長島願証寺は、輪中を要塞とした信仰共同体。織田信長と三度にわたる激戦を繰り広げ、二万人が犠牲となるも、その記憶は現代に語り継がれる。
伊勢国北部に位置し、木曽三川の河口デルタに浮かぶ長島は、戦国時代において比類なき特異性を放つ存在であった。一般に「長島願証寺」は、織田信長と壮絶な死闘を繰り広げた一向一揆の拠点として知られる。しかし、これを単なる「城」あるいは「寺」として捉えることは、その本質を見誤らせる。長島願証寺とは、浄土真宗本願寺派の教えの下に結束した信仰共同体が、輪中と呼ばれる特異な地理環境を利用して築き上げた、寺院、城砦群、そして自治共同体という三つの顔を持つ複合的社会システムであった。それは、戦国大名の支配を拒絶し、独自の法と秩序を維持した「半独立的武装宗教自治都市」とでも言うべき存在だったのである。
本報告書は、この戦国史に類例の少ない社会システムが、如何にして生まれ、如何にして発展し、そして如何にして第六天魔王と恐れられた織田信長の前に滅び去ったのか、その興亡の全貌を多角的に解き明かすことを目的とする。その歴史は、信仰と政治、中央集権と地方分権、そして伝統的共同体と新たな支配者との間の、壮絶な闘争の縮図に他ならない。まず、この長きにわたる闘争の全体像を把握するため、関連年表を以下に示す。
【表1:長島一向一揆 関連年表】
西暦(和暦) |
長島・本願寺側の動向 |
織田信長側の動向 |
関連する国内外の出来事 |
1501年(文亀元年)頃 |
本願寺蓮如の六男・蓮淳が伊勢長島に願証寺を創建 1 。 |
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1564年(永禄7年) |
証恵が死去し、子の証意が願証寺第四世住持となる 3 。 |
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1567年(永禄10年) |
斎藤龍興が稲葉山城を追われ、長島へ亡命 5 。 |
稲葉山城を攻略し、岐阜城と改名。美濃を平定。 |
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1569年(永禄12年) |
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北畠家を攻め、伊勢の大部分を支配下に置く 7 。 |
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1570年(元亀元年) |
門徒が長島城主・伊藤重晴を追放 5 。9月、本願寺顕如の檄文に応じ蜂起 5 。11月、尾張・小木江城を攻略し、織田信興を自害させる 8 。 |
9月、野田・福島城の戦いで三好三人衆と対陣。 |
石山合戦勃発。浅井・朝倉氏らによる信長包囲網が形成される。 |
1571年(元亀2年) |
5月、第一次長島侵攻に対し、地形を活かした戦術で織田軍を撃退。氏家卜全らを討ち取る 9 。住持・証意が死去し、子の顕忍が跡を継ぐ 11 。 |
5月、約5万の兵で第一次長島侵攻を敢行するも惨敗 8 。9月、比叡山延暦寺を焼き討ち。 |
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1573年(天正元年) |
9-10月、第二次長島侵攻に対し、長島本体の防衛に成功 13 。 |
8月、浅井・朝倉氏を滅ぼす。9月、第二次長島侵攻。周辺の城砦を攻略するも、長島本体への攻撃は断念し撤退 7 。 |
7月、足利義昭を追放し、室町幕府が滅亡。武田信玄が死去。 |
1574年(天正2年) |
7-9月、第三次長島侵攻で陸海から完全包囲され、兵糧が尽きる 9 。9月29日、降伏勧告に応じた下間頼旦らが謀殺され、残る門徒約2万も焼き殺され壊滅 7 。 |
7月、約8万の兵と九鬼水軍を動員し、第三次長島侵攻を開始。9月、一揆勢を殲滅し、長島を平定 13 。 |
