最終更新日 2025-10-20

島津義弘
 ~退き口で馬上に「我に続け」~

関ヶ原で孤立した島津義弘の決死の退却戦。敵中を正面突破し、「捨て奸」戦法で追撃を振り切り、薩摩へ生還。敗戦の中で武威を示し、島津家存続を勝ち取った物語。

関ヶ原合戦における島津義弘「退き口」の真相 ― 史料から再構成する「我に続け」のリアルタイム―

序章:崩壊の戦場、残された孤軍

慶長五年九月十五日、午後の関ヶ原:西軍総崩れの瞬間

慶長五年(1600年)九月十五日、天下分け目と謳われた関ヶ原の戦いは、正午を過ぎた頃、決定的な転換点を迎えた。松尾山に布陣していた小早川秀秋の率いる一万五千の大軍が、徳川家康率いる東軍に寝返り、西軍の大谷吉継隊に襲いかかったのである 1 。この裏切りはドミノ倒しのように西軍の諸将に伝播し、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らが次々と東軍に寝返った。これにより、西軍の戦線は瞬く間に崩壊。大谷吉継は奮戦の末に自刃し、宇喜多秀家、小西行長、そして西軍を主導した石田三成の本隊も総崩れとなり、伊吹山方面へと敗走を開始した 3

この西軍の全面的な崩壊は、単なる戦術的敗北以上の意味を持っていた。それは、豊臣恩顧の大名を糾合した西軍が、その実、強固な一枚岩ではなく、各々の利害と思惑が渦巻く脆弱な連合体であったことの露呈に他ならなかった。鬨の声と怒号、そして鉄砲の轟音が支配した戦場は、わずか半日のうちに東軍の圧倒的優勢へと傾き、西軍の将兵は組織的な抵抗を失い、散り散りになっていった 6

戦場中央の孤立:島津隊の絶望的状況

西軍の各部隊が雪崩を打って敗走する中、関ヶ原の戦場中央に、あたかも置き去りにされたかのように動かない一団があった。島津義弘率いる薩摩の兵である 1 。彼らの周囲からは友軍の姿が消え、東は石田三成、前方は宇喜多秀家の陣があった場所も、今や勝利に沸く東軍の兵で埋め尽くされていた 5 。退路であるはずの後方にも、敗走兵を追撃する東軍部隊が回り込み、島津隊は数万の敵兵によって事実上、完全に包囲される形となった 7

この絶望的な状況下にあった島津隊の兵力は、諸説あるものの上洛時に義弘が率いていたのは僅かな手勢であり、それに国元から駆けつけた兵を合わせても、関ヶ原参陣時点でおよそ1,500名程度であったと見られている 6 。そして、半日に及ぶ戦闘の末、この撤退を決意する段階では、その兵力は300名から500名ほどにまで激減していた可能性が指摘されている 4 。圧倒的多数の敵中に、満身創痍の小部隊が取り残されたのである。

しかし、この島津隊の「孤立」は、単なる不運や戦況の急変による偶発的な結果ではなかった。むしろ、関ヶ原における島津隊の一貫した姿勢が招いた、ある種の必然であった。合戦開始後、島津隊は積極的に動かず、石田三成からの再三にわたる参戦要請にも応じなかったとされる記録が複数存在する 1 。使者が下馬せずに口上を述べた非礼を咎めて追い返すなど、西軍主導部への不信感や、独自の判断を貫こうとする薩摩隼人の気風が、他部隊との連携を著しく欠く状況を生み出していた。この意図的な「不干渉」が、いざ西軍が総崩れとなった際に、友軍と連携して退路を確保することを不可能にした。自ら選んだ孤高の立場が、結果として死地からの脱出という、前代未聞の選択を強いることになったのである。

第一章:決死の覚悟と起死回生の決断

義弘の最初の覚悟:「家康本陣に突入し、討死せん」

四方を敵に囲まれ、友軍の援護も期待できない。西軍の敗北が誰の目にも明らかとなったその時、島津義弘は、一人の武将として、そして島津家の誇りを背負う者として、最後の覚悟を決めた。それは、残った手勢を率いて敵の大将・徳川家康の本陣に突入し、壮絶な討死を遂げるというものであった 4 。この選択は、単なる自暴自棄によるものではない。敗軍の将として敵に背を向けて逃げ延びることを恥とし、武士としての本懐を遂げることで、その名誉を全うしようとする、当時の武士の価値観に根差した決断であった 12 。朝鮮の役において「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と明・朝鮮軍に恐れられた老将は、その武名の最期を、敵総大将への玉砕突撃で飾ろうとしたのである。

