米沢城は長井氏が築き、伊達氏の拠点として発展。政宗誕生の地とも伝わる。蒲生氏が統治し、関ヶ原後、上杉景勝と直江兼続が減封の地として入城。質実剛健な城と城下町を築き、米沢藩の礎となった。
出羽国置賜地方、米沢盆地の中心に位置する米沢城の歴史は、戦国時代の動乱よりも遥か昔、鎌倉時代にまで遡る。その起源は、単なる地方豪族の砦ではなく、中央政権である鎌倉幕府の統治体制と深く結びついていた。
暦仁元年(1238年)頃、鎌倉幕府の重臣であり、「幕府の頭脳」とまで称された大江広元の次男、長井時広によって築かれたのが、米沢城の原形である「松岬城」であったと伝えられている 1 。時広はこの地に地頭として赴任しており、その築城は、幕府の権威を東北地方に及ぼすための重要な拠点設置事業の一環であった 2 。地頭の職務が軍事警察権のみならず、荘園の管理や年貢の徴収といった行政・経済的な側面を強く持っていたことを鑑みれば、当初の松岬城は、軍事拠点であると同時に、置賜地方における幕府の統治を実効あらしめるための政庁、すなわち「役所」としての機能が中核にあったと考えられる。この軍事と行政の二重の性格こそが、後の時代に伊達氏や上杉氏の「本拠」として機能する素地を形成したのである。
長井氏による約150年間の支配は、南北朝の動乱を経て室町時代に入ると大きな転換点を迎える。康暦二年(1380年)、伊達郡(現在の福島県)に本拠を置く伊達宗遠が置賜地方に侵攻し、長井氏を攻略した 2 。これにより、米沢は伊達氏の勢力圏に組み込まれることとなる。しかし、この時点では米沢城は伊達氏の広大な領国における数ある支城の一つに過ぎず、その名が奥羽の歴史の表舞台に躍り出るまでには、さらに一世紀半以上の歳月と、伊達家内部の深刻な対立という激震を待たねばならなかった。
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
関連城主・人物 |
1238年頃 |
暦仁元年 |
長井時広、松岬城(後の米沢城)を築城。 |
長井時広 |
1380年 |
康暦二年 |
伊達宗遠が長井氏を攻略し、米沢城は伊達氏の支配下に入る。 |
伊達宗遠 |
1548年 |
天文十七年 |
天文の乱終結。伊達晴宗が本拠を桑折西山城から米沢城に移す。 |
伊達晴宗 |
1567年 |
永禄十年 |
伊達政宗、米沢城(または舘山城)で誕生。 |
伊達政宗、伊達輝宗 |
1591年 |
天正十九年 |
豊臣秀吉の命により伊達政宗は岩出山城へ転封。蒲生氏郷の支配下となり、蒲生郷安が城主となる。 |
伊達政宗、蒲生郷安 |
1598年 |
慶長三年 |
上杉景勝が会津120万石に入封。米沢城は直江兼続の居城となる。 |
上杉景勝、直江兼続 |
1600年 |
慶長五年 |
関ヶ原合戦。直江兼続、米沢城から出陣し慶長出羽合戦を戦う。 |
直江兼続 |
1601年 |
慶長六年 |
上杉景勝、米沢30万石に減封。米沢城が米沢藩の藩庁となる。 |
上杉景勝 |
1608年~ |
慶長十三年~ |
直江兼続による米沢城の大改修と城下町の本格的な整備が開始される(三の丸の新設など)。 |
直江兼続 |
伊達氏の支城の一つに過ぎなかった米沢城が、一躍その本拠地へと昇格し、南奥州の政治・軍事の中心となる画期は、戦国史に名高い伊達家最大の内乱「天文の乱」によってもたらされた。それは計画的な首都移転ではなく、骨肉の争いが生んだ政治的帰結であった。
天文11年(1542年)から6年間にわたり南奥羽全域を巻き込んだ天文の乱は、第14代当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗の父子間の深刻な対立が原因であった 6 。稙宗が三男・実元を越後守護・上杉定実の養子として送り込もうとした一件が直接の引き金となったが 4 、その根底には、婚姻政策や養子縁組を駆使して周辺大名を支配下に置こうとする稙宗の急進的な拡大政策に対し、伊達家中の権力が空洞化することを恐れた譜代家臣団の強い反発があった 8 。晴宗は、この家臣団の不満を代弁する形で父に反旗を翻したのである。
