飯野平城は磐城の要衝、岩城氏の拠点。複合城郭で中世から近世への過渡期を呈す。岩城氏の外交を支えるも、関ヶ原の判断ミスで改易。鳥居忠政により廃城となり、磐城平城が築かれた。
飯野平城は、現在の福島県いわき市平周辺に、戦国時代を通じてその威容を誇った城郭である。単に磐城地方(現在の福島県浜通り南部)の一拠点に留まらず、南奥州の政治的力学を象徴する存在として、歴史上重要な役割を担った。室町時代中期の文明15年(1483年)、戦国大名としての地歩を固めつつあった岩城氏によって築かれてより 1 、慶長7年(1602年)に廃城となるまでの約120年間 2 、その興亡の主たる舞台となった。
本城は、主郭である大館城を中心に、高月館や飯野八幡宮といった複数の城館群から構成される複合的な城郭であり 2 、その構造は中世城郭から近世城郭へと移行する過渡期の様相を色濃く残している。この事実は、城郭史研究において本城が持つ学術的価値の高さを物語っている。
本報告書は、飯野平城について、その築城背景、城郭構造、城主であった岩城氏の歴史的動向、周辺勢力との外交関係、支配拠点としての機能、そして歴史の奔流の中に消えていく終焉の様相までを、文献史料、考古学的知見、そして地理的考察を交えながら多角的に解明することを目的とする。
飯野平城の築城を理解するためには、まずその城主である岩城氏の歴史的転換点に目を向ける必要がある。岩城氏は、桓武平氏の流れを汲む海道平氏を祖とし、平安時代末期から陸奥国磐城郡に根を張った豪族であった 3 。鎌倉、南北朝時代を通じて一族は分立していたが、嘉吉2年(1442年)に勃発した一族の内紛(岩城左馬助の乱)を、庶流であった白土(しらど)系の岩城隆忠が鎮圧したことで、岩城氏の歴史は大きな節目を迎える 3 。この内紛収束により、隆忠の系統が惣領家としての地位を確立し、磐城地方の諸氏を束ねる求心力を得て、戦国大名化への道を力強く歩み始めたのである。
隆忠の子・岩城親隆、そして孫の常隆の代になると、岩城氏はさらに勢力を伸長させる。彼らは南接する常陸国の佐竹氏や、西方の白河結城氏の内紛に積極的に介入し、軍事的・外交的に大きな成果を収めていった 2 。この勢力拡大の最中、文明15年(1483年)、岩城常隆はそれまでの本拠地であった白土城から、新たに築いた飯野平城へと拠点を移した 1 。
この拠点移転は、単なる居城の変更以上の、重大な戦略的意図を内包していた。旧来の白土城が、南北朝期の典型的な山城であり、純粋な軍事的防御に特化した性格を持つのに対し 9 、飯野平城は「平城」の名が示す通り、平野部に広がる丘陵地帯を利用した平山城であり、領国全体を統治する政治・経済の中心拠点としての機能を強く意識したものであった 1 。すなわち、この移転は、岩城氏が単なる在地領主から、領国経済を掌握し、広域的な外交戦略を展開する「戦国大名」へと、その統治思想を変革させたことの物理的な証左と解釈できる。
さらに、磐城地方が古くから製塩や海上交通の要地であった可能性を考慮すれば 15 、平城・平山城が街道や湊といった物流の結節点を直接管理する上で有利であったことは論を俟たない 19 。飯野平城への移転は、軍事的な優位性の確保のみならず、領国の経済基盤を直接支配下に置くことで、大名としての財政力を強化するという、明確な経済戦略でもあったと考えられるのである。
飯野平城は、単一の城郭を指すのではなく、複数の機能を持つ城館群が一体となって広大な防御網を形成する、複合城郭であった 2 。その中核を成すのは以下の三要素である。
これらの施設群は、丘陵と谷という自然地形を巧みに利用して配置され、有機的に連携することで、東西3キロメートルにも及ぶ可能性が指摘される広大な城域を構成していた 9 。
飯野平城の中枢である大館城は、権現山、通称「千畳敷」と呼ばれる丘陵頂部に主郭を置いた 2 。発掘調査や地表面の観察から、その構造には以下のような中世城郭の特徴が見て取れる。
特筆すべきは、城郭の構成要素として飯野八幡宮を組み込んでいる点である。八幡神は武家の守護神であり、これを城の防御ラインに組み込むことは、物理的な拠点としての機能に加えて、岩城氏の武威と支配の正当性を神の権威によって補強する象徴的な意味合いを持っていた。すなわち、飯野平城は軍事・政治(大館城)と宗教(飯野八幡宮)が一体となった「聖俗一体」の防衛システムを構築し、領民の精神的支柱をも城の内に取り込むことで、物理的・心理的双方の側面から領国支配を盤石にしようとする、高度な統治思想の表れであった。