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長島願証寺の強大化は、単なる偶然の産物ではない。それは、本願寺教団の周到な布教戦略、木曽三川が育んだ特異な地理環境、そして時代の変動が生んだ政治的空白という三つの要素が、奇跡的なまでに融合した結果であった。
15世紀後半、浄土真宗本願寺派は、第八世法主・蓮如の登場によって爆発的な発展を遂げる 16 。蓮如は比叡山延暦寺による弾圧を逃れ、各地を転々としながらも、平易な言葉で書かれた「御文(御文章)」を用いて民衆に教えを広め、強力な教団組織を築き上げた。彼の戦略の核心は、血縁者を各地の拠点に派遣し、地域教団を統括させることにあった。
伊勢長島における願証寺の創建も、この戦略の一環であった。文亀元年(1501年)頃、蓮如の六男である蓮淳がこの地に一宇を建立したのがその始まりである 1 。蓮淳は単なる蓮如の子であるだけでなく、後に第十世法主となる証如の外祖父という極めて重要な立場にあった 2 。この血縁的権威を背景に、長島願証寺は伊勢・尾張・美濃三国の末寺や道場を統括する「方面本山」としての地位を確立していく 2 。それは、単なる一地方寺院ではなく、本願寺中央と直結した、この地方における教団の司令塔であった。木曽川の水運に携わる者たちで構成された「河野門徒団」などもその勢力下にあり、願証寺は地域社会に深く根を張った一大勢力へと成長したのである 2 。
願証寺の発展を語る上で、その立地である「輪中(わじゅう)」地帯の特殊性を無視することはできない。木曽川、揖斐川、長良川の木曽三川が伊勢湾に注ぐこの地域は、無数の支流と中洲が網の目のように広がる広大なデルタ地帯である 5 。古来より洪水に悩まされ続けたこの地の人々は、自らの集落や耕地を守るため、その周囲を堤防でぐるりと囲む生活様式を生み出した。これが「輪中」である 20 。
輪中は、治水のための共同体であると同時に、外部からの侵入を拒む強固な防御共同体でもあった。一度堤防が切れれば地域全体が水没する過酷な環境は、住民に「輪中根性」とも呼ばれるほどの強い連帯感と排他性を育んだ 23 。この閉鎖的で強固な団結力を持つ社会基盤に、願証寺を中心とする一向宗の教えが浸透したのである。治水のために団結していた共同体が、「南無阿弥陀仏」の旗印の下、現世での救済と来世での往生を約束する信仰共同体へと昇華し、外部の支配を拒む武装宗教共同体へと進化を遂げたのは、必然的な帰結であった。
さらに、大小の中洲が点在し、複雑な水路が天然の堀となるこの地形は、大軍の侵攻を極めて困難にする 9 。土地勘のない敵にとっては、どこが道でどこが川かも判然としない迷宮であり、少数の兵で大軍を翻弄することが可能な天然の要塞であった。
信仰と地理的優位性を背景に、長島は次第に周辺大名の支配が及ばない治外法権的な地域、すなわち「アジール(避難所・聖域)」としての性格を帯びていく。1567年(永禄10年)、織田信長に稲葉山城を追われた美濃の斎藤龍興がこの地に逃げ込んできたことは、その象徴的な出来事である 5 。信長が美濃を手中に収めてもなお、長島は彼の支配を公然と拒否し、その敵対者を匿う独立勢力として存在し続けた。
そして元亀元年(1570年)、その独立性はより先鋭化する。願証寺の門徒たちは、長島を治めていた城主・伊藤重晴を武力で追放し、この地を完全に掌握したのである 5 。これは、本願寺顕如による信長打倒の檄文が発せられる以前の出来事であり、長島の武装蜂起が信長との全面対決を待たずして、すでに始まっていたことを示している。
信長にとって、自身の本拠地である尾張・美濃の目と鼻の先に、このような独立国家が存在することは断じて許容できるものではなかった。ましてや、その国家が自らの敵を匿い、公然と反旗を翻すとなれば、両者の衝突はもはや避けられない運命であった。本願寺顕如の檄文は、すでに燻っていた火種に油を注ぐ、最後の引き金に過ぎなかったのである。
