清洲城は尾張の府城として築かれ、信長が尾張統一の拠点とし、桶狭間の戦いや清洲同盟の舞台となった。清洲会議で秀吉が台頭し、関ヶ原では東軍の拠点に。清洲越しで名古屋へ機能移転し、廃城となった。
日本の戦国史を語る上で、清洲城(きよすじょう)ほど歴史の転換点に深く、そして繰り返し関与した城は稀である。尾張国(現在の愛知県西部)の中心に位置したこの城は、単なる一地方の拠点に留まらなかった。室町幕府の権威が失墜し、旧来の秩序が崩壊する下剋上の時代から、織田信長による天下統一事業の始動、豊臣秀吉による権力掌握、そして徳川家康が築いた近世社会の黎明に至るまで、日本の歴史が大きく動くその瞬間に、清洲城は常に中心的な舞台として存在した。
織田信長にとっては、尾張統一を成し遂げ、天下への飛躍を遂げた「出世城」であった 1 。信長の死後、日本の未来を決定づけた歴史的な権力闘争「清洲会議」が繰り広げられたのもこの城である 2 。そして、その輝かしい歴史の終焉は、近世最大の計画都市・名古屋の誕生という、新たな時代の幕開けと分かち難く結びついている 3 。
清洲城の歴史は、日本の権力構造が「血統と権威」から「実力と経済力」へと移行する過程そのものを体現している。当初は室町幕府の権威を背景とする守護・斯波氏の居城であったが、やがて実力を持つ守護代・織田氏に実権を奪われる。さらにその家臣筋であった織田信長が、軍事力と経済政策を背景に城を掌握し、旧来の権威を完全に過去のものとした。信長の死後に行われた清洲会議では、血筋よりも「主君の仇を討った」という功績が後継者決定の鍵を握り、実力主義の時代の到来を決定づけた。最終的に、絶対的な実力者となった徳川家康は、旧時代の象徴であった清洲城そのものを廃し、新たな支配体制の象徴である名古屋城を築くことで、時代の完全な転換を宣言したのである。
本報告書は、単に清洲城の歴史を時系列で追うだけではない。文献史学、城郭考古学、そして都市史という複数の視点を統合し、古地図や発掘調査の成果を交えながら、この失われた名城の多角的な実像を立体的に描き出すことを目的とする。
清洲城の歴史は、室町時代の応永12年(1405年)、室町幕府の管領であり、越前・遠江・尾張の三国守護を兼ねた斯波義重によって築かれたことに始まる 2 。ただし、この築城年代には諸説存在する。当初の清洲城は、尾張国の守護所が置かれていた下津城(おりづじょう)の別郭、すなわち「子城」としての位置づけであった 5 。
しかし、文明8年(1476年)、守護代であった織田家の内紛により下津城が焼失すると、その2年後の文明10年(1478年)、守護所機能は清洲城へと移転される 4 。これにより、清洲城は名実ともに尾張国の政治的中心地、すなわち「府城」としての地位を確立した。京と鎌倉を結ぶ京鎌倉往還と伊勢街道が合流し、中山道にも連絡するという交通の要衝に位置していたことも、その後の発展の大きな要因となった 7 。
15世紀後半の応仁の乱は、室町幕府の権威を根底から揺るがした。この中央政権の混乱は地方にも波及し、尾張国もその例外ではなかった。斯波氏の家督争いは応仁の乱の直接的な原因の一つであり、その結果として斯波氏の領国支配力は著しく低下した 8 。
この権力の空白を突いて台頭したのが、守護代の織田氏であった。特に、清洲城を本拠とした「織田大和守家(清洲織田氏)」は、尾張下四郡を実質的に支配し、主君であるはずの斯波氏を傀儡(かいらい)化した 5 。斯波氏は名目上の尾張守護として清洲城に存在し続けるものの、実権は完全に守護代の織田氏が掌握するという、まさに下剋上時代の典型的な主従関係がここ尾張の地で形成されていたのである。
この複雑な権力構造に、さらなる変動をもたらしたのが、織田信秀、すなわち織田信長の父であった。信秀が属する「織田弾正忠家」は、清洲織田氏の家臣であり、清洲城の奉行職を務める三家の一つに過ぎない傍流であった。しかし、信秀はその卓越した軍事力と経済感覚で急速に勢力を拡大し、一時期は清洲奉行として清洲城を居城としたこともあった 2 。
