最終更新日 2025-10-28

島津義弘
 ~退却中死恐れぬ者我に続け勇壮譚~

関ヶ原の戦い、島津義弘の壮絶な「退き口」を解説。死を恐れぬ檄と「捨て奸」戦術の真実、そして島津家存続に繋がった政治的帰結を考察。

『関ヶ原の勇壮譚「死を恐れぬ者は我に続け」の徹底解剖 ―島津義弘、決死の檄とその真実―』

序章:崩壊の戦場、残された「鬼」

慶長五年(1600年)九月十五日、午後二時頃。美濃国関ヶ原の戦場は、勝敗の帰趨が完全に決した後の喧騒と凄惨さに満ちていた。この日の午前八時に開戦した天下分け目の戦いは、西軍の有力武将・小早川秀秋の東軍への寝返りを合図に、わずか半日で西軍の全面的な総崩れという形で幕を閉じようとしていた 1

西軍の事実上の総大将であった石田三成の陣は崩壊し、宇喜多秀家、小西行長といった主力部隊も次々と潰走を始める。戦場には徳川方の将兵が上げる鬨の声と、敗走する兵の断末魔が交錯し、凄まじい光景が広がっていた。

この混沌の戦場のただ中に、まるで時が止まったかのように一つの部隊が陣容を微動だにせず留まっていた。薩摩の大名、島津義弘が率いる一隊である。彼らが布陣していたのは、西軍の配置のほぼ中央部、石田三成の陣からわずかに南に下った小池の地であった 2 。しかし、彼らがこの決戦において主体的に戦闘に参加することは、ほとんどなかった。その理由については、西軍首脳部との確執、特に戦前夜の軍議における夜襲献策が石田三成に一蹴されたことへの不満や、そもそも国元からの派兵が遅れ、義弘が率いる兵力が約1500という寡兵であったことなどが挙げられている 1

理由はどうあれ、結果として島津隊は、味方が次々と崩れていく様を眼前で見守る形となった。そして西軍の組織的抵抗が終焉した時、彼らは数万の東軍将兵がひしめく戦場の中心に、完全に孤立した存在として取り残されたのである 6 。四方は敵、退路は遮断され、兵力差は数十倍。絶望という言葉ですら生ぬるいこの状況こそが、後に「島津の退き口」として語り継がれる、日本戦史に類を見ない壮絶な退却戦の幕開けであった。本報告書は、この退却戦の最中に発せられたとされる島津義弘の勇壮な檄を軸に、その伝説と史実の深層を徹底的に解剖するものである。

第一章:死か生か、運命の軍議 ― 個の名誉と家の存続

午後二時を過ぎ、西軍の敗北が誰の目にも明らかとなった頃、島津の陣中では緊迫した軍議が開かれていた。周囲からは東軍の勝鬨が絶え間なく聞こえ、敗走する味方の兵が陣に駆け込もうとするのを押し留めながら、将兵は皆、固唾を飲んで大将・島津義弘の決断を待っていた 6

この絶対的窮地において、歴戦の猛将である義弘が最初に口にしたのは、武士としての本懐を遂げるための「死」の覚悟であった。伝えられるところによれば、義弘は数百メートル先に布陣する敵の総大将・徳川家康の本陣を指し、そこへ全軍で突撃し、壮絶な討ち死にを遂げようとしたとされる 5 。これは、敗軍の将として生き恥を晒すことを良しとせず、敵の大将に一矢報いて華々しく散ることを最上の名誉とする、当時の武士の死生観を色濃く反映したものであった。義弘の脳裏には、敵中で孤立した以上、もはや薩摩への生還は不可能であり、ならばせめて「鬼島津」の名に恥じぬ最期を、という思いがあったに違いない。

