海津城は武田信玄が築き、川中島合戦の拠点に。高坂昌信が統治し、豊臣期に石垣化。真田氏の松代城となり、水害を克服。廃城後も復元され、多層な歴史を伝える名城。
信濃国北部に広がる川中島平、すなわち現在の長野盆地。千曲川と犀川が合流するこの戦略的要地に、戦国時代の緊張を今に伝える城跡が存在する。それが、本報告書で詳述する海津城(かいづじょう)、後の松代城(まつしろじょう)である 1 。この城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との熾烈な覇権争いの最前線拠点として築城したことにその歴史を発する 2 。以来、北信濃支配の拠点として、織田、上杉、豊臣、徳川と支配者が目まぐるしく移り変わる激動の時代を生き抜き、江戸時代には真田氏十万石の府城として近世城郭へと変貌を遂げた。
一般に海津城は、永禄四(1561)年の第四次川中島合戦における武田軍の拠点として知られている。しかし、その歴史的役割は単なる一過性の軍事施設に留まるものではない。この城は、戦国大名の領国経営のあり方、築城技術の発展、そして戦国時代から近世幕藩体制へと移行する日本の権力構造の変化を、その構造と歴史的変遷の中に色濃く刻み込んでいる。海津城は、単に川中島合戦という歴史的事件の「結果」として存在するのではなく、むしろその存在自体が歴史を動かす「原因」として機能した側面を持つ。
本報告書は、この海津城という一つの城郭を多角的な視点から徹底的に分析することを目的とする。第一章では、築城に至るまでの北信濃の政治・軍事的情勢を概観し、信玄がこの地に城を築く必要があった戦略的意図を解き明かす。第二章では、甲州流築城術の粋を集めたとされる城の構造と縄張りを詳細に分析し、その防御思想に迫る。第三章では、戦史におけるクライマックス、第四次川中島合戦において海津城が果たした具体的な役割を検証する。第四章では、初代城代・高坂昌信の統治に焦点を当て、彼が担った軍事・行政両面にわたる重責を明らかにする。第五章では、武田氏滅亡後の混乱期における城主の変遷を追い、城が近世城郭へと変貌を遂げる画期を考察する。第六章では、真田氏の入封による「松代城」としての新たな時代の幕開けと、城下町の発展、そして自然との闘いの歴史を描き出す。そして第七章では、近代以降の荒廃から、現代における国史跡としての復元と歴史遺産としての継承の意義を論じる。
この一連の分析を通じて、海津城が戦国期から近世への社会・権力構造の移行をいかに体現しているかを解明し、日本の城郭史におけるその特異な位置づけを明らかにしたい。
年代(西暦/和暦) |
主な出来事 |
城主/支配勢力 |
城の名称 |
1560年頃 (永禄3) |
武田信玄により築城される 3 |
武田信玄 |
海津城 |
1561年 (永禄4) |
第四次川中島合戦で武田軍の拠点となる 5 |
(城代:高坂昌信) |
海津城 |
1582年 (天正10) |
武田氏滅亡、森長可が入城。本能寺の変後、上杉景勝の支配下に入る 6 |
織田氏→上杉氏 |
海津城 |
1598年 (慶長3) |
豊臣政権の蔵入地となり、田丸直昌が入城 7 |
豊臣氏 |
海津城 |
1600年 (慶長5) |
森忠政が入城、「待城」と改称 9 |
森氏 |
待城 |
1622年 (元和8) |
真田信之が上田より移封される 3 |
真田氏 |
松城 |
1711年 (正徳元) |
幕命により「松代城」と改称 2 |
真田氏 |
松代城 |
1742年 (寛保2) |
戌の満水で大被害。後に千曲川の瀬替え工事が行われる 9 |
真田氏 |
松代城 |
1872年 (明治5) |
廃城となる 9 |
(長野県) |
松代城 |
1981年 (昭和56) |
国の史跡に指定される 1 |
- |
- |
2004年 (平成16) |
太鼓門などが復元される 13 |
- |
- |
