越後北辺の要衝、本庄城は揚北衆本庄氏の拠点として独立の気風を育んだ。本庄繁長は謙信に反旗を翻し籠城、武名を轟かせた。後に村上城と改称され、近世城郭へと変貌を遂げた。
越後国北部に位置した本庄城は、戦国時代という激動の時代において、一地方の城郭という存在を超えた、象徴的な意味を持つ拠点であった。この城は、中世以来の独立性を保持しようとする国人領主の気概と、彼らを自らの支配体制に組み込もうとする戦国大名の集権化政策という、二つの巨大な歴史的潮流が激しく衝突した舞台である。本報告書は、本庄城の歴史を多角的に検証することを通じて、戦国という時代の構造的変革を、微視的かつ具体的に解明することを目的とする 1 。
本庄城の歴史は、その名称の変遷自体が物語の核心を内包している。当初、在地領主の名を冠した「本庄城」は、やがて新たな支配者の名を冠した「村上城」へと姿を変える 3 。この名称変更は、単なる呼称の変化ではない。それは、城の性格が本庄氏という「国人」の拠点から、中央権力に連なる「藩主」の拠点へと変質したことを示す画期的な出来事であった。すなわち、在地領主の時代の終焉と、中央集権体制下の近世藩制の萌芽という、より大きな歴史的転換点を象徴しているのである 4 。
本報告書は、まず城主であった本庄氏の出自と、彼らが属した「揚北衆」という特異な武士団の分析から筆を起こす。次いで、戦国期における城郭の物理的構造を解明し、その機能性を考察する。そして、城の歴史を体現する人物である本庄繁長の動向を軸に、上杉氏との激闘と協調の軌跡を追う。さらに、近世城郭への変貌と終焉、そして城を支えた経済的・社会的基盤を論じ、最後に史跡としての価値を総括することで、本庄城の多層的な歴史像を構築する。
表1:本庄城・村上城 関連年表
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
鎌倉時代初期 |
建永元年頃 (1206) |
秩父行長が越後国小泉庄の地頭となり、本庄氏の祖となる(伝承) 6 。 |
16世紀初頭 |
明応末期-永正年間 |
本庄時長または房長により、臥牛山に本庄城が築城される 3 。 |
1507年 |
永正4年 |
長尾為景の侵攻により本庄城が落城した記録が残る 3 。 |
1551年 |
天文20年 |
13歳の本庄繁長が叔父・小川長資を討ち、本庄家の実権を掌握する 10 。 |
1568年 |
永禄11年 |
本庄繁長が上杉謙信に反旗を翻す(本庄繁長の乱)。本庄城に1年以上にわたり籠城 12 。 |
1569年 |
永禄12年 |
伊達氏・蘆名氏の仲介により和睦。繁長は嫡子・顕長を人質に出し降伏する 8 。 |
1578年 |
天正6年 |
上杉謙信が急死し、御館の乱が勃発。繁長は上杉景勝方に与し、勝利に貢献する 3 。 |
1588年 |
天正16年 |
繁長が庄内へ出兵し、十五里ヶ原の戦いで最上義光軍を破り、庄内を平定する 16 。 |
1598年 |
慶長3年 |
上杉景勝の会津移封に伴い、本庄氏も村上を去る。堀秀治の家臣・村上頼勝が入城し、「村上城」と改称。近世城郭への改修が始まる 3 。 |
1618年 |
元和4年 |
堀直寄が入城。石垣普請や城下町整備を本格化させ、近世城郭としての村上城を完成させる 16 。 |
1649年 |
慶安2年 |
松平直矩が入城。城郭と城下の大規模な拡張・改修を行う 8 。 |
1667年 |
寛文7年 |
天守が落雷により焼失。以後、再建されず 8 。 |
1720年 |
享保5年 |
内藤弌信が入城。以後、明治維新まで内藤氏が藩主となる 8 。 |
1868年 |
