徳山館は蝦夷地和人社会の拠点。蠣崎氏がアイヌとの戦いを経て経済支配を確立し、松前氏として近世大名化。福山館築城で廃城となるも、北海道史の要衝。
本報告書は、北海道松前郡松前町にその痕跡を留める城郭、「徳山館」について、日本の戦国時代という時代的視座から、その歴史的意義を包括的かつ詳細に解明することを目的とする。一般的に徳山館は、後の松前藩の始祖となる蠣崎氏の居城であり、福山館(松前城)の築城に伴い廃城となった、と認識されている。しかし、この簡潔な理解の背後には、北の辺境・蝦夷地(現在の北海道)を舞台に繰り広げられた和人勢力の興亡、先住民族アイヌとの複雑な関係性の変遷、そして中世から近世へと移行する日本の大きな歴史のうねりが凝縮されている。
徳山館は、単なる一過性の城郭ではない。永正11年(1514年)から慶長11年(1606年)に至る約92年間、蠣崎氏の本拠として、蝦夷地における政治、軍事、そして経済の中心地として機能した 1 。この期間は、蠣崎氏が蝦夷地の一豪族から、豊臣、徳川という中央政権に公認される「大名」へと飛躍を遂げる、まさに激動の時代と重なる。したがって、徳山館の歴史を深く掘り下げることは、蠣崎氏の権力確立の過程を追体験することであり、ひいては北海道における和人社会の礎が如何にして築かれたのかを理解する上で不可欠な作業である。本報告書では、徳山館の誕生から終焉までを丹念に追いながら、その構造、機能、そして時代的役割を多角的に分析し、この北の城郭が日本史において果たした重要性を明らかにしていく。
徳山館の歴史は、蠣崎氏がその地を拠点とする以前、前身である「松前大館」の時代にまで遡る。この章では、大館が如何なる存在であったか、そして蠣崎氏が如何にしてこの戦略的要地を手中に収め、徳山館を誕生させたのか、その背景にある権力闘争と策略を詳述する。
15世紀中葉、蝦夷地における和人勢力は、渡島半島南部に点在する「道南十二館」と呼ばれる大小の館を拠点としていた。これらの和人領主たちを名目上、統括していたのが、津軽(現在の青森県西部)を本拠とする安東氏であった。徳山館の前身である「松前大館」は、この安東氏が蝦夷地における支配の拠点として築いた城郭であると伝えられている 1 。
しかし、和人の進出は、先住民族であるアイヌとの間に深刻な軋轢を生んでいた。その緊張が爆発したのが、長禄元年(1457年)に発生したアイヌの首長コシャマインを中心とする大規模な蜂起、すなわち「コシャマインの戦い」である。この戦いでアイヌ勢は道南十二館の多くを次々と攻略し、和人社会は壊滅的な打撃を受けた 4 。安東氏の拠点であった松前大館も、この時にアイヌの猛攻を受けて陥落したと記録されている 1 。この絶体絶命の状況下で、敗走する和人勢力を糾合し、コシャマイン親子を討ち取って戦いを終結に導いたのが、若狭武田氏の一族とされる客将・武田信広であった 4 。
コシャマインの戦いにおける武功により、武田信広は道南の有力豪族であった蠣崎氏の家督を継承した。彼は蝦夷地の日本海側に面した上ノ国に「勝山館」を築城し、ここを新たな拠点として勢力を拡大していく 4 。勝山館は、日本海を通じた北方交易の拠点として、またアイヌの攻撃に備える軍事拠点として、15世紀後半から16世紀初頭にかけて、蠣崎氏の支配を支える中心地であった 7 。
歴史の転換点は、永正10年(1513年)に訪れる。この年、アイヌ勢が再び蜂起し、松前大館を攻撃、これを陥落させたのである 4 。この戦いで、大館の守将であった相原季胤らは討ち死にした 11 。この報に接した武田信広の子、蠣崎光廣の動きは迅速であった。彼は翌永正11年(1514年)、突如として本拠地である堅固な勝山館を離れ、陥落したばかりの松前大館へと拠点を移した 2 。そして、この大館を改修し、新たに「徳山館」と改名したのである 1 。
