本報告書は、天正10年(1582年)に生まれ、寛文2年(1662年)に没した朽木宣綱の81年にわたる生涯を、単なる一武将の伝記としてではなく、戦国乱世の終焉から徳川幕藩体制の確立期に至る日本の社会変容を映し出す鏡として捉え、その実像に迫るものである。
宣綱の人生は、いくつかの重要な要素によって特徴づけられる。第一に、近江源氏佐々木氏の血を引くという由緒ある「家格」。第二に、父・朽木元綱の劇的な処世術がもたらした、徳川の世における一族存続という「遺産」。第三に、熱心なキリシタンであった妻・京極マグダレナとの結婚が象徴する、当時の「宗教的・政治的葛藤」。そして第四に、巨大地震という抗い難い自然の力による「悲劇的な最期」である。
これらの要素を深く掘り下げることは、旗本でありながら大名に準じるという特異な地位、すなわち「交代寄合」を築き、一族を近世へと巧みに導いた宣綱の人物像を、立体的かつ多角的に解明することに繋がる。彼の生涯は、戦国から江戸へと移行する時代の大きなうねりの中で、一個人が、そして一つの家が、いかにして自らの存続と繁栄を図ったかを示す貴重な事例である。本報告書では、これらの視点に基づき、朽木宣綱という人物の全貌を徹底的に調査し、その歴史的意義を明らかにしていく。
朽木宣綱の生涯を理解するためには、彼が背負った一族の歴史と、その本拠地が持つ地政学的な重要性をまず把握する必要がある。朽木氏は単なる地方土豪ではなく、鎌倉時代にまで遡る由緒ある家柄であり、その存続戦略は常に「家格」と「地理的優位性」という二つの柱によって支えられてきた。
朽木氏の起源は、宇多源氏の流れを汲む近江源氏佐々木氏に遡る。鎌倉時代、佐々木信綱が承久の乱における功績により、幕府から近江国高島郡朽木荘の地頭職を与えられたことが、その始まりであった 1 。この由緒ある血筋は、後の江戸時代に至るまで、朽木家の家格を支える無形の、しかし極めて重要な資産となった。
室町時代に入ると、朽木氏は幕府の奉公衆として足利将軍家に仕え、中央政権と密接な関係を築いた 3 。特に、戦乱を避けて将軍足利義晴やその子・義輝が朽木谷に身を寄せたことは、朽木氏の政治的地位と、その本拠地が持つ戦略的重要性を象徴する出来事である 5 。この時、将軍の滞在のために造営された「岩神館」と、管領・細川高国が作庭したと伝わる庭園(後の国指定名勝「旧秀隣寺庭園」)は、朽木氏と中央政権との深い繋がりを今に伝える文化遺産として現存している 5 。
朽木氏の力を支えたもう一つの柱は、本拠地である朽木谷の地政学的・経済的価値であった。朽木谷は、京都と若狭・越前を結ぶ若狭街道(通称「鯖街道」)が縦断する交通の要衝に位置していた 4 。この地理的優位性は、軍事・兵站上の拠点としてだけでなく、物資や情報が行き交う経済の動脈を掌握することを意味した。さらに、この地域は古くから「朽木の杣」と称される豊かな山林資源に恵まれ、木材や炭、そして「朽木盆」に代表される木工品の一大生産地でもあった 6 。朽木氏は、これらの林業・商業・交通から得られる経済力を背景に、「奥畑炭かま銭」や「商人銭」、「馬宿銭」といった独自の税を課すことで、安定した領地経営の基盤を確立していたのである 6 。
このように、朽木家は「名門の家格」という権威と、「交通の要衝」という地理的・経済的実利を両輪として、乱世を生き抜くための確固たる基盤を築いていた。
朽木宣綱の父である元綱は、戦国乱世の激動を巧みな処世術で乗り切り、一族を存続させた人物である。彼の決断は、宣綱の代における朽木家の地位を決定づける上で極めて重要な意味を持った。