岩城氏の拠点城郭の変遷を比較することで、飯野平城の歴史的・技術的な位置づけはより明確になる。
特徴 |
白土城 |
飯野平城(大館城) |
磐城平城 |
時代区分 |
南北朝期 |
戦国期 |
江戸初期(近世) |
城郭形態 |
山城 |
平山城 |
梯郭式平城 |
主な防御施設 |
曲輪、土塁、空堀 |
大規模な曲輪群、土塁、堀切 |
石垣、水堀、櫓、天守代用の三階櫓 |
規模 |
東西約1km |
東西3kmに及ぶ可能性 |
惣構えを含む大規模な城郭都市 |
築城思想 |
純軍事的拠点 |
政治・経済拠点への移行期 |
藩政の中心、権威の象徴 |
出典: 9 に基づき作成
この比較から明らかなように、飯野平城は、白土城の「土の城」としての伝統を受け継ぎつつ、その規模と構造の複雑性を飛躍的に高めている。一方で、後継の磐城平城に見られるような、権威の象徴としての高石垣や天守(代用の三階櫓)は持たない 22 。これは、織田信長や豊臣秀吉によって全国に広まった、鉄砲戦を前提とする「織豊系城郭」の技術が南奥州に本格的に伝播する以前の、在来工法による城郭技術の一つの到達点であったことを示唆している。飯野平城は、まさに中世から近世へと移行する、城郭史のダイナミックな変革期を体現する貴重な遺構なのである。
飯野平城を拠点とした岩城氏は、戦国時代の南奥州において、巧みかつ危うい外交戦略を駆使してその勢力を維持・拡大した。
岩城氏は最盛期において、現在の福島県いわき市を中心に、広野町、楢葉町、さらには茨城県北茨城市の一部にまで及ぶ、石高12万石の領国を形成していた 10 。飯野平城は、この広大な領国を統治するための政治・経済の中心地として機能した 1 。
北方に勢力を誇る伊達氏との関係は、岩城氏の外交政策の根幹を成した。伊達氏の内紛である「天文の乱」(1542年-1548年)においては、岩城重隆が娘婿である伊達晴宗方に与してその勝利に大きく貢献し、南奥州における影響力を飛躍的に高めた 5 。しかし、晴宗の孫である伊達政宗が家督を継ぎ、急激な勢力拡大を開始すると、両者の関係は緊張する。天正13年(1585年)の「人取橋の戦い」では、岩城常隆は佐竹・蘆名を中心とする反伊達連合軍の一員として、3千の兵を率いて政宗と直接対峙した 5 。その後、政宗が蘆名氏を滅ぼして会津を制圧すると、岩城氏は一転して政宗との友好関係の維持に努めるなど 5 、常に変化する情勢に対応した柔軟な外交を展開した。
南方に位置する常陸国の雄・佐竹氏もまた、岩城氏にとって無視できない存在であった。両氏は領地を巡って度々軍事衝突を起こす一方 5 、婚姻関係を結び、時には共通の敵に対して共闘するなど、対立と協調を繰り返す複雑な関係にあった 2 。この関係が決定的な転機を迎えるのが、天正18年(1590年)である。豊臣秀吉による小田原征伐に参陣する途上、当主の岩城常隆が24歳の若さで病死してしまう 7 。跡継ぎのいなかった岩城氏は、秀吉側近らの画策もあり 7 、佐竹義重の三男・貞隆を養子として迎え、家督を継がせた 7 。
年代 |
出来事 |
関係勢力 |
概要 |
文明年間 |
佐竹氏内紛へ介入 |
佐竹氏 |
軍事的・外交的成果を収め、勢力を拡大。 |
天文の乱 |
伊達晴宗方として参戦 |
伊達氏 |
晴宗の勝利に貢献し、南奥州での影響力を強める。 |
天正13年 |
人取橋の戦い |
伊達氏、佐竹氏他 |
佐竹方連合軍の一員として伊達政宗と敵対。 |
天正18年 |
小田原征伐 |
豊臣秀吉 |
参陣途上で当主常隆が病死。佐竹氏から貞隆を養子に迎える。 |
慶長5年 |
関ヶ原合戦 |
徳川家康 |
東軍に与せず、戦後改易の原因となる。 |
出典: 5 に基づき作成
岩城氏の外交は、一見すると一貫性に欠けるように映るかもしれない。しかし、北の伊達、南の佐竹という二大勢力に挟まれた地政学的条件下においては、これは自らの独立を維持するための高度な「勢力均衡戦略」であった。どちらか一方に完全に臣従するのではなく、状況に応じて有利な側に付くことで、自らの影響力を最大限に保とうとしたのである。岩城氏は、まさに南奥州のパワーバランスを左右する「バランサー」としての役割を担っていた。しかし、佐竹氏から養子を迎えたこの決断は、岩城氏の独立性を揺るがし、後の関ヶ原の戦いにおいて、佐竹氏の動向に自らの運命を縛られるという致命的な結果を招くことになった。
