大谷吉継
~義のため死ぬは恥にあらず感涙譚~
関ヶ原で散った大谷吉継の「義のために死ぬは恥にあらず」感涙譚を深掘り。盟友への忠義、病身での奮戦、史実と伝説の狭間にある真実を考察する。
大谷吉継「義のために死ぬは恥にあらず」:関ヶ原に散った白頭巾の将、その感涙譚の深層分析
序章:運命の関ヶ原、松尾山を見据えて
慶長五年(1600年)九月、天下分け目の戦いの火蓋が切られようとしていた美濃国関ヶ原。西軍の諸将が続々と着陣する中、越前敦賀城主・大谷吉継の部隊が陣を構えたのは、松尾山を真正面に望む山中の隘路であった 1 。この地は、東西を結ぶ大動脈である東山道(中山道)を見下ろし、西軍の右翼を守る上で極めて重要な戦略拠点であった。しかし、それ以上にこの布陣が意味したものは、松尾山に陣取る小早川秀秋一万五千の大軍への、静かなる牽制と覚悟の表明であった 3 。
この時、吉継は既に重い病の床にあった。当時「業病」として恐れられたその病は彼の容貌を著しく損ない、視力さえも奪いつつあったと伝わる 5 。戦場にあって、彼は自らの足で立つこともままならず、輿に乗って采配を振るわねばならなかった 7 。輿から動けぬ将が、なぜ西軍の中で最も危険で、最も過酷な持ち場を自ら選んだのか。その答えは、彼の生き様そのもの、すなわち盟友・石田三成との固い友情と、滅びゆく豊臣家への揺るぎなき「義」に殉じるという、悲壮な決意の中に求められる 9 。
吉継の戦術眼は、豊臣秀吉をして「百万の軍勢を指揮させてみたい」と言わしめたほどのものであった 9 。その彼が、西軍内部に渦巻く不協和音、特に大大名である小早川秀秋の不穏な動向を見抜けないはずはなかった。秀秋は西軍として布陣しながらも、徳川家康からの調略に応じて内応の約束を交わしているとの噂が絶えなかったのである 13 。
この状況を鑑みれば、吉継の布陣の意図は、単なる「防衛」という言葉では説明しきれない。彼の麾下の兵は数千。対する秀秋は一万五千。さらに秀秋の背後には、同じく東軍への内通が疑われる脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった諸将が控えている 3 。もし秀秋が裏切れば、吉継の部隊は瞬く間に数倍の敵に飲み込まれ、壊滅することは火を見るより明らかであった。彼は、自軍の兵力では秀秋の大軍を到底止められないことを、誰よりも正確に理解していたはずである。
したがって、彼の布陣は、裏切りに備える受動的な「防衛線」などではなかった。それは、もし秀秋が裏切るならば、その最初の標的として自らが立つことで西軍本隊への直撃をわずかでも遅らせ、同時に他の部隊に玉砕の覚悟を促すための、極めて能動的で自己犠牲的な「導火線」であり「捨て石」としての役割を自覚した上での戦略であった。病身の将が選んだ関ヶ原で最も危険な場所は、彼の死に場所でもあったのである。
第一部:裏切りの刻 ― 慶長五年九月十五日、正午過ぎ
膠着と焦燥
慶長五年九月十五日、午前八時。濃霧が晴れるのを合図に、関ヶ原の戦端は開かれた。序盤、石田三成や宇喜多秀家の主力部隊の猛攻により、戦況は西軍優位で進んだ。しかし、西軍の勝利を決定づけるはずの毛利・小早川といった大兵力が動かないことで、戦線は次第に膠着状態に陥る。特に、戦場の趨勢を決定づける位置に陣取る小早川秀秋一万五千は、三成からの再三の出陣要請にも応じず、松尾山頂から戦況を静観するのみであった 13 。
この沈黙は、西軍の将兵に不審と焦りを、そして東軍総大将・徳川家康には苛立ちをもたらした。内応を約束していたはずの秀秋が一向に動く気配を見せないことに業を煮やした家康が、松尾山の小早川陣に向けて鉄砲を撃ちかけ、決断を促したという「問鉄砲」の逸話はあまりにも有名である 13 。しかし、この劇的な逸話は、合戦同時代の信頼できる史料には見られず、江戸時代以降に戦記物を面白くするために創作された可能性が高いと指摘されている 14 。史実がどうであったにせよ、戦場の全ての視線が松尾山の一挙手一投足に注がれていたことは間違いない。
松尾山、動く
正午過ぎ、ついにその時は来た。数時間にわたる逡巡の末、小早川秀秋は決断を下す。松尾山頂に翻っていた西軍の紋が、にわかに東軍へと向きを変え、一万五千の軍勢が鬨の声を上げて山を駆け下り始めた。その目標はただ一つ、眼下で奮戦する大谷吉継の陣であった 3 。