元綱の生涯における最初の大きな転機は、元亀元年(1570年)の「金ヶ崎の退き口」であった。越前朝倉氏を攻めていた織田信長が、同盟者であったはずの浅井長政の裏切りによって絶体絶命の窮地に陥った際、元綱は信長軍が自領の朽木谷を通過することを許可し、その撤退を助けた 4 。この決断は、当時浅井氏の勢力圏にあった朽木氏にとって大きな賭けであったが、結果として信長の信頼を勝ち取り、織田政権下での地位を確保する礎となった。
信長の死後は、時流を読み豊臣秀吉に仕え、本領を安堵される 13 。この時期、朽木家は2万石ともいわれる所領を有し、大名としての地位を確立していた 16 。
そして、元綱の処世術が最も劇的に発揮されたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いである。当初、元綱は近江の同郷である石田三成に与し、西軍の大谷吉継隊に属して布陣していた 13 。しかし、本戦の最中、松尾山に陣取っていた小早川秀秋の寝返りに呼応する形で、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保らと共に東軍へと転じた 16 。この行動は、事前に東軍の藤堂高虎らによる調略に応じていたためとされ、西軍の精鋭であった大谷隊を側面から攻撃し、その壊滅を決定づけた 18 。
この土壇場での寝返りという際どい決断により、戦後、徳川家康から旧領である近江朽木谷9,590石を安堵された 4 。石高は1万石に満たず、形式上は大名の列から外れることになったが、中世以来の所領を維持し、改易・減封の嵐が吹き荒れる中で一族存続の危機を回避することに成功した。父・元綱が戦国の論理の中で下した一連の決断は、息子・宣綱が徳川の世で安定した地位を築くための、何物にも代えがたい遺産となったのである。
父・元綱が戦国の動乱を乗り越えて遺した基盤の上に、朽木宣綱は新たな時代である徳川の世を生きることになる。彼の生涯は、幕府が構築する新たな身分秩序と社会規範の中で、自らの一族が生き残るための最適な立ち位置を模索し、巧みに適応していった過程そのものであった。
朽木宣綱は、本能寺の変が起きた天正10年(1582年)、朽木元綱の長男として誕生した 5 。父が豊臣秀吉に仕えていたため、宣綱も青年期までは豊臣氏に仕えた 5 。
関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来すると、朽木家も徳川氏に仕えることとなる。その中で宣綱は、早くも幕府から一定の評価を得ていたことを示す記録が残っている。元和2年(1616年)、徳川家康が太政大臣に任官するという、徳川政権の権威を天下に示す極めて重要な儀式において、宣綱は配膳役という名誉ある役を務めたのである 5 。これは、朽木家が単なる敗軍の将ではなく、幕府によって認められた由緒ある家として扱われていたことの証左と言える。
同年、父・元綱が隠居すると、宣綱は家督を相続した。この時、父の所領9,590石のうち、宣綱は6,350石を継承し、残りの3,240石は元綱の隠居料とされた 5 。その後、寛永9年(1632年)に元綱が84歳で死去すると、その隠居料が息子たちに再分配されることになった。宣綱はこのうち120石余りを加増され、弟の友綱には2,010石、同じく弟の稙綱には1,110石が分与された。これにより、宣綱が率いる朽木本家の所領は、最終的に6,470石となった 2 。この一連の相続と分与は、徳川幕府の承認のもとに行われたものであり、朽木家が新たな支配体制に組み込まれていく過程を具体的に示している。
朽木家は、江戸幕府の下で「交代寄合」という特殊な家格を与えられた。これは、宣綱の時代の朽木家を理解する上で最も重要な点である。
交代寄合とは、知行高は1万石未満で身分上は旗本(その中でも3,000石以上の無役の者は「寄合」と呼ばれた)に属しながら、大名と同様に参勤交代の義務を負い、それに準じた待遇を受けるという特別な家格であった 23 。その出自は、大名家の分家や由緒ある名家の子孫など様々であったが、共通していたのは、幕府から特別な由緒を認められていた点である 24 。彼らは、一般の旗本が若年寄の支配下にあったのに対し、大名と同じく老中の支配下に置かれていた 24 。