当初、稙宗派には蘆名氏や相馬氏といった有力大名が名を連ね、晴宗は劣勢に立たされた 7 。父の権力が色濃い本拠地・桑折西山城を追われた晴宗は、戦局の推移の中で拠点を米沢城へと移す 7 。これは、敵対勢力から地理的に距離を置き、自らを支持する勢力が根強い置賜地方に新たな政治・軍事の中心を築くための、極めて戦略的な決断であった。
やがて、将軍・足利義輝の和睦勧告や、稙宗方の有力大名であった蘆名盛氏の離反などを得て、戦局は晴宗方に有利に傾く 8 。天文17年(1548年)、ついに父子は和睦し、稙宗は隠居。家督を継いだ晴宗は、乱の最中から拠点としていた米沢城を正式に伊達氏の本拠地と定めた 6 。旧来の権力基盤であった桑折西山城は廃城とされ、伊達氏の歴史は米沢の地で新たな章を迎えることになったのである。この本拠地移転は、内乱という政治的断絶を乗り越え、晴宗政権の正統性と刷新性を内外に示すための必然的な選択であり、純粋な地理的・軍事的優位性のみから選ばれたわけではなかった。米沢城は、この新しい伊達氏の領国支配体制の象徴となったのである。
天文の乱を経て伊達氏の本拠地となった米沢城は、永禄10年(1567年)8月3日、戦国時代を象徴する武将の一人、伊達政宗が誕生した場所として長く知られてきた 11 。現在、城跡である松が岬公園内には「伊達政宗公生誕の地」と刻まれた石碑が建立され、その事実を今に伝えている 13 。
しかし、2001年に行われた米沢市教育委員会の調査を契機として、この通説に一石を投じる新たな学説が有力視されるようになった。それは、政宗の生誕地、あるいは伊達氏が当時実質的な本城として機能させていた「御本城」は、平地の米沢城ではなく、その南西約3キロメートルに位置する大規模な山城「舘山城」であったのではないか、というものである 15 。
舘山城は、小樽川と大樽川が合流する天然の要害に築かれ、主郭の全長は約350メートルに及ぶ広大な城域を持つ 15 。発掘調査では、伊達氏が活動した16世紀後半から17世紀初頭にかけての遺構が確認されており、関ヶ原合戦後に上杉氏によって改修された痕跡も見つかっている 16 。さらに、『伊達天正日記』などの同時代の史料には、伊達氏の「御城」が「山上」にあったことを示唆する記述や、「要害之普請」が行われていた記録があり、これらが舘山城を指している可能性が指摘されている 18 。
これらの事実が示唆するのは、戦国後期の伊達氏が、単一の城郭に全ての機能を集約していたわけではない、という可能性である。すなわち、平地の米沢城を政務や儀礼を行う「政庁・居館(オモテ)」として用い、一方で、防備が堅固な山城である舘山城を、有事の際の最終防衛拠点である「詰めの城」や、当主一族が私的な生活を送る「奥向きの館(オク)」として機能させる、一種の「二元支配体制」を敷いていたのではないか。この視点に立てば、世継ぎである梵天丸(政宗の幼名)の誕生という一大事に際し、より防備の固い舘山城が選ばれたと考えるのは、極めて合理的である。この生誕地をめぐる議論は、単なる場所の特定に留まらず、戦国大名の本拠地のあり方や権力構造の複雑さを解き明かす重要な鍵を握っている。
父・輝宗から家督を継いだ伊達政宗は、米沢城(および舘山城)を拠点として、破竹の勢いで勢力を拡大していく。天正17年(1589年)の摺上原の戦いで会津の蘆名氏を滅ぼし、南奥州の覇者としてその名を轟かせた時期、米沢城はまさしく政宗の野望を支える軍事・政治の中枢であった 5 。会津侵攻を目的とした街道の整備や、新たな山城の築城計画など、その戦略は常に米沢を起点としていた 19 。
