本報告書は、戦国時代の飛騨国において活動した武将、麻生野慶盛(あそや よしもり)の生涯と、彼を取り巻く歴史的背景について、現存する史料に基づき詳細に解説することを目的とします。麻生野慶盛は、飛騨の豪族であり、洞城(ほらじょう)主、麻生野直盛(なおもり)の子として知られています。父の死後家督を継ぎ、当初は武田家と友好関係を結びましたが、後に上杉家と結んだ従兄弟の江馬輝盛(えま てるもり)と対立し、攻められて自害したと伝えられています。本報告書では、これらの概要をさらに掘り下げ、慶盛の具体的な事績や、当時の飛騨国における複雑な政治情勢との関わりを明らかにします。
麻生野慶盛は、天文8年(1539年)に生まれ、天正元年(1573年)に没したと記録されています 1 。彼の生涯を考察するにあたり、『飛州志』や『江馬家譜考』といった郷土史料、さらには関連する研究論文や記録を主要な情報源とします。これらの史料を多角的に検討することで、慶盛の実像に迫ることを目指しますが、史料によっては記述に差異が見られる場合もあるため、その点も考慮に入れながら論を進めます。
麻生野氏は、戦国時代の飛騨国において独自の地位を築いた一族です。その出自は、飛騨の有力な国人領主であった江馬氏の傍流と伝えられています 2 。具体的には、麻生野慶盛の父である麻生野直盛の代に、江馬氏から分家・独立し、飛騨国吉城郡麻生野(現在の岐阜県飛騨市神岡町麻生野)に拠点を構えたことから、麻生野氏を称するようになったとされています 1 。
この江馬氏からの独立という事実は、戦国時代における国人領主間の勢力争いや、自立を目指す動きが活発であったことを示す一例と言えるでしょう。直盛がどのような経緯で独立に至ったのか、そして独立当初の江馬本家との関係性がどのようなものであったのかについては、詳細な史料が乏しく、今後の研究が待たれるところです。しかし、この独立が、後の麻生野氏、特に慶盛の運命に大きな影響を与えることになります。
麻生野慶盛の父、麻生野直盛は、麻生野氏の基礎を築いた人物として重要です。史料によれば、直盛は江馬氏第14代当主であった江馬時経(えま ときつね)の二男であったとされています 3 。彼が麻生野の地に入り、勢力を確立した時期は、大永年間(1521年~1528年)頃と考えられており、この時期に居城となる洞城(別名:麻生野城)を築いたと伝えられています 3 。
直盛は、武将としての活動だけでなく、地域の信仰にも関与していました。彼は両全寺を創建したとされ、その寺伝によれば、桃源周岳和尚を招いて開山したとあります 5 。直盛は永禄7年(1564年)に逝去し、その位牌は両全寺に納められ、供養塔も現存しています 1 。なお、両全寺の伽藍整備は直盛の死後も続き、子の慶盛と江馬宗久(えま むねひさ)が後ろ盾となって完成させたとされています 6 。
直盛による築城や寺社建立は、麻生野氏が単に江馬氏の一分家というだけでなく、麻生野の地において独立した領主としての地位を固め、独自の勢力基盤を築こうとした意志の表れと見ることができます。特に両全寺の創建は、一族の権威を高めるとともに、地域における文化的・精神的な中心としての役割を担わせる意図があったと考えられます。
表1:麻生野慶盛 略歴
項目 |
内容 |
典拠 |
氏名 |
麻生野 慶盛(あそや よしもり) |
1 |
生誕年 |
天文8年(1539年) |
1 |
死没年 |
天正元年(1573年) |
1 |
出身 |
飛騨国吉城郡 |
1 |
居城 |
洞城(別名:麻生野城) |
1 |
父 |
麻生野 直盛(あそや なおもり) |
1 |
祖父 |
江馬 時経(えま ときつね) |
1 |
従兄弟(又従兄弟) |
江馬 輝盛(えま てるもり) |
1 |
主な出来事 |
永禄2年(1559年):武田信玄に降伏、所領安堵 |
1 |
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永禄7年(1564年):家督相続 |
1 |
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天正元年(1573年):江馬輝盛に攻められ自害、麻生野氏滅亡 |
1 |
