雑賀城は、鉄砲傭兵集団雑賀衆の本拠地。織田信長の大軍を退けし難攻不落の地。しかし、内紛と豊臣秀吉の紀州征伐により廃城となり、その歴史を閉じる。
日本の戦国史において、雑賀城の名は特異な響きを持つ。それは、織田信長や豊臣秀吉といった天下人と互角に渡り合った、戦国最強の鉄砲傭兵集団「雑賀衆」の本拠地として、歴史に深くその名を刻んでいるからである 1 。しかし、その輝かしい歴史とは裏腹に、今日の雑賀城跡には城郭としての明確な遺構はほとんど残されていない 2 。この歴史的重要性とその物理的痕跡の希薄さという矛盾こそが、雑賀城とそれを支えた雑賀衆という集団の本質を解き明かす鍵となる。
一般的な戦国大名の城が、石垣を高く積み上げ、天守をそびえさせることで権威と軍事力を誇示する「静的」な要塞であったのに対し、雑賀城は異なる性格を持っていた。雑賀衆の真の力は、堅固な城壁ではなく、数千挺の鉄砲を駆使する機動的な戦闘集団、紀伊水道を自在に航行する水軍、そして地の利を活かしたゲリラ戦術にあった 4 。彼らにとって、巨大な城郭は防衛の要であると同時に、敵の攻撃目標となりうる固定的な「的」でもあった。
本報告書は、雑賀城を単なる建造物としてではなく、それを支えた雑賀衆という特異な社会・軍事組織の拠点、すなわち彼らの独立と自治の精神を象徴する「思想の城」として捉え直すことを目的とする。城の物理的構造、それを拠点とした人々の組織と軍事力、そして歴史の奔流の中での栄光と終焉を多角的に分析し、戦国時代におけるもう一つの権力形態の可能性とその限界を考察する。
雑賀城は、現在の和歌山県和歌山市和歌浦中に位置する、比高約20メートルの丘陵に築かれた平山城(丘城)に分類される 1 。その縄張りは、南北に伸びる尾根を中心に構成されていたと推定される。北側には「千畳敷」と呼ばれる比較的広い平坦地があり、ここが城の中枢である主郭部であったと考えられている 1 。一方、南端のやや標高が高い地点には、現在も妙見堂が祀られており、南郭として機能していたと見られる 2 。
この城の最大の防御機能は、人工的な建造物よりも、その地理的条件にあった。築城当時は、現在の和歌川河口の地形とは異なり、城のあった丘陵が和歌浦の海に直接突き出した岬のような地形であった可能性が指摘されている 2 。さらに、周囲が湿地帯であったとすれば、陸路からの大軍の接近は極めて困難であっただろう。このように、海と湿地に囲まれた立地は、雑賀城を天然の要害たらしめていた。
現在、城跡は「城跡山公園(津屋公園)」として整備されているが、訪問者が往時の城郭を明確に想起できる遺構はほとんど確認されていない 3 。一部には切岸(人工的な急斜面)のように見える地形や、曲輪であったことをうかがわせる削平地が残るものの、後世の改変が著しく、その多くは原形を留めていないとされる 2 。
雑賀城に大規模な遺構が残存しない理由は、複合的な要因によるものと考えられる。第一に、雑賀衆の築城法そのものが、石垣を多用するのではなく、土塁や堀を中心とした比較的簡素な構造であった可能性が挙げられる。第二に、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による紀州征伐後に廃城となり、その後、紀州支配の新たな拠点として和歌山城が築かれたため、旧来の城は顧みられず、積極的に保存されることがなかった 5 。そして第三に、江戸時代に紀州徳川家の初代藩主・頼宣の母、養珠院の菩提を弔うために山麓に養珠寺が建立され、山頂にも妙見堂が祀られるなど、宗教施設としての利用や近代以降の公園整備の過程で、地形が大きく改変されたことが決定的な要因となった 5 。