この瞬間、関ヶ原の戦局は決定的に動いた。しかし、秀秋の裏切りは、単独で戦局を覆した「原因」と見るべきではない。むしろそれは、戦況を静観し、勝ち馬に乗ろうと日和見を決め込んでいた他の将たちに、一斉に行動を起こさせるための「号砲」としての役割を果たしたのである。脇坂安治をはじめとする諸将は、事前に東軍からの調略を受けており、彼らの裏切りはある意味で既定路線であった 7 。彼らにとって、戦場で最大の不確定要素であり、最大兵力を持つ秀秋の動向こそが、最終的な判断基準であった。秀秋が大谷隊を攻撃した瞬間、それはもはや「西軍の敗北」を意味する決定的なシグナルとなった。
迎撃と奮戦、そして裏切りの連鎖
吉継は、この最悪の事態を完全に予測していた。彼の部隊は、突如として背後から襲いかかってきた味方の大軍を前にしても、一切の混乱を見せることなく迎撃態勢を整えた。部隊の最前線にいた大谷隊の重臣・平塚為広は、すぐさま手勢を率いて小早川勢の側面に突撃し、寡兵ながらも三度にわたって敵軍を松尾山の麓まで押し返すという鬼神の如き奮戦を見せた 3 。
しかし、個々の将兵の武勇も、圧倒的な兵力差と、計算され尽くした包囲網の前にはあまりにも無力であった。秀秋の行動を合図として、それまで中立を装っていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の四将が一斉に東軍へと寝返り、大谷隊の側面および背後から猛然と襲いかかったのである 3 。これにより、大谷隊は前方を行く東軍本隊、背後の小早川勢、そして側面の裏切り四将という、文字通り三方から完全に包囲される絶望的な状況に陥った。吉継の部隊は、西軍全体の結束がいかに脆いものであったかを象徴する、巨大な地滑りの最初の犠牲者となったのである。
第二部:白頭巾の将、最後の采配
三方から敵兵が怒涛の如く押し寄せる中、大谷吉継は輿の中から動くことはなかった。既に光を失った目で戦場を見ることはできず、ただ近習の兵士たちが次々と運び込む報告だけが、彼と外界とを繋ぐ唯一の lifeline であった 8 。
江戸中期の軍記物『関原軍記大成』は、この時の吉継の異様な姿を次のように記している。「肌には練衣の二つ小袖、上には白布に村蝶を墨にて書きたる鎧直垂を着て、朱の佩楯に朱の頬楯して、甲冑をばよろはず、浅葱の絹の袋に顔さしいれて、頬楯の下にて緒を結い…」 8 。彼は正式な鎧兜を身に着けず、病に冒された顔を浅葱色(薄い青緑色)の絹の袋で覆い、輿に乗って指揮を執っていたという。それは、戦場での働きを半ば断念し、潔く自害するための死に装束であったとも解釈されている 8 。
絶望的な戦況の中、吉継にとって最も心を揺さぶる報告がもたらされる。前線で獅子奮迅の働きを続けていた盟友・平塚為広が、ついに力尽き討死したというのである。為広は死の間際、従者に一首の辞世の句を託し、吉継のもとへ届けさせた。
「名の為めに 捨つる命は 惜しからじ 終に留まらぬ 浮世と思へば」 11
(主君や武士としての名誉のためならば、この命を捨てることは少しも惜しくはない。どうせ誰もが永遠には生きられない、儚いこの世なのだから)
使者からこの句を聞かされた時、輿の中の吉継の胸に去来したものは何であったか。友の死を悼む悲しみか、あるいは自らの運命を重ね合わせた諦観か。
そして、最後の報告者が輿の傍らに駆け寄った。吉継の側近中の側近、湯浅五助であった。彼は涙ながらに、自軍の部隊が完全に崩壊したこと、そして平塚為広が壮絶な戦死を遂げたことを告げた 18 。全ての報告を聞き終えた吉継は、もはやこれまでと静かに敗北を受け入れ、武将としての最期を飾るべく、自刃を決意するに至ったのである。
第三部:感涙譚の検証 ―「義のために死ぬは恥にあらず」
逸話の再現
後世、この大谷吉継の最期の場面は、一つの感動的な物語として語り継がれることとなる。それは、以下のような情景である。
自軍の壊滅を悟った吉継は、近習に命じて輿から降ろされる。そして、これまで固く顔を覆っていた白頭巾(あるいは浅葱の絹袋)を、自らの手で静かに取り去った。陽光の下に晒されたのは、長年の病によって痛々しく変わり果てた素顔であった。しかし、その顔を臆することなく全軍の前に晒した吉継は、残った僅かな将兵に向かい、最後の力を振り絞って一喝する。
「義のために死ぬは恥にあらず!」
主君のその言葉と覚悟の姿に、将兵たちは涙した。そして、その涙を力に変え、主君の自刃の時間を稼ぐべく、敵の大軍の中へと最後の突撃を敢行していく。その姿を見届けた吉継は、静かに自刃の座についた――。
