出羽の要衝、横手城は小野寺氏が築き、最上氏との激戦を経験。関ヶ原で小野寺氏が改易後、佐竹氏の支城となり、一国一城令下でも存続。韮城の異名を持つ堅城は、幕末の兵火で焼失するも、今も歴史を伝える。
出羽国横手城の歴史的意義を理解するためには、その視座を戦国時代のみに限定せず、古代にまで遡る必要がある。横手城が築かれた横手盆地は、戦国期に小野寺氏によってその戦略的価値を「発見」されたのではなく、遥か古くから奥羽における政治・軍事の要衝として、中央の律令国家に認識されていた土地であった 1 。
奈良時代、朝廷は東北地方の支配領域を北へと拡大する「北進政策」を推進していた。その一環として、日本海側には出羽柵、後の秋田城が設けられ、太平洋側には多賀城や桃生城といった城柵が築かれた 3 。これらは蝦夷(えみし)と呼ばれる在地勢力に対する最前線基地であり、行政と軍事を司る拠点であった。そして、内陸部への進出を企図した朝廷が、759年(天平宝字3年)に横手盆地に設置したのが「雄勝城(おかちのき)」である 3 。
雄勝城の正確な位置については諸説あり、未だ確定には至っていないものの、近年の横手市雄物川町周辺における発掘調査では、奈良時代の役所(官衙)や駅家(うまや)の存在を示唆する墨書土器、硯、瓦といった貴重な遺物が次々と発見されている 5 。これは、この地が単なる軍事拠点に留まらず、古代の公的な交通網と行政機構の中核を担っていたことを強く示唆するものである。
したがって、小野寺氏による横手城の築城は、歴史的文脈から切り離された突発的な事象ではない。それは、古代から連綿と続くこの地の戦略的重要性を、戦国乱世という新たな状況下で再評価し、その地理的優位性を最大限に活用しようとする、歴史的必然性に基づいた戦略的帰結であったと解釈することができる。
横手盆地が古代から現代に至るまで重要視されてきた背景には、その類稀な地理的条件がある。まず、雄物川とその支流がもたらす肥沃な沖積平野は、奥羽地方有数の穀倉地帯を形成し、経済的基盤となっていた 1 。そして、この雄物川は舟運の大動脈として機能し、内陸の物資を日本海側の土崎港へと結びつけていた 11 。
さらに、陸路に目を向ければ、江戸時代に整備される羽州街道がこの盆地を南北に貫通している 10 。この街道は、東の奥羽山脈を越えれば北上川流域の奥州街道へ、西に向かえば本荘街道を経て日本海へ、そして北は仙北郡、南は雄勝郡へと通じる、まさに四方八方への交通網が集中する結節点であった 14 。
この地を抑えることは、すなわち奥羽内陸部の物流と交通を掌握することを意味した。生産力と交通網という、国家経営の根幹をなす二つの要素が交差するこの地が、時代の支配者たちにとって常に魅力的な戦略拠点であり続けたのは、当然の理であったと言えよう。
横手城の築城に関しては、複数の説が存在し、その起源は単純ではない。最も広く知られているのは、天文23年(1554年)あるいは弘治元年(1555年)に、小野寺氏第13代当主・小野寺景道(後の輝道)が、現在地の朝倉山に城を築いたとする説である 16 。これは、戦国大名小野寺氏の本拠地としての横手城の本格的な始まりを示すものとして重要である。
しかし、史料を紐解くと、それ以前からこの地に城、あるいはそれに類する防御施設が存在した可能性が浮かび上がる。『和賀小野寺系図』には、正安2年(1300年)に沼館城主・小野寺忠道の子である道有が横手城を築いたとの記述が見られる 21 。また、『応仁武鑑』には、応仁元年(1467年)に小野寺氏の家老であった横手道前が居城としたと記されている 21 。
これらの説の真偽を確定することは困難であるが、景道による築城の直前に起こった歴史的事件が、一つの重要な示唆を与えている。天文21年(1552年)、当時の横手城主であった横手佐渡守が金沢金乗坊らと共謀し、小野寺宗家の当主・小野寺稙道を湯沢城で自害に追い込むという内乱、いわゆる「平城の乱」が発生した 21 。この時、稙道の遺児である四郎丸(後の景道・輝道)は、母の実家である庄内の大宝寺氏のもとへ逃れ、その支援を得て2年後に反撃に転じ、横手佐渡らを討ち滅ぼして所領を回復したのである 21 。
