種子島城は鉄砲伝来の「内城」と江戸期の「赤尾木城」の二面を持つ。時堯の先見性で鉄砲国産化が進み、島津氏重臣として活躍。時代の要請に応え続けた海の要塞。
日本の戦国時代史において、「種子島」の名は、歴史の潮流を劇的に変えた鉄砲伝来の地として不朽の地位を占めている。そして、その中心にあったとされるのが「種子島城」である。一般的には、鎌倉時代より種子島氏が代々居城とし、天文12年(1543年)にポルトガル船が漂着した歴史的事件の舞台として認識されている。しかし、この認識には、時代の異なる二つの城の物語が分かち難く重なり合っているという、重要な事実が見過ごされがちである。
本報告書がまず明らかにすべきは、今日「種子島城跡」として知られ、榕城(ようじょう)小学校の敷地にその遺構を残す城が、実は戦国時代が終焉した後の寛永元年(1624年)に築かれた「赤尾木城(あかおぎじょう)」であるという点である 1 。したがって、戦国時代という特定の時代区分を視座として「種子島城」を考察するためには、この江戸期の赤尾木城と、鉄砲伝来の瞬間に歴史の表舞台に立った、その前身である戦国期の拠点「内城(うちじょう)」とを明確に区別して論じなければならない 2 。
この「種子島城」という一つの名称の裏には、戦乱の時代から泰平の世へと移行する日本の社会構造の変化、そしてそれに伴う城郭機能の変質、すなわち純然たる軍事拠点から行政・支配の拠点へという、壮大な歴史的物語が内包されている。本報告書では、まず戦国期の拠点であった「内城」とその主・種子島氏の動向を深く掘り下げ、鉄砲伝来という事件がなぜこの地で起こり得たのか、その政治的、経済的、技術的背景を解明する。その上で、時代の変遷と共に誕生した江戸期の「赤尾木城」へと議論を繋ぎ、二つの城の物語を通して、種子島という南海の島が日本の歴史において果たした比類なき役割を多角的に考察するものである。それは、「内城」から「赤尾木城」への移行を軸に、種子島氏の政治的地位の変遷と日本の近世化のプロセスを重ね合わせて描く試みでもある。
鉄砲伝来という画期的な出来事を理解するためには、その主役であった種子島氏が、当時いかなる政治的立場にあったのかを把握することが不可欠である。彼らは単なる離島の豪族ではなく、複雑な南九州の情勢の中で、巧みな外交と武力によって独自の地位を築き上げた独立性の高い勢力であった。
種子島氏の起源は鎌倉時代に遡る。その出自については諸説あるが、大隅国の守護を世襲した北条氏一族の守護代であった肥後氏が種子島に入り、やがて土着して種子島氏を名乗るようになったとする説が有力である 5 。重要なのは、彼らが当初、薩摩国を本拠とする島津氏とは直接的な主従関係になかったという点である。中世において、種子島氏は島津氏の家臣ではなく、「国衆(くにしゅう)」と呼ばれる非島津一族の独立した領主であった 5 。
島津氏が大隅国の守護職を世襲し、種子島氏と本格的に接点を持つようになるのは15世紀に入ってからである。応永15年(1408年)には、島津元久から屋久島などを与えられる記録があるが、これは主従関係の成立を意味するものではなく、あくまで対等に近い立場での協力関係、あるいは懐柔策の一環であった 5 。この「国衆」としての独立性こそが、後に種子島氏が島津氏の意向を都度うかがうことなく、独自の判断でポルトガル人と交渉し、鉄砲という未知の兵器を導入できた政治的背景を理解する上で、決定的な鍵となる。
戦国期の種子島氏の動向を語る上で、大隅国本土の有力国衆であった禰寝氏(ねじめし)との激しい抗争は避けて通れない。両氏は、種子島と大隅半島の中間に位置する屋久島の領有権や、周辺海域の権益を巡り、長年にわたって死闘を繰り広げた 7 。この絶え間ない軍事的緊張は、種子島氏の外交戦略に大きな影響を与え続けた。
