日本の戦国史において、入田親誠(にゅうた・ちかざね)という名は、しばしば「主君の嫡男を廃嫡し、お家騒動を引き起こした裏切り者」という不名誉な評価と共に語られる 1 。天文19年(1550年)、九州の雄、豊後の大友氏を震撼させた内紛「二階崩れの変」の首謀者とされ、最後は逃亡先の肥後で非業の死を遂げた人物。その生涯は、主家を裏切った奸臣の典型例として、単純化されてきた側面がある。
しかし、この一面的な評価は、入田親誠という人物と彼が生きた時代の複雑さを見過ごすことになりかねない。本報告書は、この固定化された人物像に疑問を呈し、彼の出自、大友政権下で築いた権力、彼を取り巻く人間関係、そして彼を破滅へと導いた時代の力学を、現存する史料から多角的に分析することを目的とする。
二階崩れの変は、単なる後継者争いに留まるものではない。それは、豊後府内を拠点に勢力を拡大していた大友氏の権力構造そのものを根底から揺るがし、その後の九州の勢力図にまで決定的な影響を及ぼした一大政変であった 2 。本稿では、この政変の中心人物として断罪された入田親誠に焦点を当て、彼の実像を再構築するとともに、事件の深層に隠された政治的意図と、それが後世に残した長期的な影響について徹底的に考察する。親誠は単なる梟雄であったのか、それとも時代の奔流に飲み込まれた悲劇の忠臣であったのか。その答えを探る旅は、戦国時代の権力闘争の非情さと、歴史の多面性を解き明かす鍵となるだろう。
入田親誠が歴史の表舞台で演じた役割を理解するためには、まず彼がどのような背景を持ち、いかにして大友氏の権力中枢に上り詰めたかを知る必要がある。彼の行動の根源には、大友宗家との複雑な関係性を持つ一族の歴史と、父の代から築き上げられた強大な政治的基盤が存在した。
入田氏は、鎌倉時代に九州へ下向した大友氏初代当主・大友能直の血を引く、由緒ある一門であった。具体的には、能直の曾孫にあたる大友親時の次男・安親を祖とする庶流であり、他の被官国人とは一線を画す高い家格を誇っていた 3 。その本拠地は豊後国直入郡入田荘(現在の竹田市入田周辺)にあり、一族の居城として津賀牟礼城(つがむれじょう)を構えていた 3 。
しかし、その名門としての出自は、必ずしも宗家との安定した関係を保証するものではなかった。むしろ、宗家に対する潜在的な対抗意識を内包する要因ともなり得た。過去には、宗家の家督相続に不満を抱いて反旗を翻し、鎮圧された苦い経験も持つなど、その関係は常に緊張をはらんでいた 3 。この歴史は、入田一族の中に、宗家への従属意識と同時に、機を見て勢力を伸長させようとする野心を育んだ可能性がある。
親誠が二階崩れの変において見せた大胆な行動は、彼個人の資質や野心のみに帰せられるべきではない。それは、宗家との長年にわたる複雑な関係性を背景に、一族の失われた影響力を回復し、さらには政権の中枢を掌握しようとする歴史的文脈の中で理解する必要がある。主君・大友義鑑が嫡男・義鎮の廃嫡を企図したとき、それは親誠にとって、主家の内紛に介入し、自らが推戴する君主(塩市丸)を擁立することで一族の悲願を達成する、またとない好機と映ったとしても不思議ではない。彼の決断は、単なる個人的な感情の発露ではなく、一族の歴史的野心を背負った、極めて政治的なものであったと解釈できる。
入田親誠の権勢は、彼の父である入田親廉(ちかかど)の代にその礎が築かれた。親廉は、大友氏20代当主・大友義鑑の治世において、政権の最高意思決定機関である「加判衆(かはんしゅう)」の筆頭を務めるほどの絶大な権力を掌握していた 2 。加判衆とは、大名が発給する文書に連署する宿老・年寄衆であり、その筆頭であることは、親廉が大友政権の事実上の宰相であったことを意味する 8 。史料上でも、享禄3年(1530年)から天文16年(1547年)にかけて、「入田丹後守親廉」の名が加判衆として数々の連署状に記されていることが確認できる 9 。
この強大な父の威光を背景に、親誠もまた義鑑の寵臣として異例の出世を遂げる。彼も父に続いて加判衆の一員に名を連ね、政権の中枢に深く関与した 5 。さらに義鑑は、自身の嫡男である義鎮(後の大友宗麟)の傅役(もりやく)、すなわち教育係という極めて重要かつ信頼を要する役目に親誠を任命した 1 。これは、義鑑がいかに親誠を信頼し、入田父子を重用していたかを示す証左である。
