野辺地城は南部と津軽の境界の要衝。南北朝時代に築かれ、蠣崎蔵人の乱で落城。九戸政実の乱後、南部信直の直轄地となり対津軽の最前線に。江戸時代には代官所として繁栄し、幕末の野辺地戦争の舞台となる。別名「金鶏城」。
陸奥湾の支湾である野辺地湾の最奥部、下北半島の付け根という地勢的に極めて重要な位置に、かつて野辺地城は存在した。この城は、盛岡を本拠とする南部氏の領国において、北方の下北半島への交通路を扼し、また西に接する津軽領を睨む最前線という、二重の戦略的価値を担っていた 1 。その歴史は、単なる一城郭の盛衰に留まらず、北奥羽における勢力争いと経済の変遷を映し出す鏡であった。
野辺地城の特質は、その機能の二面性にある。戦乱の時代には、宿敵・津軽氏に対する軍事的な防衛拠点として、その存在意義を最大限に発揮した 2 。一方で、泰平の世が訪れると、野辺地湊を擁する地の利を活かし、盛岡藩の経済を潤す重要な交易拠点、すなわち藩の北の玄関口としての役割を強めていった 3 。この「軍事」と「経済」という二つの機能は、時代の要請に応じてその重要性を変化させながら、一貫して南部氏の北辺経営の要であり続けた。この機能の変遷こそが、野辺地城の数奇な歴史を読み解く鍵となる。
さらに、この城は「金鶏城(きんけいじょう)」という雅やかな別名でも知られている 5 。この名は、単なる美称に終わらず、地域の繁栄への願いや、歴史の潮流の中で失われた者たちへの記憶を内包している可能性があり、城の無機的な機能だけでは語れない、人々の想いが込められた存在であったことを示唆している。本報告書では、南北朝時代の黎明期から、戦国の動乱、江戸時代の繁栄、そして幕末の戦火を経て廃城に至るまで、この北の要衝・野辺地城の全史を、多角的な視点から徹底的に解き明かすものである。
年代 |
主な出来事 |
関連人物・史料 |
建武2年 (1335) |
伊達五郎宗政が「七戸之内野辺地の地」を賜る記録が残るが、実効支配は不明 5 。 |
伊達五郎宗政 |
南北朝時代 |
七戸南部氏の一族がこの地に進出し、野辺地氏を名乗り、城を築いたと伝わる 1 。 |
七戸南部氏、野辺地氏 |
康正2年 (1456) |
蠣崎蔵人の乱が勃発。蠣崎軍が南部領に侵攻し、野辺地城(金鶏城)を攻撃 1 。 |
蠣崎蔵人 |
康正3年 (1457) |
城を守備していた七戸南部氏一門の菅氏が敗れ、野辺地城は落城する 1 。 |
菅氏、『東北太平記』 |
天正19年 (1591) |
九戸政実の乱。城主であった七戸氏が九戸政実に与したため、豊臣軍に攻められ没落 3 。 |
七戸家国、九戸政実、南部信直 |
天正19年以降 |
野辺地城を含む七戸氏旧領は、南部信直の直轄地となる 3 。 |
南部信直 |
天正20年 (1592) |
『南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上』に「野部地 山城 七戸 将監 持分」と記載。破却を免れる 5 。 |
七戸将監(野辺地直高)、豊臣秀吉 |
慶長3年 (1598) |
石井伊賀が2千石で城主(城代)を務める。対津軽の抑えとして配置される 3 。 |
石井伊賀、『館持支配帳』 |
慶長年間 |
小軽米氏、続いて日戸氏が城代として着任する 3 。 |
小軽米左衛門、日戸内膳 |
寛文5年 (1665) |
七戸代官が野辺地代官を兼務するようになる 5 。 |
野辺地氏(代官) |
享保20年 (1735) |
盛岡藩の通制施行に伴い、正式に「野辺地代官所」が設置される 5 。 |
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明治元年 (1868) |
戊辰戦争の一局地戦である「野辺地戦争」が勃発。盛岡藩兵が代官所を拠点に、侵攻してきた弘前藩兵と交戦し撃退 1 。 |
安宅正路、小島左近 |
明治3年 (1870) |
斗南藩の成立に伴い、野辺地代官所は同藩に接収され、旧会津藩士の移住拠点となる 5 。 |
