陸奥の白石城は、伊達氏の南の要衝として、蒲生、上杉と城主を変える。関ヶ原の戦いで伊達氏が奪還し、片倉氏が治める。一国一城令の例外として存続し、平成に木造で忠実に復元された。
陸奥国南部に位置する白石城は、その歴史を通じて常に時代の動乱の中心にあり続けた城である。城が築かれた白石盆地は、奥州街道が南北を貫き、南の信夫・伊達郡(現在の福島県北部)と北の仙台平野を結ぶ、まさに交通の結節点に位置する。この地理的特性は、白石城に比類なき戦略的価値を与えた。この地を掌握することは、南奥州全体の覇権を争う上で決定的な意味を持ち、それゆえに白石城は、伊達氏、蒲生氏、上杉氏といった戦国時代の有力大名による熾烈な争奪の的となった。本報告書は、この地理的宿命が白石城の歴史をいかに規定し、その運命を翻弄したかを詳細に論じるものである。
本報告書で扱う「戦国時代」とは、単に15世紀後半から16世紀末までの特定の年代区分を指すものではない。それは、在地領主が自立し群雄割拠した時代から、伊達氏による南奥州の地域的統一、豊臣政権による中央集権化の波、そして徳川幕藩体制への再編という、日本の社会構造が根底から変容した一連のダイナミックな変動期として捉える。白石城の歴史は、このマクロな歴史的変動を克明に映し出す鏡であり、その城主の変遷、城郭構造の進化は、そのまま時代の変遷を物語っている。
白石城の歴史的本質を理解する上で極めて重要なのは、この城が常に異なる勢力圏が衝突する「境界」に位置づけられていたという点である。伊達氏の時代には、南に勢力を張る蘆名氏や相馬氏との最前線であった。豊臣秀吉による奥州仕置後は、天下人の権威を背景に伊達政宗を監視する蒲生氏郷の拠点となり、伊達領との境界線そのものとなった。関ヶ原の戦いを経て伊達領に復帰して以降は、仙台藩の南の玄関口として、幕府や南隣の諸藩に対する備えという新たな「境界」の役割を担うことになった。この絶えざる「境界性」こそが、城主の頻繁な交代、度重なる城郭の改修、そして江戸時代の「一国一城令」下における例外的な存続という、白石城の特異な歴史を形成した根源的な要因なのである。
白石城の起源は、平安時代後期にまで遡ると伝えられている。寛治2年(1088年)頃、後三年の役で源義家に従い戦功を挙げた刈田左兵衛尉経元が、恩賞としてこの地を賜り、城を築いたのが始まりとされる 1 。これは後世の付会である可能性も否定できないが、刈田氏がこの地域の初期の支配者であったことを示唆している。その後、刈田氏は6代目から「白石」を名乗り、鎌倉時代から室町時代にかけて、この地の在地領主として支配を続けた 3 。この時期の城は、土塁や空堀を主とした中世的な館、あるいは山城の形態であったと推定され、後の近世城郭とは大きく姿を異にしていた。
戦国時代に入ると、伊達稙宗・晴宗父子による「天文の乱」を経て、伊達氏の勢力は南奥州一帯に大きく伸長した。この過程で、白石氏(当主は白石宗綱、次いで宗実)は伊達氏の勢力下に組み込まれ、その家臣団の有力な一員となった 3 。特に白石宗実は、伊達輝宗・政宗の二代に仕え、武勇に優れた武将として知られた。天正12年(1585年)の人取橋の戦いや、天正16年(1589年)に南奥州の覇権を賭けて蘆名氏と激突した摺上原の戦いなど、伊達家の存亡を左右する数々の重要な合戦において武功を挙げ、政宗の信頼を勝ち得た 6 。
天正14年(1586年)、政宗は宗実のこれまでの功績に報いるため、大内定綱の旧領であった安達郡塩松(現在の福島県二本松市周辺)を与え、宮森城主として移封した 4 。これにより、白石宗実は先祖伝来の地である白石を離れることになった。この移封は、単なる恩賞という側面だけではなく、政宗の巧みな支配戦略の一環であった。有力な在地領主をその本拠地から切り離すことで、彼らの独立性を削ぎ、伊達家への直接的な依存度を高める狙いがあった。そして、空いた白石城には伊達家の直臣である屋代景頼を城代として配置し、完全に直轄の支城としたのである 3 。この一連の措置により、白石城は半独立的な同盟者の城から、伊達家の軍事システムに完全に組み込まれた戦略拠点へと、その性格を大きく変貌させた。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げると、その強大な権力を背景に「奥州仕置」を断行した。小田原参陣に遅れた伊達政宗は、会津、刈田、伊達、安達郡などの中核的領地を没収されるという厳しい処分を受けた 8 。白石城もこの時に伊達家の手を離れ、秀吉の支配下に入った。