しかし、この傅役という立場が、皮肉にも親誠と義鎮の間に埋めがたい溝を生むことになる。傅役として義鎮の将来を案じた親誠は、その粗暴な気性をたびたび諫めたとされるが、若き義鎮はこれを忠言として受け入れず、むしろ疎ましく感じていたという 1 。この個人的な確執は、やがて義鑑が義鎮の廃嫡を考え始めた際に、親誠がそれに積極的に加担する心理的な土壌を形成した。主君からの寵愛と、次期当主からの反感という二つの相反する関係性が、彼の運命を大きく左右していくことになる。
天文19年(1550年)2月、豊後府内を揺るがした政変「二階崩れの変」は、入田親誠の運命を決定づけた。この事件は、大友宗家の後継者問題を巡る対立が、血腥い惨劇へと発展したものである。その複雑な人間関係と事件の経緯を、以下に詳述する。
この事件の全体像を理解するためには、登場人物たちの複雑な関係性を把握することが不可欠である。以下の表は、各人物の立場、派閥、事件における役割、そしてその後の運命をまとめたものである。特に、親誠と彼の妹婿である戸次鑑連、そして岳父である阿蘇惟豊との関係性のねじれは、この事件の悲劇性を象徴している。
人物名 |
立場・役職 |
派閥 |
事件における役割 |
事件後の結末 |
大友義鑑 |
大友家20代当主 |
塩市丸派 |
義鎮廃嫡を画策 |
襲撃により重傷を負い、数日後に死亡 15 |
大友義鎮(宗麟) |
嫡男 |
義鎮派 |
廃嫡の対象。事件後、家督を継承 |
大友家21代当主となる 13 |
塩市丸 |
義鑑の三男、側室の子 |
塩市丸派 |
次期当主候補 17 |
襲撃により殺害される 16 |
入田親誠 |
義鎮の傅役、加判衆 |
塩市丸派 |
廃嫡計画の中心人物 12 |
逃亡後、岳父・阿蘇惟豊に殺害される 21 |
入田親廉 |
親誠の父、加判衆筆頭 |
塩市丸派 |
親誠と共に計画に関与か 2 |
親誠と共に討たれたとされる 7 |
津久見美作守 |
重臣 |
義鎮派 |
義鑑・塩市丸らを襲撃 2 |
その場で討死 2 |
田口蔵人佐 |
重臣 |
義鎮派 |
義鑑・塩市丸らを襲撃 2 |
その場で討死 2 |
小佐井大和守 |
重臣 |
義鎮派 |
廃嫡に反対 2 |
事前に謀殺される 20 |
斎藤長実 |
重臣 |
義鎮派 |
廃嫡に反対 2 |
事前に謀殺される 20 |
戸次鑑連(立花道雪) |
重臣、親誠の妹婿 |
義鎮派 |
義鎮を擁立、親誠追討軍を指揮 3 |
義鎮政権下で重用される 24 |
阿蘇惟豊 |
肥後の国人、親誠の岳父 |
中立 |
逃亡してきた親誠を保護せず誅殺 21 |
大友氏との関係を維持 26 |
大友義鑑が嫡男の廃嫡という、国本を揺るがしかねない決断に傾いた背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。第一に、義鎮の気性の荒さと粗暴な振る舞いに対し、当主としての器量に深刻な疑問を抱いていたこと 12 。第二に、側室との間に生まれた三男・塩市丸を溺愛し、彼に家督を譲りたいという個人的な情愛が強かったこと 16 。そして第三に、より政治的な深層として、義鎮の生母が宿敵・大内氏の娘である(という説があり)、義鎮を当主に据えることで大内氏の政治的影響力が家中に及ぶことを危惧し、これを排除しようとしたという説も有力である 2 。
こうした主君の意向を、入田親誠は積極的に後押しした。彼は義鑑や塩市丸の生母と共謀し、廃嫡計画の実行者として中心的な役割を担っていく 12 。その動機は、主君の寵愛に応えるという忠誠心、義鎮への個人的な反感、そして何よりも、この機に乗じて入田一族の権勢を盤石なものにしようという政治的野心が渾然一体となったものであったと考えられる。
計画を推し進めるにあたり、義鑑と親誠は強硬手段に訴えた。廃嫡に真っ向から反対した義鎮派の重臣、小佐井大和守や斎藤長実らを事前に謀殺するという暴挙に出たのである 20 。この粛清により、大友家中の対立はもはや対話による解決が不可能な段階へと突入し、血で血を洗う破局への道を突き進むこととなった。