飯野平城の麓には、城の防御機能と一体化した城下町が形成されていた。その都市構造は、後の近世城下町とは大きく異なる、中世的な特徴を色濃く残している。
飯野八幡宮の鳥居前は馬場として利用され、これを中心に町が広がっていたが、その道路網は極めて不規則であった 9 。交差点の多くは直角に交わらないT字路で、意図的に見通しを悪くした行き止まりの道も多かったとされる 9 。これは、万が一敵が市街地に侵入した場合でも、その進軍速度を遅らせ、袋小路に誘い込んで迎撃しやすくするための、高度な防御思想の表れである。城郭本体だけでなく、城下町全体が一個の巨大な防御装置として設計されていたのである。
この中世的な都市構造は、飯野平城廃城後に鳥居忠政が建設した「磐城平」の城下町と比較することで、その性格が一層明らかになる。磐城平の城下町は、城を中心に武家町、町人町、寺町を明確に区分する階層別の居住区が設けられ、碁盤の目のような直線的な街路で構成されていた 9 。
この都市構造の劇的な変化は、時代の変遷と統治思想の転換を如実に物語っている。飯野平の城下町が、戦乱を常態とする時代における「戦うための町」であったのに対し、磐城平の城下町は、徳川の平和な治世下における「統治するための町」であった。前者が「隠す防御」を旨とするのに対し、後者は整然とした街並みによって領主の権威を「見せる」ための装置でもあった。飯野平から磐城平への変貌は、日本の都市が軍事拠点から行政中心地へとその性格を変えていく、歴史的なプロセスを凝縮している。
戦国大名は、武力による領国支配だけでなく、文化や宗教の力を利用して自らの権威を高め、領民の心を掌握することも重要視した。岩城氏もまた、飯野平城を舞台に巧みな文化・宗教政策を展開した。
前述の通り、飯野八幡宮は城郭の重要な構成要素であった。文治元年(1185年)の創建と伝えられるこの古社は 6 、源氏の氏神でもあり、武家の守護神として篤い信仰を集めていた。岩城氏はこの八幡宮を城郭内に取り込むことで、自らの武運長久を祈願すると同時に、その神威を借りて支配の正当性を領民に示そうとした。
岩城氏の文化政策を象徴するのが、浄土宗の高僧・袋中(たいちゅう)上人の招聘である。慶長4年(1599年)、当主の岩城貞隆は袋中上人に深く帰依し、飯野平城(大館城)内に一寺を建立して「菩提院」と名付け、袋中を住職として迎えた 10 。袋中は、後に琉球(沖縄)に渡って浄土宗を広め、現地のエイサーの起源にも影響を与えたとされるほどの学識と徳望を兼ね備えた僧侶であった 29 。
貞隆がこのような高僧を招聘した背景には、単なる個人的な信仰心だけではなく、高度な政治戦略があったと考えられる。戦国時代、京都の五山文学に代表されるように、中央の高度な文化や学識を持つ僧侶や文化人を自らの領国に招くことは、大名の文化的ステータスを飛躍的に高め、周辺大名に対する優位性を示すための有効な手段であった 32 。貞隆は、袋中という「文化資本」を飯野平城に招き入れることで、自らを単なる武人ではなく、文武両道を修めた文化的君主として内外に演出しようとしたのである。そして、その拠点である菩提院を城の中枢に置いたことは、この文化政策が領国支配と不可分のものであったことを明確に示している。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原合戦が勃発すると、岩城氏は存亡をかけた重大な政治的決断を迫られた。しかし、当主の岩城貞隆は徳川家康率いる東軍に与するという明確な旗幟を掲げることができなかった 2 。この背景には、貞隆自身が佐竹義重の子であり、養家である岩城氏よりも実家である佐竹氏の動向に強く影響されたという事情があった。佐竹氏が東西両軍に対して日和見的な態度に終始したため、岩城氏もまた、家康への加勢の機会を逸してしまったのである。
関ヶ原での東軍の勝利後、徳川家康による戦後処理が始まった。家康に味方しなかった岩城氏はその咎を問われ、慶長7年(1602年)、12万石の所領は全て没収、改易の処分を受けた 1 。貞隆は江戸での浪人生活を余儀なくされ、戦国大名岩城氏の磐城支配はここに終焉を迎えた。
同年、岩城氏に代わって磐城の新たな領主として入封したのは、徳川譜代の重臣・鳥居忠政であった 10 。