これらの没収地は、新たに会津92万石の領主として封じられた蒲生氏郷に与えられた 5 。氏郷の会津入封は、依然として強大な勢力を保持する伊達政宗を北から監視・牽制するという、秀吉の明確な政治的意図に基づいていた 10 。氏郷は、会津若松城(当時は黒川城)を本拠と定め、その周辺に支城網を構築することで、広大な領国支配と対伊達氏の防衛線を固めようとした 12 。
この戦略の一環として、白石城は極めて重要な拠点と位置づけられた。氏郷は重臣の蒲生郷成を城代として白石城に配置 3 。そして、それまでの中世的な城郭から、石垣を多用し、多層の櫓や厳重な虎口(城門)を備えた、当時最新の「織豊系城郭」へと大規模な改修を施した 2 。この改修により、白石城は防御力と威容を飛躍的に高め、伊達領に対する強力な楔となった。この時期、城は一時的に「益岡城」と改称されたことも記録されている 3 。
蒲生氏郷が文禄4年(1595年)に急逝し、その跡を継いだ秀行が慶長3年(1598年)に宇都宮へ移封されると、奥州の政治地図は再び大きく塗り替えられた。秀吉の命令により、越後から上杉景勝が会津120万石の領主として入封し、白石城も上杉領の一部となった 3 。
上杉氏は、家臣の中でも武勇で知られた甘糟景継(清長とも)を城代として白石城に送り込んだ 2 。景継は蒲生氏による改修をさらに推し進め、城の再構築を行ったとされる。城の名称も、この時に再び「白石城」へと戻された 3 。
しかし、同年8月に豊臣秀吉が死去すると、天下の情勢は急速に流動化する。五大老筆頭の徳川家康が台頭し、これに上杉景勝とその家老・直江兼続が公然と対立。景勝が領内での軍備増強を隠さなくなると、両者の対立は決定的となり、白石城は伊達領との最前線として、一触即発の軍事的緊張に包まれていった 16 。関ヶ原の戦いの前哨戦は、まさにこの地から始まろうとしていたのである。
統治期間 |
領主 |
城主・城代 |
主な出来事 |
天正14年~天正19年 (1586-1591) |
伊達氏 |
屋代景頼 |
白石宗実の移封に伴い、伊達氏の直轄支城となる。 |
天正19年~慶長3年 (1591-1598) |
蒲生氏 |
蒲生郷成 |
奥州仕置により蒲生領となる。近世城郭への大改修が行われる。 |
慶長3年~慶長5年 (1598-1600) |
上杉氏 |
甘糟景継 |
蒲生氏の移封に伴い上杉領となる。さらなる城の再構築が行われる。 |
慶長5年~慶長7年 (1600-1602) |
伊達氏 |
石川昭光 |
関ヶ原の戦い(白石城の戦い)で伊達氏が奪還。政宗の叔父が城主となる。 |
慶長5年(1600年)、徳川家康は上杉景勝の謀反を名目に会津征伐の軍を起こし、天下分け目の戦いの火蓋が切られた。家康は、上杉領の北に位置する伊達政宗を東軍に引き入れるため、破格の条件を提示した。それは、政宗が上杉領に侵攻し、自力で奪い返した旧領(かつて奥州仕置で没収された刈田郡など7郡)の所有を認めるという約束であった 18 。この約束が記された家康の書状は、実現すれば伊達家の石高が百万石を超えることから、後に「百万石のお墨付き」と呼ばれる 18 。政宗にとって、これは豊臣政権下で失った領土と威信を回復する千載一遇の好機であった。そして、その壮大な野望を実現するための最初の標的こそ、旧領・刈田郡の拠点である白石城だったのである。
家康の会津征伐軍が江戸を出立すると、政宗は機を逃さず行動を開始した。慶長5年7月24日、伊達軍は白石城への攻撃を開始した 17 。この時、城主である甘糟景継は、主君・景勝の命令により主戦場と目される会津若松城に詰めており、白石城には不在であった 16 。城の守備は、景継の甥である登坂勝乃がわずかな兵で指揮を執っていた。
伊達軍は、かつて自らの領地であったため城とその周辺の地理に明るく、地の利を活かして優位に戦を進めた 17 。城下町や外郭に火を放ち、守備兵を混乱させると、瞬く間に三の丸までを制圧。翌25日の午前中には本丸を除く城の全域を支配下に置いた 17 。圧倒的な兵力差と戦況から、もはや落城は時間の問題であった。
指揮官の登坂勝乃はこれ以上の抵抗は無益と判断し、降伏を決意する。しかし、城内にはかつて政宗に滅ぼされた二本松畠山氏の旧臣・鹿子田右衛門らが籠城しており、彼らは伊達への徹底抗戦を強く主張した。降伏交渉の障害となると判断した勝乃は、鹿子田を謀殺するという悲劇的な決断を下し、城を明け渡した 17 。こうして、関ヶ原の戦いにおける東北方面の緒戦は、伊達軍の勝利で幕を開けた。落城後、政宗は叔父の石川昭光を新たな城主として白石城に入れ、守りを固めさせた 3 。
