木曽三川の要衝長島城は、一向一揆の拠点となり信長と激戦。二万の命が失われた悲劇の末、信長に殲滅された。その後も支配者を変え、江戸時代には藩庁として機能。今は遺構が残る。
伊勢国北部に位置する長島は、木曽川、揖斐川、長良川という日本有数の大河が伊勢湾に注ぐ、広大なデルタ地帯に形成された土地である 1 。古来より洪水と戦い続けてきたこの地の人々は、集落の周囲を堤防で囲む「輪中(わじゅう)」と呼ばれる独特の生活圏を築き上げてきた 1 。この複雑な河川網と無数の中洲が織りなす地形は、平時においては水運の利をもたらす一方、有事の際には外部からの侵攻を阻む天然の要害と化した。
戦国時代、長島は尾張と伊勢を結ぶ交通の要衝であり、その地政学的な重要性は極めて高かった 3 。同時に、中央権力の影響が及びにくいこの土地は、一種の避難所(アジール)としての性格を帯び、独自の自治圏を形成する土壌ともなっていた 5 。この特異な地理的・社会的背景を持つ地に築かれたのが長島城である。
当初は在地土豪の拠点に過ぎなかったこの城は、やがて浄土真宗本願寺教団の強大な影響下に置かれ、日本史上でも最大規模の宗教一揆「長島一向一揆」の司令塔へと変貌を遂げる。そして、天下布武を掲げる織田信長と、信仰に命を懸ける門徒たちとの間で、前代未聞の壮絶な死闘が繰り広げられる舞台となった。本報告書は、戦国時代という視点から長島城を多角的に分析し、その創築から一向一揆の拠点としての役割、信長との三度にわたる攻防、そして落城後の変遷と現代に残る痕跡までを徹底的に調査するものである。特に、この城がなぜ、約二万人の命が失われるという日本史上類を見ない悲劇の舞台となったのか、その歴史的経緯と構造的要因を深く探求することを目的とする。
年代 |
主な出来事 |
典拠 |
寛元3年 (1245) |
藤原道家が館を築いたと伝わる |
6 |
文明14年 (1482) |
伊藤重晴が城を再建 |
1 |
元亀元年 (1570) |
9月 |
石山本願寺、信長に対し挙兵(石山合戦開始) |
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11月 |
長島一向一揆勢、長島城を奪取。小木江城を攻め、織田信興が自刃 |
元亀2年 (1571) |
5月 |
第一次長島攻め 。織田軍、氏家卜全を失い敗退 |
天正元年 (1573) |
9-10月 |
第二次長島攻め 。織田軍、北伊勢の諸城を攻略するも撤退。林通政が戦死 |
天正2年 (1574) |
7-9月 |
第三次長島攻め 。水陸からの完全包囲と兵糧攻めにより落城。一揆勢約2万人が虐殺される |
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9月 |
滝川一益が長島城主となる |
天正11年 (1583) |
7月 |
賤ヶ岳の戦後、滝川一益が長島城を開城し、秀吉に降伏 |
天正13年 (1586) |
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天正地震により天守が倒壊 |
慶長6年 (1601) |
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菅沼定仍が入封し、長島藩が立藩 |
元禄15年 (1702) |
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増山正弥が入封。以後、増山氏が代々藩主となる |
明治5年 (1872) |
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廃藩置県により廃城 |
長島城の起源については、寛元3年(1245年)に前関白の藤原道家がこの地に館を築いたという伝承が残されている 6 。これが史実であるかは定かではないが、古くからこの地が何らかの拠点として認識されていたことを示唆している。