雑賀衆の拠点を語る上で、雑賀城とは別に「雑賀崎城」の存在を無視することはできない 9 。この城は、現在の雑賀崎灯台が立つ「鷹ノ巣」と呼ばれる岬に築かれた山城である 10 。
両者の機能は明確に異なっていたと考えられる。雑賀城が雑賀衆全体の恒久的な政治・軍事の中心地、いわば「本拠地」であったのに対し、雑賀崎城は特定の目的のために築かれた「特殊拠点」であった。伝承によれば、この城は石山合戦の後、織田信長に敗れて石山本願寺を追われた本願寺教如を匿うために、雑賀孫市によって築かれたとされる 10 。このことから、雑賀崎城は、重要な賓客を保護するための迎賓館兼避難所であり、同時に紀伊水道を監視する海防の最前線基地としての役割を担っていたと推測される。
雑賀城と雑賀崎城、さらには第一次紀州征伐の際に前線基地となった中野城 12 の存在は、雑賀衆が単一の巨大拠点に依存するのではなく、目的に応じて複数の拠点を使い分ける「ネットワーク型防衛」とも言うべき思想を持っていたことを示唆している。政庁・司令部としての雑賀城、沿岸監視と賓客保護を担う雑賀崎城、そして前線基地としての中野城。これらの拠点が有機的に連携することで、雑賀の地は広域的な防御網を形成していたのである。この柔軟な防衛思想は、城に籠もるのではなく、機動力を活かして戦う彼らの戦術と深く結びついていた。
雑賀城の主であった「雑賀衆」とは、特定の武家や大名を指す言葉ではない。それは、現在の和歌山市域を中心に、雑賀庄、十ヶ郷、宮郷(社家郷)、中郷、南郷という五つの地域(郷)が連合して形成された、地縁的な共同体であった 1 。これは「雑賀五組」あるいは「雑賀五緘(ごかん)」と称され、戦国時代にあって特定の守護大名や戦国大名に完全には服属せず、高度な自治を維持していた 15 。
その統治形態は、各郷の有力者(土豪)たちの合議によって運営される、さながら共和国のような様相を呈していた 14 。この独立自尊の精神と、中央集権的な支配を目指す織田信長や豊臣秀吉の思想とは、根本的に相容れないものであり、両者の衝突は歴史の必然であった。
雑賀衆が「戦国最強」と謳われた最大の理由は、当時最新鋭の兵器であった鉄砲を、他のいかなる勢力をも圧倒する規模で保有し、それを駆使する先進的な戦術を確立していた点にある。記録によれば、彼らは常時5,000から8,000挺もの鉄砲を保有していたとされ、これは一国の戦国大名のそれを遥かに凌駕する数であった 4 。
この圧倒的な武装を可能にした背景には、彼らが自己完結型の「軍産複合システム」とも呼べる体制を築いていたことが挙げられる。
第一に、技術力の蓄積である。この地域には古代の「韓鍛冶」の流れをくむ優秀な鍛冶職人が存在し、鉄砲が伝来すると、隣接する根来寺や、当時国内最大の貿易港であった堺から技術を導入し、独自の製造・改良まで行っていた可能性が指摘されている 4。彼らが用いた「雑賀鉢」と呼ばれる兜の存在も、その高い鍛冶技術を物語っている 4。
第二に、独自の交易ルートの確保である。鉄砲の運用に不可欠な火薬の原料である硝石は、当時の日本では産出されず、輸入に頼るほかなかった 15。雑賀衆は、その優れた海運力を活かして堺の商人と深く結びつき、あるいは直接海外との交易を行うことで、硝石を安定的に入手するルートを確立していた 18。