この一連の経緯は、1554年以前に「横手城」と呼ばれる拠点が、小野寺宗家とは別の在地勢力(横手氏)の支配下にあったことを明確に示している。したがって、景道の「築城」とは、全くの無から城を創造したというよりも、敵対勢力の拠点を武力で奪取し、その上に自らの権威の象徴として、より大規模かつ近代的な戦国城郭へと再構築する行為であったと考えるのが妥当であろう。それは内乱の終結宣言であり、新たな支配体制の確立を内外に示すための、極めて政治的な意味合いを帯びた事業であった。
表1:横手城 築城に関する諸説比較表
年代 |
築城者とされる人物 |
典拠史料(伝承) |
概要 |
正安2年 (1300年) |
小野寺 道有 |
『和賀小野寺系図』 |
沼館城主・小野寺忠道の子である道有が築城したとされる 21 。 |
応仁元年 (1467年) |
横手 道前 |
『応仁武鑑』 |
小野寺氏の家老であった横手道前が居城としたとされる 21 。 |
天文23年 (1554年) |
小野寺 景道(輝道) |
『奥羽永慶軍記』他 |
内乱(平城の乱)を鎮圧後、本拠地として朝倉山に築城(または大改修)した 16 。 |
内乱を平定した小野寺景道は、旧来の本拠地であった稲庭城や沼館城から、この新たに掌握した横手城へと拠点を移した 14 。この本拠地移転は、単なる居城の変更以上の戦略的意図を持っていた。
第一に、横手は仙北・平鹿・雄勝の三郡にまたがる小野寺氏の支配領域のほぼ中央に位置し、領国全体を効率的に統治する上で最適な場所であった 16 。第二に、前述の通り、交通の要衝である横手を抑えることは、経済的・軍事的な優位性を確保することに直結した。景道は横手城を中心に城下町の整備を進め、一族を各地に配置することで国力の強化を図った 16 。
そして第三に、最も重要なのは、この本拠地移転が、内乱を乗り越えた新たな権力体制の象徴であったという点である。反乱の震源地を自らの本拠地とすることで、景道は家中の掌握と支配の正統性を強力にアピールした。横手城の創生は、小野寺氏が内紛の時代を乗り越え、戦国大名として飛躍するための新たな出発点となったのである。
景道によって再興された小野寺氏は、その子・義道の代に最盛期を迎えるが、同時に最大の宿敵との熾烈な争いに直面することになる。山形城を本拠とし、破竹の勢いで勢力を拡大していた最上義光である 25 。最上氏にとって、北進して秋田湊の安東氏と結ぶためには、その中間に位置する小野寺領、特に雄勝郡の攻略が不可欠であった。一方、小野寺氏にとっても、南の雄勝郡は父祖伝来の地であり、譲ることのできない生命線であった 26 。
両者の争いは、天正年間から慶長年間に至るまで、断続的に繰り広げられた 20 。特に文禄4年(1595年)、最上軍の猛攻によって小野寺氏の南の拠点であった湯沢城、岩崎城などが次々と陥落すると、戦況は小野寺氏にとって著しく不利となった 21 。横手城は、対最上氏の最前線基地として、絶え間ない緊張に晒されることとなった。
小野寺氏が最上氏の軍事的圧力に苦しむ中、その衰退を決定づける内部からの崩壊が起こる。それは、最上義光の謀略によって引き起こされた、重臣・八柏大和守道為(やがしわ やまとのかみ みちため)の暗殺事件であった。
八柏道為は、小野寺家中随一の智将と謳われ、その軍略は最上軍を幾度も退けた 23 。武勇だけでなく知略にも長けた道為の存在は、義光にとって小野寺領攻略の最大の障害であった。そこで義光は、得意の謀略を用いる。道為が最上氏に内通していると示唆する偽の書状を作成し、それを誤送に見せかけて小野寺義道の弟・吉田城主の元へ届けさせたのである 21 。
元来、武勇には優れるものの知略に乏しく、猜疑心の強い性格であったとされる義道は、この謀略に完全にはまってしまった 26 。文禄3年(1594年)、義道は道為に横手城への登城を命じ、何も知らずに城下へ入った道為を、大手門前の「中の橋」付近で待ち伏せ、暗殺させたのである 21 。