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明治4年 (1871) |
廃藩置県により、野辺地代官所は廃止され、城の歴史に幕を閉じる 1 。 |
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野辺地城の正確な築城年代や築城主を特定する史料は現存せず、その起源は伝承の域を出ない 1 。しかし、最も有力とされる説は、南北朝時代の動乱期に、糠部郡一帯で勢力を伸張していた南部氏の動きと密接に関連している。当時、南部宗家は一族を領内の要地に配置することで支配網を広げており、その有力な庶流であった七戸南部氏が、下北・上北地方を統治するための拠点としてこの地に一族を派遣し、城を築かせたと考えられている 1 。そして、この地に入った一族が地名から「野辺地氏」を名乗り、初代城主となったと伝えられる 2 。これは、南部氏が広大な領国を経営するために用いた、庶流を土着させて領域支配を確立するという典型的な手法であった。
一方で、建武2年(1335年)に伊達五郎宗政が「七戸之内野辺地の地」を恩賞として賜ったという記録も存在する 5 。しかし、本拠地から遠く離れたこの地を伊達氏が実効支配した可能性は低いと見られており、この記録はむしろ、南北朝期における所領関係がいかに流動的であったかを示す一例として捉えるべきであろう。
野辺地城は、野辺地川の右岸に形成された河岸段丘の先端に築かれた、中世の平山城に分類される 1 。その縄張りは、自然地形を巧みに利用した防御思想に基づいている。城の南側と西側は、野辺地川が刻んだ比高約10メートルの断崖を天然の要害とし、敵の接近を困難にしていた 1 。そして、台地続きとなる北側と東側には空堀を穿つことで、城域を外部から遮断していた 5 。
現在、城の遺構は南東部に残る堀の一部など、ごくわずかである 7 。しかし、江戸時代の代官所時代のものとされる配置図によれば、南の野辺地川を天然の堀とし、三方に堀を巡らせ、北側中央に虎口(城の出入り口)を設けていたことが窺える 7 。これは、中世城郭の基本的な構造を踏襲しつつ、後の時代に改修が加えられた姿であったと考えられる。
室町時代中期、野辺地城は歴史上最初の、そして記録に残る唯一の落城を経験する。康正2年(1456年)、下北半島の田名部を拠点とする蠣崎蔵人が突如蜂起し、南部領へと侵攻した「蠣崎蔵人の乱」である 1 。蠣崎軍は南部方の諸城を次々と攻略しながら南下し、その矛先は野辺地城(当時の記録では金鶏城)にも向けられた 5 。
この時、城を守っていたのは七戸南部氏の一門である菅(かん)氏であったと伝えられる 5 。しかし、その抵抗も虚しく、城は多勢に無勢の状況下でほどなくして陥落したという 1 。この出来事は、当時の野辺地城がまだ小規模な砦の域を出ず、大規模な軍勢の攻撃に耐えうるほどの堅固な城ではなかったことを示唆している。
同時に、この落城は、南部氏の支配体制が抱える構造的な脆弱性を露呈した事件でもあった。城の管理は宗家の直接支配ではなく、庶流の七戸氏、さらにその配下である野辺地氏や菅氏といった在地性の強い小領主に委ねられていた。このような分散的な支配は、平時における地域管理には効率的であったかもしれないが、外部からの大規模な侵攻に対しては、宗家からの迅速な後詰(援軍)がなければ極めて脆いものであった。蠣崎軍の攻撃に対し、城は局地的な戦力のみで対峙せざるを得ず、容易に陥落したのである。この苦い経験は、後の戦国時代における南部宗家による支配権強化と、領国経営のあり方を再考させる一因となった可能性が考えられる。
戦国時代の末期、南部氏の歴史を揺るがす内乱が、野辺地城の運命を劇的に変えることとなる。南部宗家の家督を継いだ三戸城主・南部信直に対し、一族最強の実力者であった九戸城主・九戸政実が反旗を翻した「九戸政実の乱」である。この時、野辺地城を支配下に置いていた七戸城主・七戸家国は、政実方に与した 8 。これは、信直による中央集権化への、旧来の力を持つ庶流たちの根強い反発の表れであった。