さらに、彼らは鉄砲を単なる数として揃えるだけでなく、その運用において革新的な戦術を編み出していた。武士の誉れや一騎討ちといった旧来の価値観に捉われず、集団による一斉射撃や、指揮官を的確に狙撃する戦術を駆使した 4 。また、地域の地理を熟知した上で、少人数の部隊による奇襲や待ち伏せといったゲリラ戦を展開し、大軍を翻弄した 4 。これらの戦術は、雑賀衆が単なる武装集団ではなく、合理的な戦闘教義を持つプロフェッショナルな軍事組織であったことを示している。
雑賀衆の強さを支えたもう一つの柱が、紀伊水道の制海権を掌握していた水軍の存在である。特に雑賀庄や十ヶ郷に住む人々は、漁業や海運業を生業としており、彼らが有事の際には強力な水軍として組織された 4 。
彼らの船団は、毛利水軍や九鬼水軍が用いたような大型の安宅船を主力とするのではなく、機動力に優れた小型の関船や小早を中心としていた 4 。この機動性を活かし、敵船に素早く接近しては、手投げ式の焙烙玉(ほうろくだま)や火矢を投げ込み、混乱させて撃破する戦法を得意とした 4 。
その実力は、天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いで遺憾なく発揮される。この戦いで雑賀水軍は毛利水軍と連携し、石山本願寺を海上封鎖していた織田方の九鬼嘉隆率いる水軍を壊滅させ、本願寺へ大量の兵糧を運び込むことに成功した 4 。この勝利は、雑賀衆が陸戦のみならず、海戦においても当代一流の実力を有していたことを天下に知らしめた。彼らの海運力は、硝石の輸入ルートを確保する経済的側面と、水軍としての軍事的側面の両方から、雑賀衆の独立を支える生命線であった。
雑賀衆を語る上で、その頭領とされる「雑賀孫市(さいか まごいち)」の存在は欠かせない。しかし、この「孫市」という名は、特定の一個人を指す固有名詞ではなく、複数の人物が名乗った、あるいは後世の創作によって一人の英雄像に集約された呼称である可能性が極めて高い 21 。史料や伝承を紐解くと、主に以下の四人の人物が「孫市」の実像と深く関わっている。
これらの複雑な関係性から、一人の人間が長期間にわたって「雑賀孫市」として活動したと考えるのは困難である。おそらく、雑賀衆の頭領が代々襲名した名跡であったか、あるいは鈴木重秀の活躍があまりにも鮮烈であったため、父・重意や一族の義兼、さらには後代の重朝といった人物たちの逸話までもが、後世に「雑賀孫市」という一つの英雄像の下に吸収・統合されていったのであろう。特に、司馬遼太郎の小説『尻啖え孫市』をはじめとする近現代の創作物は、この魅力的で謎に満ちた英雄像を決定づけ、広く浸透させる上で大きな役割を果たした 21 。
名称/通称 |
推定される関係 |
主な活動/功績 |
史料上の根拠 |
特記事項(信憑性) |
鈴木 重秀 |
鈴木重意の子とされる。 |
石山合戦で本願寺軍の主力として活躍。「大坂の左右の大将」と称される。 |
『言継卿記』、「鈴木孫一重秀」の自署など同時代史料多数。 |
最も史実として確実な「孫一」。 |
鈴木 重意 |
鈴木重秀の父とされる。 |
雑賀城の築城主と伝わる。雑賀衆の長老格。 |
『畠山記』に「鈴木孫市重意」の名が見える。 |
『畠山記』は後代の軍記物であり、史料的価値は高くない。 |
鈴木 義兼 |
鈴木重秀の兄弟と推測される。 |
重秀の雑賀退去後、鈴木氏を統率した可能性。 |
「平井住鈴木孫市郎義兼」と刻まれた墓碑が現存する。 |
本姓が異なり、重秀らとの血縁関係には諸説ある。 |
鈴木 重朝 |
不明(重秀と同一人物説あり)。 |
関ヶ原の戦後、水戸藩に仕官。 |
水戸藩の家譜に「雑賀孫市」に改名したとの記述。 |
同時代の史料による裏付けがなく、確証はない。 |