この場面は、大谷吉継という武将の生き様を象徴する、まさに感涙譚として多くの人々の心を打ってきた。
史料的考察と出典の不在
しかし、この劇的な場面は、果たして史実なのであろうか。結論から言えば、この「白頭巾を外し『義のために死ぬは恥にあらず』と叫んだ」という一連の行動と台詞を、同時代の一次史料や、それに近い時代の記録の中から見出すことは極めて困難である。
吉継の姿を特徴づける「白頭巾」というイメージ自体、江戸時代中期以降に成立した『関ケ原合戦誌記』や『関原軍記大成』といった軍記物語によって広まったものである 5 。これらの詳細な軍記物でさえ、彼が頭巾を外して兵を鼓舞したことや、「義のために死ぬは恥にあらず」と叫んだという具体的な記述は存在しない 5 。近代の民俗学者である柳田国男の著作などでこの言葉に触れられることはあるが 20 、それは歴史的史実としてではなく、伝承として紹介されているに過ぎない。
では、なぜこのような史実にはない逸話が生まれ、広く信じられるようになったのか。それは、大谷吉継という人物の行動原理と精神性を、後世の人々が理解し、語り継ぐために生み出された「文学的発明」であったと考えられる。
彼の行動――不利を承知で盟友・石田三成のために参戦し、最も危険な場所で最後まで戦い抜いた――は、後世の人々の目にはまさしく「義」の体現者として映った 9。しかし、実際に記録として残されている彼の最期の言葉(後述する辞世の句や遺言)は、個人的・内面的なものであり、彼の「義」を象'
'徴するような、大衆の心を掴むキャッチーな言葉ではなかった。講談や物語が庶民の娯楽として広まる中で、彼の行動の本質を端的に表現し、聴衆に強い印象を与えるための象徴的な「決め台詞」が必要とされたのである。「義のために死ぬ」という彼の行動そのものと、「武士は恥を重んじる」という当時の価値観を巧みに組み合わせ、「義のために死ぬは恥にあらず」という、彼の精神性を見事に要約した言葉が創造されたのだ。
この台詞は、文字通りの史実ではないかもしれない。しかし、彼の生涯の本質を捉えた「物語としての真実」と言えるだろう。以下の表は、伝説として語られる姿と、史料から読み解ける姿を比較したものである。
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項目 |
伝説・逸話として語られる姿 |
史料から読み解く姿 |
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最後の言葉 |
「義のために死ぬは恥にあらず」 |
湯浅五助への遺言「我が顔を敵に晒すな」 平塚為広への返歌「契りあらば六つの巷に…」 |
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最後の行動 |
白頭巾を外し、素顔を晒して叫ぶ |
輿の中で静かに敗報を聞き、自刃の覚悟を決める |
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象徴するもの |
公に向けた「義」の精神性の雄弁な発露 |
個人的な「矜持」と友への深い「情誼」 |
第四部:確かなる最期 ― 湯浅五助への遺言
感涙譚の向こう側にある、史料に基づいた吉継の最期は、より静かで、しかし一層深く胸を打つものである。
自刃を決意した吉継は、側近中の側近である湯浅五助(隆貞)を傍らに呼び寄せた 21 。彼は五助に、自らの介錯という、家臣にとって最も辛い役目を命じる。そして、それに続けて、彼の武士としての最後の、そして最大の願いを託した。
「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」 21
この一言には、彼の生涯の苦悩と矜持が凝縮されている。当時、ハンセン病と見られる彼の病は「業病」、すなわち前世の悪業の報いによる病と見なされ、人々から忌み嫌われる対象であった 5 。彼はその理不尽な偏見と戦いながら、知略と才覚で大名の地位にまで上り詰めた。その彼が、死して後に、その病んだ顔を敵の晒しものにされることだけは、断じて許容できなかったのである。それは、単に外見を恥じたのではなく、自らの尊厳と、武将・大谷吉継として生きてきた人生そのものを守るための、最後の戦いであった。