特に天文12年(1543年)、まさに鉄砲が伝来したその年に、種子島氏に内紛が勃発する。島主・種子島恵時(さととき)とその弟・時述が対立し、時述が禰寝氏に支援を要請したことで、禰寝軍が種子島に攻め込むという危機的状況に陥った 9 。窮地に立たされた恵時は屋久島へ逃れ、当時薩摩・大隅で勢力を拡大しつつあった島津貴久に援軍を求めた。貴久はこれに応じ、家老の新納康久を派遣して争いを調停。結果として恵時は隠居し、嫡男の時堯(ときたか)が家督を継ぐことで事態は収拾された 9 。この一連の事件は、種子島氏が単独では抗しきれない脅威に対し、島津氏という強力な後ろ盾を求める必然性を示しており、両家の関係が新たな段階に入る大きな転機となった。
禰寝氏という恒常的な脅威に対抗するため、種子島氏が島津氏へ接近したのは、弱者が強者へ追従するという単純な構図ではなく、離島という地政学的な条件下での極めて合理的な戦略的選択であった。この関係性は、第14代当主となった時堯の代に、婚姻政策を通じてさらに強固なものとなる。時堯は、島津氏の実質的な創始者である島津忠良(日新斎)の娘を正室に迎えたのである 6 。これにより、両家は単なる同盟者から、血縁で結ばれた強固な運命共同体へと変貌を遂げた。
当初は対等な盟友関係であったが、島津氏が三州(薩摩・大隅・日向)統一へと突き進む過程で、種子島氏はその軍事指揮下に組み込まれていく。彼らは島津軍の一翼を担い、各地の合戦に参加することで、その存在価値を示した 9 。やがて、豊臣政権下を経て江戸時代に至ると、種子島氏は島津家臣団の中でも筆頭格である「一所持(いっしょもち)」という特別な地位を与えられ、薩摩藩の家老職を世襲する家柄として、その家名を保つことになる 5 。
鉄砲伝来以前から続くこの外交的駆け引きと関係性の深化が、後の鉄砲国産化とその迅速な普及の方向性を決定づけた。時堯が入手した鉄砲を速やかに島津貴久に献上し、島津軍の戦力強化に貢献したことは 6 、この強固な同盟関係があればこそ可能だったのであり、それによって自らの戦略的価値をさらに高めるという好循環を生み出したのである。
表1:種子島氏主要人物と関連年表
代 |
当主名 |
生没年 |
主要な出来事 |
|||
13代 |
種子島 恵時(さととき) |
不詳 |
・島津氏の内紛において、島津貴久方に付く 7 。 |
・弟・時述との内紛に禰寝氏が介入し、島津貴久に救援を要請 9。 |
・天文12年(1543年)、鉄砲伝来に際して嫡男・時堯と共にポルトガル人と会見 9。 |
|
14代 |
種子島 時堯(ときたか) |
1528-1579 |
・天文12年(1543年)、16歳で鉄砲2挺を購入し、国産化を命じる 11 。 |
・島津忠良の娘を正室に迎え、島津氏との同盟を強固にする 6。 |
・禰寝氏との間で屋久島を巡る抗争を続ける 7。 |
|
15代 |
種子島 時次(ときつぐ) |
不詳 |
・時堯の長男。早世したため、父・時堯が当主に復帰 9 。 |
|||
16代 |
種子島 久時(ひさとき) |
1568-1611 |
・島津義久の加冠により元服。島津氏に臣従する 7 。 |
・文禄4年(1595年)、太閤検地により一時的に薩摩国知覧へ移封される 7。 |
・慶長の役に従軍。露梁海戦で島津義弘を救う武功を挙げる 9。 |
・慶長4年(1599年)、旧領・種子島に復帰し、島津家の家老に任じられる 9。 |
17代 |
種子島 忠時(ただとき) |
1612-1673 |
・久時の死後に誕生した子。島津家久(忠恒)の加冠により元服 9 。 |
・寛永元年(1624年)、居城を内城から赤尾木城へ移す 1。 |