海津城築城の歴史的背景を理解するためには、まず武田信玄による信濃侵攻の文脈を把握する必要がある。天文十(1541)年に父・信虎を追放して甲斐国主となった信玄は、国内を安定させると、その矛先を隣国の信濃へと向けた 15 。当時の信濃は、小笠原氏や諏訪氏、村上氏といった有力な国衆(在地領主)が割拠する状態にあり、統一された強力な権力が存在しなかった 16 。信玄にとって、強大な今川氏や北条氏が控える東海・関東方面への進出が困難であったのに対し、信濃は勢力拡大の格好の標的であった 15 。
信玄は天文十一(1542)年から本格的な信濃侵攻を開始し、諏訪氏を滅ぼし、伊那、佐久へと順調に勢力を拡大していった。しかし、信濃北部、特に埴科郡を本拠とする村上義清は、信玄にとって最大の障壁であった。義清は天文十七(1548)年の上田原の戦いで武田軍を撃破し、信玄の重臣である板垣信方、甘利虎泰を討ち取るなど、信玄に生涯初の大敗を喫させた。この敗北は、信玄の信濃平定が一筋縄ではいかないことを天下に示すものであった 17 。
村上義清ら北信濃の国衆は、信玄の執拗な攻撃の前に次第に追い詰められていく。そして天文二十二(1553)、ついに本拠の葛尾城を追われた義清は、高梨氏や井上氏といった他の北信国衆と共に、国境を接する越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に救援を要請した 17 。これが、戦国史に名高い「川中島の戦い」の直接的な引き金となる。
謙信がこの要請に応じたことで、信濃を巡る争いは、信濃国内の地域紛争から、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信という二大戦国大名による国家間の大規模な戦争へと発展した。天文二十二(1553)年の第一次合戦から永禄七(1564)年の第五次合戦まで、実に12年以上にわたり、両雄は川中島平を中心に計5回の激闘を繰り広げることとなる 18 。この長期にわたる抗争の過程で、武田氏にとって北信濃に恒久的な前線基地を確保する必要性が日に日に高まっていったのである。
海津城が築かれた川中島平(善光寺平)は、軍事的な要衝であると同時に、極めて重要な経済的価値を持つ地域であった。この地は信濃国随一の穀倉地帯であり、その豊かな農業生産力は、大軍を動員する武田氏にとって兵糧を確保する上で死活問題であった 18 。この地を安定的に支配下に置くことは、軍事行動の継続性を担保する上で不可欠だったのである 20 。
さらに、この地域には古くから全国的な信仰を集める善光寺が存在し、その門前町は多くの人々と物資が集まる一大経済圏を形成していた 19 。信玄が一時、善光寺の本尊を甲府に移したことからも、彼がこの地域の持つ宗教的権威と経済的価値をいかに重視していたかが窺える 20 。善光寺平を掌握することは、単に軍事的な勝利を意味するだけでなく、北信濃の人心と経済を掌握することに直結していた。
これまでの川中島での戦いにおいて、武田軍は一時的な陣城や既存の小規模な城砦を拠点としていた。しかし、上杉氏との対決が長期化するにつれ、信玄は北信濃における支配を恒久的なものとするため、本格的な拠点城郭の建設を計画する。それが海津城であった。この城は、単に上杉軍の南下を防ぐための防御施設ではなく、北信濃四郡(高井・水内・更級・埴科)の統治と経営を担う行政拠点としての役割も期待されていた 8 。
この視点から、防御に優れた山城ではなく、あえて平城を選択した信玄の意図が浮かび上がる。平城は、城下町を形成し、交通の要衝を抑え、広大な平野部を直接支配下に置くのに適している 2 。これは、信玄の北信濃に対する戦略が、一時的な軍事行動から、腰を据えた領国経営へと質的に転換したことを示すものであった。築城時期については諸説あるが、史料から永禄三(1560)年9月には城が存在していたことが確認されており 23 、永禄元(1558)年から同3年の間に建設されたと推定されている 6 。
海津城の築城は、受動的な防御戦略からの脱却を意味した。敵の勢力圏の喉元に恒久的な拠点を打ち込むという行為は、極めて攻撃的な戦略的楔であり、上杉謙信の行動を制約し、戦いの主導権を握ろうとする能動的な意図の表れであった。この城の存在そのものが、謙信に川中島への出兵を強いることになり、結果として永禄四年の大規模な衝突、すなわち第四次川中島合戦を誘発する最大の要因となったのである 5 。海津城は、単なる戦いの「結果」ではなく、戦いを創出する「原因」となるべく築かれた戦略拠点であった。