しかし、南部信直は豊臣秀吉に援軍を要請。圧倒的な兵力で押し寄せた豊臣方の奥州仕置軍の前に九戸方は敗北し、政実はもとより、彼に味方した七戸氏もまた没落の道を辿った 3 。この結果、野辺地城を含む広大な七戸氏の旧領は、すべて南部信直によって接収されることになった 3 。この瞬間、野辺地城は一庶流の居城という立場から、南部宗家が直接管理する戦略拠点へと、その性格を根本から変えたのである。
九戸の乱の翌年、豊臣政権は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じた。これを受けて南部信直が作成し、提出したのが『南部大膳大夫分国之内諸城破却共書上』である 18 。この史料の中に、「野部地 山城 七戸 将監 持分」として野辺地城の名が記されている 5 。
注目すべきは、南部領内の多くの城がこの時に破却されたにもかかわらず、野辺地城は存続を許されたという事実である 5 。その背景には、九戸の乱とほぼ時を同じくして、南部氏にとって新たな脅威が出現していたことが深く関わっている。南部氏の一族であった大浦為信(後の津軽為信)が津軽地方で独立を果たし、南部氏と敵対関係に入ったのである 19 。これにより、野辺地は南部領の西の境界、すなわち対津軽防衛の最前線という、新たな地政学的重要性を帯びることになった。信直は、領内の城を旧来の権威の象徴としてではなく、機能的な軍事拠点として再評価し、対津軽の「抑え」として不可欠な野辺地城を戦略的に残したのである 2 。
なお、書状に記された「七戸将監」とは、七戸氏系の武将・野辺地直高を指すと考えられている 10 。書状作成時点では旧領主の名が形式的に残されていたが、実質的な支配権は、すでに完全に南部信直の手に移っていた。
九戸の乱は、南部信直にとって旧来の庶流連合体制という古い秩序を「破壊」する機会であった。そして、その跡地に自らの直轄地として野辺地城を再定義し、信頼できる譜代の家臣を送り込むことで、津軽との国境線を明確化し、中央集権的な支配体制という新たな秩序を「創造」した。野辺地城は、この体制転換を象徴する存在となったのである。
その最初の人事が、慶長3年(1598年)の『館持支配帳』に記録されている。「野辺地館二千石 石井伊賀」という記述がそれである 3 。石井伊賀は信直の直臣として、対津軽防衛の重責を担い、初代城主(あるいは城代)として野辺地に着任した。
その後も、野辺地城代は南部宗家から派遣された家臣によって引き継がれていく。石井伊賀に続いたのが、小軽米氏と日戸(ひのと)氏であった 3 。これらの城代の出自は、信直の巧みな人事戦略を物語っている。
時代区分 |
氏族・個人名 |
石高・出自など |
備考 |
戦国時代 |
野辺地氏、菅氏 |
七戸南部氏の庶流 |
在地性の強い領主。蠣崎蔵人の乱で落城を経験 2 。 |
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七戸将監(野辺地直高) |
七戸南部氏の一族 |
九戸政実の乱で七戸氏が没落し、支配権を失う 10 。 |
安土桃山~江戸初期 |
石井 伊賀 |
2,000石。南部信直の直臣 3 。 |
九戸の乱後、対津軽の抑えとして初代城代に着任。 |
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小軽米 左衛門 |
九戸党の一員だったが、乱で信直に味方 22 。 |
忠誠を示した旧敵対勢力を登用。信直の懐柔策の一環か。 |
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日戸 内膳 |
岩手郡日戸村を本拠とする譜代家臣 24 。 |
慶長13年(1608年)に着任。墓が野辺地町常光寺に現存 3 。 |
小軽米氏は元々九戸党に属していたが、乱に際して信直に味方し、その功績によって抜擢された一族である 22 。これは、敵対勢力から寝返った者を要職に就けることで、他の在地領主たちへの懐柔と牽制を同時に行う、信直の高度な政治判断の表れであった。
