佐久間信盛
~信長叱責で蟄居詫び状に涙~
織田信長に追放された筆頭家老・佐久間信盛の悲劇。信長の組織改革と信盛の失策、そして「詫び状に涙」の逸話が象徴する末路を詳細に解説。
佐久間信盛、叱責と涙の真相:十九ヶ条の折檻状と追放劇の徹底分析
序章:天正八年、夏の静寂と嵐の前兆
天正8年(1580年)8月、織田政権はまさにその絶頂期にあった。10年以上にわたり織田信長を苦しめ続けた石山合戦が、朝廷の権威を介した和議という形でついに終結したのである 1 。これにより、畿内における最大の抵抗勢力であった石山本願寺は武装解除され、信長の天下統一事業は最終段階へと大きく前進した。この歴史的な勝利の直後、天下が安寧に向かうと誰もが信じていた矢先、織田家内部に激震が走る。筆頭家老・佐久間信盛とその嫡男・信栄の突然の追放劇である。
この追放劇の背景には、信長の統治理念の大きな転換があった。石山合戦の終結は、信長にとって長きにわたる軍事フェーズから、新たな国家を構築する統治フェーズへの移行を意味していた。彼は「天下布武」の印の下、楽市楽座の推進や関所の撤廃といった旧来の権威や既得権益を打破する革新的な政策を次々と打ち出していた 3 。この新たな時代において、信長が家臣に求める資質は、もはや旧来の忠誠心や過去の功績ではなかった。未来の天下統治に貢献し、具体的な「実績」と「能力」を提示できること、それこそが唯一の評価基準へと変貌していたのである。
一方、佐久間信盛は、信長の父・信秀の代から織田家に仕える最古参の重臣であり、織田家筆頭家老という不動の地位を築いていた 5 。信長の家督相続を巡る内紛の時代から常に彼を支え続け、主要な合戦のほとんどに参加してきた宿老中の宿老であった 6 。その存在は、羽柴秀吉や明智光秀といった新興の実力者とは一線を画す、織田家譜代の権威そのものであった。しかし、皮肉にもその盤石な地位と過去の功績こそが、信長の新しい価値基準の前では、もはや時代に適応できない「停滞」の象徴と見なされる危険性を孕んでいた。
信盛の追放は、単なる一個人の失脚事件ではない。それは、石山合戦という巨大な「外部の脅威」が消滅したことで、信長が満を持して着手した「内部の組織改革」という名の、極めて政治的な粛清であった。合戦の終結は、信長に家臣団の能力を再査定し、非効率な要素を排除する絶好の機会を与えた。そして、本願寺包囲の総大将でありながら、決定的な戦果を挙げられなかった信盛は、その改革の象徴的な標的とされたのである。この事件は、織田家という組織が、伝統的な封建的主従関係から、より近代的で成果主義的な組織へと変貌する過程で起きた必然の軋轢であり、信長が全家臣に対し「過去の功績だけでは生き残れない」という強烈なメッセージを送った、計算され尽くした一撃であった。
第一章:断罪の書状 – 十九ヶ条の折檻状、その瞬間の再構築
天正8年8月、信盛父子のもとに一通の書状が届けられる。それは、信長自身の筆によるものと『信長公記』が特筆する、十九ヶ条にわたる折檻状(叱責状)であった 6 。この書状は、感情的な罵詈雑言の羅列ではなく、相手の弁明の余地を完全に奪い、精神的に屈服させることを目的とした、冷徹な論理で構築された断罪の文書であった。使者から書状を受け取り、それを読み進める信盛の心情の変遷を、各条項の分析と共に再構築する。
第一節:軍務怠慢への叱責 – 「五年間の無為」
書状は、最も現代的かつ客観的な問題点から切り込まれる。本願寺攻めの総大将として天王寺砦に在城すること5年、その間に何の目立った功績も挙げていないという痛烈な非難である 5 。信長はまず、「世間の評判」を持ち出し、これが信盛個人の問題ではなく、織田家の威信を損なう公の問題であると断じる。
「相手は僧侶なのだから、城の守りを固めておけば、いずれ我が威光によって退去するだろうと考え、戦はおろか調略すらしなかったのだろう」 5 。
信長の指摘は信盛の戦略の核心を突いていた。しかし、信長はそれを「分別もなく、未練」な考えだと一蹴する 8 。そして、その無為無策ぶりを際立たせるため、他の方面軍司令官たちの輝かしい戦果が冷徹に列挙される。丹波を平定し「天下の面目をほどこし」た明智光秀、数カ国で「比類なき」働きを見せる羽柴秀吉、小身ながら花隈城を速攻で陥とした池田恒興、そして越前一国を領しながらもそれに飽き足らず加賀平定を成し遂げた柴田勝家 5 。同僚たちの華々しい功績との対比は、信盛のプライドを根底から打ち砕く、最も効果的な修辞法であった。「退き佐久間」の異名を持つ信盛は、守戦には自負があったかもしれない 6 。しかし、最初の数条を読んだ時点で、彼は自らの戦略と信長の期待との間に、修復不可能な乖離があったことを悟り、血の気が引く思いだったに違いない。