日本の歴史を大きく動かした鉄砲伝来。その歴史的瞬間の舞台となったのが、当時の種子島氏の居城「内城」である。しかし、後代に築かれた赤尾木城の知名度の影に隠れ、この戦国期の城の実像は、今なお多くの謎に包まれている。
鉄砲伝来時の当主、第14代・種子島時堯が政務を執り、ポルトガル人から鉄砲を購入し、そしてその国産化プロジェクトを指揮した拠点「内城」は、現在の西之表市にあった旧榕城中学校の敷地に位置していたと比定されている 2 。その歴史的重要性を物語るように、旧中学校の入口には、若き日の時堯が采配を振るう姿を模した銅像が建立されている 15 。
しかし、その具体的な城の姿、縄張りや規模については、現存する資料が極めて乏しい。現在、旧榕城中学校の敷地内には西之表市埋蔵文化財調査室が置かれ、市内で出土した遺物の整理や研究が行われているものの 17 、内城そのものに関する大規模な発掘調査報告は限定的であり、城の全体像を考古学的に明らかにすることは今後の課題となっている 18 。地中には、日本の運命を変えた工房の痕跡が、今も静かに眠っているのかもしれない。
内城の具体的な構造は不明な点が多いが、宗主である島津氏の城郭に対する基本的な考え方から、その姿をある程度推論することが可能である。島津氏が本拠とした鹿児島城(鶴丸城)や、その前身である内城、清水城は、いずれも壮麗な天守閣を持たず、実戦的な防御機能よりも、政務や居住空間としての性格が強い「館(やかた)」に近い構造であったことが知られている 19 。
これは、城郭単体で敵を迎え撃つのではなく、領内各地に配置した拠点群(後の外城制度に繋がる)と、後背の山に設けた詰城(つめのしろ)とを連携させて領土全体で防衛するという、島津氏独自の思想を反映したものである。このことから、種子島の内城もまた、平時の政務・居住空間である山麓の「居館」部分と、有事の際に立てこもる背後の丘陵地帯を利用した「詰城」とからなる二元構造の城であった可能性が高いと考えられる 21 。華美な装飾よりも実用性を重んじる、質実剛健な南九州の武士の気風が、城の姿にも現れていたのであろう。
内城は、単なる軍事施設に留まらなかった。それは、種子島氏が支配する領域全体の政治・経済の中枢であった。その支配は種子島本島のみならず、屋久島、口永良部島といった周辺島嶼群にも及んでおり、内城はこれらの島々を統治するための拠点として機能していた 7 。
さらに特筆すべきは、種子島氏が島津氏とは別に、独自に琉球王国との交易ルートを維持していたことである 7 。内城は、この海外交易を管理・運営する中枢拠点でもあった。当時の日本では極めて高価であったであろう鉄砲を、時堯が「高価をいとわず」2挺も購入できた背景には 12 、この琉球貿易によってもたらされた莫大な富が存在した可能性が極めて高い。城の構造は質素であったかもしれないが、そこから生み出される経済力は、日本の他のどの戦国大名も持ち得なかった、外洋へと開かれたものであった。この質素な城郭と、外向的な経済基盤とのコントラストこそが、戦国期の種子島氏の特異性を象徴している。彼らは城郭という「物」に過剰な投資をせず、富を生み出す交易ルートの確保や、それを実行するための軍事力(兵員や最新兵器)に資源を優先的に配分するという、合理的で先進的な思考を持っていたのである。
天文12年(1543年)8月25日、種子島に一隻の異国の船が流れ着いた。この偶然の出来事が、日本の戦乱の様相を一変させ、ひいては天下統一への道を切り拓く、歴史的な転換点となった。その中心にあったのが、内城と、そこに座す若き領主・種子島時堯であった。