しかし、その栄華は長くは続かなかった。中央で天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の存在が、政宗の前に大きく立ちはだかる。小田原征伐への参陣が遅れたことを咎められ、苦心の末に獲得した会津領などを没収されるという屈辱を味わう。そして天正19年(1591年)、秀吉による奥州仕置によって、政宗は父祖伝来の地である伊達郡や信夫郡、そして本拠地米沢を含む置賜郡を召し上げられ、旧大崎・葛西領の岩出山城へと転封を命じられた 5 。
これにより、伊達氏による約200年間にわたる米沢支配は、突如として終わりを告げた 15 。それは、一地方勢力としての伊達氏の時代の終焉であり、米沢城が中央政権の巨大な権力構造の中に組み込まれ、その運命を自ら左右できなくなる時代の始まりを意味する出来事であった。
伊達氏が去った後の米沢城は、豊臣政権による全国統治体制の中で、会津を本拠とする大大名の支配下に置かれることとなる。この過渡期は、城郭の性格に新たな変化をもたらす重要な時代であった。
政宗に代わって会津42万石(後に加増され92万石)の領主として入封したのは、織田信長、豊臣秀吉に仕えた智勇兼備の名将・蒲生氏郷であった。氏郷の支配下において、米沢城は彼の筆頭家臣である蒲生郷安に7万石の知行地として与えられ、その居城となった 13 。
郷安は米沢城の改修を行ったと記録されており、これが城の歴史における一つの画期となる 3 。氏郷は、近畿の先進的な築城技術に精通しており、彼が会津に築いた若松城は、壮麗な七層の天守と堅固な高石垣を備えた本格的な近世城郭であった。その重臣である郷安が手掛けた改修には、こうした織豊系の築城思想、例えば曲輪の直線的な区画や石垣技術の一部が導入された可能性が高い。これは、中世以来の伊達氏の城から、後の上杉氏による近世的な城郭・城下町整備へと繋がる、技術的な基盤がもたらされた重要な転換点であったと評価できる。
蒲生氏による米沢支配は、文禄2年(1593年)に郷安が長井郷44ヶ村の神社を合祀して總宮神社を創建するなど 21 、地域の再編成も進められたが、慶長3年(1598年)に氏郷の子・秀行が宇都宮へ転封となったことで、わずか8年で終わりを告げた 20 。
蒲生氏に代わり、越後春日山から会津へ120万石という破格の待遇で移封されたのが、上杉謙信の後継者・上杉景勝であった 20 。この国替えに伴い、米沢城は景勝の執政として絶大な権勢を誇った家老・直江兼続の所領(与力を含め30万石とも)となり、兼続が城主として入城した 13 。
この時点での米沢城は、あくまで会津若松城を本拠とする上杉領の広大な領国における重要支城の一つという位置づけであった。しかし、上杉家臣団の中で「旦那」と尊称され、景勝と共に「二頭政治」を担ったとまで評される中枢人物が城主となったことで、その戦略的重要性は極めて高いものとなる 25 。豊臣政権下で五大老の一角を占める大大名・上杉氏の拠点として、米沢城は新たな緊張の時代を迎えることになったのである。
豊臣秀吉の死は、天下の情勢を再び混沌へと導いた。五大老筆頭の徳川家康と、それに反発する石田三成らの対立が先鋭化する中、上杉景勝と直江兼続は反家康の旗幟を鮮明にする。この決断が、米沢城の運命を決定的に変えることになった。
会津に移った景勝と兼続は、神指城の築城や街道整備、武具の収集といった領国経営と軍備増強を精力的に進めた 26 。これが家康には謀反の準備と映り、景勝に対して釈明のための上洛を厳命する。これに対し、兼続が上杉家の立場を理路整然と、しかし挑発的に述べた返書が、世に名高い「直江状」である。