第二節:内政と人格への断罪 – 「欲深く、気むずかしき」
叱責の矛先は、軍事面から信盛父子の内政手腕と人格そのものへと鋭く転じていく。信長は、かつて謀反の疑いで誅殺した水野信元の旧領・刈谷を与えた際の信盛の振る舞いを問題視する。
「刈谷を与えたので家臣も増えたかと思えば、さにあらず。水野の旧臣を追放し、その知行を自身のものとして金銀に換えている。言語道断である」 5 。
これは、領地を軍事力に転換するという武将の基本姿勢を欠き、私腹を肥やすことにのみ執心しているという、武士として致命的な欠陥の指摘であった 9 。さらに、息子・信栄(甚九郎)の傲慢で陰湿な性格が、与力や家臣の心離れを招いていると、具体的な言葉で指弾される。
「自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするので、与力や家臣たちまで信栄に遠慮している」 5 。
この生々しい表現は、信長が佐久間家の内部事情を詳細に把握していることを示唆しており、信盛を恐怖させたであろう。軍務での失態ならば、状況や戦略の違いを弁明する余地があったかもしれない。しかし、金銭への執着や息子の不行状といった内々の問題を暴露され、信盛は逃げ場を完全に失った。特に、織田家中で特別な待遇を受け、七ヶ国もの与力を与えられていたという事実 5 を突きつけられた時、彼は自らが信長の絶大な信頼をいかに裏切ってきたかを痛感したはずである。
第三節:過去の罪の清算 – 「一度も比類なき働きなし」
信長の追及は、現在や内政の問題に留まらない。彼は忘れ去られたはずの過去の古傷を、容赦なく抉り出す。かつて、朝倉義景を滅ぼした刀根坂の戦いの後、信長の叱責に対して反論し、あろうことか席を蹴って退出したという不遜な態度 5 。そして、信長の武将としてのキャリアで唯一の明確な敗戦とされる三方ヶ原の戦いにおいて、徳川家康への援軍の将でありながら、同僚の平手汎秀を見殺しにし、自軍からは一人の死者も出さずに撤退したという、その「卑怯な」振る舞い 5 。
これらの過去の罪状を積み上げた上で、信長は信盛の武将としての全生涯を否定する、最も残酷な一文を突きつける。
「信長の代になり、三十年奉公を遂ぐるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事」 6 。
30年にわたる奉公の全てが無価値であると、主君から断じられたのである。この部分を読んだ時、信盛の心は完全に折れたであろう。自分なりに正当化し、あるいは忘れ去っていた過去の行動が、全て「怠慢」と「卑怯」の証拠として突きつけられ、その存在価値そのものを剥奪された絶望は、想像を絶する。この全否定こそが、後に語られる「悔恨」と「涙」に繋がる直接的な引き金となった。
最終通告
十九ヶ条にわたる徹底的な論罪の末、信長は二つの選択肢を提示する。それは選択のようでいて、事実上の追放宣告であった。
「この上は、いづかたの敵をたいらげ、会稽を雪(すす)ぎ、一度帰参致し、又は討死する物かの事」 10。
「父子かしらをこそげ、高野の栖を遂げ、連々を以て、赦免然るべきやの事」 8。
どこかの敵を討って汚名を返上するか、あるいは討ち死にするか。さもなければ、親子で頭を丸めて高野山に上り、ひたすら許しを乞うか。そして、「請けなきにおいては、二度天下の赦免これあるまじきものなり」 8 という最後通牒で、この断罪の書状は締めくくられる。この折檻状は、信盛個人への通告であると同時に、信長の揺るぎない意志を全家臣に示すための、一種の「公開処刑」であった。その内容は、他の家臣たちに「信盛のようになってはならない」という新たな行動規範を具体的に示す、強力な内部向けプロパガンダとして機能したのである。
表1:十九ヶ条の折檻状の構造分析
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分類 |
条項番号 |
叱責の要約 |
信長の論理展開 |
信盛への心理的効果(推察) |