義鑑と親誠による強引な反対派粛清は、残された義鎮派の家臣たちに強い危機感を抱かせた。自らの命運も尽きたと覚悟した津久見美作守と田口蔵人佐は、最後の手段として実力行使に打って出る。天文19年(1550年)2月10日の夜、二人は府内にあった大友館に押し入り、二階で就寝していた義鑑らを襲撃した 2 。
この襲撃は凄惨な結果を招いた。義鑑が後継者として望んだ塩市丸とその生母、さらには義鑑の娘2名がその場で殺害された 12 。事件の名称「二階崩れの変」は、この惨劇が館の二階で起きたことに由来する。襲撃を実行した津久見、田口の両名も、抵抗する護衛の者たちとの激しい斬り合いの末、その場で討死を遂げた 2 。
当主である義鑑自身も、この襲撃によって深手を負った。彼はかろうじて即死は免れたものの、この時の傷が致命傷となり、領国経営に関する置文(おきぶみ)を残したとされた後、数日後にこの世を去った 2 。これにより、大友家は当主と後継者候補を同時に失うという、未曾有の危機に直面することになった。
事件当時、別府の浜脇温泉で湯治中であった義鎮は、府内での凶報に接すると、驚くべき沈着冷静さで行動を開始した 13 。彼はただちに府内に帰還すると、混乱する家中を迅速に掌握。父・義鑑の遺言(とされる文書)を根拠に、大友家21代当主の座に就くことを宣言した。そして、権力を握るや否や、この政変の全ての責任を負うべき「黒幕」として、傅役であった入田親誠を名指しで断罪したのである 3 。
「主君殺しの首謀者」という汚名を着せられた親誠は、府内を脱出し、居城である津賀牟礼城に立て籠もって抵抗を試みた 3 。しかし、義鎮が派遣した討伐軍の猛攻の前に、城を守り切ることはできなかった。この追討軍の総大将を務めたのが、皮肉にも親誠の妻の兄弟、すなわち義理の弟にあたる戸次鑑連(後の立花道雪)であったことは、この事件の悲劇性を一層際立たせている 3 。
城を捨てた親誠は、最後の望みをかけて肥後国へと逃亡し、妻の実家である阿蘇氏を頼った。岳父である阿蘇惟豊に庇護を求めるためであった 14 。しかし、惟豊の対応は非情であった。史料には、惟豊が親誠の「主君への謀叛」という行いを「嫌悪」したと記されているが 21 、その真意はより政治的な計算に基づいていたと考えられる。当時、肥後北部に大きな影響力を持っていた大友氏の新当主・義鎮に逆らうことは、阿蘇氏の存亡に関わる危険な賭けであった 32 。惟豊は、娘婿を匿うことで大友氏と敵対するリスクを冒すよりも、彼を差し出すことで新当主への忠誠を示し、自家の安泰を図る道を選んだ。この冷徹な政治判断の結果、親誠は岳父の手によって誅殺され、その首は義鎮のもとへと届けられたのである 14 。親族の情よりも領国の実利を優先する、戦国時代の非情な現実がそこにはあった。
二階崩れの変は、入田親誠の死をもって一応の終結を見た。しかし、この事件が投げかけた波紋は、その後数十年にわたって大友氏の歴史に影を落とし続けることになる。誰が真の「黒幕」であったのかという問いは、今なお歴史家の間で議論が交わされており、また、この事件がもたらした怨恨の連鎖は、大友氏の衰退を加速させる遠因となった。
二階崩れの変の真相については、複数の説が存在し、単純な結論を出すことは難しい。
通説「入田親誠黒幕説」
これは、事件直後に新当主となった大友義鎮によって確立された「公式見解」である。すなわち、入田親誠が主君・義鑑を唆して嫡男・義鎮の廃嫡を企て、家中に混乱を招いた全ての元凶である、という筋書きだ 3。この説は、義鎮の家督継承を正当化し、反対派を一掃するための大義名分として機能した。
対抗説「大友義鎮陰謀説」
一方で、事件後の義鎮の対応があまりに迅速かつ手際が良かったことや、父・義鑑が死の直前に残したとされる置文の内容が義鎮に都合の良いものであることなどから、義鎮自身が事件の裏で糸を引いていたのではないか、とする説も根強く存在する 2。この説に立てば、津久見・田口らの襲撃も義鎮の教唆によるものであり、義鑑の置文も義鎮によって創作された可能性が浮上する 2。
深層説「入田父子排除説」