『鉄炮記』によれば、その日、種子島の南端に位置する門倉岬(かどくらみさき)に、一隻の大きな明国の船が漂着した 9 。船には100人あまりの乗組員がいたが、その中に、これまで日本人が見たことのない風貌の商人たちがいた。彼らこそ、歴史上初めて日本の土を踏んだとされるポルトガル人であった。言葉の通じない両者の間を取り持ったのは、船に乗り合わせていた明の儒学者・五峰(後の海賊王・王直であったとされる)であり、彼が筆談で仲介したという 24 。
一行は島主の居城である内城に近い赤尾木に移され、当主の恵時と、当時16歳の嫡男・時堯が引見した 9 。時堯は、ポルトガル人が携えていた「鉄砲」に強い関心を抱く。目の前で実演されたその射撃は、轟音と共に鉛の弾を放ち、的を正確に撃ち抜いた。その驚異的な威力と性能に、時堯は未来の戦争の形を瞬時に見抜いたのであろう。彼は家宝の刀や砂金など、高価をいとわずにその場で2挺を買い取った 12 。これは、未知の技術に対する若き領主の類稀な先見性と、即座に行動に移す決断力が成し得た、歴史的な取引であった。
時堯の真の偉大さは、手に入れた最新兵器を独占し、自家の切り札として秘蔵しなかった点にある。彼は購入した鉄砲を内城に持ち帰ると、直ちにその構造を解明し、国産化するためのプロジェクトを立ち上げた。内城とその城下は、日本初の兵器開発研究の拠点へと姿を変えたのである。
時堯は、家臣の中から最も信頼できる技術者を選び出した。銃本体の模造は、島随一の刀鍛冶であった八板金兵衛清定(やいたきんべえきよさだ)に 12 。そして、その威力の源である火薬の調合と製法については、家臣の笹川小四郎に研究を命じた 26 。
しかし、国産化への道は平坦ではなかった。特に金兵衛を悩ませたのが、銃身の底を密閉するための「尾栓(びせん)」の構造であった。ポルトガル製の銃は、銃身と尾栓に螺旋状の溝(ネジ)が切ってあり、ねじ込むことで高い気密性と強度を保っていた。しかし、当時の日本には「ネジ」という概念そのものが存在せず、金兵衛は尾栓を鍛接(熱して叩き合わせる)するしかなかった。その結果、発射の衝撃で尾栓が吹き飛ぶ失敗が繰り返されたという 25 。この最大の技術的障壁を乗り越えるために、金兵衛が苦悩の末、娘の若狭をポルトガル人に嫁がせ、その見返りとしてネジの秘密を教わったという有名な伝承が残っている 25 。この逸話は、未知の技術を導入する際の凄まじい苦難と、それを乗り越えようとした人々の覚悟を象徴するものとして、今に語り継がれている。
この困難なプロジェクトが、わずか2年ほどで成功に至った背景には、種子島が元々有していた高い潜在能力があった。第一に、島の海岸には古来から良質な砂鉄が豊富に存在し、それを原料とした製鉄(たたら製鉄)と、刀剣などを生産する鍛冶の技術が高度に発達していたことである 7 。この既存の産業基盤、すなわち材料と技術者の存在がなければ、鉄砲の模倣は不可能であった。
第二に、時堯の開放的な姿勢が挙げられる。彼は開発した技術を独占しなかった。完成した国産第一号の鉄砲は「種子島銃」と呼ばれ、まず同盟者である島津貴久に献上された 6 。さらに、その評判を聞きつけて紀州根来寺からやってきた僧侶・杉ノ坊某にも、時堯はその技術を惜しげもなく伝えたという 26 。この時堯の行動は、現代の経営学で言うところの「オープンイノベーション」の先駆的な事例と見なすことができる。彼は外国からもたらされた革新技術を、島の既存技術基盤と結びつけて発展させ、さらに外部の要求にも応えて広く伝播させた。この開放性こそが、鉄砲という技術が驚異的なスピードで堺の商人などを通じて日本全国に広まり 27 、戦国の様相を一変させる原動力となったのである。時堯は鉄砲を単なる「武器」としてではなく、種子島を生産拠点とする新たな「産業」として捉え、その価値を最大化しようとしたのかもしれない。