この一連の動きは、単なる偶然や好機に乗じた結果とは考えにくい。複数の史料や研究が示唆するように、この大館落城事件の背後には、蠣崎光廣による周到な陰謀があったとする説が根強く存在する 4 。すなわち、光廣がアイヌの攻撃を教唆、あるいは巧みに利用して、名目上の主家である安東氏の重要拠点を守るという名目で合法的に手中に収めた、という見方である 9 。この拠点移転により、蠣崎氏は蝦夷地の玄関口であり、本州との交易ルート、とりわけ津軽海峡の制海権を握る上で最も重要な松前の地を掌握することに成功した 9 。
蠣崎光廣による勝山館から徳山館への拠点移転は、単なる本拠地の変更に留まるものではない。それは、蝦夷地における権力構造の転換を狙った、戦国時代特有の「下剋上」的クーデターであった可能性が極めて高い。
この行動の動機を分析すると、その戦略性が浮かび上がる。堅固な山城であった勝山館 4 を敢えて放棄し、一度は陥落した大館へ移る最大の理由は、その地理的・経済的優位性にあった。勝山館が日本海側の拠点であるのに対し、松前大館(徳山館)は津軽海峡に面し、本州との交易、特に安東氏が掌握していた十三湊を起点とする交易ルートを直接管理・支配できる絶好の位置にあった 13 。
また、アイヌの攻撃による大館落城 11 と、その直後の光廣による迅速な入城 2 という一連の流れは、偶然としてはあまりに都合が良すぎる。複数の資料が「陰謀説」に言及していること 4 は、当時からそのように見られていたことを強く示唆している。
戦略的な帰結として、この移転により蠣崎氏は、安東氏の代官という立場 2 を得つつも、実質的に蝦夷地における和人社会の主導権を握ることに成功した。これは、名目上の主君である安東氏の力を削ぎ、自らの実利を最大化するという、戦国武将の典型的な権力拡大戦略に他ならない。徳山館の誕生は、蠣崎氏が蝦夷地における単なる一豪族から、自立した「戦国大名」へと脱皮する第一歩を記す、画期的な事件だったのである。
蠣崎氏の新たな本拠となった徳山館は、どのような城郭であったのか。この章では、残された遺構や関連資料から、その物理的な構造(縄張り)と、蝦夷地支配の拠点としての政治・経済的機能を明らかにする。
徳山館は、松前の台地上に築かれた典型的な中世の山城(丘城)である 1 。天然の要害を巧みに利用し、最小限の土木工事で最大限の防御効果を得るという、中世城郭の特徴を色濃く残している 13 。
城郭の主要部分は、台地の先端部に位置する「小館」と、その北側に続くより大規模な「大館」という、二つの主要な曲輪(郭)で構成されている 3 。この二つの郭を分断するのが、徳山館の構造を特徴づける大規模な「堀切」である。この堀切は、尾根筋を断ち切ることで敵の侵攻を阻む強固な防御線であり、現在もその壮大な遺構を確認することができる 3 。実際に城跡を訪れた者の記録からも、この堀切が非常に印象的であったことが窺える 1 。
それぞれの曲輪は土塁によって囲まれており 1 、内部は複数の段に削平されていたと推測される 3 。政庁や領主の居館といった中枢機能は、より規模の大きい「大館」に置かれていたと考えられている 18 。全体の構造は、防衛を第一に考えた、実戦的な縄張りであったと言える。
徳山館跡そのものについては、後継の勝山館跡や松前城跡と比較して本格的な発掘調査が十分に進んでおらず、政庁としての具体的な姿には未解明な部分が多いのが現状である 18 。しかし、前身である大館時代の出土品は、この地が持っていた経済的な重要性を雄弁に物語っている。