城郭としての性格が明確になるのは、室町時代後期の文明年間(1469-87年)である。特に文明14年(1482年)、北伊勢の在地領主連合である「北勢四十八家」の一人、伊藤重晴がこの地に城を再建したとされ、これが実質的な長島城の始まりと考えられる 1 。これにより、長島城は伊勢・尾張国境における在地土豪の軍事拠点としての役割を担うこととなった。その後、永禄4年(1561年)には、服部左京進友定が南伊勢の雄である北畠氏の勢力下で城を修造したとの記録もあり、伊勢国内の複雑な勢力争いの中で、長島城が戦略的価値を持つ拠点として注目されていたことがうかがえる 7 。
この時期の長島城は、あくまで地域の一領主の居城であった。しかし、その支配は盤石ではなかった。城の外では、新たな勢力が着実にその影響力を拡大していた。それは、やがて城の運命を、そしてこの地の全てを呑み込むことになる宗教勢力、浄土真宗本願寺教団であった。一向一揆による長島城の占拠は、単に外部から来た宗教集団が城を乗っ取ったという単純な出来事ではない。それは、既存の在地権力である伊藤氏らと、新たにこの地で勢力を拡大した本願寺門徒との間で繰り広げられた、地域支配権を巡る闘争の必然的な帰結だったのである。
長島における本願寺教団の歴史は、本願寺第8世宗主・蓮如の六男である蓮淳がこの地に願証寺を創建したことに始まる 16 。創建年には諸説あるものの、15世紀末から16世紀初頭にかけてのこととされる 17 。願証寺は代を重ねるごとに、地域の農民や漁民だけでなく、近隣の国人領主層をも門徒として組織化し、長島一帯に強固な宗教的・経済的基盤を築き上げていった 16 。
その力関係が劇的に変化したのは、元亀元年(1570年)のことである。当時、織田信長と対立を深めていた石山本願寺の第11世宗主・顕如は、全国の門徒に向けて信長打倒を命じる檄文を発した 9 。これに呼応した長島の願証寺を中心とする門徒たちは一斉に蜂起。彼らはまず、長年この地を支配してきた長島城主・伊藤氏一族を武力で追放し、その城を自らの拠点として掌握したのである 6 。ここに、在地領主の城であった長島城は、反信長を掲げる巨大な宗教的武装勢力「長島一向一揆」の司令塔へと完全に変貌を遂げた。
長島一向一揆を率いたのは、現地の指導者と石山本願寺から派遣された幹部であった。
一揆の構成員は、熱心な浄土真宗の門徒だけではなかった。信長によって美濃を追われた斎藤龍興のような浪人武士 8 、周辺の反信長的な小豪族 20 、さらには紀伊半島を拠点とする傭兵集団である雑賀衆なども加わり、その勢力は数万規模に膨れ上がった 10 。
この事実から、長島城とそれを拠点とする一向一揆は、単なる宗教反乱の域を超えていたことがわかる。それは、「打倒信長」という共通の目的の下に、信仰者、敗残の武士、傭兵といった多様な集団が集う、一種の軍事同盟のハブ拠点としての機能を果たしていた。信仰は彼らを結びつける強力な核であったが、その実態はより複雑な政治的・軍事的連合体だったのである。信長が後に長島に対して徹底的な殲滅戦を行った背景には、単に宗教勢力を憎んだだけでなく、この反信長ネットワークの最重要拠点を物理的に、そして完全に消滅させるという冷徹な戦略的判断があったと考えられる。
長島城を拠点とする一向一揆と織田信長との戦いは、約4年間にわたり、三度の大きな軍事侵攻をもって行われた。それは、信長の軍事的天才性と残虐性、そして門徒たちの信仰の強さと絶望的な抵抗が交錯する、戦国史上最も凄惨な戦いの一つであった。
本格的な侵攻に先立ち、信長の怒りに火を付ける事件が起こる。元亀元年(1570年)11月、蜂起した一揆勢は、長島の北方に位置する尾張・小木江城を大軍で包囲攻撃した。城を守っていたのは信長の弟、織田信興であった。信興は奮戦するも衆寡敵せず、ついに自刃に追い込まれた 8 。肉親を殺害されたこの一件は、信長に長島一向一揆に対する個人的な憎悪を植え付け、後の苛烈な対応に繋がる重要な伏線となった。