内城で産声を上げた国産鉄砲は、またたく間に南九州の戦場を席巻し、島津氏の勢力拡大に絶大な貢献を果たした。それに伴い、種子島氏もまた、島津軍の中核として、天下統一へと向かう日本の激しい動乱の渦中へと身を投じていくことになる。
島津貴久は、時堯から献上された鉄砲の価値を即座に理解した。天文18年(1549年)、大隅国の加治木城を攻めた際、島津軍は日本で最初期とされる鉄砲の実戦投入を行い、その圧倒的な威力で敵を打ち破った 6 。この成功は、その後の島津氏の戦術に革命をもたらした。巧みな伏兵戦術である「釣り野伏せ」に鉄砲の一斉射撃を組み合わせることで、島津軍は戦国屈指の精鋭部隊へと変貌を遂げ、薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げる原動力とした。この輝かしい戦歴の中で、種子島時堯とその一族が率いる鉄砲隊が、常にその中核として活躍したことは想像に難くない 9 。
破竹の勢いで九州統一を目前にした島津氏であったが、その前に巨大な壁が立ちはだかる。天下統一を目前にした豊臣秀吉である。天正15年(1587年)、秀吉が率いる20万ともいわれる圧倒的な大軍の前に、さすがの島津軍も抗しきれず、降伏を余儀なくされた 14 。島津軍の一員として戦った種子島氏も、この敗北を共に経験することとなった。
そして文禄4年(1595年)、秀吉が断行した太閤検地に伴い、種子島氏にとって屈辱的な命令が下される。鎌倉時代以来、数百年にわたって本拠地としてきた種子島を離れ、薩摩国本土の知覧へ所領を移す「国替え」である 7 。これは、もはや種子島氏が独立した領主ではなく、豊臣大名である島津氏の家臣団の一員として、完全にその支配体制下に組み込まれたことを天下に示す、象徴的な出来事であった。
本拠地を失うという苦境の中にあっても、種子島氏の武名は衰えることがなかった。第16代当主・種子島久時は、島津軍の主将・島津義弘に従い、朝鮮半島へと出兵する(文禄・慶長の役)。彼は泗川(しせん)の戦いなどで目覚ましい活躍を見せたが 9 、その名が最も輝いたのは、慶長の役の最終局面である慶長3年(1598年)の露梁(ろりょう)海戦であった。
この海戦で、撤退する島津軍は明・朝鮮連合水軍の猛追を受け、義弘が乗る旗艦が敵船に包囲されるという絶体絶命の危機に陥った。もはやこれまでかと思われたその時、久時らの船団が救援に駆けつけた。久時は、激しく揺れる船の上から自ら鉄砲を手に取り、次々と敵兵を正確に撃ち倒して血路を開き、見事義弘を救出したのである 9 。この九死に一生を得る働きは「この海戦での勲功第一」と賞賛された。
鉄砲伝来から約半世紀、奇しくも伝来時の当主・時堯の孫である久時が、その祖父がもたらした鉄砲を駆使して主君の命を救うというこの出来事は、単なる武勇伝に留まらない。それは、種子島氏が「鉄砲の導入者」から「鉄砲技術の完全な継承者・実践者」へとその役割を変え、島津家臣団の中で「鉄砲」を核とした、誰にも揺るがすことのできない軍事的アイデンティティを確立した瞬間であった。一時的な移封という苦難を乗り越え、自らの存在価値を戦国の最終局面で鮮やかに証明したのである。
関ヶ原の戦いを経て、日本は徳川家康による泰平の世、すなわち江戸時代を迎える。戦国の荒波を乗り越えた種子島氏もまた、新たな時代に対応した統治体制と、それにふさわしい新たな拠点を築くこととなる。ここに、戦国の「内城」から泰平の「赤尾木城」への歴史的な移行が果たされる。
表2:「内城」と「赤尾木城」の比較対照表
項目 |
内城(うちじょう) |
赤尾木城(あかおぎじょう) |
通称 |
- |
上之城(うえのじょう) |
所在地(現在) |