この事件は、小野寺氏にとって致命的な打撃となった。家中は動揺し、大黒柱を失った軍事力は著しく低下した。事実、翌年の湯沢城攻防戦において、義道は道為暗殺の件で他の家臣をも疑い、援軍の派遣を躊躇したことが落城の大きな要因となったと伝えられている 21 。最上義光の謀略は、小野寺義道という当主の心理的弱点を突き、自らの手でその支柱を破壊させるという、恐るべき成果を上げた。小野寺氏の衰退は、この瞬間から、もはや避けられないものとなったのである。
外部からの軍事的圧力と内部からの崩壊に加え、中央政権からの政治的圧力も小野寺氏を追い詰めた。天正18年(1590年)、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、全国的な支配体制を確立するため奥州仕置と太閤検地を実施した。この際、豊臣家臣の大谷吉継が検地奉行として横手城に駐在した 22 。
ところが、この検地の最中に小野寺領内で大規模な一揆(仙北一揆)が発生する。秀吉はこの一揆の責任を義道に問い、その所領を大幅に削減した。かつて仙北三郡を支配した小野寺氏の領地は、平鹿・雄勝両郡の一部、わずか3万石余にまで減らされ、没収された雄勝郡の大部分は宿敵・最上義光に与えられた 22 。この処置は、最上氏との力関係を決定的に不利にし、小野寺氏の勢力基盤を根底から揺るがすものであった。
表2:小野寺氏・最上氏 抗争年表(文禄・慶長年間)
年月 |
出来事 |
概要 |
天正14年 (1586年) |
有屋峠の戦い |
最上軍と小野寺軍が激突。八柏道為の活躍もあったが、小野寺軍は敗北 28 。 |
天正18年 (1590年) |
仙北一揆と所領削減 |
太閤検地中に発生した一揆の責任を問われ、小野寺義道の所領が大幅に削減される 22 。 |
文禄3年 (1594年) |
八柏道為 暗殺事件 |
最上義光の謀略により、小野寺義道が重臣・八柏道為を横手城下で殺害 21 。 |
文禄4年 (1595年) |
湯沢城・岩崎城の落城 |
最上軍の侵攻により、小野寺氏の南方の要衝である湯沢城、岩崎城が陥落 21 。 |
慶長2年 (1597年) |
大島原の合戦 |
小野寺義道が湯沢城奪還を図るも、最上軍に敗北 26 。 |
慶長5年 (1600年) |
慶長出羽合戦 |
関ヶ原の戦いに連動し、義道が最上領に侵攻するも、湯沢城攻略に失敗 21 。 |
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この天下の趨勢を決する大戦において、小野寺義道が下した判断は、彼の運命、そして小野寺家の運命を決定づけた。
当初、義道は徳川家康による会津の上杉景勝討伐軍に、東軍として参加するよう要請された。しかし、出羽方面の東軍を率いるのは、他ならぬ仇敵・最上義光であった。義道は、その指揮下に入ることを「しぶしぶ」承諾し、山形城へ向かった 21 。この時点で、彼の行動原理が家康への忠誠よりも、最上氏との地域的な力関係に大きく左右されていたことがうかがえる。
その道中、石田三成の挙兵により家康が軍を西へ返したとの報が届くと、義道の行動は一変する。彼は直ちに軍を反転させると、本領である横手へと帰還した 21 。そして、上杉景勝が最上領へ侵攻を開始し、最上軍が苦戦に陥っているのを見るや、これを好機と捉え、上杉方に呼応する形で最上領への攻撃を開始したのである 34 。彼の目的は、西軍の勝利に貢献することではなく、あくまでもこの混乱に乗じて最上氏に一矢報い、かつて奪われた旧領を回復することにあった 20 。
義道のこの決断は、天下の情勢という大局的な視点ではなく、長年の宿敵に対する恨みという、極めて地域的かつ感情的な論理に基づいて下されたものであった。彼は、中央の政局の変動を、自らの地域紛争を有利に進めるための戦術的な好機として利用しようとした。しかし、その地域限定的な論理は、天下統一という新たな時代の巨大な論理の前に、あまりにも無力であった。