麻生野慶盛が生きた戦国時代の飛騨国は、地理的条件から常に周辺大国の影響を受けやすい位置にありました。東には甲斐・信濃の武田氏、北には越後の上杉氏、南には美濃の諸勢力といった強大な隣人に囲まれ、これらの勢力均衡の変化が飛騨の国人領主たちの動向を大きく左右しました 7 。
国内に目を向けると、飛騨は統一された権力基盤が確立されておらず、江馬氏、三木氏(後に姉小路氏を称する)、内ヶ島氏といった国人領主が各地で勢力を競い合い、互いに抗争を繰り返していました。麻生野氏は、こうした群雄割拠の状況の中で、江馬氏の一族という立場を活かしつつも、独自の存続戦略を模索する必要に迫られていました。
このような情勢下において、飛騨の国人たちは、生き残りと勢力拡大のために、中央の有力大名である武田氏や上杉氏との結びつきを巧みに利用しようとしました。ある時は一方に与し、またある時は他方と結ぶといった複雑な外交戦略を展開することが常態化しており、これは麻生野慶盛の生涯を理解する上で極めて重要な背景となります。彼らの選択は、単に大勢力への追従ではなく、自らの家名を保ち、可能であれば勢力を伸長させるための必死の策であったと言えるでしょう。
麻生野慶盛は天文8年(1539年)に生まれました 1 。父である麻生野直盛が永禄7年(1564年)に病没したことにより、慶盛は家督を相続します 1 。彼が麻生野氏の当主となったのは26歳の時であり、まさに武田信玄による飛騨への影響力が強まっていた時期でした。若き当主として、慶盛は内外の困難な情勢に対応していく必要に迫られたのです。
慶盛が家督を相続する以前の永禄2年(1559年)、甲斐の武田信玄はその勢力を飛騨へと伸ばし始めます。信玄の家臣である飯富昌景(後の山県昌景)が飛騨に侵攻した際、麻生野氏は本家筋にあたる江馬氏と共に武田氏の軍門に降りました。この時、慶盛は祖父にあたる江馬時経と共に降伏し、所領を安堵されたと記録されています 1 。別の史料によれば、この降伏の際に慶盛は人質として甲府へ送られ、その後、所領安堵を受けて飛騨へ戻ったとも伝えられています 4 。
武田信玄は、飛騨の国人衆を単に武力で制圧するだけでなく、巧みに自陣営に取り込む戦略をとりました。麻生野氏に対しても、信玄は「□木口(荒木口か) 百貫之所」という所領を与え、さらなる忠節を期待していたことを示す書状が残されています 2 。これは、武田氏が飛騨における支配体制を確立する上で、麻生野氏のような在地領主の協力を重視していたことを示唆しています。信玄の戦略は、軍事力と恩賞を組み合わせることで、間接的ながらも強固な支配を築こうとするものであり、麻生野氏もその大きな戦略の中に組み込まれていったのです。
武田氏に降伏し所領を安堵された後、麻生野慶盛は親武田派としての立場を明確にしていきます 4 。これは、当時の江馬氏本家の当主であった江馬時盛(輝盛の父)もまた武田氏に属していたことと深く関連していると考えられます 3 。時盛は、嫡子である輝盛との間に対立を抱えていました。輝盛が上杉氏に通じるなど独自の動きを見せる中で、時盛は同じく親武田派である慶盛に期待を寄せ、江馬氏の家督を譲ることを考えていたという説も存在します 1 。実際に慶盛は、時盛の使者として甲斐に赴き、武田信玄に謁見したとも伝えられています 11 。
この事実は、慶盛の親武田の立場が、単に強大な勢力への追従という受動的なものではなく、江馬氏内部の権力構造や、自身の政治的立場を強化するための能動的な戦略であった可能性を示唆しています。もし江馬時盛が慶盛を後継者として考えていたのであれば、武田氏との強固な連携は、慶盛にとって自身の将来を左右する極めて重要な意味を持っていたと言えるでしょう。
麻生野氏の拠点であった洞城(ほらじょう)は、現在の岐阜県飛騨市神岡町麻生野にその跡を残しています。別名を麻生野城(あそやじょう)とも称され、麻生野氏の歴史と深く結びついています 4 。この城は、高原川の支流である麻生野川の北側に位置する標高約535メートルの山上に築かれた典型的な山城です 3 。城の麓には下麻生野の集落が広がり、古くは高原郷と鎌倉街道を結ぶ上宝道を見下ろす戦略的に重要な位置を占めていました 12 。