鹿児島県西之表市西之表(旧榕城中学校敷地) 3 |
鹿児島県西之表市西之表(榕城小学校敷地) 1 |
築城年代 |
鎌倉時代以降、戦国期に機能 |
寛永元年(1624年) 1 |
主要な城主 |
種子島恵時、種子島時堯(第13・14代) |
種子島忠時(第17代)以降 |
時代の性格 |
戦国時代 |
江戸時代 |
城郭の性格 |
独立領主「国衆」の軍事・統治拠点 |
薩摩藩の外城(麓)制度における行政・軍事拠点 |
構造・縄張り(推定含む) |
山麓の居館と背後の詰城からなる二元構造の「館城」形式 21 |
鉄砲戦を前提とした山鹿流築城術による平城 1 |
歴史的意義 |
鉄砲伝来(1543年)と国産化の舞台 11 |
薩摩藩の外城制度を担う拠点として明治維新まで存続 1 |
主要な遺構 |
種子島時堯公像 15 |
石垣、土塁、アコウの大木 3 |
関ヶ原の戦いで西軍に与した島津氏は敗軍となったが、巧みな戦後交渉の末、所領を安堵される。この激動期を乗り越えた種子島氏は、慶長4年(1599年)には旧領である種子島に戻ることが許され 6 、さらに島津家の家老に任じられるなど、薩摩藩の重臣としての地位を不動のものとした 9 。
一方、江戸幕府は元和元年(1615年)に「一国一城令」を発布し、大名の軍事力を削ぐために、原則として一国に一つの城しか認めない政策を打ち出した。これに対し、広大な領地と複雑な歴史的経緯を持つ薩摩藩は、藩主の居城である鹿児島城(鶴丸城)を「本城」としつつ、領内各地に点在していた中世以来の城や武士の集住地を「外城(とじょう)」と称する地方支配拠点として再編・維持するという、独自の「外城制度(麓制度)」を構築した 34 。これは、幕府の法令を遵守しつつも、事実上の軍事拠点を領内各地に温存するための巧みな策であり、種子島もまた、この外城制度の中に組み込まれていった 34 。
新たな時代の統治体制に対応するため、種子島氏もまた、その拠点を刷新する必要に迫られた。露梁海戦の英雄・久時が慶長16年(1611年)に亡くなり、その跡を継いだ第17代当主・忠時は、寛永元年(1624年)、長年の一族の拠点であった「内城」から、現在の榕城小学校の地へと居城を移転する 1 。これが、近世の種子島支配の中心となる「赤尾木城」の始まりである。
この移転と新城の建設は、単なる引っ越しではない。それは、戦国時代の軍事拠点の論理から脱却し、種子島氏が薩摩藩の外城(麓)の管理者として、新たな行政・軍事拠点(麓集落)を整備するという、明確な意図に基づいたものであった。城内にはアコウの木が茂っていたことから、人々はこの新しい城を「赤尾木城」と呼び親しんだと伝えられている 1 。
赤尾木城の築城において最も注目すべき点は、その設計に江戸時代前期の著名な軍学者・山鹿素行(やまがそこう)が体系化した「山鹿流築城術」が用いられたと伝えられていることである 1 。
山鹿流の築城術は、まさに鉄砲戦が常識となった時代の産物であった。その最大の特徴は、城壁や石垣を直線的にせず、意図的に屈曲させたり、突出部(横矢掛かり)を設けたりすることで、城に近づく敵に対し、あらゆる角度から側面攻撃を加えられるように設計されている点にある 33 。死角をなくし、十字砲火を浴びせることを前提とした、極めて実践的な縄張り思想である。
この事実は、極めて象徴的かつ自己言及的である。約80年前、種子島の「内城」で始まった鉄砲の国産化が、日本の戦術と築城術に革命をもたらした。その結果として進化した最新の築城理論(山鹿流)が、時を経て再び種子島に還流し、新たな時代の城「赤尾木城」として結実したのである。種子島は、自らが歴史の歯車を回した結果、自分たちの拠点そのものが、新しい時代の論理によって再定義されるという、壮大な歴史のフィードバックループを体現した。赤尾木城は、種子島が歴史の単なる出発点であっただけでなく、自らが起こした技術革新の成熟した成果を、自らの城郭に取り込んだ物的な証左なのである。