海津城は、武田信玄がその勢力の絶頂期に築いた城であり、その構造には「甲州流」と称される武田氏独自の築城術の粋が集められている 25 。戦国の実戦の中から生まれ、極めて高い防御思想に貫かれたその縄張りは、日本の城郭史においても特筆すべき存在である。
海津城の縄張りの最大の特徴は、自然地形を巧みに利用している点にある 27 。城の西側には、当時「海のごとき」と形容された千曲川の大河が南北に流れており、これを天然の外堀、すなわち巨大な防御線として活用した 9 。これにより、城の西側面はほぼ難攻不落となり、防御兵力を東と南の城下町方面に集中させることが可能となった。この設計思想は、武田氏の築城術に共通する特徴である 28 。
城の基本的な配置は、本丸を中心に、その南側と東側を二の丸、さらにその外側を三の丸が取り囲む「梯郭式(ていかくしき)」と呼ばれる縄張りである 2 。築城当初は土を盛り上げた土塁と空堀で構成されていたが、後の時代に改修が進み、特に城の中心部である本丸は総石垣造りとなった 30 。石垣には、地元で産出された柴石や皆神山の安山岩が、自然の形のまま積み上げる「野面積み(のづらづみ)」という古式の技法で用いられている 13 。
海津城の防御思想を最も象徴するのが、城門の前面に設けられた「丸馬出(まるうまだし)」と「三日月堀(みかづきぼり)」である 9 。これらは甲州流築城術の代名詞ともいえる施設であり、海津城が武田氏の城であることの何よりの証左となっている 9 。
馬出とは、虎口(城の出入り口)の外側に、堀を隔てて設けられた小規模な曲輪のことである 33 。敵は虎口に直接到達することができず、まずこの馬出を攻略しなければならない。海津城で採用された丸馬出は、その名の通り半月形をしており、敵兵をどの角度からも側面攻撃できるという利点があった。さらに、馬出は単なる防御施設ではなく、城兵が打って出る際の出撃拠点(橋頭堡)としての機能も兼ね備えていた 33 。これは、敵の攻撃に対し、城内からの援護射撃のもとで能動的に反撃を行う「動的防御」思想の表れであり、海津城が単なる籠城用の要塞ではなく、野戦における拠点としても機能することを想定して設計されていたことを示唆している。
三日月堀は、その丸馬出のさらに前面に掘られた三日月形の堀である 9 。これは、丸馬出に到達しようとする敵兵の勢いを削ぎ、その動きを制約するための第一の障害物として機能した。敵は三日月堀と丸馬出を突破する過程で、城壁や櫓からの集中砲火を浴びることになり、これらの施設は敵兵を殲滅するための巧妙な罠、いわば「キルゾーン」を形成していたのである。
城の中枢である本丸は、一辺約80メートルの方形で、堅固な石垣と幅の広い内堀によって厳重に守られていた 2 。本丸内部には、藩主の居館と政庁を兼ねた本丸御殿が置かれていた。天守は築かれなかったが、本丸の北西(戌亥)隅には城内で最も高い石垣が築かれ、その上には天守の代わりとして川中島平を一望できる二層の隅櫓が建てられていたと推定されている 13 。本丸への出入り口は、南側の太鼓門(大手門に相当)、北側の北不明門(きたあかずのもん、搦手門)などがあり、いずれも敵の直進を阻むために通路を直角に二度折り曲げた「枡形門(ますがたもん)」という防御性の高い構造であった 10 。
本丸を囲む二の丸や三の丸は、主に土塁で防御されており、家臣たちの屋敷などが配置されていたと考えられている 32 。城全体の正面玄関にあたるのは三の丸に開かれた大御門(おおごもん)であり、その規模から城全体の壮大さが窺える 9 。
海津城の築城に、武田信玄の伝説的軍師・山本勘助が関与したという話は広く知られている 27 。この説の直接的な根拠は、江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』である 27 。同書には、信玄が上杉謙信との合戦に備えて築城を急がせ、山本勘助がその縄張り(設計)を担当し、わずか80日間で普請を完了させたと記されている 24 。