天正年間、天下布武を掲げる織田信長と、それに抵抗する諸勢力との間で激しい戦いが繰り広げられた。その最大の激戦地の一つが、10年にも及んだ石山合戦である。この戦いにおいて、雑賀衆は本願寺顕如を支える最も重要な戦力として歴史の表舞台に登場する。
彼らの参戦動機は複合的であった。第一に、雑賀衆の多くは浄土真宗(一向宗)の熱心な門徒であり、信仰上の指導者である本願寺を守るという宗教的情熱があった 15 。第二に、傭兵集団としての側面も大きく、当初は三好三人衆に雇われる形で反信長陣営に加わった経緯がある 25 。合戦の初期段階では、信長方に味方する勢力も存在し、雑賀衆内部で分裂状態にあったが、戦いが激化するにつれて本願寺方として結束し、その主力部隊となっていった 25 。
雑賀衆の貢献は、単なる兵力の提供にとどまらなかった。彼らの鉄砲隊が本願寺の防衛戦力の中核を担ったことは言うまでもないが、それ以上に決定的だったのは、雑賀水軍による海上補給路の確保であった 4 。信長の兵糧攻めに苦しむ石山本願寺にとって、雑賀水軍が紀伊水道を経て運び込む兵糧や弾薬は、まさに生命線であった。
石山本願寺を屈服させるためには、その最大の支援拠点である雑賀衆を叩く必要があると判断した信長は、天正5年(1577年)2月、自ら数万(6万から10万とも)の大軍を率いて紀伊国へ侵攻した 4 。世に言う第一次紀州征伐、あるいは雑賀合戦の始まりである。
織田軍は二手に分かれて進撃し、雑賀衆の前線基地であった中野城をわずか一日で陥落させるなど、序盤は圧倒的な戦力差で優位に進めた 4 。しかし、鈴木孫市率いる雑賀衆は、本拠地・雑賀庄に敵を引き込むと、驚異的な抵抗を見せる。
主戦場となった雑賀川の攻防では、雑賀衆はあらかじめ川底に多数の甕や壺、柵などを仕掛けていた 4。これを知らずに渡河を試みた織田軍の騎馬隊は足を取られて立ち往生し、身動きが取れなくなったところを、対岸から浴びせられる数千挺の鉄砲による集中砲火に晒され、甚大な被害を出した 20。
さらに、織田軍が別ルートからの進撃を試みると、雑賀衆は得意のゲリラ戦術を展開。地域の地理を隅々まで知り尽くした彼らは、山中に潜んで織田軍を待ち伏せ、神出鬼没の奇襲を繰り返した 4 。特に敵の指揮官を狙い撃ちにする戦法は、織田軍の指揮系統を混乱させ、兵の士気を著しく低下させた。
戦況は膠着し、雑賀衆を完全に制圧することが困難であると悟った信長は、雑賀衆の一部(主に反孫市派)の降伏を受け入れる形で和睦し、軍を撤退させた 4 。この戦いは、一地方の国人衆が天下人の大軍を事実上撃退したという点で、戦国史上特筆すべき出来事であった。これにより「雑賀衆を味方にすれば必ず勝ち、敵にすれば必ず負ける」という彼らの評価は不動のものとなり、その名は全国に轟いた 15 。この勝利は、単なる一戦の勝利にとどまらず、石山本願寺の籠城をさらに3年間延命させ、信長の天下統一事業全体を遅滞させるという広範な戦略的影響を及ぼしたのである。
信長を退けた栄光も束の間、雑賀衆の内部では深刻な亀裂が生じ始めていた。信長との和睦を主導した親信長派の鈴木孫市(重秀)と、徹底抗戦を主張する反信長派の土橋氏との対立が先鋭化したのである 28 。この内紛は、天正10年(1582年)に孫市が土橋平次を暗殺したことで一時的に鈴木派の勝利に終わるが、両派の遺恨は深く残り続けた 29 。