朽木家がこの特権的な地位を得られた背景には、二つの大きな要因があった。第一に、前章で述べた通り、鎌倉時代以来の近江源氏の名家という由緒ある家柄であったこと 3 。第二に、その所領である朽木谷が、京都防衛の要衝という極めて重要な地政学的価値を持っていたことである 4 。石高こそ旗本の基準であったが、その家柄と所領の重要性から、幕府は大名に準じる扱いを認めたのである。このため、高島市の自治体史である『朽木村史』などでは、交代寄合朽木家の統治体制を指して「朽木藩」と呼称することもある 10 。これは、石高という形式的な基準だけでは測れない、朽木家が持っていた実質的な格式の高さを示している。
宣綱の私生活において、そして当時の政治・宗教情勢を映し出す上で特筆すべきは、正室・京極マグダレナの存在である。彼女は京極高吉の娘で、洗礼名を持つ熱心なキリシタンであった 5 。彼女の母である京極マリアもまた著名なキリシタンであり、その信仰は娘に深く受け継がれていた 29 。
この結婚は、やがて宣綱を政治的な苦境に立たせることになる。慶長11年(1606年)、マグダレナが京都の八瀬の館で死去した際、その葬儀を巡って問題が発生した。夫である宣綱は仏式での葬儀を望んだが、義母である京極マリアが強く主張し、京都にあったキリシタンの教会で、信徒が多数参列する盛大な葬儀が執り行われたのである 5 。
この一件は、キリスト教の拡大を警戒していた徳川家康の耳にも入り、問題視された。マグダレナの従姉妹にあたる淀殿(浅井長政の娘)が家康に苦情を訴えたとも伝えられている 5 。この盛大な葬儀が示したキリシタンの団結力と動員力は、幕府に衝撃を与え、結果的に武士に対するキリシタン禁教令を強化する一因になったとも言われている 29 。
この事件の後、宣綱は幕府からの嫌疑を晴らし、一族の安泰を図るため、巧みな対応を見せる。彼は妻マグダレナの菩提を弔うという名目で、かつて足利将軍が滞在した由緒ある岩神館の跡地に、秀隣寺(周林院)という寺院を建立した 5 。特筆すべきは、この寺の本尊が、表向きは観音像でありながら、その姿は聖母マリアに似せて作られていたと伝えられている点である 5 。これは、幕府の宗教政策という「公」の要請に応えつつ、亡き妻の信仰と自らの愛情という「私」の想いを形に残そうとした、宣綱の苦悩と知恵の表れであったと言えよう。
江戸時代という新たな秩序の中で、武家が一族の安泰を維持するためには、武功だけでなく、巧みな家政運営と社会的なネットワーク構築が不可欠であった。朽木宣綱は、「分知」と「婚姻」という二つの戦略を巧みに用いることで、徳川の世における一族の生存基盤を確固たるものにした。
宣綱は正室マグダレナ、側室の伴氏らとの間に多くの子女を儲け、その婚姻を通じて有力な武家との姻戚関係を築き、一族のネットワークを拡大した。その詳細は以下の通りである。
関係 |
氏名 |
母親 |
備考 |
正室 |
マグダレナ |
- |
京極高吉の娘。洗礼名を持つキリシタン 5 。 |
長男 |
朽木智綱 |
正室マグダレナ |
朽木本家(谷朽木)を相続。父の隠居に伴い家督を継ぐ 5 。 |
次男 |
京極高通 |
正室マグダレナ |
母方の叔父にあたる丹後宮津藩主・京極高知の婿養子となり、遺領を分与され丹後峰山藩1万3千石の大名となる 5 。 |
側室 |
伴氏 |
- |
5 |
三男 |
朽木良綱 |
側室・伴氏 |
兄・智綱より1,000石を分知され、旗本家を立てる 5 。 |
四男 |
朽木元綱 |
側室・伴氏 |