元亀元年(1570年)、織田信長と石山本願寺の対立が顕在化すると、長島は信長包囲網の東の要として、その真価を発揮することになる。それは地域的な反乱ではなく、全国規模の戦争の一環として発動された、高度に戦略的な蜂起であった。
天下統一を進める信長は、大坂の石山本願寺が位置する戦略的要地の明け渡しを要求した 6 。これに対し、第十一世法主・顕如は、信徒の寄進によって成り立つ寺領を世俗の権力者に渡すことは仏法への違背であるとして激しく反発。「仏法の灯火を守るため」と称し、全国の門徒に向けて信長打倒の檄文を発した 5 。
この檄文は、奇しくも信長が浅井長政、朝倉義景、武田信玄といった反信長勢力によって四方を囲まれ、最大の窮地に陥っていた時期に発せられた。長島の一向一揆は、この「信長包囲網」と完全に連動しており、信長の本拠地である尾張・美濃を背後から脅かすという、極めて重要な戦略的役割を担っていたのである 24 。
長島一向一揆は、決して烏合の衆の暴動ではなかった。そこには、信仰に殉じる覚悟を持った指導者と、彼らを支える多様な勢力が存在した。
【表2:長島一向一揆 主要人物一覧】
勢力 |
氏名 |
役職・立場 |
主な事績・役割 |
本願寺・一揆勢力 |
本願寺 顕如 |
本願寺第十一世法主 |
全国門徒に檄文を発し、反信長の蜂起を指令 5 。 |
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願証寺 証意 |
願証寺第四世住持 |
顕如の檄文に応じ、長島一向一揆を主導。第一次侵攻の直後に死去 3 。 |
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願証寺 顕忍 |
願証寺第五世住持 |
証意の子。若くして跡を継ぎ、落城時に自害したと伝わる 7 。 |
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下間 頼旦 |
本願寺からの派遣司令官 |
高い軍事的権限を持ち、一揆軍を指揮。第一次侵攻で織田軍を撃退。第三次侵攻で謀殺される 7 。 |
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服部 友貞 |
尾張服部党 頭目 |
尾張弥富の土豪。一揆に合流し、小木江城攻撃などで活躍 9 。 |
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斎藤 龍興 |
前美濃国主 |
信長に追われた亡命者として一揆に与する 6 。 |
織田軍 |
織田 信長 |
天下人 |
長島一向一揆の鎮圧を指揮。三度の侵攻の末、殲滅する。 |
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織田 信興 |
信長の弟、小木江城主 |
長島への備えとして配置されるも、一揆勢の攻撃を受け自害 5 。 |
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柴田 勝家 |
織田家宿老 |
第一次侵攻で一軍を率いるも、撤退時に負傷 6 。 |
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滝川 一益 |
織田家重臣 |
第二次・第三次侵攻で活躍。戦後、長島城主となる 5 。 |
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九鬼 嘉隆 |
志摩水軍大将 |
第三次侵攻で水軍を率い、海上封鎖と艦砲射撃で勝利に貢献 27 。 |
この蜂起を現地で主導したのは、願証寺第四世住持の 証意 であった 3 。彼は父・証恵の跡を継ぎ、この地域の門徒から絶大な信頼を集めていた 4 。そして、この宗教的指導者を軍事面で補佐したのが、石山本願寺から派遣された
下間頼旦 である 8 。下間氏は本願寺の坊官として軍事・俗事を司る一族であり、頼旦はその中でも高い権限を与えられた専門の軍事司令官であった 9 。彼の存在は、熱狂的な信仰心を持つ門徒たちを、地形を巧みに利用して戦う統制の取れた軍事組織へと変貌させた。