信秀が後に那古野城や古渡城へと本拠を移すと、清洲城は再び織田大和守家の当主・織田信友の手に戻る 2 。しかし、弾正忠家の挑戦は、守護代・織田大和守家の権威が絶対的なものではないことを内外に示し、来るべき信長の時代への布石となった。信長による清洲城奪取は、突発的な事件ではなく、応仁の乱に端を発する数十年にわたる構造的な権力変動の、最終的な帰結点として位置づけることができるのである。
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
関連人物(城主など) |
備考(歴史的意義) |
1405年(応永12年) |
斯波義重により築城される |
斯波義重 |
当初は守護所・下津城の別郭であった 4 。 |
1478年(文明10年) |
守護所が下津城から移転し、尾張の中心となる |
織田大和守家 |
織田家の内紛による下津城焼失が原因 4 。 |
1555年(弘治元年) |
織田信長が主家・織田信友を討ち、入城する |
織田信長 |
信長が那古野城から本拠を移し、尾張統一の拠点とする 4 。 |
1560年(永禄3年) |
桶狭間の戦い |
織田信長 |
信長が清洲城から出陣し、今川義元を討ち取る 10 。 |
1562年(永禄5年) |
清洲同盟 |
織田信長、徳川家康 |
信長と家康が軍事同盟を締結。戦国史の大きな転換点 4 。 |
1563年(永禄6年) |
信長が小牧山城へ本拠を移す |
(番城となる) |
美濃攻略のため。以降、清洲城は城主不在の番城となる 4 。 |
1582年(天正10年) |
清洲会議 |
織田信雄 |
本能寺の変後、織田家の後継者と領地配分を決定 4 。 |
1586年(天正14年) |
織田信雄による大改修が始まる |
織田信雄 |
天正地震後、天守を持つ近世城郭へと大改修される 4 。 |
1595年(文禄4年) |
福島正則が入城する |
福島正則 |
豊臣政権下で24万石の城主となる 5 。 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い |
福島正則、松平忠吉 |
東軍の集結地となる。戦後、松平忠吉が城主となる 4 。 |
1607年(慶長12年) |
徳川義直が入城する |
徳川義直 |
尾張徳川家の初代藩主となり、清洲藩が成立 4 。 |
1610年(慶長15年) |
清洲越しが開始される |
徳川義直 |
徳川家康の命により、名古屋への遷府が始まる 4 。 |
1613年(慶長18年) |
廃城となる |
- |
名古屋城の完成に伴い、その役目を終える 4 。 |
織田信長にとって、清洲城は単なる居城ではなかった。それは旧来の権威を破壊し、軍事・外交・経済を一体化した革新的な国家運営を試みるための、いわば壮大な「実験室」であった。信長の天下統一事業の根幹をなす方法論は、この清洲城時代に確立されたと言っても過言ではない。
弘治元年(1555年)、信長は尾張統一の総仕上げとして、清洲城の攻略に乗り出す。しかし、それは力攻めではなかった。信長は、叔父である織田信光と巧みに共謀し、主君である守護代・織田信友を討ち果たした 2 。
この計画の巧妙さは、その大義名分にあった。信友は前年に、自らの主君である尾張守護・斯波義統を攻め殺していた。信長はこの「主殺し」という信友の罪を逆手に取り、自らの行動を「主君の仇を討つ」という正義の戦いとして位置づけたのである 13 。この周到な計画により、信長は最小限の抵抗で清洲城を掌握。那古野城から本拠を移し、名実ともに尾張の支配者となった。入城後、信長は城に大幅な増改築を施し、新たな時代の拠点として整備した 5 。この一連の出来事は、室町時代以来の権威構造を完全に破壊し、実力者が支配する時代の到来を告げる象徴的な事件であった。
永禄3年(1560年)5月、駿河の太守・今川義元が2万5千ともいわれる大軍を率いて尾張に侵攻した 15 。対する信長の兵力は、その数分の一に過ぎなかった。絶体絶命の状況下、信長は清洲城から僅かな手勢を率いて出陣する 10 。