戦国の動乱と江戸の泰平、二つの時代を生きた「内城」と「赤尾木城」。その跡地は、今も西之表市の中心部に静かに佇み、訪れる人々に種子島が刻んだ日本の歴史の重みを語りかけている。
江戸時代を通じて種子島統治の中心であった赤尾木城の跡地は、現在、西之表市立榕城小学校の敷地となっている 1 。往時の壮麗な館は失われたものの、小学校の正門付近には、当時のものとされる石垣や土塁の一部が今も現存しており、かつての城の輪郭を偲ばせている 35 。
そして、校庭には城名の由来ともなったアコウの大木が、今なお青々とした葉を茂らせている。樹齢400年を超えるとされるこの巨木は 3 、赤尾木城の築城から明治維新による廃城まで、種子島氏の栄枯盛衰のすべてを見つめてきた生き証人であり、西之表市の指定保護植物として大切にされている 3 。
一方、鉄砲伝来という歴史的事件の舞台となった戦国の拠点・内城の跡地は、旧榕城中学校の敷地として整備されている 2 。こちらには目立った城郭遺構は残されていないが、その歴史的重要性は別の形で記憶されている。敷地の入口には、若き日の種子島時堯が鉄砲を手に采配を振るう勇壮な銅像が建てられており、彼の先見性と決断力が日本の歴史を大きく動かしたことを、後世に力強く伝えている 15 。
赤尾木城跡は、西之表市の史跡に指定されており 1 、その周辺には、薩摩藩の外城制度の下で形成された武家屋敷群「麓集落」の面影が今も残されている 38 。また、種子島全体を見渡せば、マングローブ林などの国指定天然記念物や 39 、各地に伝わる多様な民俗芸能など、数多くの国・県指定の文化財が点在しており 40 、島全体が豊かな歴史文化の宝庫であることがわかる。
考古学的な観点からも、種子島は極めて重要な地域である。国内最古級とされる旧石器時代の落とし穴遺跡 41 や、縄文時代から弥生時代にかけての数多くの遺跡が発見されており 42 、継続的な調査・研究が行われている。その中で、まだ全貌が明らかになっていない戦国期の「内城」については、今後のさらなる発掘調査によって、日本の技術革新の原点となった工房の跡など、新たな発見がもたらされることが大いに期待される。
本報告書で詳述したように、「種子島城」という一つの呼称は、単一の城を指すのではなく、時代の要請に応じてその姿と役割を大きく変えた二つの城の物語として理解されなければならない。すなわち、戦国時代の軍事・技術革新拠点であった「内城」と、江戸時代の行政・支配拠点であった「赤尾木城」の物語である。
「内城」は、若き領主・種子島時堯の類稀な先見性によって、鉄砲伝来という世界史的な事件の舞台となった。それは、種子島氏が「国衆」として保持していた政治的独立性を背景に、島が有する豊かな砂鉄資源と高度な鍛冶技術という産業基盤とを結びつけ、日本の歴史を大きく転換させる技術革新の起点となった拠点であった。
一方、「赤尾木城」は、戦国が終わり徳川の泰平の世が訪れる中で、種子島氏がその新たな秩序に適応し、薩摩藩の独自の地方支配体制である「外城制度」の一翼を担う拠点として築かれた。その設計に、皮肉にも種子島が日本全土に広めた鉄砲を前提とする最新の築城術が用いられた事実は、歴史の必然と偶然が織りなす妙を我々に示している。
この二つの城の変遷は、種子島氏が独立領主から大藩の重臣へとその政治的地位を変えながらも、常に時代の最先端の要請に応え、南九州の海の要衝として極めて重要な役割を果たし続けた歴史そのものを、雄弁に物語っているのである。