康が浜松城へ敗走する際、その後方拠点として機能したと考えられる 54 。また、天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、織田信長からの援軍と合流し、決戦地へ向かうための重要な兵站基地となった 56 。長篠城からの使者・鳥居強右衛門が救援を求めて駆けつけたのも、この岡崎城であった 56 。一方で、この戦いの直前には、城主・信康の家臣であった大岡弥四郎が武田方に内通し、岡崎城を乗っ取ろうとする謀反未遂事件も発生しており、岡崎城が常に敵方の調略の標的でもあった、緊迫した状況を物語っている 58 。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、天下の趨勢は徳川家に傾いた。東軍に属して功を挙げた田中吉政は筑後柳川へと加増転封となり、岡崎城は再び徳川家のものとなった 13 。以降、本多氏をはじめとする譜代大名が城主を務め、江戸時代の岡崎藩の藩庁として、また東海道の宿場町として繁栄の時代を迎える 4 。
戦国時代を通じて、岡崎城はその役割と姿を劇的に変え続けた。一地方領主の砦から、三河統一の拠点へ。大国の狭間で揺れる従属の城から、独立の旗が翻る始まりの地へ。そして、徳川家の故郷でありながら、対徳川の最前線基地へと変貌を遂げた。その歴史は、松平氏の台頭、徳川家の苦難と飛躍、そして天下の情勢を映す鏡そのものであった。
戦乱の世が終わり、泰平の江戸時代が訪れると、かつての軍事拠点としての実質的な役割は次第に薄れていく。それに代わって前面に押し出されたのが、徳川幕府の創始者である家康公を生んだ「神君出生の城」という、比類なき象徴的価値であった。戦国の荒波を乗り越えた要塞は、こうして徳川の権威を支える特別な聖地へと、その歴史的価値を昇華させていったのである。
西暦(和暦) |
城主/城代 |
関連する主要な出来事 |
1455年頃(康正元) |
西郷頼嗣(稠頼) |
龍頭山に砦として岡崎城を築く。 |
1531年(享禄4) |
松平清康 |
岡崎城を奪取し、安祥から本拠を移転。本格的な城郭整備を開始。 |
1535年(天文4) |
松平広忠 |
清康が「守山崩れ」で死去。広忠が家督を継ぐ。 |
1542年(天文11) |
松平広忠 |
12月26日、城内で竹千代(徳川家康)が誕生。 |
1549年(天文18) |
(今川氏城代:山田景隆ら) |
広忠が死去。岡崎城は今川氏の支配下に入る。 |
1560年(永禄3) |
徳川家康(松平元康) |
桶狭間の戦い後、今川軍が撤退した岡崎城に入り、独立を果たす。 |
1563年(永禄6) |
徳川家康 |
三河一向一揆が勃発。家臣団を二分する内乱となる。 |
1570年(元亀元) |
松平信康 |
家康が浜松城へ移転。嫡男・信康が岡崎城主となる。 |
1579年(天正7) |
(城代:石川数正ら) |
信康が謀反の嫌疑で自刃(信康事件)。 |
1590年(天正18) |
田中吉政 |
家康の関東移封に伴い、豊臣家臣・田中吉政が入城。近世城郭への大改修を開始。 |
1600年(慶長5) |
田中吉政 |
関ヶ原の戦い。吉政は東軍に属し、石田三成を捕縛する功を挙げる。 |