しかし、歴史学的な観点からは、この記述をそのまま史実として受け入れることには慎重な態度が求められる。『甲陽軍鑑』は武田氏滅亡後に編纂された二次史料であり、軍学書としての性格上、物語的な脚色や英雄譚的な誇張が含まれている可能性が指摘されているためである 27 。かつては山本勘助という人物の実在そのものが疑問視されていたが、1969年に発見された『市河文書』をはじめとする一次史料の研究により、「山本菅助」という名の人物が武田家に仕え、諜報活動や伝令役として活躍していたことが確実となった 36 。
結論として、山本勘助(菅助)が実在し、築城にも通じた人物であった可能性は否定できないものの 35 、彼が海津城の縄張りを直接担当したことを証明する同時代の確実な史料は現存しない。したがって、「山本勘助が築城した」という伝承は、特定の個人の功績を称えるというよりも、「海津城が、武田家が誇る最高の築城技術(甲州流)によって築かれた名城である」という事実を、勘助という象徴的な人物に仮託して物語化したものと解釈するのが妥当であろう。海津城の構造自体が、甲州流築城術の典型例であることこそが、武田氏による築城の何より雄弁な証拠なのである。
海津城は、その築城目的の通り、武田信玄と上杉謙信が雌雄を決した川中島の戦い、特に最大の激戦となった永禄四(1561)年の第四次合戦において、決定的な役割を果たすこととなる。
永禄四年八月、上杉謙信は一万数千の大軍を率いて川中島に進出、武田方の勢力圏の南端に位置する妻女山(さいじょさん)に本陣を構えた 40 。この報を受けた武田信玄は、直ちに甲府から二万の軍勢を率いて出陣し、九月に入る頃には海津城に入城した 24 。これにより、妻女山の上杉軍と海津城の武田軍が、千曲川を挟んで約1.5キロメートルの至近距離で睨み合うという、一触即発の状況が生まれた 40 。
この対陣は約10日間に及んだが、その間、海津城は武田軍の兵站と指揮の中心として完璧に機能した 24 。堅固な城があったからこそ、信玄は敵地深くで大軍を維持し、焦って決戦を挑むことなく、じっくりと作戦を練るための貴重な「時間」を稼ぐことができた。もし海津城がなければ、信玄は野戦陣地での不安定な対陣を強いられ、戦略の選択肢は著しく制限されていただろう。海津城の存在は、信玄に籠城、野戦、奇襲といった複数の戦略的選択肢を与え、戦いの主導権を握る上で不可欠な資産であった。
膠着状態を打破するため、海津城で開かれた軍議において、山本勘助が献策したとされるのが、有名な「啄木鳥(きつつき)の戦法」であった 3 。この作戦は、キツツキが木の幹の反対側を叩いて、驚いて飛び出してきた虫を捕らえる習性になぞらえたものである 42 。
具体的な作戦内容は、武田軍を二手に分け、高坂昌信や馬場信春らが率いる一万二千の別働隊が、夜陰に紛れて海津城を出発し、妻女山の背後から上杉軍を奇襲する。不意を突かれた上杉軍が山を下りて八幡原方面へ逃れてきたところを、信玄自らが率いる八千の本隊が待ち伏せ、これを挟撃して殲滅するというものであった 42 。この複雑かつ大規模な二面作戦の策源地として、海津城は機能した。別働隊の出撃と本隊の待機という二つの異なる動きを支える拠点として、その戦略的価値を最大限に発揮したのである 44 。
しかし、上杉謙信はこの啄木鳥の戦法を事前に察知していた。その根拠として、多くの記録が「海津城から立ち上る炊煙がいつもより多い」ことを挙げている 22 。これは、別働隊の兵士たちが夜間の出撃に備え、一斉に食事の準備をしたためと考えられている。この逸話は、戦国時代の合戦が単なる兵力の衝突ではなく、高度な情報戦であったことを示している。海津城は武田軍の拠点であると同時に、妻女山から監視される情報源でもあり、その日常活動の変化が敵に致命的な情報を与えうることを物語っている。
敵の作戦を見抜いた謙信は、九月九日の夜、密かに全軍を率いて妻女山を下り、武田軍が渡河すると予想した雨宮の渡しを避け、鞭声粛々と千曲川を渡り、八幡原に布陣していた信玄の本隊に夜明けとともに襲いかかった 5 。完全に意表を突かれた武田本隊は窮地に陥り、信玄の弟である武田信繁、軍師の山本勘助、諸角虎定といった宿将たちが次々と討死する大混戦となった 5 。