新領主となった鳥居忠政は、旧領主である岩城氏の記憶と影響力を払拭するため、大胆な政策を断行した。まず、この地の名称を戦国時代までの「飯野平」から、岩城の「岩」の字を忌避して「磐城平」へと改称した 22 。
さらに忠政は、岩城氏の拠点であった飯野平城を本拠とせず、これを破棄することを決定した。そして、その東方の地に、全く新たな近世城郭として「磐城平城」の築城を開始したのである 1 。慶長8年(1603年)に着工されたこの新城は、12年の歳月をかけて完成し 22 、以後、江戸時代を通じて磐城平藩の藩庁が置かれた。
忠政が、十分に機能しうる大規模な城郭であった飯野平城をあえて使用しなかったのは、極めて政治的な意図によるものであった。旧体制の象徴である飯野平城を廃し、徳川の権威を体現する新たな城を建設することは、支配者が交代したという「レジーム・チェンジ」を領民に視覚的に示す、最も強力な手段であった。飯野平城の廃城は、戦国時代の終わりと、徳川による新たな時代の到来を告げる象徴的な出来事だったのである。
文献史料に残された記録に加え、近年の発掘調査は飯野平城の実像と、そこで営まれた人々の生活を具体的に解き明かしつつある。
いわき市教育文化事業団などが実施した発掘調査により、飯野平城の中枢である大館城跡(本丸跡)からは、15世紀後半から16世紀代に属すると考えられる、複数の遺構が検出されている 38 。特に、建物の柱を直接地面に埋めて建てた「掘立柱建物跡」や、その柱穴が列をなして発見されたことは、文献史料には記されていない具体的な建物が城内に複数存在し、複数回にわたって建て替えが行われていたことを物理的に証明した 38 。これらの発見は、飯野平城が単なる軍事施設ではなく、恒常的な政治活動や居住の場であったことを裏付けている。
遺構の中から出土した遺物は、当時の城内での生活を垣間見せる貴重な手がかりとなる。宴会や儀式で用いられた土師器の小皿(かわらけ)や、食料の貯蔵に使われた常滑焼の甕といった日常的な陶磁器に加え、特筆すべきは中国産の白磁皿や、内外面に漆が塗られた椀などの高級品の出土である 38 。
これらの舶来品や高級品の存在は、岩城氏が決して奥州の閉鎖的な地方勢力ではなく、日本海や太平洋の交易ルートを通じて、中央(京都や堺)や、さらには大陸とも繋がる広域的な交易ネットワークに組み込まれていたことを示す物証である。考古学的遺物は、岩城氏が有した経済力と文化的リーチの広さを雄弁に物語っている。
発掘調査はまた、飯野平という土地が持つ歴史の重層性をも明らかにした。調査区では、中世(岩城氏時代)の遺構が埋まった層の上に、近世(磐城平藩時代)の層、さらに近代の層が重なっていることが確認されており、この地が時代を超えて重要な場所として利用され続けてきたことがわかる 38 。
さらに興味深いのは、後の磐城平城の本丸御殿跡から、それよりも古い鎌倉時代初期まで遡る可能性のある焼土層が発見されたことである 41 。これは、文献に記された飯野八幡宮の旧社殿が元久元年(1204年)に火災で焼失したという記録と符合する可能性が指摘されている 41 。もしこの仮説が正しければ、岩城氏は飯野平城を築くにあたり、意図的にこの古くからの「聖地」を城の中心として選んだことになる。土地に宿る歴史的な記憶と聖性を自らの権力基盤に取り込むことで、その支配に歴史的な深みと正当性を与えようとした、岩城氏の深慮遠謀が浮かび上がってくる。
飯野平城は、戦国大名・岩城氏の権力確立と領国拡大の象徴であり、その約120年にわたる栄光と挫折の歴史と運命を共にした城郭であった。
その構造は、石垣を用いず土塁と堀切を駆使した中世的な「土の城」の技術的な到達点を示すと同時に、政治・経済・宗教の各機能を統合した複合城郭として、近世城郭へと至る過渡期の姿を留める、日本城郭史上、極めて貴重な遺産である。
城主・岩城氏の巧みな外交戦略と、飯野平城を舞台に繰り広げられた周辺大名との攻防は、戦国時代の南奥州における地域勢力のダイナミックな生存競争そのものであった。そして、その終焉は、天下統一という巨大な歴史の奔流に、地方の論理がいかに翻弄され、飲み込まれていったかを凝縮して示す物語でもある。
今日、その多くが市街地の下に眠る飯野平城であるが、残された遺構と、発掘調査によって地中から現れる一片の陶磁器は、文献史料の行間を埋め、磐城地方の豊かな歴史を我々に語りかけてくれる。飯野平城は、単なる過去の遺跡ではなく、地域のアイデンティティを形成する上で不可欠な、未来へと継承すべき歴史の証人なのである。