さらに、一揆勢には北伊勢の在地領主である「北勢四十八家」の一部や、尾張弥富の服部党といった土豪勢力も加わり、その兵力は数万規模に膨れ上がったとされている 6 。
元亀元年(1570年)11月、信長が主力を率いて近江の比叡山に浅井・朝倉連合軍を包囲している、まさにその時を狙って長島の一揆勢は行動を開始した 5 。彼らの最初の標的は、長島の北、尾張国との国境に位置する小木江城であった。この城は、信長が対長島の拠点として弟の織田信興に守らせていた重要拠点である 5 。
下間頼旦らに率いられた数万の一揆勢は、小木江城に殺到。信興は奮戦するも、信長本隊からの援軍は望めず、衆寡敵せず、ついに自害に追い込まれた 8 。最前線の城が落ちただけでなく、何よりも信長は信頼する肉親を無残な形で失ったのである。この知らせは、信長の心に長島一向一揆に対する、単なる政治的・軍事的敵意を超えた、個人的な屈辱と消しがたい憎悪を刻み付けた。後の殲滅戦における常軌を逸した徹底性は、この時の復讐心に根差す部分が大きかったと推察される。この一門の武将の死は、長島との戦いがもはや妥協の余地のない、根絶やしにするかされるかの総力戦になることを運命づけたのである。
弟・信興の死に激怒した信長は、長島の徹底的な破壊を決意する。しかし、信仰と地の利によって守られたこの要塞国家は、当代随一の軍事力を誇る織田軍を二度までも退けるという驚異的な抵抗力を見せつけた。
元亀2年(1571年)5月、信長は満を持して約5万と号する大軍を動員し、長島への第一次侵攻を開始した 8 。作戦は、信長本隊が津島に陣取り、佐久間信盛率いる尾張衆が中筋口から、柴田勝家率いる美濃衆が太田口から攻め入るという三方面からの同時攻撃であった 7 。
しかし、織田軍の行く手には、一揆勢が築いた十数か所の砦が待ち構えていた 25 。各砦は川や中洲によって巧みに隔てられており、大軍が連携して攻撃することを困難にした。攻めあぐねた信長は、周辺の村々に放火したのち、5月16日に退却を決定する 6 。
この撤退こそ、下間頼旦が仕掛けた罠であった。地の利を熟知した一揆勢は、織田軍が通るであろう山と川に挟まれた狭隘な道筋に、鉄砲隊と弓兵を配備して待ち伏せた 6 。殿(しんがり)を務めた柴田勝家軍は、身動きの取れない場所で一方的な射撃を浴び、大混乱に陥る。勝家自身も負傷し、旗指物まで奪われるという屈辱的な敗北を喫した 8 。勝家に代わって殿を務めた重臣・氏家卜全(直元)は、この乱戦の中で討死 9 。織田軍は多くの将兵を失い、惨敗に終わった。この戦いは、長島が単なる信仰集団ではなく、高度な戦術を駆使する恐るべき軍事組織であることを信長に痛感させた。
天正元年(1573年)8月、信長は宿敵であった浅井・朝倉両氏を滅ぼし、包囲網の一角を崩した。そして同年9月、再び長島への侵攻を命じる 7 。前回の敗戦の教訓から、信長は水路を制圧することの重要性を認識しており、事前に伊勢大湊の会合衆(商人ギルド)に軍船の調達を命じていた 13 。
ところが、大湊の商人たちはこの要求を拒否する。彼らは長島の一揆勢と経済的な繋がりが深く、信長よりも一揆勢に肩入れしていたのである 6 。水軍の動員に失敗した信長は、陸路からの攻撃を余儀なくされる。
織田軍は、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀といった方面軍司令官クラスの武将を総動員し、長島周辺の西別所城や坂井城といった一揆方の城砦を次々と攻略。北伊勢の豪族たちを降伏させるなど、一定の戦果を挙げた 6 。しかし、無数の水路に守られた長島の中心部へは、やはり踏み込むことができなかった。
そして、この侵攻でもまた、撤退時に悲劇が起きる。多芸山に待ち伏せていた一揆勢の追撃を受け、殿を務めた林通政が討死。折からの暴風雨で凍え死ぬ者も出るなど、織田軍は再び大きな損害を被って撤退した 7 。