兄・智綱より700石を分知され、旗本家を立てる。父と同名である 5 。 |
女子 |
(名不詳) |
生母不詳 |
旗本・大島義唯に嫁ぐ 5 。 |
女子 |
(名不詳) |
生母不詳 |
岡本介球に嫁ぐ 5 。 |
女子 |
(名不詳) |
生母不詳 |
旗本・川口宗次に嫁ぐ。その息子である川口宗恒は、後に長崎奉行や江戸町奉行といった幕府の要職を歴任した 5 。 |
女子 |
(名不詳) |
生母不詳 |
高麗道覚に嫁ぐ 5 。 |
女子 |
(名不詳) |
生母不詳 |
三沢清長に嫁ぐ 5 。 |
この表が示すように、宣綱は息子たちに所領を分与して複数の旗本家を創設しただけでなく、次男を高名な大名家の養子に入れることに成功した。さらに、娘たちを他の有力旗本家に嫁がせることで、幕府内における姻戚ネットワークを広げた。特に、娘婿の一族から幕府の要職である町奉行を輩出したことは、朽木家の影響力が単なる地方領主の枠を超え、中央政界にも及ぶ可能性を持っていたことを示唆している。
宣綱の時代、朽木家は本家だけでなく、複数の分家がそれぞれの形で発展を遂げた。これは、一族全体としての生存戦略の一環であったと考えられる。
顕著な例は、宣綱の末弟・朽木稙綱の家系である。稙綱は三代将軍・徳川家光の側近として信任を得て出世を重ね、若年寄にまで昇進した。度重なる加増の結果、その子孫は最終的に丹波福知山藩3万2千石の大名となり、幕末まで存続した 2 。これにより、嫡流である宣綱の本家(谷朽木)よりも、庶流である福知山藩主家の方が石高において大きく上回るという「ねじれ現象」が生じた。
また、宣綱自身も父・元綱の死後に弟たちへ所領を分け、さらに自らが隠居する際には、家督を継ぐ長男・智綱の遺領から三男・良綱と四男・元綱にそれぞれ1,000石と700石を分与し、新たな旗本家を創設している 5 。こうした積極的な分家の創設は、父・元綱の代から続くものであった。この背景には、関ヶ原の戦いにおける土壇場での寝返りという経緯から、幕府による厳しい処置を警戒し、万が一本家が改易などの処分を受けた場合でも、分家が家名を存続させるためのリスク分散策であったという推測がある 10 。
江戸初期の武家社会において、当主の不始末や後継者の不在による「改易」は最大の脅威であった。朽木家は、分家創設という形で血脈を複数に分けることで、このリスクを巧みに回避しようとしたのである。これは、石高という直接的な経済力だけでなく、一族の存続可能性という「社会的資本」を重視した、徳川の平和な世を生き抜くための新たな処世術であったと言える。
戦国の動乱を乗り越え、徳川の世に一族の安泰を築いた朽木宣綱であったが、その生涯の幕引きは、人の力の及ばぬ巨大な自然災害によって、あまりにも突然にもたらされた。彼の最期は、近世社会が常に内包していた自然の脅威を象徴する出来事であった。
万治2年(1659年)、宣綱は数え年78歳で家督を長男の智綱に譲り、隠居の身となった 5 。彼は「立斎」と号し、その後も本拠地である近江朽木谷の陣屋で、穏やかな晩年を送っていたと考えられる 5 。父・元綱が戦乱の中で生き残り、宣綱自身も政治的・宗教的な危機を乗り越えてきた末の、平穏な日々であった。
寛文2年5月1日(西暦1662年6月16日)の昼頃、その平穏は突如として破られた。近江・若狭地方を中心に、巨大な地震が発生したのである 35 。この「寛文近江・若狭地震」は、琵琶湖西岸を走る花折断層北部と、若狭湾沿岸の日向断層が連動して活動したことによって引き起こされたと考えられている 36 。その規模はマグニチュード7.5前後と推定され、有史以来、日本の内陸で発生した最大級の地震の一つであった 35 。
震源域に近かった朽木谷の被害は、想像を絶するものであった。激しい揺れによって多数の家屋が倒壊し、さらに火災が発生して集落は壊滅的な打撃を受けた 10 。京都所司代から江戸へ送られた被害報告の中でも、朽木谷では「家屋が倒壊し、出火により近辺の家々は残らず焼失」したと記録されている 39 。