大館跡からは、中国産の精巧な天目茶碗や青磁碗、そして大量の中国銭(渡来銭)が出土している 10 。これらの遺物は、安東氏の時代から既に、この地が明(中国)などとの海外交易に関わる重要な拠点であったことを示唆している。蠣崎氏は、この交易ネットワークとそれに伴う莫大な富を継承し、さらに発展させることで、その支配基盤を強固なものにしたと考えられる。
徳山館は、約90年間にわたり、蠣崎氏による蝦夷地支配の政庁として機能した 1 。アイヌからもたらされる昆布、鮭、獣皮といった交易品の集積と管理、本州から訪れる和人商人への対応、そして時にはアイヌに対する軍事的な指令など、蝦夷地経営に関わる多岐にわたる機能が、この場所で営まれていたと推測される。
徳山館の構造と機能を総合的に考察すると、この城郭が、アイヌとの軍事的緊張を常に前提とした「防衛拠点」としての性格と、北方交易を管理・独占するための「経済拠点」としての性格を併せ持つ、過渡期的な城郭であったことが見えてくる。
まず、大規模な堀切や土塁、そして台地という立地 3 は、明らかに外部からの攻撃を強く意識したものである。これは、後述するアイヌとの度重なる武力衝突の歴史 6 とも完全に符合する。徳山館は、籠城戦を想定した、純粋な中世の軍事要塞としての側面を色濃く残している。
一方で、この地が持つ経済的な重要性は、蠣崎氏が多大なリスクを冒してまで拠点を移した最大の理由であった。前身の大館から出土した豪華な交易品 10 は、この場所が元々交易の要衝であったことを物語っている。徳山館は、山城でありながら、その麓に広がる松前の湊と一体で機能する経済センターでもあった。
この防衛と交易という二重の性格こそが、戦国時代の蝦夷地という特殊な環境下で、蠣崎氏が生き残りと発展を遂げるために必要とした拠点の姿を映し出している。それは、防衛を第一とする中世山城の様式を踏襲しつつ、後の松前藩の経済基盤となる交易管理という近世的な役割を担い始めた、まさに時代の転換点に立つ城郭であった。この性格は、後に統治と交易に特化した平山城である福山館へとその役割を譲ることで、歴史の表舞台から姿を消すことになる。
徳山館が蠣崎氏の本拠であった約90年間は、和人とアイヌ民族の関係が、血で血を洗う対立と、生き残りをかけた共存の模索との間で大きく揺れ動いた時代であった。この章では、徳山館を舞台に繰り広げられた武力衝突と、それを乗り越えて模索された新たな関係性の構築を追う。
蠣崎氏による和人地の拡大は、必然的にアイヌの生活圏への圧迫となり、両者の間には常に緊張関係が存在した。徳山館を拠点とした後も、武力衝突は決して絶えることがなかった。
その象徴的な事件が、天文5年(1536年)に発生したアイヌの首長タリコナによる徳山館強襲である 6 。この戦いで、蠣崎義広(光廣の子)が率いる軍勢は劣勢に立たされ、和睦を乞う状況にまで追い込まれた。しかし、これは蠣崎氏の謀略であった。和睦の証として開かれた酒宴の席で、義広はタリコナ夫妻を騙し討ちにして惨殺するという、戦国時代らしい非情な手段を用いてこの危機を脱したのである 6 。この事件は、蠣崎氏が蝦夷地での覇権を維持するために、正面からの武力だけでなく、時には裏切りや謀略も辞さなかったことを生々しく伝えている。
一方で、蠣崎氏の経済基盤は、昆布や鮭、ラッコやアザラシなどの獣皮といった、アイヌがもたらす産品との交易に大きく依存していた 5 。絶え間ない戦争は、交易を停滞させ、双方にとって大きな不利益をもたらすものであった。
この膠着状態を打開し、和人とアイヌの関係に新たな局面をもたらしたのが、4代当主・蠣崎季広の英断であった。天文19年(1550年)、季広は、東西のアイヌの有力首長と交渉の席に着き、歴史的な和睦協定を締結した 6 。これが後に「夷狄商船往還法度」と呼ばれるものである 21 。