慶応4年/明治元年 |
戊辰戦争の際、抗戦派の村上藩士が城に火を放ち退去。城は焼失する 8 。 |
1875年 |
明治8年 |
残存していた建物遺構の解体・撤去が完了し、廃城となる 8 。 |
1960年 |
昭和35年 |
村上城跡が新潟県指定史跡となる 8 。 |
1993年 |
平成5年 |
村上城跡が国の史跡に指定される 8 。 |
越後国にその勢力を築いた本庄氏は、桓武平氏の流れを汲む名門・秩父氏の一族である 6 。その祖は、鎌倉時代初期の建永元年(1206年)頃、幕府の御家人として越後国小泉庄の地頭職に補任された秩父行長に遡るとされる 6 。行長は小泉庄の本庄郷に入部し、その子孫が地名に因んで本庄氏を名乗るようになった 3 。行長の弟・為長は同庄の色部郷に入り、色部氏の祖となったことから、両氏は同族意識を共有し、越後北部に勢力を扶植していくことになる 6 。
ここで留意すべきは、同じ「本庄氏」を名乗る武士団が、武蔵国(現在の埼玉県本庄市周辺)にも存在したことである 21 。武蔵本庄氏は、武蔵七党の一つである児玉党の中核をなした庄氏から派生した一族であり、その出自は越後本庄氏とは異なる 21 。越後本庄氏の歴史的文脈を正確に理解するためには、この両者を明確に区別することが不可欠である。越後本庄氏は、関東の名門武士としての出自を誇りとし、在地領主として独自の道を歩んでいった。
本庄氏が属した「揚北衆(あがきたしゅう)」は、戦国期の越後を理解する上で極めて重要な存在である。揚北衆とは、越後を南北に流れる阿賀野川(古くは揚河と呼ばれた)の北岸地域、すなわち現在の新潟県下越地方に割拠した国人豪族たちの総称である 1 。本庄氏をはじめ、同族の色部氏、さらに中条氏、新発田氏、黒川氏などがその代表格であった 1 。
彼らの政治的特性は、何よりもその旺盛な独立心にあった 25 。この独立の気風は、複数の要因によって育まれた。第一に、彼らの多くが鎌倉幕府以来の御家人としての出自を持ち、自らを土地の正統な支配者と見なす強い誇りを抱いていたこと 25 。第二に、越後の政治的中心地であった府中(現在の上越市)から地理的に遠く離れており、守護や守護代の権威が及びにくかったこと 2 。そして第三に、日本海交易の拠点となる港湾を掌握し、独自の経済基盤を確立していたことである 27 。
これらの背景から、揚北衆は越後守護の上杉氏や、その実権を握った守護代の長尾氏(後の上杉氏)に対して、単純な主従関係に収まらない複雑な態度を取り続けた。彼らは、守護代・長尾為景が下剋上によって戦国大名化を図った際には、しばしば旧来の権威である守護家を擁してこれに抵抗し、為景による越後統一の最大の障害として立ちはだかった 3 。長尾景虎(上杉謙信)の時代になっても、その関係は完全な服従というよりは、利害に基づき離合集散を繰り返す同盟関係に近いものであった 3 。しかし、揚北衆は一枚岩ではなく、所領などを巡って内部での対立も絶えなかった 1 。この内部分裂が、結果として上杉謙信による越後支配体制の確立を許す一因となったのである 1 。謙信にとって揚北衆の統制は、単なる家臣団掌握の問題ではなく、成り立ちも文化も異なる半独立国家群を、いかにして自らの国家体制に組み込むかという、統治の根幹に関わる最重要課題であった。
臥牛山に本庄城が築かれた明確な年代は定かではないが、複数の史料から16世紀初頭、明応末期から永正年間にかけて、当時の小泉庄領主であった本庄時長、あるいはその子・房長によって築かれたのが始まりとされている 3 。特に、永正4年(1507年)に長尾為景の軍勢によって本庄城が攻め落とされたという記録が存在することから、この時期には既に軍事拠点として確立していたことは確実である 3 。