『信長公記』によれば、信長は夜明け前に小姓衆5騎のみを連れて清洲城を出発し、熱田神宮で戦勝を祈願しつつ軍勢を集結させた 15 。そして、油断していた今川義元の本陣を奇襲し、見事その首級を挙げるという、戦国史上最大級の番狂わせを演じたのである。この「桶狭間の戦い」での劇的な勝利により、織田信長の名は一躍全国に轟き、天下統一への道が拓かれた。そして、その歴史的勝利の出発点として、清洲城の名は永く記憶されることとなった 17 。
桶狭間の戦いは、もう一つの重要な歴史的帰結をもたらした。今川氏の支配から脱し、独立を果たした三河の松平元康(後の徳川家康)との同盟である。永禄5年(1562年)、信長と家康は清洲城において軍事同盟を締結した 4 。
この「清洲同盟」は、信長にとっては東方の安全を確保し、後顧の憂いなく美濃攻略に専念することを可能にした。一方、家康にとっては三河統一を進める上での強力な後ろ盾となった。婚姻関係に頼る旧来の同盟とは一線を画し、互いの戦略的利益に基づいたこの近代的な同盟は、その後の戦国史の行方を大きく左右することになる。清洲城は、日本の運命を決定づけた二人の英雄が、若き日に手を携えた歴史的な舞台となったのである 19 。
近年の研究では、信長時代の清洲城には、後世にイメージされるような壮大な天守は存在せず、二重の堀に囲まれた居館や御殿が中心であったと考えられている 20 。城郭そのものよりも注目すべきは、城下町の運営に見られる信長の先進性である。
発掘調査からは、信長時代に武家屋敷の一部を鍛冶職人の作業場として改修していた痕跡が発見されている 21 。これは、軍事力と経済力を直結させるという信長の思想の表れであり、後の小牧山城や岐阜の城下町で本格化する「兵商分離」や計画的な城下町形成の、いわば萌芽であった 21 。楽市楽座のような規制緩和による経済活性化策も、この清洲の地で試行されていた可能性が指摘されており 23 、清洲城下は信長の革新的な政策の実験場としての役割を担っていたのである。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変。織田信長とその後継者である長男・信忠の突然の死は、巨大な権力の空白を生み出した 25 。織田家の未来、ひいては天下の行方を決するために、同年6月27日、尾張・清洲城に織田家の宿老たちが集結した。世に言う「清洲会議」である。この会議は、織田家の後継者を決めるという名目とは裏腹に、羽柴秀吉が「織田家家臣」という立場から脱却し、「天下人」へと自らを再定義するための、巧みに演出された政治劇であった。
会議の主役は、二人の宿老であった。一人は、織田家筆頭家老の柴田勝家。信長の妹・お市の方を娶り、織田家第一の将としての自負を持っていた 25 。もう一人は、羽柴秀吉。備中高松城で毛利軍と対峙していたにもかかわらず、驚異的な速さの「中国大返し」を敢行し、山崎の戦いで明智光秀を討伐。「主君の弔い合戦」を成し遂げた最大の功労者であった 26 。
光秀討伐に後れを取った勝家に対し、秀吉は「大義名分」と「実績」という二つの強力な武器を手にして会議に臨んだ。この時点で、両者の力関係はすでに大きく秀吉に傾いていたのである。
清洲城に集ったのは、柴田勝家、羽柴秀吉、そして丹羽長秀、池田恒興の四宿老であった 25 。関東で敗戦を喫した滝川一益は、参加資格を失っていた 27 。会議の最大の議題は、信長の後継者問題であった。
勝家が推したのは、信長の三男・織田信孝であった。信孝は光秀討伐の際に名目上の総大将を務めており、実績を重視する勝家にとっては当然の選択であった 25 。対する秀吉が切り札として用意したのが、亡き嫡男・信忠の遺児であり、信長の嫡孫にあたる三法師(後の織田秀信)であった。当時わずか3歳の幼児である 29 。
秀吉の狙いは明白であった。「信長様の正統な血筋をお守りする」という、誰も反対できない忠義の仮面を被りつつ、物心もつかない幼君を立てることで織田家を事実上無力化し、後見人である自らが実権を掌握することにあった 26 。この秀吉の提案に、山崎の戦いで共闘した丹羽長秀と池田恒興が同調する 25 。秀吉は事前に、会議のもう一つの議題である領地再配分において彼らが望むものを与える約束をするなど、周到な根回しを行っていたとされる 27 。