乱戦の中、謙信自らが信玄の本陣に斬り込み、信玄が軍配で太刀を受け止めたという一騎打ちの伝説もこの時に生まれた 5 。武田本隊は壊滅の危機に瀕したが、妻女山攻撃が空振りに終わった高坂昌信らの別働隊が、戦場の音を聞きつけて八幡原に到着すると、戦局は一変する。背後を突かれる形となった上杉軍は撤退を余儀なくされ、激戦は終結した 43 。
この戦いの勝敗については諸説あるが、結果として武田氏は川中島一帯の支配をより強固なものとし、上杉氏の南下を食い止めることに成功した 18 。この戦略的勝利の背景には、信玄が大軍を敵地深くに留め、大規模な作戦を展開することを可能にした海津城の存在が不可欠であったことは言うまでもない。
海津城の初代城代(城将)に任命されたのは、武田信玄が最も信頼を寄せた重臣の一人、高坂弾正昌信(こうさかだんじょうまさのぶ)であった 3 。彼の存在なくして、海津城の戦略的価値を語ることはできない。
高坂昌信は、元の名を春日虎綱(かすがとらつな)といい、百姓の出身から信玄に見出され、その才覚によって異例の出世を遂げ、馬場信春、内藤昌豊、山県昌景とともに武田四名臣に数えられるに至った人物である 21 。信玄からの寵愛は極めて深く、衆道(同性愛)の関係にあったことを示す信玄直筆の書状も現存しており、両者の間に単なる主従を超えた強い信頼関係があったことが窺える 47 。
昌信は、常に冷静沈着で、無謀な戦を避ける慎重な戦いぶりから「逃げ弾正」の異名をとった 21 。しかしこれは臆病さの表れではなく、大局を見据え、兵の損耗を最小限に抑えることを旨とする、極めて合理的な戦略家であったことを示している 49 。彼の任務は短期的な戦功を挙げることではなく、対上杉の防衛線を長期間にわたって維持することであり、その慎重な指揮ぶりは、この戦略目標に完全に合致していた。
海津城代として、高坂昌信には信玄から北信濃統治に関する絶大な権限が委任されていた。具体的には、以下の三つの権限が挙げられる。
これらの権限は、昌信が単なる城の守将ではなく、北信濃における信玄の代理人として、軍事・行政・経済の三権を掌握する統治者であったことを物語っている。これは、武田氏の支配体制が、軍事力による直接的な「征服」から、現地の有力者を支配体制に組み込み、地域の資源を管理・活用する、より高度な「経営」の段階へと移行したことを象徴している。昌信はその「経営者」であり、海津城はそのための「支社」としての役割を担っていたのである。
昌信は、天文二十二(1553)年から天正六(1578)年に没するまでの約25年間、海津城を拠点に上杉氏の侵攻に備え続けた 49 。第四次川中島合戦以降、上杉軍が川中島に大規模な侵攻を行うことはなく、昌信は一度も海津城を攻撃される隙を与えなかった 47 。彼の存在そのものが、強力な抑止力として機能していたのである。
また、天正三(1575)年の長篠の戦いで武田勝頼が大敗を喫した際も、昌信は主戦場には参加せず、海津城にあって上杉勢の動きに備えていた 21 。敗走してきた勝頼の軍勢に対し、昌信は新しい武具や旗指物を準備して整然と迎え入れ、武田軍の威信が失われないよう配慮したという逸話は、彼の先見性と忠誠心をよく示している 46 。彼の25年間にわたる安定した統治が、北信濃の武田領としての安定化を決定づけたと言える。
天正六(1578)年、奇しくも宿敵・上杉謙信が急死し、上杉家で後継者争い(御館の乱)が勃発すると、昌信は武田勝頼の命を受けて上杉景勝との同盟(甲越同盟)交渉を進めた。しかし、その交渉の最中、昌信は海津城内で病に倒れ、52年の生涯を閉じた 47 。彼の墓は、彼自身が再興したとされる明徳寺(長野市松代町)に現存する 49 。
昌信の死後、家督と海津城代の職は次男の春日信達(後の高坂昌元)が継承したが、間もなく駿河国の三枚橋城代に転任となり、高坂氏による海津城支配は終わりを告げた 51 。