一方の日戸氏は、岩手郡日戸村を本拠とする古くからの南部家臣であり、慶長13年(1608年)に野辺地城代として移住してきた 24 。こちらは譜代の腹心を最前線に送り込むという、より直接的な支配強化策であった。城代を務めた日戸内膳行秀の墓は、現在も野辺地町の常光寺にあり、当時の歴史を静かに伝えている 3 。
このように、戦国末期の野辺地城は、単なる防衛拠点としてだけでなく、南部信直が中世的な領主連合の盟主から、近世的な戦国大名へと脱皮するための、領国再編の重要な駒として機能したのである。
江戸幕府による治世が確立し、日本全土が泰平の時代を迎えると、野辺地城の持つ軍事拠点としての性格は次第に薄れていった。慶長20年(1615年)の一国一城令の後も、その戦略的重要性から「要害屋敷」として存続を許されたが、その機能の中心は軍事から行政へと徐々に移行していく 9 。
その過渡的な姿を示すのが、寛文5年(1665年)頃の記録である。この時期、七戸城の代官であった野辺地氏が、野辺地城の代官を兼務し、横浜、野辺地、七戸の三地域を治めたとされる 5 。これは、広域行政の拠点として野辺地が認識され始めていたことを示している。
そして享保20年(1735年)、盛岡藩が領内に通制(複数の郡をまとめた行政区画)を敷いた際に、野辺地には正式に「野辺地代官所」が設置された 5 。これにより、野辺地城は名実ともに軍事拠点から、盛岡藩の北辺を統治する行政の中心地へとその役割を転換させたのである。代官には盛岡藩の直参藩士が任命され、おおむね2年程度の任期でその任にあたった 26 。
近世の野辺地代官所が担ったもう一つの、そして極めて重要な機能が、眼前に広がる湊町の管理であった。江戸時代を通じて、野辺地湊は盛岡藩で最も重要な商港の一つとして目覚ましい発展を遂げた 3 。
その繁栄の原動力となったのが、日本海航路を往来する「北前船」の寄港である。蝦夷地(北海道)と大坂を結ぶこの交易船は、野辺地に木綿、塩、日用雑貨といった上方の文物をもたらし、同時に南部領内の産品を全国市場へと運び出す役割を果たした 3 。
特に、盛岡藩の財政を根底から支えた二大産品の積出港となったことで、野辺地湊の重要性は飛躍的に高まった。一つは、藩の直営であった尾去沢鉱山で産出される「御登銅(おのぼせどう)」である。当初は日本海側の能代湊が利用されていたが、明和2年(1765年)以降、野辺地湊が主要な積出港となった 4 。もう一つは、二戸以北の領内で生産された「御登大豆(おのぼせだいず)」であり、これらはいずれも大坂の蔵屋敷へと送られる藩の重要物資であった 4 。
この交易による富は、湊町野辺地に大きな賑わいをもたらした。文政10年(1827年)には、湊の豪商・野村治三郎らの手によって、夜間の航行の安全を祈る「常夜燈」が浜町に建立された 4 。現存するこの常夜燈は、当時の野辺地の繁栄を今に伝える貴重な証人である。
この時代の野辺地の役割転換は、盛岡藩の巧みな「北辺経営戦略」の成功を物語っている。藩は、津軽藩との間に藩境塚を設けるなど、軍事的な緊張関係を維持することで国境の安全を確保した 1 。そして、その安定した状況下で野辺地湊の経済的価値を最大限に引き出し、北の防衛線を、藩の財源を生み出す拠点へと変貌させたのである。野辺地代官所の設置は、この経済的利益を藩が直接管理し、確実に吸収するための統治システムに他ならなかった。それは、盛岡藩の「富国強境(国境を豊かにし、強くする)」政策を実践する、極めて重要な出先機関であった。
200年以上にわたって続いた泰平の世は、幕末の動乱によって破られた。そして、野辺地は再び歴史の表舞台に、今度は戦場として登場することになる。明治元年(1868年)9月、戊辰戦争の末期に勃発した「野辺地戦争」である。
奥羽越列藩同盟に加盟し、旧幕府方として戦っていた盛岡藩は、9月22日に新政府軍への降伏を決定した。しかし、その報が伝わる間隙を縫って、いち早く同盟を離脱し新政府軍側についていた弘前藩と黒石藩の兵が、翌23日に突如として藩境を越え、野辺地へと侵攻した 1 。この軍事行動は、戊辰戦争という大きな枠組みの中で、戦国時代から続く南部氏と津軽氏の数百年にわたる宿怨が噴出した、最後の局地戦であった 1 。