城が築かれた臥牛山は、標高135メートルの独立した丘陵であり、平山城に分類される 14 。村上市の中心部に位置し、眼下には城下町、そして西には日本海、東には三面川が形成した平野を一望できる。この立地は、領国支配の拠点として、また日本海交通路を監視する上でも絶好の戦略的要衝であった 30 。
戦国期の本庄城は、石垣をほとんど用いず、自然地形を最大限に活用して防御力を高めた、中世城郭の典型的な姿をしていた 8 。防御思想の根幹をなしたのは、土木工事によって造成された各種の防御施設である。
主たる防御施設は、山の斜面を人工的に削り出して敵の登攀を困難にする急斜面「切岸(きりぎし)」、尾根伝いの敵の侵攻を食い止めるために尾根を断ち切るように掘られた「堀切(ほりきり)」、そして斜面を横移動する敵兵を妨害し、部隊を分断・孤立させるために斜面に沿って縦方向に掘られた「竪堀(たてぼり)」であった 31 。曲輪の周囲は主に木柵で囲われ、櫓なども簡素な平櫓が中心であったと推測される 31 。
これらの遺構は、現在も村上城跡の東側斜面を中心に極めて良好な状態で残存している 9 。特に、全長が100メートルにも及ぶ大規模な竪堀が複数確認されており、それに付随して防御兵を配置するための桟敷状の小曲輪(腰曲輪)群が階段状に設けられている 31 。慶長2年(1597年)に作成された「瀬波郡絵図」や発掘調査の成果によれば、城主の居館である根小屋(ねごや)は山の東側山麓に位置し、城の正面口である大手も東側にあった可能性が高い 9 。これは、石垣で固められた西側を大手とする近世の村上城とは正反対の構造であり、城の設計思想そのものが異なっていたことを示している。
同時期の西国では、織田信長や豊臣秀吉のもとで石垣と天守を特徴とする巨大な近世城郭の建設が進んでいたが、都から遠く離れた越後にはまだその技術が伝播していなかったことが、本庄城の構造から窺える 31 。しかし、これは単なる技術的未熟さの表れと見るべきではない。むしろ、限られた動員力と経済力の中で、山城の防御効率を最大限に高めるという、国人領主のリアリズムが生み出した「最適解」であった。石垣がなくとも、切岸と竪堀を巧みに組み合わせた防御網は、大軍による力押しを極めて困難にし、少人数での効果的な防衛を可能にする。後に本庄繁長が、軍神と謳われた上杉謙信の大軍を相手に一年以上も籠城を続けられたのは、この「土の城」が有する優れた防御機能に負うところが大きかったのである 12 。
本庄城の歴史を語る上で、城主・本庄繁長の存在は不可欠である。彼の波瀾に満ちた生涯は、本庄城が最も輝き、そして最も激しい戦火に包まれた時代と完全に重なっている。「越後の鬼神」とまで称された彼の武勇と戦略は、この城を舞台に繰り広げられた 11 。
天文8年(1540年)、繁長は本庄房長の子として生を受けた 23 。しかし、その幼少期は平穏ではなかった。父・房長は同族間の内紛の末、実弟である小川長資の計略によって実権を奪われ、不遇のうちに没したとされる 11 。幼い繁長は、家督を簒奪した叔父の支配下で忍従の日々を送ることとなった。
この状況を覆したのが、天文20年(1551年)の出来事である。繁長は、父・房長の十三回忌の場において、わずか13歳(数え年)にして叔父・長資を自刃に追い込み、本庄家の実権を奪還した 10 。この早熟にして剛毅な決断は、彼の生涯を特徴づけるものとなった。家督を継いだ繁長は、その卓越した武勇をもって瞬く間に周辺の国人領主を従え、独立性の強い揚北衆の中でも筆頭格と目される一大勢力を築き上げたのである 3 。