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軍務怠慢 |
1-7 |
5年間の本願寺包囲で無功。戦略・調略の欠如。 |
他将(光秀、秀吉、勝家ら)の輝かしい功績との対比による、相対的無能の証明。 |
プライドの粉砕、弁明の機会の喪失。 |
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内政・人格 |
8-15 |
水野旧領での私腹肥やし。家臣を新規に雇わず、息子の信栄は傲慢で人望がない。 |
軍事能力だけでなく、統治者・組織の長としての資質も欠如しているとの断罪。 |
個人的領域への踏み込みによる逃げ場の封鎖、恐怖。 |
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過去の罪状 |
11, 16-17 |
刀根坂での反抗的態度。三方ヶ原での卑怯な撤退と平手汎秀の見殺し。 |
現在の欠陥が一時的なものではなく、信盛に根差した本質的なものであるとの論証。 |
過去の正当化の否定、自己肯定感の完全な破壊。 |
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最終通告 |
16, 18-19 |
30年間、比類なき働きは一度もなし。汚名返上か、高野山への追放かを選択せよ。 |
全人格・全功績の否定による存在価値の剥奪と、事実上の追放宣告。 |
完全な絶望、抵抗意志の喪失。 |
第二章:蟄居と悔恨 – 「詫び状に涙」の逸話の深層
十九ヶ条の折檻状を突きつけられた佐久間信盛父子は、弁明の機会も与えられず、即座に蟄居を命じられたと考えられる。織田家筆頭家老という栄光の座から、一夜にして罪人へと転落した衝撃は計り知れない。この絶望的な状況の中で生まれたのが、「蟄居を言い渡され、詫び状に涙を落とした」という、信盛の末路を象徴する悔恨譚である。
しかし、この情緒的な逸話の史実性を検証すると、その根拠は極めて曖昧である。信長の公式記録とも言える太田牛一の『信長公記』には、折檻状の具体的な内容と追放の事実は詳細に記されているものの、信盛が詫び状を書いたこと、ましてやそれに涙したという直接的な記述は見当たらない 5 。この種の逸話は、物語性を重視する江戸時代以降に成立した軍記物や講談などで、登場人物の心情を劇的に表現するために加筆された可能性が極めて高い。
では、史実としての確証がないにもかかわらず、なぜこの「詫び状に涙」という逸話は生まれ、広く語り継がれてきたのだろうか。それは、この逸話が歴史的事実であるか否かを超えて、この追放劇の持つ人間的な本質を見事に捉えているからに他ならない。
第一に、この逸話は物語に深い悲劇性を与える。30年間、主家に忠誠を尽くしてきた老臣が、主君からの一通の書状によって過去の全てを否定され、涙ながらに許しを乞う姿は、聞く者の同情を強く誘う。第二に、涙の詫び状すらも受け入れられずに追放されるという展開は、信長の徹底した合理主義と、時に非情とも映る性格を際立たせる効果を持つ。そして第三に、信盛ほどの高位の武将が涙を見せるという描写は、彼の失意の深さ、失って初めて気づいた主君への忠誠、そして自らの不甲斐なさに対する痛烈な悔恨といった、複雑な感情を凝縮して表現している。
したがって、「詫び状に涙」の逸話は、「歴史的事実」としてではなく、この事件の持つ人間的な側面を切り取り、後世の人々が共感できる「物語」へと昇華させる役割を果たした「文学的真実」として理解すべきであろう。折檻状の内容から推察される信盛の絶望的な心理状態を、「涙」という万人に理解可能な形で象徴したこの逸話は、信盛が自らの非を認め、完全に屈服した姿を描き出す。そして、抵抗や反論ではなく、涙による悔恨という結末は、信長による「役立たず」という評価が正当であったという物語的な証明として機能し、その烙印を歴史上、決定的なものにしたのである。
第三章:追放、そして終焉の地へ – 高野山から熊野へ、二つの末路
折檻状の最後通牒に従い、佐久間信盛父子は剃髪して高野山へと向かった 8 。これは武士としてのキャリアの完全な終わりを意味する。当時の高野山は、俗世から隔絶された聖域であると同時に、戦に敗れたり主家を追われたりした武将たちが身を寄せる、一種の駆け込み寺としての側面も持っていた。しかし、信盛の終焉の地を巡っては、二つの異なる伝承が残されている。