白石城の戦いは、単なる一城の攻防戦にとどまらなかった。この戦いは、政宗にとっては天下分け目の大戦に乗じて失地を回復し、百万石の大名へと返り咲くという壮大な野望の第一歩であった。しかし、その後の現実は政宗の思惑通りには進まなかった。関ヶ原の本戦がわずか一日で東軍の圧勝に終わると、家康はもはや政宗の力を必要としなくなった。さらに、政宗が上杉領との戦いの裏で、南部領の和賀氏による一揆を扇動していたことが露見し、家康の不信を買う結果となった 23 。
最終的に、「百万石のお墨付き」は事実上反故にされ、戦後の論功行賞で政宗に与えられたのは、自力で奪還した刈田郡2万石の加増のみであった 19 。白石城の奪還成功という軍事的成果と、その後の期待を大きく裏切る政治的結果の乖離は、一個人の武力や策略で領土を切り拓く戦国の論理がもはや通用しない時代の到来を象徴していた。それは、戦国大名・伊達政宗の時代の終わりであり、新たな徳川の秩序の中で生きる仙台藩初代藩主・伊達政宗の時代の始まりを告げる出来事だったのである。
関ヶ原の戦いを経て、白石城は再び伊達家の所領となった。そして慶長7年(1602年)、伊達政宗は、この仙台藩の南の玄関口というべき最重要拠点を、最も信頼する腹心に委ねる決断を下す。白石城主として1万3千石で入城したのは、政宗の傅役(もりやく)であり、生涯にわたって軍師として彼を支え続けた片倉小十郎景綱であった 3 。景綱の知将ぶりは豊臣秀吉や徳川家康からも「国家の大器」と高く評価されており、この人事は仙台藩の南の守りを盤石にするための最善の策であった 22 。
景綱は入城後、戦乱で荒廃した城の大改修に着手した。息子の重長も慶長8年(1603年)に白石へ入り、父と共に城郭の整備と城下町の建設を開始した 8 。武家屋敷や寺社を戦略的に配置し、防御機能を持つ割堀を巡らすなど、近世城下町としての骨格を整えていった 25 。これにより、白石は単なる軍事拠点から、政治・経済の中心地へと発展していく礎が築かれたのである。
二代目の城主となった片倉重長もまた、父に劣らぬ武勇と器量の持ち主であった。彼の名を天下に轟かせたのが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣である。病床の父・景綱に代わって伊達軍の先鋒大将を務めた重長は、道明寺の戦いで後藤又兵衛を討ち取り、さらに天王寺・岡山の戦いでは、日本一の兵(つわもの)と謳われた真田信繁(幸村)の部隊と激戦を繰り広げた。その凄まじい戦いぶりから、重長は「鬼小十郎」の異名を取った 22 。
この戦いを通じて、敵将である重長の武勇と人柄を深く認めた真田信繁は、自らの死を覚悟した決戦前夜、驚くべき行動に出る。子の阿梅(おうめ)と大八(だいはち)らの将来を、敵である重長に託したのである 29 。信繁の死後、重長はこの約束を違えることなく、彼らを白石の城下で密かに庇護した。徳川方から見れば、豊臣方の将の遺児、特に男子である大八を生かしておくことは許されないことであったが、重長は危険を冒して彼らを守り抜いた。
やがて、阿梅は重長の後妻として迎えられ、大八は片倉守信と名乗って仙台藩士として召し抱えられた 30 。後に守信の子の代で真田姓に復し、これが現在まで続く「仙台真田家」の始まりとなった。戦国の世の敵味方を超えた武士の信義が、白石の地で新たな歴史の芽を育んだのである。
元和元年(1615年)、徳川幕府は全国の大名に対し、領国における居城以外の城をすべて破却するよう命じる「一国一城令」を発布した。これは、大名の軍事力を削ぎ、幕府への反乱を防ぐための強力な政策であった。この法令により、全国の多くの城がその歴史に幕を閉じた。
しかし、白石城はこの厳命の例外として、仙台城とは別に存続を特別に認められた数少ない城の一つとなった 2 。この背景には、いくつかの理由があった。第一に、仙台藩が62万石という広大な領地を有しており、藩内統治と防衛のために支城の存在が不可欠であったこと。そして第二に、初代藩主・政宗の功績、そして白石城主である片倉氏の武功と、家康自身も高く評価したその人物に対する幕府の特別な配慮があったと考えられている 22 。
この特例措置により、白石城は名実ともに仙台藩にとって不可欠な城としてその地位を確立した。以後、明治維新に至るまでの約260年間、片倉氏11代が居城としてこの地を治め、仙台藩の南の守りを固めるという重責を担い続けたのである。