高坂昌信の死からわずか4年後の天正十(1582)年、織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡する。これにより、北信濃と海津城は、日本の中心で繰り広げられる覇権争いの渦に飲み込まれ、目まぐるしくその支配者を変える激動の時代へと突入する。この時期の海津城の歴史は、戦国末期の権力移行を映す「鏡」そのものであった。
武田氏滅亡後、信濃国は織田信長の支配下に入り、川中島四郡は信長の家臣・森長可(もりながよし)に与えられた。これにより、海津城は森長可の居城となった 6 。しかし、同年六月、京都で本能寺の変が勃発し、信長が横死すると、信濃の情勢は一変する。後ろ盾を失った森長可に対し、かねてから武田氏の支配に不満を抱いていた信濃の国衆が一斉に蜂起。さらに越後からは上杉景勝が南下の機を窺っていた。四面楚歌となった長可は、領地を放棄して本拠の美濃へ命からがら撤退した 7 。これにより、北信濃は再び権力の空白地帯となった。
信長の死によって生じた武田氏の旧領(甲斐・信濃・上野)を巡り、越後の上杉景勝、相模の北条氏直、三河の徳川家康が三つ巴で争う、世に言う「天正壬午の乱」が勃発した 55 。
森長可が撤退すると、上杉景勝は機を逃さず北信濃に進駐し、海津城を占拠した 7 。この時、高坂昌信の子である春日信達(高坂昌元)は、一度は上杉方に属したものの、密かに北条氏と内通した。しかし、この内通は露見し、信達は景勝によって誅殺され、これにより名将・高坂昌信の嫡流は断絶した 52 。
その後、北条氏直が数万の大軍を率いて川中島に進出し、海津城の上杉軍と対峙するが、決戦には至らず和睦が成立。最終的に、天正壬午の乱は、甲斐・信濃を徳川家康が、上野を北条氏が領有するという形で終結した 56 。
天正壬午の乱の後、北信濃は一時的に徳川家康の支配下に入るが、天正十八(1590)年に豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし天下を統一すると、家康は関東へ移封される。これに伴い、北信濃は豊臣氏の直轄領(太閤蔵入地)となった 7 。
慶長三(1598)年、秀吉の命により上杉景勝が会津へ移封されると、北信濃の支配体制は再編され、豊臣家臣の田丸直昌(たまるなおまさ)が四万石で海津城主として入城した 7 。この時期、豊臣政権の中枢にあった石田三成が北信濃支配の指揮を執り、文禄三(1594)年には太閤検地も実施されている 7 。
田丸直昌が城主であった豊臣政権の時代に、海津城はその姿を大きく変えることとなる。武田氏が築いた実戦本位の土の城から、支配者の権威を象徴する石垣の城、すなわち近世城郭へと改修が進められたのである 7 。
具体的には、従来は土塁で囲まれていた本丸が、この時期に総石垣へと改められたと伝えられている 30 。石垣は、高い防御機能を持つと同時に、その威容によって領民に支配者の権威を視覚的に示す「見せるための装置」としての意味合いが強い。もはや大規模な野戦の脅威が薄れた豊臣政権下の北信濃において、城に求められる機能は、純粋な軍事拠点から、安定した統治を行うための「政治的シンボル」へと変化していた。この石垣化は、海津城が「戦いのための砦」から「治めるための城」へと、その本質的な役割を変えた決定的な瞬間であり、戦国時代の終わりと近世の始まりを象徴する画期的な改修であったと言える。
豊臣秀吉の死後、天下は再び乱れ、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が覇権を握る。海津城もまた、新たな時代の波に乗り、その名と姿を変えながら、近世大名・真田氏の府城として新たな歴史を歩み始める。
城の名称の変遷は、支配者の交代と、その心理や政治的意図を色濃く反映している。
元和八(1622)年、上田藩主であった真田信之(信幸)が、幕府の命令により、四万石を加増され合計十三万石で松代へ移封された 3 。信之は、関ヶ原の戦いで西軍についた父・昌幸、弟・信繁(幸村)と袂を分かち、東軍に属して徳川方として戦い、真田家の存続を勝ち取った人物である。
この移封の背景には、幕府の外様大名に対する巧みな統制政策があった。真田氏を先祖伝来の地である上田から切り離し、新たな土地に移すことで、在地勢力との結びつきを弱め、幕府への忠誠心を高めさせると同時に、その勢力を削ぐ狙いがあったと考えられている 11 。