繁長の武名と本庄城の堅固さを天下に知らしめたのが、永禄11年(1568年)に勃発した「本庄繁長の乱」である。この戦いは、繁長個人の不満に端を発しつつも、越後国内の構造的対立や、周辺大名の思惑が複雑に絡み合ったものであった。
乱の直接的な原因は、謙信の命を受けて長尾藤景兄弟を誅殺したにもかかわらず、それに見合う恩賞がなかったことへの不満であったとされる 13 。この不満に乗じる形で、謙信の上洛を阻止しようと画策する甲斐の武田信玄から、謀反を唆す誘いがあった 14 。しかし、より根源的な背景には、揚北衆としての独立性を維持しようとする繁長と、越後国内の集権化を推し進める謙信との間の、避けられない構造的対立が存在した 11 。
謙信が越中へ出征している隙を突いて挙兵した繁長は、近隣の揚北衆に同調を呼びかけた。しかし、同族の中条景資がこれを謙信に密告したことで謀反は露見し、鮎川氏や色部氏といった他の揚北衆も謙信方についたため、繁長は本庄城での籠城を余儀なくされた 13 。
戦いは、繁長の巧みな籠城戦術によって長期化した。謙信は当初、信濃方面における武田信玄の動きを警戒して春日山城を動けず、柿崎景家らを将とする先遣隊を派遣したが、繁長はこれを撃退 14 。やがて謙信自らが約1万の軍勢を率いて本庄城を包囲したが、繁長は寡兵ながらも籠城と夜襲を効果的に組み合わせ、頑強に抵抗を続けた 13 。この攻防戦で上杉軍は1000名もの死傷者を出し、城は一年以上にわたって持ちこたえた 14 。この戦いは、後に繁長の主君となる上杉景勝の初陣でもあったと伝えられている 13 。
最終的に、兵糧の枯渇が迫る中、繁長は米沢の伊達氏、会津の蘆名氏による仲介を受け入れ、和睦に至った 8 。嫡男の顕長を人質として差し出すことで助命され、乱は終結した 8 。この乱の結果、繁長は謙信存命中には不遇をかこったが、その武名はかえって高まった。一方で、乱の鎮圧に功績のあった鮎川氏や新発田氏が揚北衆内での発言力を増し、勢力図が変化した。この新たな対立の構図が、後の「新発田重家の乱」の遠因となっていく 13 。謙信が繁長を攻め滅ぼさず和睦で収めた背景には、単なる温情ではなく、これ以上の長期戦が背後の武田信玄を利するという、大局的な戦略判断があったものと考えられる。
一度は謙信に弓を引いた繁長であったが、その後の上杉家において、彼は不可欠な存在となっていく。天正6年(1578年)、謙信が後継者を指名せぬまま急死すると、養子である上杉景勝と上杉景虎の間で家督を巡る内乱「御館の乱」が勃発した 37 。この時、繁長は迅速に景勝支持を表明 3 。頸城地方を拠点に景虎派の諸城を攻略し、補給路を断つなど、景勝方の勝利に決定的な貢献を果たした 38 。
この功績により、繁長は景勝政権下で重臣としての地位を完全に回復する 17 。彼は、御館の乱後の恩賞問題に端を発した「新発田重家の乱」の鎮圧に尽力する一方で、その武威を越後国外に示す機会を得る。天正16年(1588年)、庄内地方(現在の山形県庄内地方)の内紛に介入し、大宝寺氏を支援するため出兵。最上義光が派遣した援軍を「十五里ヶ原の戦い」で撃破し、庄内地方を上杉家の版図に組み入れた 16 。この戦いにおける寡兵での勝利は、繁長の軍事的才能を改めて証明し、その名を天下に轟かせた 34 。
繁長の生涯は、戦国時代の国人領主が生き残るための戦略の典型例を示している。主君への反逆、新当主への迅速な臣従、そして軍事力を背景とした勢力拡大という、硬軟織り交ぜた戦略を駆使し、自らの家と地位を守り抜いた。その行動原理は、特定の主君への絶対的な忠誠というよりも、「家の存続と繁栄」を最優先する国人領主としてのリアリズムに貫かれていた。