派閥/人物 |
会議での立場 |
擁立した後継者候補 |
主張/狙い |
羽柴秀吉派 |
|
|
|
羽柴秀吉 |
光秀討伐の最大功労者 |
三法師(信長の嫡孫) |
嫡流の正統性を主張しつつ、幼君の後見人として実権を掌握する。 |
丹羽長秀 |
宿老 |
(秀吉に同調) |
秀吉との協調路線により、自らの所領拡大を図る。 |
池田恒興 |
宿老 |
(秀吉に同調) |
信長の乳兄弟。秀吉の実績を評価し、同調する。 |
柴田勝家派 |
|
|
|
柴田勝家 |
筆頭宿老 |
織田信孝(信長の三男) |
光秀討伐での信孝の実績を重視し、成人した後継者を立てるべきと主張。 |
後継者候補 |
|
|
|
織田信雄 |
信長の次男 |
(自身) |
会議には不参加。家督への意欲はあったが、人望に欠けた 26 。 |
織田信孝 |
信長の三男 |
(自身) |
会議には不参加。勝家の後援を得て家督を狙うが、後見役に留まる 26 。 |
三法師 |
信長の嫡孫 |
- |
秀吉に擁立され、形式上の織田家家督を継承する 28 。 |
勝家が孤立する中、会議は秀吉の思惑通りに進んだ。結果、三法師が織田家の家督を継ぎ、信孝と信雄がその後見人となる体制が決定された 27 。
さらに重要なのは領地の再配分であった。秀吉は、自身の本領であった長浜を勝家側に譲る代わりに、京を含む山城国などを獲得。畿内における影響力を決定的なものとし、勝家を凌駕する勢力を築き上げた 27 。清洲会議は、議論の場というよりも、秀吉が自らの戦略的正当性を他の宿老たちに追認させるための儀式であった。この会議を制したことで、秀吉は織田家の枠組みを超えた存在へと飛躍し、天下取りへの道を確固たるものにした。この決定に不満を抱く勝家との対立は、翌年の「賤ヶ岳の戦い」で火を噴くことになる 28 。
清洲城の歴史において、物理的に最も壮大で壮麗な姿を誇ったのは、信長の時代ではなかった。皮肉にも、それは信長の死後、その子・信雄の時代から徳川の世へと移る過渡期においてであった。この時期の清洲城は、豊臣、そして徳川という新たな天下人の権威を尾張の地に誇示するための、象徴的な装置としての役割を強く担っていた。
清洲会議の結果、信長の次男・織田信雄が清洲城主となった 2 。しかし、その治世は平穏ではなかった。天正14年(1586年)1月、マグニチュード7.8と推定される天正地震が発生。清洲城も甚大な被害を受けたと推測されている 30 。
信雄はこの地震からの復興を機に、清洲城の大規模な改修に着手した。信長時代の「館の集合体」という性格を払拭し、二重の堀を巡らせ、そして大天守・小天守を戴く、総石垣造りの壮麗な城へとその姿を大きく変貌させたのである 4 。
近年の発掘調査では、この信雄時代に築かれたとみられる本丸東側の石垣が発見されている 30 。この石垣は、軟弱な地盤に対応するため、松材を梯子状に組んだ「梯子胴木(はしごどうぎ)」という基礎構造の上に築かれており、当時の先進的な土木技術を今に伝えている 31 。信雄によるこの大改修は、父・信長を超え、自らが織田家の正統な後継者であることを内外に示すための、権威の象徴化であったと考えられる。
信雄が小田原合戦後に豊臣秀吉によって改易されると、清洲城の城主は目まぐるしく変わる。一時期は豊臣秀次の所領となった後、文禄4年(1595年)には、秀吉子飼いの猛将・福島正則が24万石で入城した 2 。
そして、天下分け目の関ヶ原の戦いを経て、城主は再び徳川の手に渡る。戦後、戦功を認められた徳川家康の四男・松平忠吉が、尾張・美濃にまたがる57万石の領主として清洲城に入った 4 。しかし忠吉は若くして病没し、慶長12年(1607年)、家康の九男である徳川義直が城主となり、ここに尾張徳川家の祖となる清洲藩が成立したのである 4 。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、清洲城は東軍にとって極めて重要な戦略拠点となった。当時の城主であった福島正則は、豊臣恩顧の大名でありながら、石田三成との対立から家康率いる東軍の主力として参戦した 34 。