主君の悲痛な覚悟を受け止めた五助は、涙を呑んでその命を拝した。吉継が十文字に腹を掻き切り自刃を遂げると、五助は主君の首を打ち落とし、敵の目に触れぬよう、その首級を抱えて戦場を離脱した 22 。そして、戦場から少し離れた場所に首を埋め、その最期の任務を終えようとした時、彼は敵の追手である藤堂高虎の家臣・藤堂高刑(仁右衛門)に発見されてしまう 22 。
もはやこれまでと観念した五助であったが、彼は最後の望みをかけて高刑に取引を持ちかける。
「我が首は貴殿に差し出す。その代わりに、主君の首がここに埋められていることは、どうか秘していただきたい」 22
自らの命と引き換えに、主君の最後の遺言を守り抜こうとする五助の忠義に心打たれた高刑は、その取引を受け入れた。彼は五助の首だけを取り、吉継の首の場所は誰にも明かすことなくその場を立ち去ったという 22 。この主従の絆の物語は、吉継が掲げた「義」の精神が、家臣一人ひとりにまで深く浸透していたことの何よりの証左と言えるだろう。
第五部:遺された言葉 ― 辞世の句に込めた想い
吉継が最期に残したもう一つの言葉が、盟友・平塚為広の辞世の句への返歌である。為広の「名の為めに…」の句を聞いた吉継は、自らの死を前にして、以下の句を詠んだと伝えられている。
「契りあらば 六つの巷に 待てしばし おくれ先立つ たがひありとも」 11
(もし我らの間に来世でも続く縁があるのならば、六道の辻(あの世への分かれ道)で少し待っていてくれ。私が先に行くか、お前が先に行くかの違いはあっても、いずれ必ずそこで再会しようではないか)
この句は、「義のために死ぬは恥にあらず」という、不特定多数の兵士に向けた公的な宣言とは全く趣を異にする。これは、死にゆく友ただ一人に向けて送られた、極めて私的で、深い情愛に満ちた別れのメッセージである。戦の勝敗や天下の趨勢といった公の領域から離れ、個と個の魂の結びつきを信じ、来世での再会を約束するこの言葉は、戦国の世を生きた武将の、無骨ながらも純粋な友情の形を示している。
伝説上の台詞「義のために…」が、彼の行動原理である「公の義」を象徴する、いわば「建前の顔」であるとすれば、この辞世の句は、彼の人間性の核にある「私の情」を吐露した、「本音の顔」と言えるだろう。大谷吉継という人物は、豊臣家への忠義や三成との友情という「公の義」のために戦場に立ち、死の瞬間には友への「私の情」を詠んだ。伝説は彼の「公の顔」を、史実は彼の「私の顔」をそれぞれ切り取って我々に伝えている。この二つを併せて考察することで初めて、冷徹な戦略家であると同時に情に厚い友人でもあった、大谷吉継という武将の人間像が立体的に浮かび上がってくるのである。
結論:史実と伝説の狭間で輝く「義」の精神
本報告書で徹底的に調査した結果、「大谷吉継が白頭巾を外し、『義のために死ぬは恥にあらず』と叫んだ」という感涙譚は、文字通りの史実である可能性は極めて低いと結論付けられる。それは、彼の崇高な生き様と悲劇的な最期を、後世の人々がより深く理解し、記憶に刻むために生み出された、優れた「歴史物語」であると言えよう。
しかし、その言葉が彼の口から発せられなかったとしても、大谷吉継という武将の価値が些かも損なわれることはない。なぜなら、彼の関ヶ原での一連の行動そのものが、いかなる雄弁な言葉よりも力強く、その精神性を物語っているからである。
西軍の敗北を予見しながらも、盟友・石田三成との友情のために参戦を決意したこと。自らの病身を顧みず、最も危険な戦場で指揮を執り続けたこと。味方の裏切りという最悪の事態に直面しても、最後まで臆することなく奮戦したこと。そして最期の瞬間には、武士としての矜持を保って自刃し、忠臣に後事を託したこと。
これら一連の行動のすべてが、まさしく「義のために死ぬは恥にあらず」という精神を体現している。言葉は残されていなくとも、彼の行動がその精神を雄弁に物語っているのである。
逸話は、歴史の細部を越えて、大谷吉継という武将の魂の本質を我々に伝える。史実の行間を埋め、彼の無言の覚悟にふさわしい言葉を与えることで、この逸話は史実以上に「真実」の輝きを放っているのかもしれない。大谷吉継の「義」は、記録された特定の言葉の中にあるのではなく、その生涯を懸けた行動の中にこそ、永遠に存在し続けるのである。
引用文献
- 大谷吉継陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/otaniyoshitsugujinato.html
- 【関ヶ原の舞台をゆく ③】関ヶ原の戦い古戦場ガイド~戦跡を歩きながら考える、武将たちの思惑 https://shirobito.jp/article/487