甥・島津豊久の諫言:「生きて薩摩へ帰ることこそが島津の未来」

義弘が死を覚悟し、最後の突撃を命じようとしたその時、一人の若武者が進み出て、その決断を強く諫めた。甥の島津豊久である 4 。豊久は、ここで義弘が討死することは、個人の名誉は保たれるかもしれないが、それは島津家の未来を閉ざすことに他ならないと説いた。「生きて薩摩へ帰り着くことこそが肝要。それこそが島津家の存続に繋がり、ひいては今日の雪辱を果たす道である」と。家老の長寿院盛淳らもこれに同調し、主君の生還を強く願った 15

この義弘と豊久の間のやり取りは、武士道が内包する二つの重要な価値観の相克を象徴する場面であった。一つは、個人の武勇と名誉を重んじ、恥辱よりも死を選ぶ「討死の美学」。もう一つは、家名と血脈を絶やさず、未来へと繋いでいく「組織存続の責務」。豊久の言葉は、個人的な感情や名誉を超え、島津家という組織全体の未来を俯瞰した、より大局的な視点からの進言であった。この若き甥の熱意ある説得に、老将・義弘もついに心を動かされ、玉砕の覚悟を翻し、生きて薩摩へ帰るという、より困難な道を選ぶことを決意したのである。

前代未聞の撤退路:「前方」の伊勢街道を目指す

生還を決意した島津隊にとって、次なる問題は、いかにしてこの包囲網を突破するかであった。敗走する西軍の多くが目指した後方の伊吹山方面は、すでに落ち武者狩りが始まっている可能性が高く、土地勘のない島津勢にとっては危険極まりない道であった 9 。そこで義弘が下した決断は、常軌を逸したものであった。後方へ退くのではなく、敵軍が最も密集する「前方」を突破し、南方に伸びる伊勢街道を目指すという、前代未聞の「前進退却」である 3

この選択には、いくつかの合理的な理由が考えられる。第一に、敵の意表を突くこと。敗残兵が敵中深く突っ込んでくることは、追撃態勢に入っていた東軍の誰もが予測しなかったであろう。第二に、敗走兵の群れに紛れて追われるよりも、一つの戦闘集団として統制を保ったまま活路を開く方が、生還の可能性が高いと判断したこと。そして第三に、「敵に背を見せて逃げるは島津の恥」とする、薩摩隼人の誇りが、この大胆不敵な決断を後押ししたことは想像に難くない 3 。こうして島津隊は、死地からの脱出のために、最も危険で、しかし最も島津らしい道を選択したのである。

第二章:「鬼島津」の突撃~敵中突破のリアルタイム再現~

陣形再編:死への突撃か、生への活路か

退却方針が「前方突破」に定まると、島津隊は迅速に陣形を再編した。残存兵力を結集し、一点突破に最も適した攻撃陣形である「鋒矢(ほうし)の陣」を組んだと伝えられる 1 。この陣形の先鋒、すなわち最も危険な矢の先端には、義弘に生還を説いた甥の島津豊久が立った。そして義弘自身は陣の中央に位置し、全軍の指揮を執った。これは、守勢であるはずの「退却」という行動に、最大限の「攻撃」の意志を込めた布陣であった。もはやそれは単なる逃走ではなく、死中に活を求めるための、決死の戦闘行動へと変貌していた。

午後二時過ぎ、突撃開始:徳川本陣を震撼させた衝撃

慶長五年九月十五日、午後二時過ぎ。関ヶ原の戦場に、異様な静寂を破る鬨の声が上がった。島津隊の突撃が開始されたのである。目標は、前方の敵陣、そしてその先にいるはずの徳川家康の本陣であった 13 。敗北したはずの西軍の一部隊が、突如として死兵と化し、自分たちに向かって猛然と突進してくる。この鬼気迫る光景に、勝利を確信していた東軍の諸将は度肝を抜かれた。特に、島津隊の正面に位置していた福島正則の部隊は、そのあまりの勢いに圧倒され、なす術もなく道を開けたとさえ言われている 1