この法度の内容は、それまでの武力による支配とは一線を画す、画期的なものであった。まず、渡島半島における和人の居住地(和人地)とアイヌの居住地(蝦夷地)との境界を明確に定めた 23 。そして最も重要な点は、本州から蝦夷地へやって来る和人商船から蠣崎氏が徴収する関税(運上金、夷役)の一部を、アイヌの首長に分配することを約束したことであった 21 。
この協定は、単なる和人側からの一方的な取り決めではなかった。研究者の大石直正氏らが提唱するように、これはアイヌ側が設置する「海関」(特定の海域における通行税の徴収権)を和人側が公認し、その見返りとしてアイヌ側が和人商船の航海の安全を保障するという、双務的かつ対等に近い「条約」であったと評価する説が有力である 24 。
「夷狄商船往還法度」の締結は、蠣崎氏の対アイヌ政策が、直接的な武力による制圧から、経済的利益の共有を通じてアイヌ社会を間接的に統制するという、より高度で持続可能な支配体制へと移行したことを示す、歴史的な分水嶺であった。
タリコナによる徳山館襲撃 6 が示すように、蠣崎氏の軍事力は、広大な蝦夷地に散在するアイヌの集団を完全に圧倒するものではなかった。全面戦争を継続することは、あまりにリスクが高く、非効率であった。その背景には、蠣崎氏の富がアイヌとの交易から生まれるという、経済的な相互依存関係があった 5 。交易が途絶えれば、蠣崎氏の支配基盤そのものが揺らぎかねなかったのである。
この法度の本質は、アイヌの有力首長たちに「蠣崎氏が管理する交易システム」に参加することの経済的メリットを明確に提示した点にある。彼らにとって、和人商船を襲撃して一時的な略奪品を得るよりも、蠣崎氏と協調して安定的に関税の分配金を得る方が、はるかに得策となった。
これにより、蠣崎氏は単なる軍事力に頼る支配者から、「交易の独占的管理権」を権力の源泉とする支配者へと、その性格を大きく変貌させた。アイヌの有力者を体制内に取り込むことで、他のアイヌ集団への影響力をも手に入れたのである。これは、後の松前藩によるアイヌ交易の独占支配体制 23 の原型であり、徳山館がその歴史的転換の舞台となったことを意味する。武力と謀略の時代から、経済を基軸とした支配の時代へ。そのパラダイムシフトは、徳山館を中心として成し遂げられたのである。
16世紀末、日本の政治情勢は織田信長、豊臣秀吉による天下統一事業によって大きく変動する。この中央の動きは、遠く北の蝦夷地にも及び、蠣崎氏の運命を大きく左右することになる。この章では、蠣崎氏が中央政権との結びつきを強め、近世大名へと脱皮する中で、徳山館がその歴史的役割を終えていく過程を描き出す。
5代当主・蠣崎慶広は、時代の潮流を的確に読み取る優れた政治感覚を持っていた。彼は、豊臣秀吉による天下統一が進展すると、いち早くこれに臣従し、その権威を背景に蝦夷地における自らの地位を盤石なものにしようと図った。その努力は実を結び、文禄2年(1593年)、慶広は秀吉から蝦夷地一円の支配権を公認する朱印状を与えられた 5 。これにより、蠣崎氏は長年のライバルであった安東氏の支配からも名実ともに独立を果たした。
さらに慶長4年(1599年)、慶広は姓を本拠地の地名にちなみ「蠣崎」から「松前」へと改めた 5 。翌年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後、天下人となった徳川家康からも蝦夷地の支配権を追認する黒印状を得た 5 。ここに、蝦夷地を単一の領国として支配する、独立した近世大名「松前氏」が誕生したのである。