天正10年6月、本能寺の変で信長が斃れると、紀州の情勢は再び流動化する。信長という共通の敵を失った雑賀衆内部の対立は再燃し、組織の結束力は著しく低下した。そして、天正13年(1585年)に豊臣秀吉が紀州征伐の軍を起こす頃には、雑賀衆は互いに殺し合う「同士討ち」を繰り広げる有様で、もはやかつてのような組織的な抵抗力を失っていた 20 。
信長の後継者として天下統一を進める豊臣秀吉にとって、背後に独立勢力である雑賀・根来衆が存在することは看過できなかった。天正13年(1585年)3月、秀吉は弟の羽柴秀長、甥の秀次らを将として、10万ともいわれる大軍を紀伊へ派遣した 18 。
秀吉の戦略は、信長のそれとは異なり、極めて周到かつ冷徹であった。彼はまず、雑賀衆の長年の盟友であり、同じく強力な鉄砲集団であった根来寺に狙いを定めた。圧倒的な兵力で侵攻された根来寺はほとんど抵抗できずに制圧され、その伽藍は炎上し壊滅した 31 。これにより雑賀衆は完全に孤立無援となった。
秀吉軍が雑賀庄に到達した時、そこにはもはや信長を苦しめた精強な軍団の姿はなかった。内紛によって疲弊しきっていた雑賀衆は組織的な抵抗もままならず、秀吉軍の放火によってその拠点は次々と炎に包まれた。その様は、外部からの攻撃によって滅んだというよりは、内部崩壊によって「自滅」したと評されるほどであった 20。
雑賀衆の残存勢力は、太田左近が守る太田城に集結し、最後の抵抗を試みた。これに対し秀吉は、備中高松城攻めでも用いた得意の「水攻め」を選択する。城の周囲に全長6キロメートルにも及ぶ巨大な堤防を築き、紀の川の水を引き込んで城を水没させたのである 31 。約1ヶ月にわたる籠城の末、太田城は降伏し、雑賀衆の組織的抵抗はここに終焉を迎えた 31 。
秀吉による紀州征伐の嵐の中で、雑賀衆の本拠地であった雑賀城もまた、その歴史に幕を下ろした。圧倒的な秀吉軍の前に落城したとされるが 5 、その具体的な戦闘の様子を伝える記録は乏しい。
城の最期を象徴するのは、その城主の死である。雑賀城を築いたとされる鈴木佐大夫(重意)は、この紀州征伐の最中、秀吉軍の将・藤堂高虎の謀略にかかり、粉河の地で切腹させられたと伝わっている 7 。指導者を失い、組織が壊滅したことで、雑賀城はその軍事拠点としての機能を完全に喪失した。秀吉による紀州平定が完了した天正13年(1585年)頃、雑賀城はその役目を終え、廃城になったと推定されている 3 。
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物 |
雑賀城/雑賀衆の動向 |
戦国時代 |
雑賀城築城 |
鈴木重意(佐大夫) |
雑賀衆の本拠地として機能を開始。 |
1570年(元亀元年) |
石山合戦始まる |
鈴木重秀、本願寺顕如 |
本願寺方として参戦。主力部隊となる。 |
1576年(天正4年) |
第一次木津川口の戦い |
織田信長、九鬼嘉隆 |
雑賀水軍が毛利水軍と連携し、織田水軍を撃破。 |
1577年(天正5年) |
第一次紀州征伐(雑賀合戦) |
織田信長、鈴木重秀 |
雑賀川の戦いやゲリラ戦で織田の大軍を事実上撃退。勢力の絶頂期。 |
1580年(天正8年) |
石山合戦終結 |
織田信長、本願寺顕如 |
本願寺の降伏に伴い、信長と和睦。 |
1582年(天正10年) |
鈴木・土橋氏の内紛激化 |
鈴木重秀、土橋平次 |
孫市が土橋平次を暗殺。内部対立が深刻化。 |
1585年(天正13年) |
豊臣秀吉の紀州征伐 |
豊臣秀吉、藤堂高虎 |
根来寺が壊滅。内紛により雑賀衆は自滅状態に。太田城は水攻めで降伏。 |
1585年(天正13年)頃 |
雑賀城廃城 |
鈴木重意(佐大夫) |