この二度の失敗は、長島攻略の鍵が陸からの力押しだけでは不十分であり、水路、すなわち経済と兵站のルートを完全に遮断することにあると信長に確信させた。長島一向一揆との戦いは、軍事衝突であると同時に、伊勢湾の制海権と流通を巡る経済戦争の側面をも色濃く帯びていたのである。
二度の屈辱的な敗北は、信長の長島に対する憎悪を決定的なものにした。天正2年(1574年)、後顧の憂いであった武田信玄の死(前年)を好機と捉え、信長は国家の総力を挙げた殲滅戦を発動する。それは、日本の戦国史上でも類を見ない、凄惨なホロコーストの始まりであった。
天正2年7月、信長は過去の侵攻を遥かに凌ぐ、総勢8万ともいわれる空前の大軍を動員した 9 。嫡男・織田信忠を総大将に、柴田勝家、滝川一益ら織田軍の主力が悉く投入された 7 。軍は複数のルートから長島を取り囲むように進軍し、外郭の砦を次々と陥落させていった 29 。
そして、この最終作戦の切り札となったのが、九鬼嘉隆率いる志摩水軍であった。大小数百艘の軍船が伊勢湾から木曽三川の河口を完全に封鎖し、長島への兵糧や物資の補給路を断ち切った 13 。さらに九鬼水軍は、大筒(大砲)を搭載した大型の安宅船を用いて、水上から一揆の砦に猛烈な艦砲射撃を加えた。座礁した船を砦として利用するという苦肉の策も用いられ、陸からの攻撃が困難な水際の拠点を次々と破壊していったのである 27 。陸と海からの、文字通り水も漏らさぬ完全な包囲網が完成した。
陸海の補給路を完全に断たれた長島は、巨大な牢獄と化した。時を経ずして城内の兵糧は尽き、門徒たちは凄まじい飢餓に苦しめられた 9 。もはや抵抗の術を失った一揆勢の指導者・下間頼旦らは、同年9月25日、ついに城兵の助命を条件に降伏を申し入れる。信長はこれを了承した 9 。
しかし、これは信長の仕掛けた冷酷な罠であった。9月29日、降伏の証として城から出てきた下間頼旦をはじめとする門徒たちに対し、待ち構えていた織田軍の鉄砲隊が一斉に火を噴いた。約束は反故にされ、非武装の投降者たちは容赦なく射殺された。下間頼旦もこの銃弾に倒れ、その首は信長の前に晒されたという 9 。
信長の怒りは、指導者の死だけでは収まらなかった。彼は、最後まで抵抗を続けていた屋長島城と中江城の二つの砦に残った門徒たちを、女子供の別なく根絶やしにすることを命じる 16 。織田軍は砦の周囲に幾重もの木柵を築いて門徒たちを完全に閉じ込めると、四方から一斉に火を放った 7 。
逃げ場を失った人々は、阿鼻叫喚の地獄の中で焼き殺されていった。この殲滅戦による犠牲者は、約二万人にのぼったと伝えられている 6 。これは単なる戦闘行為ではなく、抵抗する共同体そのものを地上から消し去ろうとする、明確な意志を持った大量虐殺であった。信長は戦後、この行為を「天下のためにやむを得ず行った」と正当化した書状を残している 31 。彼の論理において、旧来の宗教的権威が支配する秩序を破壊し、新たな中央集権体制を構築するためには、このような非情な手段も辞さないという、彼の政治哲学の冷徹な表明であった。こうして、信仰と輪中が築いた要塞国家は、炎の中にその歴史を閉じたのである。
この戦いの成功は、九鬼水軍の動員と艦砲射撃という、当時の最新軍事技術の投入によってもたらされた側面が大きい 27 。この経験は信長に制海権の重要性を再認識させ、後の石山合戦における毛利水軍との木津川口の戦いでの「鉄甲船」開発へと繋がる、軍事戦略の革新を促す契機ともなった。
長島の地を焦土と化した殲滅戦は、この地域の歴史を根底から変えた。かつての聖域は新たな支配者の拠点となり、教団は離散の道を辿る。そして、悲劇の舞台そのものも、近代化の波の中で姿を消す運命にあった。
一揆の壊滅後、長島城には織田家の重臣・滝川一益が封じられ、北伊勢支配の拠点となった 5 。信長にとって、本拠地の喉元に突き付けられた刃であった長島を完全に掌握したことの政治的・軍事的意義は計り知れない。