第一節:『信長公記』が描く悲惨な末路
信長の側近であった太田牛一が著した『信長公記』は、信盛の最期を極めて悲惨なものとして描いている。それによれば、信盛父子は聖域である高野山に安住することすら許されず、そこからも追放されてしまったという。そして、あてもなく紀伊国の熊野の山奥へと逃げ延びたとされる 9 。かつての栄華は見る影もなく、付き従っていた者たちも次々と離散し、最後は着の身着のまま、身の回りの物にも事欠く哀れな有様であったと記されている 13 。そして、追放から約1年半後の天正10年(1582年)1月、熊野の奥地で病死したとされる 11 。この描写は、信長に逆らった者の末路がいかに悲惨なものであるかを強調する意図が明確に感じられ、信長の公式記録たる『信長公記』がこの説を採用したことで、長らく通説として受け入れられてきた。
第二節:別史料が示唆する穏やかな最期
しかし、近年の研究では、この悲惨な末路に疑問が呈されている。奈良の興福寺多聞院の僧侶が記した『多聞院日記』には、信盛の死後、彼の荷物が高野山の宿坊に残されていたという記述が見られる 13 。もし高野山から追放されていたのであれば、荷物が残っているのは不自然である。さらに、信盛自身が高野山から発給した書状の存在も指摘されており 9 、これは彼が追放されず、高野山に留まっていたことを強く示唆する。
これらの史料から、信盛は熊野へは行かず、高野山で比較的静かに余生を送り、そこで病死したという、もう一つの最期が浮かび上がってくる 13 。『信長公記』の記述は、信長の処断を正当化し、その権威を高めるための意図的な脚色であった可能性が考えられる。歴史史料は常に客観的な事実を伝えるとは限らず、著者の立場や政治的意図によって記述が大きく左右される。信盛の最期を巡る二つの説は、そのことを示す好例と言えるだろう。
また、このあまりに唐突で厳しい処断の背景には、何か別の要因があったのではないかという見方も存在する。『佐久間軍記』や『寛政重修諸家譜』といった後世の記録には、この追放劇が明智光秀の讒言によるものであったという説が記されている 11 。これは、当時の人々がこの事件の不可解さに対して「何か裏があるはずだ」と考えたことの証左であり、水面下で繰り広げられていた織田家内部の熾烈な派閥対立の存在を物語っている。
終章:歴史の刻印 – 「役立たず」の烙印と逸話が残したもの
織田家筆頭家老・佐久間信盛の追放は、家中に凄まじい衝撃と恐怖をもたらした 5 。父の代から仕える譜代の重臣であろうと、過去の功績がいかに輝かしくとも、現在の働きが主君の期待に応えられなければ、容赦なく切り捨てられる。この信長の非情ともいえる姿勢は、家臣団の弛緩した空気を一気に引き締め、信長個人への絶対的な権力集中をさらに加速させる効果があった。信盛と時を同じくして、同じく宿老であった林秀貞や安藤守就らも追放されており 17 、これは信長による旧体制の一掃と、実力主義に基づく新組織の構築という、明確な意志の表れであった。
信盛の死から間もなく、信長は驚くべき行動に出る。息子の信栄を赦免し、再び織田家への仕官を許したのである 11 。『信長公記』は、信長が信盛の死を「不憫に思った」ためと、情緒的に記している 11 。しかし、これは単なる温情とは考えにくい。父を徹底的に断罪して社会的に抹殺し、その死後に息子を赦免するという行為は、「生殺与奪の権は全て自分にある」という絶対的な権威を家臣団に見せつける、高度な統治術であった。信長の真の狙いは佐久間「家」の断絶ではなく、信盛に象徴される「古い価値観」の排除にあった。息子を自らの支配体制に組み込むことで、世代交代を円滑に完了させ、新しい秩序を確立しようとしたのである。
結果として、佐久間信盛は折檻状によって「役立たず」という不名誉な烙印を押され、その歴史的評価は著しく低いものとなってしまった 7 。しかし、「退き佐久間」の異名が示すように、彼は決して無能な武将ではなかった 6 。彼の悲劇は、彼個人の能力の欠如というよりも、信長が目指す「新しい時代の武将像」という急進的な変化のスピードに、旧来の価値観を持つ譜代の重臣が適応できなかった点にある。