近世大名としての地位を確立した松前慶広にとって、中世的な山城である徳山館は、新たな時代の政庁としていくつかの限界を抱えていた。その構造はあくまで防衛に特化しており、領国経営の中心として城下町を発展させ、統治と交易の機能を効率的に行うには不向きであった 13 。アイヌとの関係も「夷狄商船往還法度」によって安定期に入り、籠城を前提とした山城の軍事的必要性は薄れていた。
そこで慶広は、徳山館の南方、より海岸に近く、港の管理や城下町の建設に適した福山の台地に、新たな城郭を建設することを決意する 13 。これが「福山館」、後の松前城である。この移転計画は、松前氏がアイヌ交易を基盤として存立していくという、藩の基本戦略を明確に示したものであった 16 。
福山館の築城は、関ヶ原の戦いが勃発した慶長5年(1600年)に開始され、6年の歳月を費やして慶長11年(1606年)に完成した 13 。
福山館の完成に伴い、慶広は本拠を徳山館から新城へと移した。これにより、永正11年(1514年)以来、約92年間にわたって蝦夷地支配の中心であり続けた徳山館の歴史は幕を閉じ、廃城となった 1 。
この居城移転は、単なる拠点の移動以上の意味を持つ、象徴的な出来事であった。それは、松前氏の統治体制が、戦国の動乱を生き抜くための軍事防衛を第一とする体制から、安定した領国経営と交易の管理を目指す近世の幕藩体制へと、完全に移行したことを物語っている。山城である徳山館の時代が終わり、港を見下ろす平山城である福山館の時代が始まる。それは、蝦夷地における「戦国」の終焉と「江戸」の到来を告げる画期であった。
項目 |
徳山館 |
福山館(初期) |
名称 |
松前大館、徳山館 |
福山館(後の松前城) |
築城/改修年 |
1514年(永正11年)改修 |
1600年~1606年(慶長5~11年)築城 |
立地 |
台地上の丘陵 |
海岸に隣接する台地 |
城郭形態 |
山城・丘城 |
平山城 |
主目的 |
アイヌや他の和人勢力からの防衛 |
領国統治、アイヌ交易の管理 |
縄張り思想 |
中世的な防衛思想(堀切、土塁、天然の要害を活用) |
近世的な支配拠点(政庁機能、城下町との一体的整備) |
港との関係 |
間接的(麓の湊を山上から管轄) |
直接的(城が湊に近接し、交易管理に最適化) |
象徴する時代 |
戦国時代(下剋上と軍事的緊張の時代) |
江戸時代(幕藩体制下の安定統治と経済の時代) |
この比較表は、二つの城郭の性格の違いを明確に示している。立地が「山」から「海」へ、目的が「防衛」から「統治・交易」へと移行したことは、松前氏の戦略思想が、時代の変化に対応して如何にダイナミックに変容したかを物語っている。徳山館から福山館への変遷は、統治パラダイムそのものの転換を象徴する、日本史の重要な一断面なのである。
歴史の表舞台から去った徳山館は、400年以上の時を経て、現在どのようにその姿を留めているのであろうか。この章では、史跡としての現状と、私たちがその遺構から何を学び取れるのかを考察する。
現在の徳山館跡は、国の史跡として整備され、天守閣が再建されている後継の松前城跡とは異なり、大規模な公園化は行われていない 1 。しかし、それは往時の姿が失われたことを意味するものではない。注意深く散策すれば、そこには中世山城の息吹が色濃く残されている。
城跡では、今なお土塁や空堀といった遺構を明瞭に確認することができる 1 。特に、第一章で述べた大館と小館を分かつ壮大な堀切は、ほとんど当時のままの姿で残されており、戦国時代の城郭が持つ緊迫した雰囲気を今に伝える最大の見どころである 1 。
一方で、城跡の一部は藪に覆われており、見学路が不明瞭な場所も存在する 1 。また、訪問者の報告によれば、ヒグマ出没の危険性を示す看板も設置されており、特に夏場の訪問には十分な注意と備えが必要である 1 。