島津隊は家康の本陣に正面から突入するのではなく、その側面を猛スピードで駆け抜ける進路を取った 17 。この時、家康の本陣は一時騒然となり、浮足立ったという。一説には、義弘はこの突撃の際に家康のもとへ使者を送り、「戦の勝敗は決した。我らはこれより薩摩へ帰国する。道中の妨害は無用である。戦後のことは、帰国してから謝罪する」という旨の口上を述べさせたとされるが、極度の混乱状況下にあったことを考えると、この逸話の真偽を確かめることは難しい 15 。しかし、こうした伝説が生まれること自体が、島津隊の敵中突破がいかに東軍にとって衝撃的な出来事であったかを物語っている。

逸話の核心:「我に続け」という言葉の史料的検証

この壮絶な敵中突破の場面を象徴する逸話として、島津義弘が馬上で采配を振り、「我に続け」と大音声で叫び、兵を鼓舞したという物語が広く知られている。この言葉は、老将の不屈の闘志と、それに命を賭して従う兵たちの姿を鮮やかに描き出し、多くの人々を魅了してきた。

しかし、この有名な「我に続け」という発言を、史実として確認することは極めて困難である。関ヶ原の戦いに関する島津側の記録は、薩摩藩が編纂した史料集『薩藩旧記雑録』にまとめられており、そこには従軍した家臣たちの手による覚書(「帖佐彦左emon宗辰覚書」や「山田晏斎覚書」など)が多数収録されている 1 。これらの一次史料に近い記録を精査しても、義弘が「我に続け」と叫んだという直接的な記述は見当たらない。

この事実は、逸話の価値を損なうものではない。むしろ、その成立過程を考察することで、より深い歴史的理解へと至ることができる。義弘が自ら先頭に立ち、敵の大軍の中へと突撃していったという「行動」は、複数の記録から裏付けられる紛れもない史実である。この英雄的かつ常識外れの行動があまりに強烈であったため、後世の軍記物語や講談の作者たちが、その情景を最も的確に、そして劇的に表現する言葉として「我に続け」という台詞を付与し、それが伝説として定着していったと考えられる。つまり、この逸話の核心は、記録に残されなかった「言葉」そのものではなく、記録に残された不屈の「行動」にある。史実としての行動が、伝説としての言葉を生み出したのである。


表1:主要史料における「島津の退き口」関連記述の比較

史料名

記述者

撤退決意の経緯

義弘の発言に関する記述

突破時の陣形・進路

追撃部隊との交戦描写

特記事項

『帖佐彦左衛門宗辰覚書』 6

帖佐宗辰(家臣)

義弘の討死覚悟と豊久らの諫言に関する具体的な記述は少ないが、退却を決断したことは示されている。

「我に続け」に類する直接的な発言記録は なし

陣形に関する記述は明確ではないが、敵中を切り崩して進んだことが記されている。

柏木源藤による井伊直政への狙撃を記録。

従軍者の視点からの生々しい戦闘描写が特徴。

『山田晏斎覚書』 6

山田有栄(家臣)

義弘の覚悟や豊久の諫言についての詳細な記述は確認できない。

「我に続け」に類する直接的な発言記録は なし

敵中突破の様子が簡潔に記されている。

追撃戦に関する詳細な記述は少ない。

石田三成との戦前のやり取りに関する記述が豊富。

『大重平六覚書』 6

大重平六(家臣)

撤退の決断に至る軍議の様子が示唆されている。

「我に続け」に類する直接的な発言記録は なし

豊久が先鋒を務めたことが記されている。

追撃部隊との激しい戦闘があったことがうかがえる。

島津豊久の陣の位置に関する記述がある。

『譜牒余録』

(徳川方史料)

(島津側の内部事情に関する記述はなし)

(島津側の発言に関する記述はなし)

島津隊が突撃してきたことが記録されている。

本多忠勝の乗馬が島津隊の鉄砲で撃たれたことを記録。

追撃した東軍側の視点からの記録として貴重。

『関ヶ原軍記大成』 (二次史料)

(江戸中期の編纂物)