さらに、事件の真の目的は、塩市丸の擁立そのものよりも、当時加判衆筆頭として政権を牛耳っていた入田親廉・親誠父子の強大すぎる権力を排除することにあった、とする見方もある 2。事件後、親誠だけでなく父・親廉も共に討たれたとされる事実 7 は、この説の信憑性を高めている。義鎮とその周辺の勢力にとって、旧体制の象徴である入田父子の存在は、新政権を樹立する上で最大の障害であった。
これらの説を総合的に勘案すると、入田親誠が果たした役割は、事件の真の構図が何であったにせよ、新当主・義鎮が自らの権力を確立するために用意した、完璧な「スケープゴート(生贄)」であったという側面が浮かび上がってくる。義鎮にとって、「父・義鑑は悪臣・入田親誠に唆された被害者であり、自分は父の遺志を継いでその悪臣を討ち、秩序を回復した」という物語は、自らの家督継承を劇的に正当化する上で極めて有効であった。この物語を完成させるためには、全ての悪意を一身に背負う「悪臣」が不可欠であり、義鎮自身の傅役でありながら彼を裏切った親誠は、その役に最もふさわしい人物であった 1 。親誠を「黒幕」として断罪・誅殺することは、①父・義鑑の名誉を守り、②自らの正当性を確立し、③最大の政敵である入田派を一掃するという、三つの政治的目的を同時に達成する、極めて高度な政治的計算に基づいた行動だったのである。
入田親誠の死と一族の断罪は、大友家の権力構造を一時的に安定させたが、その代償として根深い怨恨の種を残した。この怨恨は、一世代の時を経て、大友氏の存亡を揺るがす深刻な事態を引き起こすことになる。
事件後、入田一族は所領を没収され、親誠の嫡男であった入田義実(よしざね)は、父を殺され家を失い、流浪の身となった 3 。その後、天正8年(1580年)頃、事件当時は若年であったことなどを理由に大友氏への帰参が許されたものの、その処遇は極めて冷淡なものであった。回復された所領はかつての所領のごく一部に過ぎず、父祖伝来の居城・津賀牟礼城も返還されることはなかった 5 。この不完全な赦免と冷遇は、義実の胸に燻り続けていたであろう父の仇討ちと家名再興への念に、さらなる油を注ぐ結果となった。
その復讐の機会は、二階崩れの変から36年後の天正14年(1586年)、薩摩の島津氏が大友領に大挙して侵攻した「豊薩合戦」の際に訪れた。大友氏が国家存亡の危機に瀕する中、義実は島津氏に内通。豊後南部の国人衆(南郡衆)である志賀氏らに寝返りを働きかけ、大友軍の防衛戦線を内側から崩壊させるという、致命的な役割を果たしたのである 3 。
この事実は、1550年の義鎮による冷徹な政治的判断が、結果として大友家中に「時限爆弾」を抱え込ませる結果になったことを示している。短期的に見れば権力基盤の確立に成功した粛清劇が、長期的には自らの首を絞めることになった。親誠の死から三十数年後、その息子の手によって大友氏が滅亡の淵に立たされるという皮肉な結末は、戦国時代の権力闘争が生み出す怨恨の連鎖がいかに根深く、世代を超えて影響を及ぼすかを物語る象徴的な事例と言えよう。
入田親誠の生涯を多角的に検証すると、彼は単なる「裏切り者」や「愚かな奸臣」という紋切り型の評価では捉えきれない、複雑な人物像が浮かび上がる。彼は、大友宗家の一門という高い誇りを持ち、主君・大友義鑑への忠誠心と、自らの一族の権勢を拡大させたいという野心の間で葛藤した、極めて政治的な人間であった。
彼の悲劇性の本質は、複数の要因が不幸にも重なり合った点にある。それは、次期当主・義鎮との個人的な確執、父・親廉が築き上げた強大すぎる権力が招いた嫉妬と警戒、そして何よりも、下剋上が常であった戦国という時代の非情な権力闘争の力学に翻弄されたことである。彼は、主君・義鑑の意向に忠実に従って行動したにもかかわらず、政変が起きるや否や、全ての責任を負わされる「スケープゴート」とされ、最後は血縁者にまで裏切られて命を落とした。
入田親誠の生涯と死は、我々に多くのことを示唆している。それは、戦国時代における「忠誠」という概念がいかに多義的で危ういものであったか、権力継承がいかに血腥い粛清を伴うものであったか、そして、一つの政治的決断が世代を超えていかに大きな影響を及ぼすか、ということである。彼は、九州の戦国史における一大転換点に立ち、その巨大な渦の中で翻弄され、そして消えていった。その存在は、大友宗麟の治世の幕開けを飾る影として、また、戦国の世の非情さを体現した悲劇の人物として、忘れられるべきではないだろう。