表2:本庄繁長 ― 主要な合戦と功績
合戦名 |
年代 |
繁長の立場・役割 |
敵対勢力 |
具体的な行動・戦術 |
結果・影響 |
家督奪還戦 |
1551年 |
本庄家継承者 |
叔父・小川長資 |
父の十三回忌の場で長資を急襲し、自刃に追い込む。 |
本庄家の実権を掌握し、当主となる 10 。 |
本庄繁長の乱 |
1568-1569年 |
反乱軍総大将 |
上杉謙信 |
本庄城に籠城。巧みな防衛戦術と夜襲で上杉軍に大損害を与える 14 。 |
和睦により降伏するも、城は落城せず。その武名を高める 13 。 |
御館の乱 |
1578-1579年 |
上杉景勝方主力 |
上杉景虎 |
景勝をいち早く支持。頸城地方で景虎方の諸城を攻略し、補給路を遮断 3 。 |
景勝方の勝利に大きく貢献し、景勝政権下で重臣として復権する 15 。 |
新発田重家の乱 |
1581-1587年 |
上杉景勝方主力 |
新発田重家 |
鎮圧軍の中核として、新発田城攻略などに従事 3 。 |
景勝による越後統一の完成に寄与する。 |
十五里ヶ原の戦い |
1588年 |
上杉軍総大将 |
最上義光・東禅寺氏 |
寡兵を率いて庄内に侵攻。野戦で最上軍主力を撃破する 17 。 |
庄内地方を平定し、上杉家の版図を拡大。繁長の名声を決定づける 17 。 |
関ヶ原の戦い関連 |
1600-1601年 |
福島城代 |
伊達政宗 |
松川の戦いなどで伊達軍の侵攻を寡兵で食い止める。戦後は徳川方との交渉役を務める 17 。 |
上杉家の減封・存続に貢献。戦だけでなく外交手腕も示す 17 。 |
本庄繁長の時代が終わりを告げると、本庄城もまた、その性格を大きく変えることになる。中世の「土の城」は、新たな支配者たちの手によって、近世の「石の城」へと生まれ変わった。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は越後から会津120万石へと移封された 6 。これに伴い、筆頭家臣であった本庄繁長も主君に従い、長年拠点とした本庄城を去った 5 。繁長は会津移封後、福島城代などを務め、関ヶ原の戦い後も上杉家の存続に尽力した 6 。
本庄氏が去った後、越後には堀秀治が入封し、その与力大名であった村上頼勝が9万石で本庄城主となった 5 。この時、地名が「本庄」から城主の名にちなんで「村上」に、城名も「本庄城」から「村上城」へと正式に改められた 3 。これは、この地から本庄氏という在地領主の色を一掃し、新たな支配体制を明確に示すための政治的措置であった。その後、江戸時代を通じて、堀直寄、松平直矩、榊原氏、間部氏、そして内藤氏と、城主は目まぐるしく交代した 8 。
村上頼勝、そしてその後を継いだ堀直寄の時代に、村上城は大規模な改修を受け、近世城郭へと脱皮を遂げた 4 。西国で培われた進んだ築城技術が導入され、それまで土塁と堀切が主であった城に、壮大な石垣が築かれ始めた 5 。堀氏の時代には、現在見られる総石垣の城郭の基礎がほぼ完成し、権威の象徴である三重の天守も建造された 8 。
この改修は、城の防御思想における根本的な転換を意味していた。中世の本庄城が「山に拠って敵を拒む」という受動的な防御思想に基づいていたのに対し、近世の村上城は「権威を見せつけ、城下町全体を支配する」という能動的な統治思想の表れであった。石垣と天守は、純粋な軍事施設であると同時に、領民に対して新たな城主の絶対的な権威を視覚的に示すための、強力な政治的装置だったのである。