城の構造については、東西42メートル、南北13メートルの主郭(本丸)が中心となり、その西側には東西33メートル、南北14メートルの副郭(二の丸)、南側には腰曲輪が配されていました 12 。防御施設としては、主郭の北東と西に堀切が設けられ、特に西の堀切には土橋が架かっていたとされます 3 。また、主郭の東端には土塁が築かれ、南斜面には竪土塁(斜面を垂直に掘り下げて防御効果を高めたもの)のような遺構も確認されています 3 。これらの構造は、戦国時代の山城が持つ、地形を巧みに利用した防御思想をよく示しており、麻生野氏がこの城を重要な軍事拠点としていたことを物語っています。
洞城は、その歴史的価値が認められ、「江馬氏城館跡」を構成する遺跡群の一つとして、昭和55年(1980年)3月21日に国の史跡に指定されています 3 。江馬氏城館跡には、下館、高原諏訪城、土城、寺林城、政元城、石神城などが含まれており、洞城もこれらと一体的に評価されています。
この事実は、麻生野氏が江馬氏の傍流でありながらも、飛騨の歴史において無視できない存在であったことを示唆しています。本家である江馬氏の城館群と並んで、分家である麻生野氏の居城が国史跡として保存されている点は、両者の関係性や、当時の飛騨における国人領主の勢力分布を理解する上で興味深い点です。
洞城は、麻生野直盛によって築かれ、その子・慶盛へと受け継がれ、麻生野氏二代にわたる居城として機能しました 4 。この城は、麻生野氏の領地支配の中心であり、また有事の際の防衛拠点としての役割を担っていたと考えられます。
しかし、その堅固な山城も、絶対的なものではありませんでした。天正元年(1573年)、江馬輝盛による攻撃を受けた際には、史料に「なすすべなく落城し」と記されているように、比較的短期間で陥落したとみられています 1 。この事実は、洞城の防御機能に限界があったのか、あるいは攻撃側の兵力や戦略がそれを上回ったのか、もしくは城内に内応者がいた可能性など、様々な要因が考えられます。いずれにせよ、洞城の落城は、麻生野氏の滅亡と直結する出来事であり、その戦略拠点としての役割の終焉を意味しました。
麻生野慶盛の運命を大きく左右したのは、本家筋にあたる江馬氏内部の深刻な対立でした。当時の江馬氏当主であった江馬時盛と、その嫡子である江馬輝盛の間には、家中の路線を巡って深い溝が生じていました。時盛は甲斐の武田信玄との連携を重視し、親武田派の立場を鮮明にしていました。これに対し、輝盛は越後の上杉謙信(当時は輝虎)に通じ、武田氏の勢力拡大に対抗しつつ、自らの勢力を飛騨国外にも広げようとする野心を持っていました 11 。
この父子の対立は、単なる家督争いにとどまらず、飛騨国が武田と上杉という二大勢力の狭間で揺れ動いていた当時の政治情勢を色濃く反映しています。どちらの勢力に与するかの戦略的な選択が、一族内部の分裂を引き起こしたのです。このような状況下で、時盛は反抗的な輝盛を疎んじ、自らと同じく親武田派であった甥の麻生野慶盛に江馬氏の家督を譲ろうと考えていたという説があります 1 。この構想が、慶盛と輝盛の間に決定的な亀裂を生む要因の一つとなったと考えられます。
天正元年(1573年)4月、戦国時代を代表する巨星の一人、武田信玄が病没しました。この出来事は、中央政局のみならず、飛騨国のような地方の勢力バランスにも計り知れない影響を及ぼしました 1 。信玄という強力な後ろ盾を失った江馬時盛の立場は急速に弱体化し、逆に、これまで父時盛や武田氏の圧力を受けていた江馬輝盛にとっては、千載一遇の好機が訪れたのです。
信玄の死は、輝盛が長年の鬱憤を晴らし、飛騨における主導権を確立するための行動を起こす直接的な引き金となりました。麻生野慶盛の運命もまた、この大きな歴史の転換点と深く結びついていたと言わざるを得ません。
武田信玄の死という報に接した江馬輝盛は、迅速に行動を開始します。まず、父でありながら長年対立してきた江馬時盛を殺害し、江馬氏の実権を完全に掌握しました 1 。時盛殺害の時期については諸説あり、『江馬家譜考』では天正元年7月16日、『円城寺家譜略考』や『飛州志備考』では同年8月15日とされています 10 。