白石城は、標高約76メートルの丘陵を利用して築かれた「梯郭式平山城」に分類される 3 。梯郭式とは、本丸を城郭の一方に寄せ、その周囲の二方向または三方向を他の曲輪(くるわ)が取り囲む形式の縄張(城の設計)である。白石城の場合、丘陵の最も高い場所に本丸を配置し、それを中心として二ノ丸、中の丸、西曲輪が取り巻くように配置されている 3 。さらに、そこから一段下がった中腹には、沼ノ丸、南ノ丸、厩曲輪といった複数の曲輪が巧みに配置され、複層的で堅固な防御ラインを形成していた。この複雑な曲輪構成は、敵の侵攻を段階的に食い止め、城の中枢部への到達を困難にするための、戦国時代末期から近世初頭にかけての高度な築城思想を反映している。
本丸の北西隅には、城の象徴となる三層三階の櫓が建てられていた。これは事実上の天守であるが、「御三階櫓」あるいは「大櫓(おおやぐら)」と呼ばれていた 9 。仙台藩の支城という立場上、幕府に配慮して公然と「天守」と称することをはばかったためである 34 。この櫓は、文政2年(1819年)に火災で焼失したが、文政6年(1823年)に再建された 8 。
建築的には、最上階の三階に周囲をぐるりと巡る高欄(手すり)と、装飾的な火灯窓(かとうまど)風の出入口が設けられているのが特徴で、物見(監視)としての機能を重視した設計であったことがうかがえる 34 。内部は平時には武器庫などとして利用されていた 38 。また、城の正面玄関である大手門は、大手一ノ門と大手二ノ門によって構成される「枡形虎口(ますがたこぐち)」となっていた 34 。これは、門を二重に設け、その間を四角い空間(枡形)で囲むことで、侵入した敵を三方から攻撃できるようにした極めて防御力の高い構造である。
白石城の石垣は、この城が歩んできた複雑な歴史を物語る「生きた履歴書」である。城内には、築かれた時代の異なる二種類の石垣技術が混在しているのが確認できる 36 。
一つは、天守台などに見られる「野面積み(のづらづみ)」である 34 。これは、自然石をほとんど加工せずにそのまま積み上げる、戦国時代に広く用いられた古式の技法である。この野面積みの石垣は、天正19年(1591年)以降、蒲生氏郷によって白石城が近世城郭へと大改修された初期の姿を今に伝えていると考えられる 41 。
もう一つは、石の接合部をある程度加工して隙間を減らし、より堅固に積み上げる「打込接(うちこみはぎ)」という技法である 38 。これは野面積みより新しい技術であり、江戸時代に入ってから片倉氏によって築かれた部分と推定される。片倉家の記録には、延宝6年(1673年)の強震によって石垣が崩れたという記述が残っており 8 、この打込接の石垣は、そうした自然災害後の修復工事の際に築かれた可能性が高い 42 。このように、白石城の石垣は、蒲生氏による近代化、片倉氏による長期にわたる維持管理と修復、そして地震という自然の猛威といった、この城が経験した歴史的出来事の物理的な記録そのものなのである。
江戸幕府の権威が失墜し、日本が大きく揺れ動いた幕末期、白石城は再び歴史の表舞台に立つことになった。慶応4年(1868年)、新政府軍による会津藩追討の命令に反発した奥羽越の諸藩は、同盟を結んでこれに対抗することを決意。その重要な会議が開かれたのが、白石城であった 3 。こうして結成された「奥羽越列藩同盟」は、戊辰戦争における旧幕府軍側の主要勢力となったが、近代兵器を擁する新政府軍の前に次々と敗北。同盟は瓦解し、仙台藩も降伏を余儀なくされ、白石城は新政府軍に明け渡された。
明治維新後、城は兵部省の管轄下に置かれたが、明治7年(1874年)、新政府の方針により民間に払い下げられ、建物はことごとく解体された 3 。260年以上にわたる片倉氏の居城としての歴史は、ここに幕を閉じた。しかし、城のすべての遺構が失われたわけではなかった。解体の際に、東口門が市内の当信寺に、厩口門が延命寺にそれぞれ山門として移築され、現存している 32 。これらの移築門は、往時の白石城の建築様式を今に伝える、極めて貴重な歴史遺産である。
城が失われた後、城跡は「益岡公園」として整備されたが、往時の姿を偲ぶものは石垣の一部を残すのみであった。しかし、昭和62年(1987年)に放送されたNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』が全国的な人気を博し、伊達政宗と片倉小十郎景綱への関心が高まると、景綱ゆかりの白石城を復元しようという機運が市民の間で一気に高まった 45 。