また、この長島の陥落は、依然として続いていた石山合戦の戦局にも大きな影響を与えた。本願寺にとって、東国における最大かつ最強の拠点であり、経済的・軍事的支援の源泉でもあった長島を失ったことは、戦略的に致命的な打撃であった 5 。この後、本願寺は毛利氏や雑賀衆の支援に頼らざるを得なくなり、次第に追い詰められていく。
一方、願証寺の法灯が完全に途絶えたわけではなかった。落城の混乱の中、第五世住持・顕忍の幼い弟であった顕恵は家臣に救出され、大坂の石山本願寺へと逃れた 11 。彼は後に本願寺の正統な後継者として認められ、近江国日野の地で願証寺を再興し、その血脈を後世に伝えている。
戦国時代の悲劇から約300年後、長島の地は再び大きな変貌を遂げる。明治時代に入り、近代国家として歩み始めた日本政府は、長年の懸案であった木曽三川の治水事業に着手した。オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの指導の下、複雑に入り組んだ川筋を整理し、木曽川、長良川、揖斐川を完全に分離する「木曽三川分流工事」が断行されたのである 32 。
この国家的な大事業により、かつて一向一揆の拠点であった杉江の旧願証寺跡地や、多くの門徒が暮らした輪中の一部は、新たに造成された長良川の広大な川底へと水没した 5 。信長の軍勢によって信仰共同体が破壊された後、その物理的な痕跡までもが近代化という別の力によって抹消されてしまったのである。これは、歴史の持つ二重の悲劇性、あるいは皮肉を象徴する出来事と言えよう。
川底に眠る故地に代わり、現在、三重県桑名市長島町又木には、願証寺の法灯を継承する寺院が再建されている 33 。この現在の願証寺の境内には、一揆の悲劇を後世に伝えるため、「長島一向一揆殉教之碑」が建立されている 25 。1975年(昭和50年)には、一揆400年を追悼する法要が営まれ、数世紀の時を超えて犠牲者たちの魂が慰められた 35 。
この他にも、桑名市内には一揆の戦死者を祀るとされる「千人塚」が残り 13 、長島城の遺構の一部が近隣の寺院に移築されるなど 34 、悲劇の記憶は断片的ながらも現代に継承されている。信長による「社会的な抹消」と、近代化による「物理的な抹消」という二重の破壊に対し、慰霊碑の建立や史跡の保存といった営みは、失われた共同体の記憶を現代に「再生」させようとする、忘却に対する文化的な抵抗の証なのである。
長島願証寺とその門徒たちが織りなした興亡の歴史は、戦国時代という巨大な変革期の本質を映し出す鏡である。それは、中世的な宗教的権威と、近世的な中央集権的統一権力との間で繰り広げられた、壮絶な闘争の物語であった。
同じく一向一揆が支配した地域として、加賀国が挙げられる。加賀では、門徒たちが守護大名を打倒した後、約100年間にわたり「百姓の持ちたる国」と呼ばれる自治共同体を維持した 40 。しかし、広大な領国経営を行った加賀に対し、長島は木曽三川のデルタ地帯という限定された領域に拠る、より純粋な軍事要塞としての性格が際立っていた。その地理的条件と、信長の本拠地に隣接するという地政学的緊張が、長島をより先鋭的で戦闘的な集団へと変貌させたのである。
信長が長島に対して行った二万人の殲滅という行為は、彼の「残虐性」という側面だけで語られるべきではない。それは、彼の天下統一事業において、自らの命令に従わず、独自の価値観と秩序で行動する独立勢力の存在を根源的に許さないという、新しい時代の支配者の論理の現れであった 31 。施政者の命よりも宗教指導者の言葉に従う人々の共同体は、信長が目指す統一国家のアンチテーゼであり、その徹底的な破壊は、彼にとって避けては通れない道であった。
長島願証寺の炎は、中世的な荘園制や守護領国制といった旧来の秩序と共に、宗教が世俗の権力と分かちがたく結びついていた時代の終わりを告げる狼煙であった。その灰の中から、強力な中央集権体制を基盤とする、新たな近世社会が姿を現すことになる。川底に眠る記憶は、現代に生きる我々に対し、信仰の力、共同体の結束、そして時代の変革期における理想と現実の相克という、普遍的なテーマを静かに問いかけ続けているのである。