これにより両者の対立は決定的となり、慶長5年(1600年)、家康は上杉討伐の大軍を率いて会津へ向けて進発する。しかし、家康が下野国小山に至った時、石田三成が畿内で挙兵したとの報が届く。家康は会津攻めを中止し、軍を西へ返すことを決断した 27 。
この好機を逃さず、兼続は2万ともいわれる大軍を率いて米沢城から出陣し、家康方に与した隣国の最上義光領へと侵攻を開始した 21 。これが、関ヶ原の主戦場と連動して東北地方で繰り広げられた「慶長出羽合戦」、通称「北の関ヶ原」である。この戦いにおいて、米沢城は上杉軍の出撃拠点、兵站基地として極めて重要な役割を果たした。
兼続率いる上杉軍は、最上領の諸城を次々と攻略し、その本拠・山形城に迫る勢いであった。しかし、長谷堂城の攻防戦の最中、9月15日の関ヶ原本戦で西軍がわずか一日で壊滅したという衝撃的な敗報が届く 21 。これにより、上杉軍は敵中からの困難な撤退を余儀なくされる。兼続は巧みな采配で追撃を振り切り、全軍を米沢城へと帰還させた。
戦後、西軍に与した上杉氏は、徳川家康から厳しい処分を受けることとなる。家名は存続を許されたものの、会津120万石の領地は没収され、代わりに出羽米沢30万石へと大減封された 22 。
この結果、上杉景勝は本拠を会津若松城から米沢城へと移さざるを得なくなった。かつては家老の居城に過ぎなかった城が、謙信以来の名門・上杉家そのものの本拠地となったのである。これは、軍事的勝利ではなく、政治的敗北の産物であった。収入が4分の1に激減する一方で、多くの家臣を解雇せず召し連れたため、米沢藩は発足当初から極度の財政難という重い十字架を背負うことになった 13 。この「敗戦処理」という出発点こそが、その後の米沢城と城下町の質実剛健な性格を決定づけたのである。
30万石の藩主の居城として、米沢城は新たな姿へと生まれ変わる必要があった。藩主となった上杉景勝の下、執政・直江兼続が中心となって進められた城と城下町の大規模な再設計は、上杉氏の伝統と、財政的困窮という現実、そして藩の存続という未来への願いが込められた、壮大なプロジェクトであった。
兼続が整備した米沢城は、本丸、二の丸、三の丸が同心円状に広がる「輪郭式」の平城である 3 。その最大の構造的特徴は、大名の権威の象徴である天守閣を設けなかった点にある。代わりに、本丸の北東隅と北西隅に三階建ての櫓、いわゆる「御三階」を構築し、これを天守の代用とした 13 。
また、防御の主体は石垣ではなく、高く分厚い土塁であった 13 。これは、上杉氏が長年本拠としてきた越後の春日山城が、石垣をほとんど持たない壮大な「土の城」であった伝統を色濃く受け継ぐものである 32 。この設計思想は、上杉氏のアイデンティティを示すと同時に、減封による深刻な財政難から、莫大な費用を要する大規模な石垣普請が不可能であったという、極めて現実的な理由も反映していた。しかし、実用性を損なうことはなく、近年の発掘調査では、二の丸の堀跡から、堀底を格子状の土手で仕切り、敵兵の自由な移動を妨げる「障子堀」という高度な防御遺構が発見されており 34 、実戦を重視する上杉氏の気風が窺える。
さらに、本丸の役割も独特であった。藩主の居館が置かれただけでなく、その南東の高台には、上杉謙信の遺骸を祀る「御堂」が建立された 30 。これにより、本丸は単なる政治の中心ではなく、藩の精神的支柱である軍神・謙信を祀る聖域としての性格を帯び、藩士の結束を高める装置としても機能したのである。
関ヶ原合戦後、会津から移住してきた数万人にのぼる家臣団とその家族を収容するため、兼続は計画的な城下町、すなわち「町割り」の建設に着手した 24 。
城郭を核として、二の丸には重臣の屋敷と藩の政庁が、そして慶長13年(1608年)からの大拡張工事で新設された三の丸には、上級・中級家臣の屋敷が整然と配置された 30 。三の丸の外側には下級家臣の居住区が広がり、厳格な身分秩序が都市空間として可視化されていた。