不意を突かれた盛岡藩であったが、野辺地代官所に詰めていた藩兵は、代官所を拠点として果敢に防戦した。一時は弘前藩兵に城下まで攻め込まれる激戦となったが、安宅正路率いる盛岡藩の援軍が駆けつけたことで形勢は逆転 5 。弘前藩兵は大きな打撃を受け、部隊長であった小島左近が戦死するに至り、敗走した 5 。この一日限りの戦闘で、弘前藩側は27名から29名、盛岡藩側は6名の戦死者を出した 1 。
しかし、この戦いは既に盛岡藩が降伏した後に行われたものであったため、新政府からは公的な戦闘とは認められず、「私闘」として処理された 5 。この出来事は、江戸幕府という中央の権威が揺らいだ瞬間に、近世を通じて潜在化していた「国境」の軍事的意味がいかに容易に再燃するかを象徴している。野辺地代官所は、その歴史の最後に、再び原点である「境界の砦」としての役割を演じることになったのである。
戊辰戦争の終結後、敗者となった会津松平家は、旧盛岡藩領の北部、下北半島一帯に3万石で移封され、斗南藩が立藩された。これに伴い、野辺地代官所は斗南藩に接収される 5 。そして、会津から海路で移住してくる多くの旧会津藩士たちを最初に迎え入れる、重要な中継地点としての最後の役割を果たした 5 。かつて北前船で賑わった港が、今度は敗戦藩の苦難の歴史の舞台となったのである。
目まぐるしく動いた幕末維新の時代も、やがて終わりを告げる。明治4年(1871年)、廃藩置県が断行されると、斗南藩は消滅し、野辺地代官所もその役目を完全に終えた。ここに、南北朝の時代から約500年にわたって北の要衝として存在し続けた野辺地城は、静かにその歴史の幕を下ろしたのである 1 。
野辺地城の歴史を語る上で、その別名である「金鶏城」の由来は避けて通れない謎である。この名を深く理解するためには、まず日本全国に分布する「金鶏伝説」の類型を知る必要がある。
金鶏伝説とは、特定の場所に黄金でできた鶏が埋められており、元旦の朝など特別な時に、その鳴き声が地中から聞こえてくるという伝承を基本形とする 31 。この伝説はしばしば地域の「長者伝説」と結びつき、富を築いた長者が没落する際に財宝と共に金の鶏を埋めた、という物語を伴うことが多い 33 。また、源義経のような悲劇の英雄や、落城の際に井戸に身を投げた姫君の物語と融合し、失われた過去への追憶を語ることもある 31 。さらに、奥州藤原氏の栄華を伝える平泉の金鶏山のように、地域の鎮護や永続的な繁栄を願う思想と結びつく例も見られる 36 。これらの伝説は、人々の富への憧れ、過去への郷愁、そして未来への祈りが「金の鶏」という象徴的な存在に託されたものと言える。
野辺地城がなぜ「金鶏城」と呼ばれたのか。その直接的な経緯を記した史料は存在しない。しかし、野辺地の歴史的背景と金鶏伝説の類型を照らし合わせることで、いくつかの説得力ある仮説を立てることができる。
仮説A:湊町の繁栄祈願説
最も有力な仮説の一つは、江戸時代の湊町の繁栄と結びつけるものである。北前船の往来によって野辺地にもたらされた莫大な富と活気。この繁栄が永遠に続くことを願った人々が、富の象徴である「金鶏」の名を、町のランドマークであった城に冠したのではないか。
仮説B:失われた城主への追憶説
もう一つの可能性は、戦国時代に歴史の舞台から姿を消した旧城主たちへの追憶である。九戸の乱で滅亡した七戸氏や、それ以前に城を治めていたとされる野辺地氏、蠣崎の乱で城と運命を共にした菅氏。彼らの失われた栄華を偲び、その財宝や記憶が城の地下に眠っているという物語が、「金鶏城」という伝説として昇華された可能性も考えられる。
仮説C:文化的伝播説
野辺地が全国的な交易網の結節点であったことも見逃せない。北前船で来航した西日本の船乗りや商人たちがもたらした各地の金鶏伝説が、この地に定着し、野辺地城の別名として根付いたという可能性である。