城の構造変化と並行して、城下町の整備も行われた 5 。城の大手口(正面)は、従来の東側から、新たに整備された西側の城下町に面する位置へと移された 30 。これにより、現在の村上市街地の骨格が形成されたのである 41 。
その後、慶安2年(1649年)に15万石で入封した松平直矩によって、城はさらなる大改修を受けたが、寛文7年(1667年)、不運にも天守が落雷によって焼失 8 。頻繁な城主交代と藩の財政難が重なり、天守が再建されることは二度となかった 8 。
幕末、戊辰戦争の動乱は村上城にも及んだ。村上藩は、新政府に恭順しようとする派と、奥羽越列藩同盟に加わり抗戦を主張する派に分裂 8 。最終的に、新政府軍の進攻を前に、抗戦派の藩士たちが山麓の居館に火を放ち、庄内藩へと退去した 8 。これにより、城の主要な建築物は焼失した。
明治維新後、新たに成立した村上県の知事となった旧藩主・内藤信美は、明治3年(1870年)に城の破却を新政府に願い出て、受理された 8 。明治8年(1875年)までには、残存していた門や石垣の一部も解体・売却され、城は完全にその役目を終えたのである 8 。
表3:城郭構造の比較:本庄城(中世)と村上城(近世)
比較項目 |
本庄城時代(戦国期・中世) |
村上城時代(江戸期・近世) |
主要防御施設 |
切岸、堀切、竪堀、腰曲輪 31 |
高石垣、堀、櫓門 5 |
主たる素材 |
土、木(木柵) 8 |
石、瓦、漆喰 8 |
縄張りの中心 |
山頂部と東側山麓の居館(根小屋) 9 |
山頂部と西側山麓の御殿・武家屋敷 30 |
大手口の方向 |
東側 9 |
西側 30 |
象徴的建造物 |
なし(簡素な平櫓のみ) 31 |
三重天守(焼失後、再建されず) 8 |
設計思想 |
軍事特化・受動的防御 自然地形を利用し、敵の侵攻を効率的に阻む拠点。 |
政治的・軍事的支配 権威を誇示し、城下町全体を統治・防衛する中心。 |
本庄氏をはじめとする揚北衆の強靭な独立性は、彼らの武勇のみならず、その活動を支えた豊かな経済的・社会的基盤に根差していた。本庄城を中心とした地域は、日本海交易の要衝であり、独自の文化を育む土壌があった。
本庄城の膝元には、岩船港や瀬波港といった天然の良港が存在し、古くから日本海交易の拠点として栄えていた 28 。特に岩船港は、村上藩領内で最大の規模を誇り、本庄城の外港として、物資の集散や軍事輸送において重要な役割を担っていたと考えられる 44 。
この交易を通じて、本庄氏の領国には富がもたらされた。その源泉となったのが、地域の特産品である。
第一に、「青苧(あおそ)」が挙げられる。青苧は、カラムシという植物から作られる上質な繊維であり、麻織物(越後縮など)の原料として全国的に高い需要があった 45。上杉謙信が青苧の流通を管理下に置き、莫大な利益を軍資金としたことは有名であるが 27、その生産地であった揚北地方の領主たちも、この交易から大きな経済的恩恵を受けていたことは想像に難くない。
第二に、「鮭」である。城下を流れる三面川は、古来より鮭の名産地として知られ、平安時代にはすでに都の貴族への献上品とされていた記録が残る 48 。戦国時代においても、鮭は重要な食料資源であると同時に、塩引き鮭などの加工品として交易され、領主の貴重な財源となっていた 50 。
これらの交易によって得られた富は、本庄氏が兵を養い、武具を整え、そして上杉氏のような上位権力と対峙するための経済的基盤となった。彼らの独立闘争は、政治的な自立を求める戦いであると同時に、これらの経済的権益を守るための戦いでもあったのである。