都市計画は、防衛思想とも密接に結びついていた。城下の北と東の外縁部には、有事の際に城下町を防衛する拠点(砦)となるよう、多数の寺院を集めた「寺町」が配置された 30 。また、城下の生活用水と農業用水を確保するために開削された掘立川、木場川、御入水堰といった複数の用水路網は 30 、同時に城の堀としての役割も果たしており、都市インフラと防衛機能が見事に融合されていた。主要な道路は、南方に聳える兜山を目印として南北にまっすぐ引かれたと伝えられており、その計画性の高さを示している 37 。
兼続の事業は、城と城下町の建設に留まらなかった。藩が長期的に存続するための基盤固めこそが、彼の真の目的であった。
その象徴が、米沢盆地を流れる暴れ川・最上川(松川)の治水事業である。兼続は自ら鍬を手に指揮を執ったと伝えられ、総延長10キロメートルにも及ぶ大規模な石積みの堤防「谷地河原堤防(通称:直江石堤)」を築き上げた 37 。これは、城下町と農地を水害から守り、領民の生命と財産を保護するという、民政の根幹をなす一大事業であった。
同時に、減封で疲弊した藩財政を立て直すため、殖産興業を強力に推進した 25 。特に、この地方で古くから栽培されていた青苧(あおそ、麻織物の原料)の増産を奨励し、これを京都などに輸出することで、藩の重要な収入源を確保した 25 。これが、後に米沢の主要産業となる「米沢織」の源流である。その他にも、新田開発や鉱山開発、さらには食用となる実用的な樹木の栽培を奨めるなど、その政策は多岐にわたり、米沢藩の経済的基盤を築き上げたのである 25 。
米沢城の戦国時代は、長井氏の行政拠点に始まり、伊達氏の南奥州制覇を支える戦略拠点へと発展し、そして最終的には、存亡の危機に瀕した上杉氏の再生の拠点へと、時代の荒波の中でその役割を劇的に変化させた歴史であった。それは、一城の変遷に留まらず、東北地方における権力の中心が、在地領主から中央政権の代理人へと移り変わっていく、戦国時代の終焉を象徴する物語でもあった。
直江兼続が築いた城と城下町、そして藩政の礎は、物理的な遺産であると同時に、困難に屈せず創意工夫によって道を切り拓くという精神的な遺産でもあった。この遺産は、江戸時代中期、破綻寸前であった藩財政を再建した名君・上杉鷹山へと確かに受け継がれた 42 。鷹山が農民の冬の副業として奨励したことで知られる「笹野一刀彫」 43 や、米沢織を藩の基幹産業へと発展させた改革は、領国の自立的な経済を目指した兼続の精神の延長線上にある。
戦国の記憶をその土塁と堀に深く刻み込んだ米沢城は、江戸時代を通じて米沢藩の政治・文化の中心としてあり続け、その歴史は現代の米沢の街並みと人々の精神に、今なお脈々と生き続けているのである。
時代 |
主要城主・統治者 |
城の役割・性格 |
主な構造的特徴・改修 |
城下町の状態 |
鎌倉・室町 |
長井氏 |
置賜地方の行政・軍事拠点(居館) |
居館程度の小規模なものと推定。 |
未発達。 |
室町・戦国 |
伊達氏(晴宗以前) |
伊達領南方の支城の一つ |
不明。 |
不明。 |
戦国 |
伊達氏(晴宗以降) |
伊達氏の本拠地。南奥州支配の戦略拠点 |
本拠地化に伴う拡張・整備。舘山城との二元体制の可能性。 |
城下町が本格的に形成され始める。 |
安土桃山 |
蒲生氏(蒲生郷安) |
会津若松城の重要支城 |
蒲生郷安による改修。織豊系城郭技術の導入か。 |
地域の再編成が進む。 |
慶長年間~ |
上杉氏(直江兼続) |
米沢藩の藩庁 。藩の政治・経済・精神的中心地 |
大規模な改修。輪郭式平城。天守なし(御三階櫓で代用)、土塁主体、障子堀の採用。本丸に謙信の御堂を設置。 |
計画的な町割りによる大規模な城下町を建設。用水路、寺町などを整備。 |