義弘の討死覚悟と豊久の諫言が劇的に描かれている。

「我に続け」といった英雄的な発言が挿入されている可能性がある。

鋒矢の陣を組み、家康本陣を目指したと記述。

井伊直政・松平忠吉の負傷などが詳細に描かれる。

後世の軍記物であり、史実と創作が混在している。


第三章:壮絶なる撤退戦術「捨て奸(すてがまり)」

戦術解説:計算され尽くした自己犠牲

敵中突破に成功し、伊勢街道への道を開いた島津隊であったが、それで終わりではなかった。背後からは、徳川軍の精鋭部隊による猛烈な追撃が開始された。この絶体絶命の状況下で、島津隊は彼らの真骨頂ともいえる、壮絶な遅滞戦術「捨て奸(すてがまり)」を展開する 3

「捨て奸」は、単に部隊の一部を犠牲にして本隊を逃がすという玉砕戦法ではない。それは、最小限の犠牲で最大限の時間的効果を生むために、極めて合理的かつ体系化された戦術であった。その方法は、退却路の要所要所に数名から十数名程度の小部隊を配置し、彼らが文字通り「捨て石」となって追撃軍を食い止めるというものである 21

この戦術の特異性は、その具体的な実行方法にある。捨て奸を命じられた兵たちは、物陰に身を潜め、あるいはあぐらをかいて銃を構え、冷静に追撃部隊が接近するのを待つ 4 。そして、敵が射程内に入ると、部隊を率いる指揮官(大将)やその乗馬を狙って一斉に射撃を加える 22 。これにより敵部隊の指揮系統を混乱させ、その足を止める。狙撃後は、残った槍などで敵陣に突撃し、壮絶な白兵戦を演じて玉砕する。敵から見えにくくするため、あぐらをかいて座った姿勢で狙撃することから「座禅陣」とも呼ばれたこの戦法は、個々の兵の高い射撃能力と、死を恐れない精神力、そして主君を生かすという絶対的な忠誠心があって初めて成立する、島津軍ならではの戦術であった 4

繰り返される死闘:名を残した者、残さなかった者

伊勢街道へと続く山道では、この「捨て奸」が幾度となく繰り返された。その一つ一つの場所で、名もなき薩摩隼人たちが、主君・義弘の活路を開くためにその命を散らしていった。

この壮絶な殿(しんがり)戦において、中心的な役割を果たしたのが、先鋒として突撃の口火を切った島津豊久であった 23 。彼は役目を殿へと変え、自ら捨て奸の部隊を率いて追撃軍の前に立ちはだかった。烏頭坂(うとうざか)と呼ばれる地での激戦で、豊久は全身に無数の傷を負いながらも奮戦し、ついに力尽きて討死したと伝えられる 21 。享年三十一。その若き命は、叔父であり主君である義弘の未来のために捧げられた。

豊久に続き、義弘の家老である長寿院盛淳もまた、壮烈な最期を遂げた一人である。盛淳は、義弘から託された陣羽織を身にまとい、「我こそは島津義弘なり」と大声で名乗りを上げ、敵中に突入した 21 。主君の身代わりとなることで敵の注意を引きつけ、義弘がさらに先へ進むための時間を稼いだのである 21

豊久や盛淳のように名を残した者だけでなく、数多くの兵士たちが、この退き口で同様の自己犠牲を遂げた。彼らの死は、島津家に対する家臣たちの絶対的な忠誠心の現れであり、主君を生かすために自らの命を捧げるという、戦国時代における主従関係の究極の形であった。彼らの尊い犠牲の一つ一つが積み重なり、義弘を生かす道は少しずつ、しかし確実に切り拓かれていったのである。

第四章:徳川精鋭部隊の追撃と最後の抵抗

追撃命令:徳川の猛将たち、動く

自らの本陣前を駆け抜けられた徳川家康は、この島津隊の傍若無人な突破を許さなかった。直ちに追撃命令が下され、その任に当たったのは、徳川四天王に数えられる井伊直政と本多忠勝、そして家康の四男であり娘婿でもある松平忠吉といった、徳川軍の中でも屈指の猛将たちであった 2 。徳川最強の赤備えを率いる直政、生涯無傷を誇った忠勝、そして将来を嘱望される若き将・忠吉。徳川の威信をかけて、彼らは島津隊の追撃を開始した 27