家康の会津征伐の隙を突いて西軍が挙兵すると、下野国小山から引き返してきた東軍の諸将は、正則の居城であるこの清洲城に続々と集結した 12 。清洲城は、決戦の地・関ヶ原を目前に控えた東軍の最前線基地となり、兵站と戦略の要として機能した。東軍はここから木曽川を渡り、西軍方の岐阜城を攻略。関ヶ原での勝利へと繋がる流れを作り出した。この戦いにおける役割は、清洲城がもはや「織田家の城」ではなく、新たな「天下人の城」へと、その政治的帰属を完全に変えたことを示す決定的な出来事であった。
慶長14年(1609年)、徳川家康は一つの重大な決断を下す。尾張国の中心を、清洲から名古屋へ移すという壮大な遷府計画である 4 。この「清洲越し」と呼ばれる一大事業は、単なる都市計画に留まらず、徳川家康による巧妙な「記憶の継承と断絶」のマネジメントであった。家康は、清洲が持つ経済力や人材という「実利」は継承しつつも、織田・豊臣の記憶が刻まれた「場所の象徴性」は意図的に断絶させ、徳川の威光のみで満たされた新たな中心地を創造しようとしたのである。
遷府の表向きの理由は、家臣からの進言であったとされるが 3 、その背景には明確な地理的・戦略的要因が存在した。
第一に、水害のリスクである。清洲は木曽川や庄内川などが形成した濃尾平野の氾濫原に位置する低地であり、古くから水害に脆弱であった 3 。特に、関ヶ原の戦いを経て徳川の世が始まる慶長年間には、木曽川の洪水が頻発したという記録が残っており、このリスクは為政者にとって看過できないものであった 38 。
第二に、防御上の弱点である。平地に築かれた平城であったため、水攻めなどに対する防御力には限界があった 4 。これに対し、移転先とされた名古屋は熱田台地と呼ばれる高台にあり、水害の心配がなく防御にも有利であった。さらに、古くからの湊町である熱田にも近く、経済的な発展も大いに見込めた 3 。
慶長15年(1610年)、家康の号令のもと、「清洲越し」が開始された 3 。これは、武士、町人、職人をはじめ、神社仏閣に至るまで、人口約6万から7万人ともいわれる都市の機能が丸ごと移転するという、日本の歴史上でも類を見ない大規模なプロジェクトであった 3 。
この移転は徹底しており、清洲城の天守(小天守との説もある)や櫓、門、石垣に至るまで、多くの建材が解体され、名古屋城の築城資材として再利用された。特に、名古屋城の御深井丸(おふけまる)北西隅に建てられた櫓は、清洲城天守の古材で造られたという伝承から「清洲櫓」と呼ばれ、往時の姿を偲ばせている 2 。
この国家事業によって名古屋へ移った人々の中には、後に日本を代表する企業を築く者もいた。現在の百貨店・松坂屋の創業者である伊藤家や、大手建設会社・竹中工務店の創業者である竹中家も、この清洲越しで移り住んだ商人の末裔である 42 。
遷府が完了すると、清洲城は慶長18年(1613年)に正式に廃城となった 4 。かつては人口6万を超え、「関東の巨鎮」とまで称された繁栄の城下町は、急速にその活気を失い、寂れていった。当時の人々は、その様を「思いがけない名古屋が出来て、花の清洲は野となろう」と唄い、失われた都を惜しんだという 2 。
清洲の都市機能と歴史的遺産は、徳川の威信をかけて築かれた名古屋城と、碁盤の目のように整備された新たな城下町に吸収・継承された。信長の飛躍の地であり、秀吉が権力を掌握した清洲の「魂」は、名古屋という新たな器に移し替えられ、現代の中京圏の繁栄の礎となったのである 3 。
物理的に消滅し、その跡地さえも都市開発や鉄道によって分断されてしまった清洲城の実像を解明する作業は、「失われたもの」をいかに科学的に再構築するかという、歴史学と考古学の連携が試される典型的な事例である。特に、城の象徴である「天守」を巡る言説は、史実と後世のイメージが複雑に絡み合っている。
江戸時代に描かれた『清須村古城絵図』などの古地図は、城の全体像、すなわち縄張りを推測する上で貴重な史料である 44 。しかし、これらの絵図は必ずしも正確ではなく、後世の伝承や創作が含まれる可能性も指摘されており、その取り扱いには慎重な検討が求められる 30 。