初代松代藩主となった真田信之は、93歳で亡くなるまで藩政の基礎固めに尽力した 66 。彼の入封後、松代城を中心に本格的な城下町が計画的に整備され、松代は真田十万石(公称、実高は十三万石)の政治・経済・文化の中心地として大きく発展した 13 。信之は、上田から真田家ゆかりの寺社を移転させるなど、故郷の記憶を移植しつつ、新たな城下町を形成していった 64 。
築城当初、城の防御に絶大な効果を発揮した千曲川は、平和な江戸時代になると、一転して城と城下町を脅かす存在となった。千曲川は「暴れ川」として知られ、松代城はたびたび洪水による被害に見舞われた 29 。
特に、寛保二(1742)年に発生した大洪水「戌の満水」では、城の本丸をはじめ、城内のほぼ全てが水没するという壊滅的な被害を受けた 9 。この未曾有の災害を契機に、松代藩は藩の存亡をかけた一大事業に乗り出す。それは、千曲川の流路そのものを、約700メートル北側へ移動させるという、壮大な治水工事であった 9 。この難工事の末、城は川岸から離れ、水害の脅威は大幅に軽減された。かつての川筋は「百間堀」や「新堀」としてその名残を留めている 9 。
この千曲川との関係性の変化は、城の役割の変遷を象徴している。戦国時代には「天然の要害」という軍事的な利点であった川が、近世には「水害のリスク」という統治上の課題となった。そして、藩が総力を挙げてその流れを制御したことは、近世大名の責務が、軍事防衛から領民の生活と安全を守る国土経営へと完全に移行したことを物語っている。
真田氏の居城として約250年の長きにわたり北信濃に君臨した松代城も、明治維新という時代の大きな転換点を迎える。武家の世の終わりとともに、城はその役割を終え、一時は荒廃の道を辿ったが、現代においてその歴史的価値が見直され、往時の姿を取り戻しつつある。
明治四(1871)年の廃藩置県により松代藩が消滅すると、松代城は一時的に松代県庁として使用されたが、それも束の間、翌明治五(1872)年には廃城とされた 9 。城内の建物は次々と解体・売却され、さらに明治六(1873)年には本丸御殿などが放火によって焼失 2 。城は急速にその姿を失い、長らく石垣と堀の一部、そして土塁を残すのみの荒廃した史跡となった 13 。堀は埋め立てられ、その跡地には長野電鉄の線路が敷設され、二の丸には市民プールや野球場が建設されるなど、城としての景観は完全に失われた 25 。
城跡が忘れ去られようとしていた中、その歴史的価値を再評価する動きが起こる。昭和五十六(1981)年、松代城跡は、幕末に藩主の隠居所として建てられた城外御殿である新御殿(真田邸)とともに、国の史跡に指定された 1 。これを契機に、城跡の保存と活用に向けた気運が高まった。
平成に入ると、本格的な復元整備に先立ち、詳細な学術調査、すなわち発掘調査が実施された。この調査により、埋没していた内堀や三日月堀の位置、深さ、形状が確認され、また、太鼓門や北不明門の礎石が発見されるなど、江戸時代の絵図面に描かれた城の姿が考古学的に裏付けられた 67 。城下町の発掘調査では、近世初頭から幕末・明治に至る5層にわたる生活面が確認され、城下の人々の暮らしぶりが明らかになるなど、数多くの貴重な成果が上がっている 69 。
これらの科学的な調査成果に基づき、長野市によって大規模な環境整備事業、いわゆる「平成の大普請」が実施された。そして平成十六(2004)年、在りし日の姿を彷彿とさせる主要な建造物が復元された 10 。
復元されたのは、本丸の正門である荘厳な太鼓門、搦手門にあたる北不明門、そしてそれらの門前にかかる木橋、本丸を取り巻く石垣、土塁、そして水を湛えた内堀などである 1 。これらの復元は、単なる想像の産物ではなく、古絵図などの文献史料と、発掘調査によって得られた物理的な証拠を丹念に照合するという、実証的な歴史学のアプローチによって行われた 67 。これにより、復元された建造物は極めて高い歴史的信憑性を持ち、訪れる者は学術的な裏付けのある歴史空間を体験することができる。