戦場は、関ヶ原の盆地から伊勢街道へと続く山道へと移った。烏頭坂から勝地峠(かちじとうげ)にかけての険しい道で、逃げる島津隊と追う徳川精鋭部隊による、もう一つの関ヶ原合戦とも言うべき激しい追撃戦が繰り広げられた 2 。島津隊は「捨て奸」を繰り返して抵抗し、追撃側も多大な損害を被った。本多忠勝ですら、この戦いで愛馬を撃たれ、家臣の馬に乗り換えることを余儀なくされている 28

勝地峠の攻防:戦局を決定づけた一発の銃弾

追撃戦のクライマックスは、伊勢西街道最大の難所といわれた勝地峠で訪れた。ここで最後の捨て奸部隊が、追撃の先頭に立っていた井伊直政に狙いを定めた。川上四郎兵衛の号令一下、狙撃手・柏木源藤が放った一発の弾丸が、見事直政の右肘を撃ち抜いたのである 1

徳川軍の追撃部隊を事実上指揮していた井伊直政の負傷は、決定的な意味を持った。さらに、時を同じくして松平忠吉も島津方の銃撃によって負傷したと伝えられる 1 。指揮官を失い、さらに将軍家の一門までが傷ついたことで、東軍の追撃の組織的統制は完全に崩壊した。これ以上の深追いは危険と判断した家康は、ついに追撃中止の命令を下した 3 。勝地峠で放たれた一発の銃弾が、この壮絶な「島津の退き口」に、事実上の終止符を打ったのである。

歴史の皮肉:直政を撃った銃弾が島津を救う

この時、井伊直政が負った鉄砲傷は深く、これが彼の寿命を縮め、二年後の慶長七年(1602年)に破傷風で死去する遠因になったと言われている 2 。しかし、歴史の展開は皮肉なものであった。関ヶ原の戦後処理において、西軍に与した島津家は改易・領地没収の危機に瀕していた。その際、徳川家康との和平交渉の仲介役として奔走し、島津家の本領安堵に多大な貢献をした人物こそ、他ならぬ井伊直政だったのである 29

なぜ、自らに手傷を負わせた敵将のために尽力したのか。その理由は、直政自身がこの追撃戦を通じて、島津の兵の比類なき武勇と結束力、そしてそれを率いる義弘の将器を目の当たりにし、深く感銘を受けたからだとされる。彼は、このような手強い相手を力でねじ伏せようとすれば、徳川にとっても計り知れない損害と禍根を残すと判断し、家康に和平による解決を進言したと考えられる。

結果として、勝地峠で直政を撃った一発の銃弾は、三重の因果を生み出した。第一に、徳川軍の追撃を停止させ、義弘の生還を可能にした。第二に、敵将・直政の命を縮める遠因となった。そして第三に、その銃弾が証明した島津の武威が、直政を動かし、最終的に島津家の存続を保障する政治的帰結をもたらした。一つの軍事行動が、敵将の命を奪うと同時に、自らの家を救うという、まさに歴史の逆説を体現する出来事となったのである。

終章:「退き口」が遺したもの

生還と代償:薩摩に帰り着いた者、わずか八十余名

井伊直政の負傷により追撃を振り切った島津義弘は、その後、伊勢から堺へと抜け、海路で薩摩を目指した。そして慶長五年十月三日、ついに故国の地を踏む。しかし、その代償はあまりにも大きかった。関ヶ原の戦場を離脱した数百の兵のうち、義弘と共に薩摩に帰り着くことができたのは、わずか八十数名であったと記録されている 4 。甥の豊久をはじめ、多くの忠臣たちの命と引き換えに得た生還であった。

無事に帰国した義弘であったが、国元で彼を待っていたのは、温かい歓迎だけではなかった。兄であり、島津家当主であった島津義久は、家を危うくしたとして義弘を厳しく叱責し、蟄居を命じたという 30 。この逸話は、関ヶ原への参陣を巡る義久と義弘の間の確執や、島津家が置かれていた複雑な内外の状況を物語っている。