義道は上杉軍と連携し、最上氏の属城である湯沢城を包囲攻撃する(慶長出羽合戦) 33 。しかし、城将・楯岡満茂の奮戦の前に攻略は遅々として進まず、決定的な戦果を挙げることはできなかった 33 。そうこうするうちに、9月15日、本戦である関ヶ原において西軍はわずか一日で壊滅的な敗北を喫する。
この報が伝わると、出羽の戦況は逆転した。上杉景勝は徳川方に降伏し、義道は完全に孤立無援の状態で最上軍の反撃に晒されることとなった 21 。戦後、徳川家康は、命令に背いて東軍の将である最上義光を攻撃した義道の行為を、西軍への加担と見なした。慶長6年(1601年)、小野寺義道は改易を命じられ、全所領を没収された 18 。
義道は子の左京、弟の康道らと共に石見国津和野(現在の島根県)へ配流の身となり、そこで生涯を終えた 36 。鎌倉時代から続いた出羽の名族・小野寺氏の歴史は、ここに幕を閉じた。横手城は、その最後の当主が天下の趨勢を見誤った悲劇の舞台として、歴史にその名を刻むことになったのである。
小野寺氏が去った後、横手城と周辺所領は一時的に最上氏の管理下に置かれたが、関ヶ原の戦後の論功行賞により、常陸国水戸から秋田へ転封となった佐竹義宣の所領となった 22 。慶長7年(1602年)、秋田に入部した義宣は、久保田城(現在の秋田市千秋公園)を本城と定め、横手城を藩の南部を統括する重要な支城として再整備した 18 。
佐竹氏にとって、横手は旧領主である小野寺氏の残党や領民一揆への備えであると同時に、南に隣接する強大な外様大名・仙台藩伊達氏に対する軍事的な抑えという、極めて重要な役割を担っていた。小野寺氏の時代とは異なる、新たな文脈の中で、横手城はその戦略的価値を再び高めることになったのである。
元和元年(1615年)、二代将軍・徳川秀忠は、全国の大名に対し、本城以外のすべての城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布した。これは、大名の軍事力を削ぎ、幕藩体制を盤石にするための強力な政策であり、この命令によって全国の数多くの城がその歴史を終えた。
しかし、秋田藩の横手城は、大館城と共にこの破却を免れ、支城としての存続が幕府から正式に認められた 38 。これは全国的にも極めて異例のことであり、その背景には佐竹義宣による幕府への懸命な働きかけがあったとされている 41 。
この特例が認められた事実は、横手城の地政学的な重要性が、藩主である佐竹氏のみならず、天下の統治者である徳川幕府にも十分に認識されていたことを物語っている。幕府の視点から見れば、秋田藩の南の玄関口に強力な支城を存続させることは、隣接する仙台藩伊達氏や、当時はまだ緊張関係にあった山形藩最上氏(1622年に改易)といった東北の有力外様大名を牽制し、地域の勢力均衡を保つ上で有効な策であった。横手城の存続は、秋田藩の個別事情と、幕府の全国的な統治戦略とが合致した結果であり、この城が担う役割の重さを象徴する出来事であった。
佐竹氏の時代、横手城には藩主の名代として城を管理し、周辺地域を統治する「城代(じょうだい)」が置かれた。約270年間にわたる城代の変遷は、秋田藩の統治体制が確立されていく過程を映し出す鏡であった。
慶長7年(1602年)、初代城代として横手城に入ったのは、伊達政宗の叔父にあたる伊達(国分)盛重であった 18 。盛重は、何者かの讒言によって政宗と対立し、伊達家を出奔して佐竹義宣を頼った人物である 43 。義宣は、同じく政宗の叔母を母に持つ義広(蘆名氏を継ぐ)を弟に持ち、盛重とは縁戚関係にあった 44 。
転封直後の不安定な時期に、伊達氏の内部事情に精通し、かつ武将としても経験豊富な盛重を国境の要衝に配置したことは、対伊達氏を意識した極めて政治的な人事であったと考えられる。しかし、その統治は長くは続かず、盛重はわずか1年後の慶長8年(1603年)には更迭された 45 。その明確な理由は史料に残されていないが、佐竹譜代の家臣ではない盛重の統治が、何らかの摩擦を生んだ可能性が推測される。