現在も、武田氏築城の特色を伝える二の丸の丸馬出や三日月堀の復元計画が進行中であり、城跡はさらなる歴史的景観の回復を目指している 70 。
現代に蘇った松代城跡は、平成十八(2006)年に財団法人日本城郭協会によって「日本100名城」の一つに選定され 10 、多くの観光客や歴史愛好家が訪れる学びの場となっている。
この城跡の最大の価値は、その「歴史の重層性」を体感できる点にある。復元された太鼓門や本丸の石垣は、真田氏が治めた「近世の城」の威厳を伝えている 10 。一方で、今後復元が期待される丸馬出や三日月堀は、武田信玄が築いた「戦国の城」の機能美を想起させるだろう 71 。訪問者は、一つの場所で、異なる時代の城郭の姿を同時に、あるいは重層的に読み取ることができる。
城跡は、真田家の貴重な宝物を収蔵する真田宝物館、松代藩の藩校であった文武学校、中級武士の暮らしを伝える旧横田家住宅、そして真田邸といった周辺の歴史的建造物群と一体となり、真田十万石の城下町の歴史的景観を今に伝えている 66 。春には桜の名所としても親しまれ 13 、地域の文化・観光の拠点として、そして歴史を未来へ継承するための貴重な文化遺産として、重要な役割を担い続けている。
信濃国北部の要衝、川中島に築かれた海津城。その歴史は、甲斐の虎・武田信玄が、越後の龍・上杉謙信との宿命的な対決に備え、北信濃支配の楔として築いた戦略拠点に始まる。甲州流築城術の粋を集めたその堅固な縄張りは、戦国の実戦の中から生まれた機能美の極致であり、第四次川中島合戦では武田軍の戦略を支える最前線基地として、その真価を遺憾なく発揮した。
初代城代・高坂昌信の統治の下、海津城は単なる軍事拠点に留まらず、北信濃の政治・経済を司る行政拠点へと発展した。これは、戦国大名の領国支配が、征服から経営へと深化していく過程を象徴するものであった。
武田氏の滅亡後は、織田、上杉、豊臣、徳川と、日本の覇権を握る者たちの間でその支配権が移り変わり、戦国末期の激動をまさに体現する存在となった。豊臣政権下では近世城郭への改修が進み、江戸時代に入ると、真田氏十万石の府城「松代城」として、約250年にわたる泰平の世の藩政を支えた。
このように海津城の歴史は、時代の要請に応じてその役割を、戦いのための「砦」から、民を治めるための「城」へ、そして地域の安寧を守る「国土経営」の拠点へと、絶えず変容させてきた軌跡である。それは、日本の城郭が辿った歴史の縮図そのものと言えよう。
明治維新後に一度は荒廃したものの、現代においてその歴史的価値が見直され、学術的知見に基づいて往時の姿を取り戻した松代城跡。我々に語りかけるのは、過ぎ去りし英雄たちの物語だけではない。それは、戦略と技術、政治と経済、そして自然との闘いといった、時代を動かした普遍的な力の交錯の物語である。史跡として未来へと継承されるこの城は、過去を学び、現在を生きる我々にとって、尽きることのない示唆を与え続けてくれる貴重な歴史遺産なのである。
人物名 |
役割・称号 |
城との関わり(主な事績) |
時代 |
武田信玄 |
甲斐国主、戦国大名 |
上杉謙信への拠点として海津城を築城。北信濃支配の要とした 2 。 |
戦国時代 |
山本勘助(菅助) |
武田家臣、軍師と伝わる |
『甲陽軍鑑』において海津城の縄張りを担当したとされる 27 。 |
戦国時代 |
高坂昌信(春日虎綱) |
武田四名臣、初代海津城代 |
約25年間にわたり城代を務め、対上杉の防衛と北信濃の統治を担った 21 。 |
戦国時代 |
上杉景勝 |
越後国主、戦国大名 |
天正壬午の乱において海津城を一時支配下に置いた 7 。 |
戦国~安土桃山 |
田丸直昌 |
豊臣家臣、海津城主 |
豊臣政権下で城主となり、本丸の石垣化など近世城郭への改修を行ったとされる 7 。 |
安土桃山時代 |
森忠政 |
美濃金山城主、待城城主 |
関ヶ原の戦い後に入城し、城名を「待城」と改称した 9 。 |
江戸時代初期 |
真田信之 |
初代松代藩主 |
上田から移封され、以後約250年続く真田氏による統治の基礎を築き、城下町を整備した 3 。 |
江戸時代初期 |