一方、近年の発掘調査によって、新たな事実が次々と明らかになっている。例えば、城の脇を流れる五条川の流路が時代によって変遷していたことや、信長時代と、その後の信雄時代とでは城の中心施設の位置が異なっていた可能性などが判明してきている 21 。しかし、城跡の大部分は市街地化し、さらに東海道本線と東海道新幹線によって分断されているため、往時の姿を完全に復元することは極めて困難な状況にある 2 。
発掘調査では、多種多様な遺物が出土している。軒瓦、鬼瓦、そして城の格式を示す鯱瓦(しゃちがわら)などが大量に出土していることは、特に信雄による大改修後の城が、瓦葺きの壮麗な建物群であったことを裏付けている 30 。
また、鉄鏃(てつぞく)や鉛弾、甲冑の部品といった武具・馬具類も多数発見されており、清洲が軍事都市としての性格を色濃く持っていたことを物語っている 21 。さらに、城跡の調査では、平安時代の集落跡や、江戸時代の美濃路の宿場町「清洲宿」の遺構なども発見されており、この地が古代から交通の要衝として、重層的な歴史を刻んできたことがわかる 7 。
一般的に「信長の城」としてイメージされる清洲城だが、信長が本拠とした時代には天守はなかったとする説が有力である 20 。清洲城に壮麗な天守が建てられたのは、前述の通り、本能寺の変後の城主・織田信雄による大改修の際であった 4 。
この失われた天守の姿を推測する上で、極めて重要な手がかりとなるのが、名古屋城に現存する「清洲櫓」(御深井丸北西隅櫓)である。この櫓は、清洲越しの際に、信雄が建てた清洲城天守の部材を転用して築かれたという強力な伝承を持つ 5 。この伝承が事実であれば、重要文化財に指定されている清洲櫓の構造や意匠を分析することで、今はなき清洲城天守の姿をある程度復元できる可能性がある。
現在、清洲の地に聳え立つ天守は、平成元年(1989年)に旧清洲町の町制100周年を記念して建設された、鉄筋コンクリート造の模擬天守である 4 。注意すべきは、この天守が本来の城跡とは五条川を挟んだ対岸に建てられている点と、史実に基づいた復元ではないという点である 2 。
創建当時の天守に関する史料が乏しいため、その外観は桃山時代の城郭をイメージして創作されたものであり、犬山城などを参考にしたとも言われている 31 。したがって、この建造物を歴史的建造物として評価することはできない。しかし、清洲の輝かしい歴史を後世に伝え、地域の歴史的シンボルとして、また観光の核となる文化施設として大きな役割を担っていることも事実である 17 。清洲城の天守を巡る議論は、「信長時代の城(天守なし)」「信雄時代の城(天守あり)」「現代の模擬天守」という三つの異なる層を明確に区別して論じる必要があり、史跡の保存活用における普遍的な課題を提示している。
清洲城は、その物理的な姿を歴史の彼方へと消し去った。しかし、その存在が日本史に刻んだ影響は、決して消えることはない。信長の天下統一事業の起点、秀吉の権力掌握の舞台、そして家康による近世都市計画の礎という、戦国の三英傑すべての時代に深く関わるという比類なき歴史的価値は、今後も揺らぐことはないだろう。
「清洲越し」によって城も町も消滅したが、そこで培われた人材、経済、そして文化の遺伝子は、名古屋という新たな都市に確かに受け継がれた。それは現代の中京圏の繁栄を支える、一つの確かな源流となっている 3 。
城跡は分断され、天守は模擬であるという現状は、一見すると歴史遺産としての価値を損なうものかもしれない。しかし、断片的な遺構や史料、そして人々の記憶を丹念につなぎ合わせることで、歴史の大きな転換点となった「場所」の重要性を後世に伝えていくことは可能である。フィギュアスケート選手の織田信成氏が名誉城主を務めるなど 7 、現代においても様々な形でその歴史的遺産が活用されていることは、清洲城が持つ物語の力が今なお人々を惹きつけている証左と言えよう。過去と現在をつなぐ結節点として、清洲城の歴史的価値を再評価し、語り継いでいくことの重要性は、ますます高まっている。