この市民の熱意を受け、白石市は城の復元を決定。綿密な発掘調査と史料研究を重ね、文政6年(1823年)に再建された際の姿を基に、御三階櫓と大手一ノ門・二ノ門を木造で復元する計画が進められた。そして平成7年(1995年)、120年の時を経て、白石城は壮麗な姿を再び現した 8 。
この復元事業が特筆されるべきは、その徹底した「史実への忠実さ」である。コンクリートなどを用いず、伝統的な木造軸組工法を採用。柱には最高級の吉野檜、床や化粧材には青森ヒバ、梁には山陰地方の松丸太といった、すべて国産の良質な木材が使用された 38 。特に大手二ノ門の鏡柱には、樹齢1000年を超える台湾檜が使われるなど、材料にも一切の妥協がなかった 41 。壁は竹を編んだ下地(竹小舞)に土を塗り重ねる伝統的な土壁で、表面は漆喰で仕上げられた。石垣も、蒲生時代の姿を再現するため、野面積みで復元された 38 。
この学術的考証に基づいた本格的な木造復元は、戦後に復元された天守閣建築としては高さ・広さともに日本最大級であり 38 、日本の城郭復元史において画期的な事業として、学術的にも極めて高い評価を受けている 9 。
項目 |
仕様 |
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構造 |
木造三階建 |
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高さ(石垣天端より) |
約16.72 m |
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建築面積 |
約287.13 m2 |
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延床面積 |
約414.37 m2 |
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使用木材 |
柱:吉野産ヒノキ、床:青森産ヒバ、梁:鳥取産松丸太 |
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石垣 |
野面積み工法、主に蔵王町松川産の安山岩を使用 |
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壁 |
竹小舞を組んだ土壁(厚さ約24 cm)、漆喰仕上げ |
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屋根瓦 |
美濃産 耐寒いぶし瓦 約43,000枚 |
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出典: 38 |
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白石城は、その長い歴史を通じて、日本の歴史における幾多の重要な局面の証人となってきた。伊達政宗による奥州統一の拠点として、豊臣政権下での中央と地方の緊張関係の象徴として、関ヶ原の戦いの前哨戦の舞台として、そして江戸時代には仙台藩の南の守りとして、さらには幕末の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟結成の地として、常に時代の中心にあった。その城跡、市内に残る貴重な移築遺構、そして平成の世に蘇った壮麗な木造復元建造物は、戦国末期から近代に至る日本の歴史の重層的な歩みを体感できる、第一級の歴史遺産である。
現在、白石城跡は益岡公園として市民に親しまれ、春には桜が咲き誇る憩いの場となっている 8 。復元された御三階櫓は、白石市のシンボルとして、市民の郷土への誇りを育んでいる 5 。城に隣接する歴史探訪ミュージアムや、かつての城下町の面影を残す武家屋敷、片倉家代々の墓所である御廟所など、周辺に点在する歴史的資産と一体となって、白石の歴史と文化を訪れる人々に伝える観光の中核を担っている 5 。
白石城の存在は、単なる過去の遺物ではない。それは地域の歴史的アイデンティティを形成し、先人たちの歩みを未来へと継承していく上で不可欠な役割を果たしている。戦国の乱世を駆け抜け、泰平の世を見守り、そして近代化の波に消えながらも、市民の熱意によって再びその姿を取り戻した白石城は、まさに地域の歴史そのものであり、これからも白石の町の中心で、その価値を静かに、そして力強く示し続けるであろう。