弟の仇を討つべく、信長は元亀2年(1571年)5月、満を持して最初の長島侵攻を開始した。
第一次攻勢の失敗から2年後の天正元年(1573年)9月、信長は戦略を大きく転換し、二度目の侵攻に乗り出した。この時、彼は浅井・朝倉両氏を滅ぼしており、後顧の憂いを減らして長島に戦力を集中させることが可能となっていた 10 。
二度の失敗を経て、信長の怒りと憎悪は頂点に達した。天正2年(1574年)7月、彼は織田家の総力を結集し、長島の完全なる根絶やしを目的とした、第三次にして最後の侵攻を開始した。前年に武田信玄が病死したことも、信長が全精力をこの戦いに注ぎ込むことを可能にした 17 。
この長島における「根切り(皆殺し)」は、単なる報復行為に留まらない。それは、比叡山焼き討ちなどにも見られる、自らの支配に従わない宗教的権威を完全に否定し、武力によって屈服させるという信長の一貫した政策の頂点を示すものであった。俗世の権力が宗教的権威に優先するという新たな秩序を、最も残虐な形で見せつけた、天下布武の過程における思想的・政治的宣言だったのである。こうして、4年間にわたる死闘の末、長島城は陥落し、門徒たちの王国は地上から抹消された。
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第一次長島攻め |
第二次長島攻め |
第三次長島攻め |
年月 |
元亀2年 (1571) 5月 |
天正元年 (1573) 9-10月 |
天正2年 (1574) 7-9月 |
織田軍規模 |
約5万 11 |
数万 10 |
8万~12万 9 |
主要指揮官 |
信長, 佐久間信盛, 柴田勝家 |
信長, 柴田勝家, 滝川一益, 羽柴秀吉 |
信長, 信忠, 滝川一益, 九鬼嘉隆 |
織田軍戦術 |
三方面からの直接攻撃 |
周辺拠点からの攻略(孤立化作戦) |
水陸からの完全包囲、兵糧攻め、殲滅 |
一揆勢戦術 |
砦での籠城、地形を活かした待ち伏せ |
籠城、撤退時の追撃 |
籠城、餓えに耐えかねての降伏、決死の反撃 |
結果 |
織田軍の敗退 |
北伊勢平定(限定的成功) |
織田軍の圧勝、一揆勢の壊滅 |
主要な損害 |
氏家卜全 戦死 20 |
林通政 戦死 10 |
織田信広, 秀成ら一門衆 戦死 9 |
一向一揆の血で染まった長島城は、その後、新たな支配者を迎え、その役割を大きく変えていくことになる。
一揆鎮圧後、長島城と北伊勢五郡は、この戦いで多大な功績を挙げた織田家重臣・滝川一益に与えられ、彼の居城となった 8 。鉄砲の名手であり、水軍の将としても知られた一益にとって、伊勢湾に面した長島はまさに本拠地としてふさわしい場所であった 33 。
しかし、その支配は長くは続かなかった。天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、一益の運命は暗転する。当時、関東管領として上野国にいた一益は、変報に接し急ぎ畿内へ戻るも、織田家の後継者を決める清洲会議には間に合わなかった 8 。翌天正11年(1583年)、羽柴秀吉と柴田勝家が対立した賤ヶ岳の戦いでは、勝家方に与した一益は長島城を拠点に秀吉軍と対峙した 8 。しかし、賤ヶ岳で勝家が敗死すると、長島城は秀吉の大軍に包囲される。一益はしばらく籠城して抵抗を続けたが、ついに降伏。領地を全て没収され、剃髪して歴史の表舞台から退くこととなった 13 。
一益の退去後、長島城は信長の次男・織田信雄、次いで豊臣秀次が城主となったとされる 7 。しかし、天正13年(1586年)に発生した天正地震により、城は天守が倒壊するなど甚大な被害を受けた 12 。この地震を機に、信雄は本拠を清洲城へと移している。