アクセスは、松前城(福山城)跡から徒歩圏内にあり、比較的訪れやすい 1 。函館バスの「松城」バス停からも徒歩10分から20分程度で到達可能である 1 。
館跡の中心部には、現在「徳山大神宮」が鎮座している 1 。この神社は、元々は別の場所にあった伊勢堂が、江戸時代に移転してきたものであり、その歴史もまた松前の町の変遷を物語る貴重な史料である 28 。
徳山館は、日本の城郭史において、そして北海道の歴史において、極めて重要な価値を持つ史跡である。
第一に、本州の戦国時代に発展した城郭の築城技術や防衛思想が、蝦夷地という特殊な環境下でどのように適用されたかを示す、貴重な実物資料である。その縄張りは、まさしく中世の山城そのものである。
第二に、そして何よりも、北海道における和人社会の形成史、特に松前藩による支配体制の確立過程において、その礎を築いた拠点として決定的な重要性を持つ。武田信広が築いた勝山館から、蠣崎光廣が手に入れた徳山館へ、そして松前慶廣が築いた福山館へという拠点の変遷は、そのまま松前氏の発展の軌跡と重なり、蝦夷地における権力の中心がどのように移動し、その性格を変えていったかを物語っている。
第三に、アイヌ民族との関係史においても、徳山館は忘れてはならない場所である。タリコナの襲撃に象徴される激しい対立の舞台であると同時に、「夷狄商船往還法度」という画期的な和睦が成立した場所として、異なる文化間の相克と共存の歴史を今に伝えている。
徳山館の歴史は、蠣崎氏という一族が、戦国の動乱期に蝦夷地という辺境の地で、いかにして生き残り、勢力を拡大し、新たな時代を切り拓いていったかの壮大な物語である。それは、武力、謀略、外交、そして経済という、人間が持ちうるあらゆる手段を駆使した生存戦略の記録に他ならない。
一つの城郭の興亡を通じて、私たちは、異なる文化(和人とアイヌ)が接触する際に必然的に生じる緊張と、それを乗り越えようとする人間の知恵を学ぶことができる。徳山館は、武力による支配の限界と、経済的な相互依存関係の中から生まれた新たな秩序形成の可能性を示している。
現在、徳山館跡は、華やかな城郭建築を失い、静かな森の中に土塁と堀切を留めるのみである。しかし、その静寂の中にこそ、北の大地に刻まれた、中央の歴史とは異なるもう一つのダイナミズムが息づいている。徳山館は、訪れる者に、日本の歴史の多様性と奥深さを語りかける、静かな、しかし力強い語り部なのである。
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物 |
1457年(長禄元) |
コシャマインの戦い発生。松前大館がアイヌ勢により落城。 |
コシャマイン、武田信広 |
15世紀後半 |
武田信広、上ノ国に勝山館を築城し、蠣崎氏の拠点とする。 |
武田信広 |
1513年(永正10) |
アイヌ勢の攻撃により、松前大館が再度落城。 |
相原季胤 |
1514年(永正11) |
蠣崎光廣、勝山館から松前大館へ拠点を移し、「徳山館」と改称。 |
蠣崎光廣 |
1536年(天文5) |
アイヌの首長タリコナが徳山館を強襲。蠣崎氏、謀略によりこれを撃退。 |
タリコナ、蠣崎義広 |
1550年(天文19) |
蠣崎季広、アイヌの首長らと「夷狄商船往還法度」を締結。 |
蠣崎季広 |
1593年(文禄2) |
蠣崎慶廣、豊臣秀吉から蝦夷地の支配権を公認される。 |
蠣崎慶廣、豊臣秀吉 |
1599年(慶長4) |
慶廣、姓を「蠣崎」から「松前」に改める。 |
松前慶廣 |
1600年(慶長5) |
松前慶廣、徳山館の南方に福山館(後の松前城)の築城を開始。 |
松前慶廣 |
1606年(慶長11) |
福山館が完成し、本拠を移転。徳山館は廃城となる。 |
松前慶廣 |