さらにこの地震は、安曇川上流の山間部で「町居崩れ」と呼ばれる大規模な山体崩壊を引き起こした。崩れ落ちた大量の土砂は二つの村を飲み込み、川を堰き止めて巨大な天然ダムを形成した。このダムはやがて決壊し、下流にさらなる洪水被害をもたらしたとされている 35 。
この未曾有の大災害の最中、朽木陣屋もまた、激震によって倒壊した。隠居の身であった朽木宣綱は、多くの家臣たちと共に建物の下敷きとなり、この世を去った 5 。享年81歳、法号は崇玄 5 。後に発見された古地図の記述によれば、この陣屋の倒壊で、宣綱のほか約70名もの人々が命を落としたと伝えられている 38 。
父・宣綱の圧死という悲報は、家督を継いでいた智綱のもとに直ちにもたらされた。この情報は迅速に周辺大名にも伝播し、隣接する小浜藩では、地震発生からわずか2日後の5月3日には、当主の酒井忠直から智綱宛に見舞いの書状が送られている記録が残っている 43 。これは、当時の大名間に整備されていた情報伝達網の速さを示すとともに、朽木家の悲劇が周辺地域に与えた衝撃の大きさを物語っている。
父の突然の死と、領地の壊滅という二重の困難に直面した智綱は、領地の復興という極めて重い課題を背負うことになった。この震災の混乱の中、朽木家に代々伝来してきた貴重な古文書の一部も焼失したとされており、その損失は計り知れない 10 。戦国の知恵も、江戸の秩序も、巨大な自然の力の前では無力であった。宣綱の死は、人間の意志だけでは動かしがたい歴史の側面を、我々に強く突きつける出来事であった。
朽木宣綱の81年の生涯は、派手な武功や政争の主役として歴史の表舞台に立つことは少なかった。しかし、その生涯を深く考察する時、彼は戦国の動乱から徳川の安定期へと時代が大きく転換する中で、一族を巧みに導き、その礎を築いた「偉大なる移行期の管理者」として再評価されるべき人物像が浮かび上がってくる。
父・元綱は、関ヶ原という「人災」とも言うべき戦乱を、土壇場での寝返りという「戦国の論理」で乗り越え、一族存続の権利を勝ち取った。宣綱が継承したのは、この危うい均衡の上に立つ家であった。彼の使命は、その権利を「江戸の論理」の中で、揺るぎない安定した地位へと昇華させることにあった。
彼は、旗本でありながら大名に準じる「交代寄合」という特異な地位を最大限に活用し、名門としての家格を維持した。同時に、弟や息子たちへの分知、有力武家との婚姻政策を通じて、一族の血脈を分散させ、社会的なネットワークを拡大することで、改易という近世武家社会最大のリスクに備えた。これは、武力に代わる新たな生存戦略であった。
また、キリシタンの妻マグダレナを巡る一件では、個人の情愛と幕府の威光という相容れない要素の狭間で苦悩しつつも、秀隣寺建立という形で、双方を立てる巧みな政治的バランス感覚を発揮し、危機を乗り越えた。
彼の統治下で、朽木谷は安定した領地経営が行われ、宣綱自身も81歳という当時としては稀な長寿を全うし、隠居の身となっていた。これは、彼が戦乱の時代を生き抜き、徳川の安定した世の中に適応できた成功者であったことを意味する。しかし、その生涯の幕は、人間の制御を超えた寛文地震という「天災」によって、あまりにも唐突に降ろされた。この劇的な対比は、歴史が人間の意志や知恵だけで動くものではないという、根源的な事実を我々に突きつける。
結論として、朽木宣綱は、父が遺したものを守り、育て、次代へと確実に受け渡すという、地道ではあるが極めて重要な役割を果たした。彼の人生は、近世初期における武家社会の有り様、宗教との関わり、そして抗い難い自然との対峙という、多様な側面を理解するための、誠に貴重な縮図と言えるだろう。