関ヶ原の戦いを経て江戸時代に入ると、長島城は徳川幕府の藩庁として新たな役割を担う。
この江戸時代を通じて、城郭は順次拡大・整備されたが、天正地震で失われた天守が再建されることはなかった 6 。この事実は、長島城の性格が、戦乱の世における最前線の「軍事拠点」から、泰平の世における「行政拠点」へと大きく転換したことを象徴している。もはや大規模な籠城戦を想定する必要がなくなり、城の機能が軍事から統治へとシフトしたのである。
大政奉還を経て明治時代に入ると、長島城はその歴史的役割を終える。明治5年(1872年)の廃藩置県に伴い、長島城は廃城となり、その長い歴史に幕を下ろした 1 。
かつて壮絶な攻防戦が繰り広げられた長島城は、現在その面影の多くを失っている。しかし、断片的に残された遺構や記録から、その姿を偲ぶことができる。
現地の案内板などに残る縄張り図によれば、長島城は本丸と二の丸を内堀が囲み、さらにその外側を三の丸と外堀が囲むという、輪郭式の堅固な構造であった 2 。城の東側は、当時長島川と呼ばれた川を天然の堀として巧みに利用していた 2 。城の中心部である本丸跡は、現在の桑名市立長島中部小学校および長島中学校の敷地にあたる 12 。
城跡の大部分は学校や宅地となり、遺構の多くは失われたが 12 、今なお歴史を伝える貴重な痕跡が点在している。
一方で、かつて深行寺(じんぎょうじ)に移築されていた奥書院は、平成5年(1993年)の建て替えにより失われている 6 。
長島城の遺構が極端に少ないという事実は、この土地が経験した二重の「破壊」を物語っている。第一の破壊は、信長による徹底的な攻撃と、その後の天正地震による倒壊である。第二の破壊は、明治維新後の廃城令による建造物の解体・払い下げと、近代化の過程における学校建設などの開発である。戦国時代の意図的な「殲滅」と、近代の意図的な「再利用」という、時代の異なる二つの力が、この城の物理的な記憶を地上から消し去っていったのである。
一向一揆の司令塔であった願証寺もまた、その場所を変えている。元の一揆時の寺院は、明治時代の河川改修工事によって長良川の川底に沈んでしまった 8 。現在の願証寺は、江戸時代に再建されたものであり、その境内には、壮絶な戦いで命を落とした門徒たちを弔う「長島一向一揆殉教之碑」が静かに建立されている 8 。
伊勢長島城は、戦国時代の日本の城郭の中でも、極めて特異な歴史を持つ城である。その歴史的意義は、多層的な象徴性に集約される。
第一に、輪中という地理的条件を最大限に活かした難攻不落の「水上要塞」であったこと。複雑な河川網と砦のネットワークは、織田信長という当代随一の軍事的天才を二度までも退けた。
第二に、強固な信仰で結ばれた門徒たちが自治を求めた「宗教的アジール」であったこと。それは、中央権力に抗い、自らの信じる世界を築こうとした人々の拠点であり、その結束力は織田の大軍を震撼させた。
そして第三に、織田信長の天下布武の過程における非情さと合理性を最も色濃く示す「殲滅戦の舞台」であったこと。降伏者や非戦闘員を含む約二万人の命が奪われた悲劇は、信長が既存の宗教的権威を武力で完全に屈服させ、世俗権力の下に置こうとする強烈な意志の表れであった。長島一向一揆の鎮圧は、石山合戦の重要な一局面であると同時に、信長の統一事業における思想的側面を象徴する事件であった。
現代において、長島城の物理的な遺構は乏しい。しかし、蓮生寺に移築された大手門、小学校の庭に立つ大松、そして願証寺の殉教之碑は、この地で繰り広げられた信仰と抵抗、そして殲滅の歴史を雄弁に物語る貴重な語り部である。長島城の歴史は、単なる過去の出来事としてではなく、信仰とは何か、戦争とは何か、そして権力とは何かという、普遍的な問いを我々に投げかけ続けている。その記憶を継承し、教訓を未来に伝えていくことこそが、現代に課せられた責務であろう。