盛重の後任として二代目城代となったのは、須田美濃守盛秀であった 21 。盛秀は藩主・義宣の命を受け、城下を流れる横手川の流路を一部付け替えて外堀としての機能を強化し、家臣の居住区を拡張するなど、城下町の整備に大きな功績を残した 45 。この時期、横手城は軍事拠点としての性格に加え、地域の行政センターとしての役割を強めていった。
須田氏の治世における特筆すべき事件が、寛永元年(1624年)に起こった。二代将軍・秀忠の暗殺を企てたとされる「宇都宮城釣天井事件」の嫌疑をかけられて失脚した幕府の元老中・本多正純、正勝父子が、佐竹氏お預けの身となり、横手城に幽閉されたのである 18 。須田盛秀がその厳重な監視役を務め、かつて権勢を誇った父子は横手の地で寂しくその生涯を終えた 21 。幕府の最重要政治犯を預かるという任務は、横手城が藩内でも特に信頼され、かつ厳重な監視体制が可能な場所であったことを示している。
須田氏の後、数代の城代を経て、寛文12年(1672年)、第五代城代として戸村十太夫義連が就任する 18 。これ以降、明治維新に至るまでの約200年間、横手城代は戸村氏によって世襲されることとなった 16 。
戸村氏は、佐竹氏の祖である源義光の孫・昌義の子孫とされ、佐竹宗家から分かれた一門衆である 48 。秋田藩内においては最高の家格である「引渡一番座」に列せられ、代々家老職を輩出する、藩主にとって最も信頼の置ける重臣であった 48 。
藩の統治体制が安定期に入ると、国境の要衝であり、藩南部の統治拠点である横手城を、最も信頼できる一門の戸村氏に恒久的に委ねる体制が確立された。伊達盛重という「外様」的な武将の起用から始まった城代人事は、藩の支配構造の成熟と共に、藩主一門による盤石な世襲統治へと帰着したのである。
表3:佐竹氏時代 横手城代一覧
代 |
氏名 |
在任期間(就任年) |
主要な出来事・備考 |
初代 |
伊達(国分) 盛重 |
慶長7年 (1602年) |
伊達政宗の叔父。就任翌年に更迭される 18 。 |
2代 |
須田 盛秀 |
慶長8年 (1603年) |
横手川の改修など城下町を整備 45 。本多正純父子の監視役を務める 21 。 |
3代 |
須田 盛久 |
寛永2年 (1625年) |
盛秀の子 46 。 |
4代 |
(不明) |
- |
- |
5代 |
戸村 義連 |
寛文12年 (1672年) |
以後、戸村氏による城代職の世襲が始まる 18 。 |
... |
(戸村氏代々) |
- |
- |
幕末期 |
戸村 義効・大学 義得 |
- |
戊辰戦争時に籠城戦を指揮 21 。 |
佐竹氏時代の横手城は、戦国期の城郭を基礎としつつ、近世の支城として改修が加えられた。その構造で最も特徴的なのは、石垣をほとんど用いなかった点である 45 。城が位置する朝倉山は、急峻ではあるが崩れやすい土質の丘陵であった。そのため、斜面の補強と防御を兼ねて、切岸(きりぎし)と呼ばれる人工的な急斜面に大量の韮(にら)を植え付けた 18 。
この韮は、密生した根が土砂の崩落を防ぐと同時に、雨や霜で濡れると非常に滑りやすくなり、攻め寄せる敵兵の足場を奪う効果があった 51 。さらに、籠城戦の際には非常食料としても役立ったとされる 51 。この独特な工夫から、横手城は「韮城(にらじょう)」という別名で呼ばれるようになった 18 。高価な石垣普請を避け、地域の自然条件と植生を巧みに利用したこの防御策は、実用性を重んじる合理的な築城思想の現れであった。
城の全体構造(縄張り)は、丘陵の尾根に沿って主要な曲輪(くるわ)を直線的に配置する「連郭式」であった 53 。最も高く奥まった山頂部に「本丸」を置き、そこには政務を執り行う御殿が建てられた 51 。本丸の手前には「武者溜り」と呼ばれる兵の集合スペースを挟んで「二の丸」が配された 22 。二の丸は本丸よりも広く、城代の居館や武具を収める兵具櫓などが置かれ、実質的な城の中枢機能を担っていた 21 。江戸時代を通じて、権威の象徴である天守は建てられなかった 51 。これもまた、華美な装飾よりも実用を重んじる支城としての性格を物語っている。