父を排除した輝盛は、次なる標的として、父時盛が後継者として考えていたとされる麻生野慶盛に向けました。輝盛はただちに兵を動かし、慶盛の居城である洞城を攻撃します 1 。この時、慶盛は輝盛の軍勢に対して十分な抵抗をすることができなかったとみられ、史料には「洞城はなすすべなく落城し、慶盛は自害した」と簡潔に記されています 1 。これにより、父・直盛から二代にわたって続いた麻生野氏は、ここに滅亡の時を迎えました 4 。
慶盛の自害は、単に一地方豪族の滅亡というだけでなく、武田信玄という強力な庇護者を失った親武田派勢力が、上杉方に転じた勢力によって排除されるという、戦国時代における勢力再編の典型的な様相を呈しています。また、輝盛と慶盛は又従兄弟という近しい血縁関係にありながら、骨肉の争いの末に一方が命を落とすという悲劇的な結末は、戦国時代の非情さを改めて浮き彫りにしています。
麻生野慶盛を滅ぼし、一時的に飛騨北部における影響力を強めた江馬輝盛でしたが、その支配も長くは続きませんでした。天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で横死すると、飛騨国内の勢力バランスは再び流動化します。輝盛は、飛騨統一を目指す三木自綱(姉小路頼綱)と対立し、同年10月、八日町の戦いで敗死しました 13 。これにより、江馬氏本家もまた、飛騨の歴史の表舞台から大きく後退することになります。
その後、飛騨国は豊臣秀吉の命を受けた金森長近によって平定され、近世大名である金森氏の支配下に入ります。麻生野氏の滅亡は、飛騨国内における国人領主間の抗争の一つの帰結であり、結果として、より大きな勢力による飛騨統一への動きを間接的に促した側面もあったと言えるかもしれません。
麻生野慶盛の生涯は、戦国時代という激動の時代を生きた地方豪族の典型的な姿を映し出しています。彼は、父・直盛が築き上げた麻生野氏の二代目当主として、周囲の強大な勢力や、本家筋である江馬氏との複雑な関係の中で、一族の存続と発展を図ろうとしました。しかし、武田信玄という後ろ盾の死を契機として、従兄弟である江馬輝盛との対立が激化し、最終的には自害という悲劇的な最期を遂げました。
慶盛の物語は、親族間の骨肉の争い、大勢力への従属と離反の駆け引き、そして抗争の末の滅亡という、戦国時代の厳しさと複雑さを凝縮して示しています。彼の短い生涯と麻生野氏の滅亡は、飛騨という一地方の歴史において特筆すべき出来事であると同時に、より大きな視点で見れば、戦国時代の勢力図が塗り替えられていく過程の一断面を切り取ったものと言えるでしょう。
麻生野慶盛のような小規模な領主の視点から歴史を捉え直すことは、戦国時代という大きな時代のうねりが、個々の人々の運命に具体的にどのように作用したのかを理解する上で非常に重要です。彼の名は、飛騨の地に生きた悲劇の武将として、そして戦国という時代の過酷さを象徴する一人として、記憶されるべき存在です。
麻生野慶盛は、戦国時代の飛騨国において、父・麻生野直盛が築いた麻生野氏の二代目当主として、その短い生涯を駆け抜けました。天文8年(1539年)に生まれ、父の死後、永禄7年(1564年)に家督を相続。当初は甲斐の武田信玄に属し、その勢力下で所領を安堵されました。この背景には、本家である江馬氏当主・江馬時盛との連携や、時盛とその後継者である輝盛との対立といった複雑な要因が絡み合っていました。
しかし、天正元年(1573年)の武田信玄の死は、慶盛の運命を大きく変転させます。信玄という強力な後ろ盾を失ったことは、上杉氏と結んだ従兄弟の江馬輝盛にとって好機となり、輝盛は父・時盛を殺害した後、慶盛の居城である洞城を攻撃しました。慶盛は奮戦むなしく敗れ、自害。これにより、麻生野氏は二代で滅亡の途を辿りました。
麻生野慶盛の生涯は、戦国時代における地方豪族が、中央の巨大な政治的・軍事的変動にいかに翻弄されたかを示す典型的な事例と言えます。親族間の対立、大勢力への従属と離反、そして最終的な滅亡という経緯は、この時代の厳しさと複雑さを如実に物語っています。彼の存在と麻生野氏の興亡は、飛騨の歴史における重要な一節として、また戦国時代の勢力争いの縮図として、今日に伝えられています。
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