戦国期の揚北衆の社会や文化の一端は、本庄氏と同族であり、隣接する領主であった色部氏の家政記録『色部氏年中行事』から垣間見ることができる 52 。この史料には、天正末年頃の武家社会の生活が詳細に記されており、本庄氏の城下においても同様の光景が繰り広げられていたと推測される。
記録によれば、彼らの社会は厳格な序列と儀礼によって秩序づけられていた。年末の準備から正月の年賀儀礼、家臣団や地域の有力者を招いての饗応などが、定められた作法に則って執り行われていた 53 。
饗応の膳には、領内で獲れる産物だけでなく、昆布、ニシン、鯛の干物といった、日本海交易を通じて入手したであろう海産物が並んでいる 53 。これは、地域の経済活動が武士の食文化を豊かにしていたことを示す証左である。特に鮭は、大晦日の「年取り魚」として神棚に供えられるなど、単なる食材を超えた特別な意味を持っていた 50 。
これらの記録から浮かび上がるのは、揚北衆が単なる粗野な田舎武士ではなく、交易による富を背景に、独自の儀礼や文化を築き上げた、洗練された在地領主であったという姿である。本庄城を中心とした社会は、経済的に自立し、文化的に成熟した独自の「小世界」を形成していた。この「小世界」の存在こそが、彼らが自らの独立性を守るために、時には強大な権力にさえも抗して戦った理由の核心にあったのかもしれない。
かつて越後北辺に威容を誇った本庄城、そして村上城は、明治の廃城令と共に地上からその姿を消した。しかし、城が刻んだ歴史の記憶は、臥牛山の地に今なお深く刻み込まれている。
現在、城跡には天守や櫓といった建造物は一切存在しない。しかし、そこには戦国期「本庄城」の面影を伝える竪堀や堀切、虎口といった土の遺構と、江戸期「村上城」の壮大さを示す長大な石垣が、渾然一体となって残されている 20 。一つの城跡に、中世と近世という二つの時代の城郭遺構がこれほど明瞭に、かつ重層的に残存する例は全国的にも稀であり、これこそが史跡・村上城跡の最大の価値である。
この歴史的重要性から、城跡は昭和35年(1960年)に新潟県の史跡に、そして平成5年(1993年)には国の史跡に指定された 8 。指定後、平成11年(1999年)からは、崩落の危険があった石垣の修復工事や、城郭の構造を解明するための学術的な発掘調査が継続的に実施されており、その成果は往時の姿を明らかにする上で大きな貢献を果たしている 12 。
本庄城の歴史が持つ意義は、以下の三点に集約できる。第一に、 国人領主の栄枯盛衰の象徴 であること。誇り高き独立領主であった本庄氏が、戦国の荒波の中でいかにして生き残り、そして最終的に中央集権化の奔流に飲み込まれていったか。その軌跡は、戦国時代を生きた数多の国人領主の運命を代表している。
第二に、 日本城郭史における変遷の縮図 であること。自然地形を巧みに利用した「土の城」から、権威の象徴としての「石の城」へ。この劇的な変貌を一つの場所で具体的に観察できる村上城跡は、日本の城郭が辿った技術的・思想的変遷を物語る、生きた教科書と言える。
第三に、 地域のアイデンティティの核 であること。「お城山」として今なお地域住民に親しまれ 42 、その歴史は鮭文化や町人町の町並みと共に、現代の村上市の歴史的風致とアイデンティティの礎となっている。
結論として、本庄城は、戦国という時代が内包した「地方の自立性」と「中央の集権化」という、相克する二つの巨大なエネルギーが凝縮された場所である。臥牛山に残る累々たる石垣と深い竪堀は、単なる過去の遺物ではない。それらは、過ぎ去った時代の記憶を雄弁に物語り、我々に歴史のダイナミズムを問いかけ続ける、歴史の証人なのである。