城の東側を流れる横手川は、天然の外堀として城下町の防御線を形成した 10 。佐竹氏は、この川を境として計画的な都市設計を行った。川の西岸、城のある側には武士たちが住む「内町」を、東岸の平地には町人や職人が住み、商業活動を行う「外町」を配置した 10 。
特に重要だったのは、主要幹線である羽州街道を、防御のために城下から迂回させるのではなく、外町の中心を貫通させたことである 10 。これにより、横手は街道の宿場町としての機能も持つことになった。外町のメインストリートである大町通りには、大名などが宿泊する本陣が置かれ、各種の大店が軒を連ねた 56 。特に繰り綿や木綿の取引が盛んで、「横手木綿」は地域の特産品として知られた 13 。
このように、佐竹氏時代の横手城と城下町は、軍事的な防御機能と経済的な発展を両立させる、近世的な都市設計思想に基づいて完成された。それは単なる「南の守り」ではなく、秋田藩南部の政治・経済・交通の中心地として、地域の繁栄を支える役割を担っていたのである。
約270年にわたって秋田藩の支城として存続した横手城の歴史は、幕末の動乱の中で突如として終わりを迎える。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると、秋田藩主・佐竹義堯は、当初加盟していた奥羽越列藩同盟を脱退し、新政府軍に与することを決断した 22 。これにより、秋田藩は同盟軍の庄内藩や仙台藩など、周辺諸藩の攻撃目標となった 10 。
藩の南の玄関口である横手城は、真っ先に攻撃の矢面に立たされた。城代であった戸村大学義得は、新政府軍の沢副総督が横手放棄を決定した後もこれに従わず、わずか100名余の兵と共に籠城し、4,000と号する同盟軍を相手に徹底抗戦の構えを見せた 22 。しかし、圧倒的な兵力差の前に防戦は困難を極め、同盟軍の猛攻により本丸、二の丸が次々と炎上。城は一夜にして陥落し、灰燼に帰した 18 。この兵火により、中世から続いた横手城の建造物は郭内残らず焼失し、城としての物理的な生命は絶たれたのである。
城は失われたが、その場所が持つ歴史的な意味は、時代と共に形を変えながら受け継がれていった。明治以降、城跡は「お城山」という愛称で呼ばれ、市民の憩いの場である横手公園として整備された 18 。
本丸跡には、明治12年(1879年)、秋田藩祖・佐竹義宣を祀る秋田神社が建立された 18 。その建設にあたっては、戊辰戦争の際に焼け残った城の遺材が一部使用されたと伝えられ、社殿の柱には今なお当時の弾痕が残るとされている 18 。これは、城の物理的な記憶を現代に伝える貴重な痕跡である。
一方、城代屋敷などがあった二の丸跡には、昭和40年(1965年)、郷土資料館と展望台を兼ねた三層四階の天守閣様式の建造物が築かれた 18 。歴史上、横手城に天守が存在したことはないため、これは史実を再現したものではなく「模擬天守」である 42 。しかし、この模擬天守は、かつてこの地に城があったことを可視化し、市民や観光客に地域の歴史を想起させる現代のシンボルとして、広く親しまれている 51 。
横手城の歴史は、破壊と再創造の繰り返しであったと言える。小野寺氏が旧勢力を破壊して戦国の城を築き、佐竹氏がそれを改修して近世の支城へと再創造した。そして、戊辰戦争で物理的に破壊された後、近代以降は神社や公園、模擬天守という形で、市民の記憶と郷土愛の拠り所として象徴的に再創造されたのである。
現在、横手城跡は桜の名所として、また冬の風物詩「かまくら」のメイン会場として多くの人々で賑わい、御城印の販売や企画展の開催などを通じて、その歴史を未来へ語り継ぐ文化観光資源として新たな役割を担っている 51 。物理的な城郭は失われても、横手城という場所が持つ歴史の重みは、時代時代の要請に応じた姿に変わりながら、今なおこの地に生き続けている。