伝説の誕生:「鬼島津」の武名を不滅にした壮挙

甚大な犠牲を払いながらも、主君を生還させた「島津の退き口」。この出来事は、瞬く間に全国に知れ渡り、「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と朝鮮で恐れられた島津の武名を、日本国内において不滅のものとした 13 。敗軍でありながら、敵中を正面から突破し、追撃する徳川の精鋭を返り討ちにするという壮挙は、恐怖と畏敬の念をもって語り継がれ、後世、「島津に背を見せるな」という教訓を生んだ。義弘の「我に続け」という言葉が、史実であったか否かにかかわらず、彼の行動そのものが伝説となり、島津家の武威を象徴する物語として結晶化したのである。

軍事的敗北から政治的勝利へ

結論として、「島津の退き口」は、軍事的には甚大な人的損害を被った、紛れもない敗走であった。しかし、その過程で島津軍が見せつけた常軌を逸した戦闘力、統率力、そして不屈の精神は、戦勝者である徳川家康に対し、「島津と事を構えることの計り知れないコスト」を骨の髄まで痛感させる、強烈な政治的メッセージとなった。

その結果、石田三成をはじめ西軍の主要大名の多くが改易・減封、あるいは死罪となる中で、島津家は西軍の主力であったにもかかわらず、その所領を安堵されるという、極めて異例の処遇を受けるに至った 3 。この壮絶な撤退戦は、島津家の存亡を賭けた、血と鉄によって行われた最高の外交交渉であったと言える。軍事的な敗北を、比類なき武威の示威行動へと転化させ、最終的に政治的な勝利を掴み取った「島津の退き口」は、戦国時代の終焉を飾る、最も鮮烈な伝説の一つとして、今なお語り継がれている。

引用文献

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  2. 関ケ原合戦の島津の退き口をたどる・2 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/7190
  3. 関ヶ原の戦いで正面突破!島津義弘の魅力と人物像を徹底分析 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/68788/
  4. 関ヶ原の戦いで島津の退き口が成功した理由/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/tokugawa-15th-shogun/shimazunonokiguchi-seiko-riyu/
  5. 関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置について ... - 別府大学 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=8222
  6. 『関ヶ原 島津退き口 敵中突破三〇〇里』(著/桐野作人)、島津義弘の撤退戦の実像 https://rekishikomugae.net/entry/2022/01/15/230928
  7. 西軍 島津義弘/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41117/
  8. 島津の退き口はなぜ起きた? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=60SY8QTuKfk
  9. 千五百 VS 十万?薩摩武士の精強さを天下に知らしめた、関ヶ原の戦い「島津の退き口」 https://mag.japaaan.com/archives/78825
  10. 関ヶ原の合戦における島津義弘軍の本来の軍事的位置について|栄村顕久 - note https://note.com/super_mink2656/n/nd89b5842e93b
  11. 島津の退き口(しまづののきぐち)|おおがきっず! たんけん!はっけん!大垣市 https://www2.city.ogaki.lg.jp/ogakids/rekisi/simazu.html
  12. 敵中突破!関が原合戦と島津の退き口 | ふれあうツアーズ [Fureaú tours] https://www.fureautours.jp/tours/view/b72eeec6-a0de-4c7b-8ba1-8f482d5d96c1
  13. 【関ケ原の戦い】「敵中突破!」の逸話が残る西軍・島津義弘の武勇伝とは 家康公ゆかりの地をバイクで巡る旅 https://bike-news.jp/post/335349
  14. 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
  15. 「島津の退き口」ゆかりの地 - 大垣市 https://www.city.ogaki.lg.jp/cmsfiles/contents/0000042/42898/map.pdf
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  26. 敵中突破 関ヶ原の戦いと島津の退き口 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/96652/
  27. 戦国の城と城跡 ・ 関ヶ原古戦場 (20) 「 本多忠勝 陣所跡 」 徳川の軍監(軍の目付役)である本多忠勝は、桃配り山の家康の本陣前に陣を敷いていた。家康の前線への移動後、忠勝隊は井伊直政隊とともに小池村に陣を敷く、薩摩の島津義弘の前衛を守る副将の島津豊久隊と交戦した。忠勝の立場は東軍の兵団長であり、また遊撃隊としてその任にあたっていた。 - 史跡をあるく http://tanaka-takasi.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/20-9985.html
  28. 『どうする家康』徳川四天王・井伊直政は関ケ原のどこで狙撃されたか? - Newsクランチ! https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/4858
  29. 島津義弘 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
  30. 失敗しても家を守り抜いた島津義久のリカバー力|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-034.html