これらの仮説は、いずれも排他的なものではなく、複合的に影響し合って「金鶏城」という名が形成されたのかもしれない。「金鶏城」という名称は、史実を記録する「歴史」の領域ではなく、人々の願いや記憶が投影される「伝承」の領域に属する。しかし、この詩的な別名の存在こそが、野辺地城が単なる軍事・行政施設ではなく、地域住民にとっての精神的な支柱、あるいは物語の舞台として深く認識されていたことを何よりも雄弁に物語っている。
その証左に、野辺地出身で近代日本を代表する歴史学者の一人である松本彦次郎博士は、故郷の城にちなんだ「金鶏城」を自らの俳号として用いている 37 。この事実は、「金鶏城」という名が近代に至るまで、地域の文化人にとって重要なアイデンティティの一部であり続けたことを示している。
数世紀にわたる歴史を閉じた野辺地城は、現在、その面影をわずかに留めるのみである。城跡の中心部は、野辺地町中央公民館、町立図書館、そして町立歴史民俗資料館といった公共施設の敷地へと姿を変えた 1 。
しかし、その歴史的価値が忘れ去られたわけではない。城跡は「野辺地代官所跡」として野辺地町の史跡に指定されており、公民館へ向かう入口付近にはその事実を伝える石碑が建てられている 7 。往時を偲ばせる数少ない遺構として、敷地の南東側には中世城郭の姿を伝える空堀の一部が今も残存している 7 。さらに、周辺一帯には「城内(じょうない)」という地名が現在も使われており、かつてこの地に城郭が存在したという記憶を地域社会に色濃く刻み込んでいる 6 。
城跡に建つ野辺地町立歴史民俗資料館は、野辺地城とその城下町の歴史を後世に伝える上で中心的な役割を担っている 3 。館内には、野辺地代官所ゆかりの品々をはじめ、江戸時代の湊町の繁栄を物語る北前船の交易資料、そして幕末の動乱を伝える野辺地戦争に関する資料などが展示されている 3 。これらの展示は、特に近世以降の「代官所」と「湊町」としての野辺地の歴史を学ぶ上で、極めて重要な価値を持つ。
一方で、戦国期以前の「城」としての野辺地城に直接関わる出土品や資料の展示は限定的である。これは、現存する文献史料が近世以降に偏っていることや、城跡そのものに対する本格的な発掘調査がこれまで十分に行われてこなかったことを反映している。
野辺地城跡の現状は、歴史の「重層性」と、後世における「選択的な記憶」を体現していると言える。地中には中世・戦国時代の城郭の記憶が眠り、地表には近世の代官所の碑が立ち、その上には現代の公共施設が機能している。そして、語り継がれる歴史は、史料が豊富で物語性に富む近世の「湊町の繁栄」と、劇的な幕末の「野辺地戦争」に光が当たりがちである。これは、より古い時代の記憶が、後の時代のより鮮明な記憶によって上書きされていくという、歴史継承の一般的な姿を示している。
この埋もれた記憶を掘り起こし、野辺地城の戦国期における正確な縄張りや構造、そして時代ごとの変遷を解明するためには、今後の体系的な考古学的調査が不可欠である。発掘調査によって、文献史料だけでは知り得なかった新たな事実が明らかになることで、野辺地城の歴史的価値はさらに深まるに違いない。
野辺地城の歴史は、南北朝時代における南部氏の領域拡大の一拠点として始まり、戦国時代には津軽氏の独立という新たな脅威に対する最前線の砦としてその重要性を高めた。江戸時代には軍事拠点から行政・経済の中心地へと巧みに役割を変え、盛岡藩の財政を支える北の玄関口として繁栄を謳歌した。そして幕末、戊辰戦争の戦火の中で再び「境界の砦」としての原点に立ち返り、その長い歴史に幕を下ろした。
約500年以上にわたるその歩みは、常に時代の要請に応じ、その姿を変えながらも、一貫して南部氏の北辺経営における要衝であり続けたことを示している。野辺地城の歴史は、単なる一つの城の物語ではない。それは、南部氏の領国経営史そのものであり、北前船が繋いだ北日本の交易史であり、そして津軽と南部の間に横たわる、長く複雑な関係史を映し出す、極めて貴重な証左なのである。
今日、城郭としての物理的な遺構はわずかしか残されていない。しかし、「城内」という地名、「金鶏城」という伝説、そして地域の博物館に収められた数々の資料の中に、北の境界に生きた城郭の記憶は、今なお確かに刻まれ続けている。