- 関ケ原大谷墓 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/sekigahara-ootani.k/sekigahara-ootani.k.html
- 【関ヶ原】松尾山を望む大谷吉継陣跡。 - やまさんの岐阜ブログ https://yama300.info/entry/2022/06/22/062836
- 大谷吉継 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99
- 大谷吉継 - 戦国武将を学ぶ - 武士道美術館 https://bushidoart.jp/ohta/category/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99/
- 大谷吉継コース - 岐阜aiネットワーク https://www.gifuai.net/?page_id=14342
- 乱世に義を貫く-名将大谷吉継の実像- - 福井県立図書館 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/bunsho/file/615578.pdf
- あの徳川家康も恐れた『大谷吉継』とは? 豊臣秀吉に『100万の兵を指揮させてみたい』と言わしめたほどの武将!義に生き - サムライ書房 https://samuraishobo.com/samurai_10030/
- 大谷吉継 https://www.jeda.or.jp/keiei/keiei039.pdf
- 大谷吉継の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/37967/
- 大谷吉継 - 敦賀の歴史 http://historia.justhpbs.jp/ootani.html
- 小早川の裏切り、毛利輝元の本心…本当の関ヶ原合戦はまったく違っていたんだっ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/32499/
- 関ヶ原合戦と小早川秀秋…近年の研究動向を踏まえ、裏切りの真相にアプローチ! https://sengoku-his.com/804
- 小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠~関ヶ原「裏切り者」たちの思惑(1) | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7308
- 小早川秀秋、「関ケ原の裏切者」とか「農民にキンタマ蹴られて死亡」とか、その評価が酷すぎる件 https://note.com/takatoki_hojo/n/nd149920176d7
- 関ヶ原の戦いを動かした裏切り/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41103/
- 大谷吉継自刃 ~正午の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/seki06.html
- 大谷吉継は何をした人?「親友・三成との友情を貫き敗軍を率いて関ヶ原に殉じた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshitsugu-otani
- 柳田国男 故郷七十年 - 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/55742_65234.html
- 湯浅五助 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E4%BA%94%E5%8A%A9
- 大谷吉継の首級はどこに?湯浅五助との約束を果たした戦国武将 ... https://mag.japaaan.com/archives/160925
- 第27回 大谷刑部 | 人事のプロを支援するHRプロ https://www.hrpro.co.jp/series_detail.php?t_no=1151
- 大谷吉継の辞世 戦国百人一首㉔|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n01de9fe87483