城主・鈴木佐大夫が謀殺される。雑賀城は廃城となり、雑賀衆は解体。 |
紀州征伐によって、雑賀衆という地縁的共同体は完全に解体された。その構成員たちは、それぞれの道を歩むことになる。多くは武器を捨てて農民や漁民に戻ったが、その卓越した鉄砲技術を高く評価され、他の大名家に仕官する者も少なくなかった 17 。伊達政宗に仕えた者や、鈴木重朝のように水戸徳川家に召し抱えられた者など、その名は各地の藩士として記録に残っている 21 。
一方、伝説の頭領としてその名を馳せた鈴木重秀(孫市)の晩年は、謎に包まれている。豊臣秀吉に仕えたとも、諸国を遍歴した末に出家したとも言われるが、いずれも確かな史料的裏付けはなく、その消息は定かではない 29 。彼の劇的な退場は、「雑賀孫市」という存在を一層伝説的なものにした。
紀州を平定した秀吉は、この地の支配を確固たるものにするため、一つの象徴的な事業に着手する。それが、和歌山城の築城であった 6 。秀吉は、雑賀の地を一望できる虎伏山(とらふすやま、当時の呼称は岡山)を築城地に選び、弟の秀長に普請を命じた 36 。
この和歌山城の築城は、単なる軍事拠点の建設以上の意味を持っていた。それは、長年にわたって独立自治を維持してきた雑賀衆の時代の終焉と、豊臣政権による新たな中央集権的支配の始まりを、紀州の民衆に可視化する行為であった 38 。丘陵上に簡素な拠点を構えた雑賀衆の「横の自治」の象徴であった雑賀城に対し、平野を見下ろす地に壮大な近世城郭として築かれた和歌山城は、領主による「縦の支配」の象徴であった。雑賀城の消滅と和歌山城の誕生は、戦国時代の終わりと近世封建社会の到来という、日本史の大きな転換点を物語る出来事だったのである。
廃城となった雑賀城跡には、江戸時代に入り、紀州徳川家によって山麓に養珠寺が建立された 8 。その後、近代を経て城跡山公園として整備され、現在は市民の憩いの場となっている 3 。往時の城郭を偲ばせる遺構はほとんど失われたが、妙見堂へ続く参道や、千畳敷と呼ばれる平坦地に、わずかに歴史の面影をとどめている。
しかし、物理的な城は失われても、雑賀衆の記憶と精神は、この地に生き続けている。毎年春に開催される「孫市まつり」では、雑賀孫市に扮した武者行列や、勇壮な鉄砲演武が披露され、多くの人々で賑わう 12 。また、「紀州雑賀鉄砲衆」と名乗る保存団体が、その射撃術を研究・伝承し、各地で演武を行っている 18 。これらは、城という「形」ではなく、人々の誇りという「心」の中に、雑賀の記憶が今なお受け継がれていることの証左と言えるだろう。
雑賀城は、石垣や天守といった物理的な構造物としての価値以上に、戦国時代という群雄割拠の世にあって、いずれの大名にも完全には服属せず、合議制と交易、そして先進技術によって独立を保った「自治共同体」の拠点として、日本史における特異な価値を持つ。それは、戦国大名による領国支配とは異なる、もう一つの社会の在り方が、確かに存在したことを示す貴重な証である。
雑賀衆の栄光と悲劇は、歴史の大きな転換点における重要な教訓を内包している。彼らは、当代随一の軍事技術と、既成概念に捉われない柔軟な戦術思想を持ちながらも、中央集権化という時代の大きな潮流の中で、最終的には内部結束の脆弱性によってその命運を絶たれた。雑賀城の跡地に立つとき、我々は単に失われた城を偲ぶのではない。そこに生きた人々の自由への希求と、一つの時代の終わり、そして歴史の非情さを目の当たりにすることになるのである。雑賀城の名は、戦国という時代が持つ多様性と、その終焉を象徴する存在として、これからも語り継がれていくだろう。