佐久間信盛の追放劇は、戦国時代末期における日本の社会構造の変革を象徴する、一つの縮図である。それは、血縁や家柄といった「身分」に基づく封建的秩序から、個人の「能力」と「実績」に基づく実力主義的秩序へと社会が移行する過程で生じた、必然的な悲劇であった。信長はこの非情な人事を断行することで、自らが創り出そうとする新しい社会のルールを、最も劇的な形で内外に示したのである。「佐久間信盛、叱責で蟄居詫び状に涙す」という逸話は、この時代の大きな転換期に飲み込まれていった一人の武将の悔恨と悲劇を、そして旧来の価値観が新しい価値観によって非情に断罪されていく時代の姿そのものを、象徴的に後世に伝えている。
引用文献
- 日本史/安土桃山時代 - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-azuchimomoyama/
- 織田信長の政権構想 ‐「天下布武」の実態をめぐって‐ https://hiroshima.repo.nii.ac.jp/record/2037668/files/ReportJTP_23_1.pdf
- 天下統一を夢見た織田信長 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06905/
- 織田信長が比叡山を焼き討ちした本当のわけとは? - カイケンの旅日記 http://kazahana.holy.jp/nobunaga/hieizan_yakiuchi.html
- 佐久間信盛の追放(19ヶ条の折檻状)|意匠瑞 - note https://note.com/zuiisyou/n/na0dd4c0f2aa3
- 織田信長が幼い頃からの友人・佐久間信盛を追放した心中 - GOETHE https://goetheweb.jp/lifestyle/more/20230509-nobunaga-19
- 信長見聞録 天下人の実像 ~第十九章 佐久間信盛〜 | GOETHE https://goetheweb.jp/lifestyle/more/20200816-nobunaga19
- 佐久間信盛折檻状 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B%E6%8A%98%E6%AA%BB%E7%8A%B6
- 戦国武将紹介④佐久間信盛 #どうする家康 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=g5pkU3ZdZTU
- 佐久間右衛門かたへ御折檻の条 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/nobunaga/nob009.htm
- 織田信長に追放された佐久間信盛(立川談春)の悲劇的な最期【どうする家康】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/202342/2
- 佐久間信盛の歴史(戦国武将イラスト一覧)/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/97902/
- 「佐久間信盛」筆頭格から追放へと大転落。信長を激昂させた ... https://sengoku-his.com/499
- 織田信長の筆頭家老から転落。追放され高野山へ逃れた戦国武将・佐久間信盛の栄枯 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/141264/2
- 佐久間信盛は何をした人?「筆頭家老なのに突然の折檻状で信長からクビにされた」ハナシ https://busho.fun/person/nobumori-sakuma
- 佐久間信盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E4%BF%A1%E7%9B%9B
- 林秀貞追放劇の真相は? - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/236
- 林秀貞、安藤守就、丹羽氏勝の追放の考察 - 戦国徒然(麒麟屋絢丸) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054890230802/episodes/16816700427356938230
- 織田信長公三十六功臣 | 建勲神社 https://kenkun-jinja.org/nmv36/