しかし、この義弘の覚悟に敢然と異を唱えた人物がいた。義弘の甥であり、島津家の次代を担う若き将、島津豊久である。豊久は、大将がいたずらに死を選ぶことの無意味さを説き、義弘を諌めた。「殿は御家の浮沈を担う大切な御身。ここで討ち死にすることは、個人の名誉は保たれるかもしれませぬが、島津の家そのものを見捨てることにございます。我らが身命を賭して血路を開きます故、殿は生きて薩摩へお帰りくだされ。家を再興することこそ、大将が果たすべき真の務めにございます」 5

豊久の言葉は、個人の名誉よりも「家」という組織の存続を最優先する、より大局的かつ政治的な視点に立ったものであった。この軍議は、単なる戦術会議ではなかった。それは、「武士としての名誉ある死」と「大名家の当主としての存続の義務」という、二つの異なる、しかしどちらも正当性を持つ価値観が激しく衝突した瞬間だったのである。

豊久の熱のこもった説得は、義弘の心を動かした。そして、義弘は決断を下す。それは、後方の伊吹山方面へ退くのではなく、前方の敵軍が最も密集する中央部を正面から突破し、伊勢街道を目指すという、常軌を逸した「前進退却」であった 6 。背後を見せて逃げるのではなく、敵に向かって前進することで退路を切り開く。この前代未聞の決断が下された瞬間、島津の陣営には悲壮な覚悟と凄まじい緊張がみなぎった。豊久をはじめとする将兵は、自らの命を捨て石として主君を生還させるという、過酷な使命を受け入れたのである。

第二章:鬨の声 ― 伝説の瞬間のリアルタイム再現

運命の決断が下されると、島津隊は直ちに行動を開始した。退却という名の死地への突撃を敢行するため、部隊は突破力を最大限に高める陣形、すなわち「鋒矢(ほうし)」の陣を編成した 6 。これは、全軍の力を一点に集中させ、分厚い敵陣をあたかも錐(きり)でこじ開けるかのように突き破るための陣形である。先鋒には、生還を説いた張本人である島津豊久が立ち、義弘の本隊はその後方に続く形で布陣した。

そして、伝説の瞬間が訪れる。全軍の準備が整った時、馬上の義弘は崩壊した戦場と追撃の機を窺う敵兵を鋭く見据え、腹の底から絞り出すような大音声で檄を飛ばしたとされる。後世に語り継がれるその言葉こそ、「死を恐れぬ者は我に続け」であった。この一喝は、死を覚悟した兵士たちの士気を極限まで高め、絶望的な状況下にある彼らを、死を恐れぬ鬼神の如き戦闘集団へと変貌させたと言われている。

しかし、このあまりにも有名で勇壮な文言は、果たして史実なのであろうか。結論から言えば、この具体的な言葉そのものが、同時代の一次史料、例えば島津家の膨大な記録を編纂した『薩藩旧記雑録』などからは確認することができない 9 。これは、この言葉が江戸時代以降の講談や軍記物語の中で、島津の比類なき武勇を象徴する、より英雄的で分かりやすいフレーズとして創出、あるいは脚色された可能性が高いことを示唆している。

では、真実は何だったのか。それは、言葉そのものではなく、その背景にある「行動」であった。すなわち、数万の敵中に孤立したわずか1500の兵が、生還のために敵の心臓部へ正面から突撃するという、常人の理解を超えた行動を選択し、実行したという厳然たる事実である。実際に義弘が発した言葉は、もっと簡潔な薩摩方言による命令であったかもしれない。だが、その行動が兵士たちに与えた衝撃と覚悟は、「死を恐れぬ者は我に続け」という言葉が内包する精神性と完全に一致していた。伝説は、史実の行動が持つ魂を、後世に伝えるための器なのである。

鬨の声を合図に、島津隊の突撃が開始された。彼らがまず目指したのは、東軍の主力部隊である福島正則の陣の側面であった。敗走兵の追撃に気を取られていた福島隊は、突如として整然たる陣形で突進してくる島津隊の異常なまでの気迫に完全に気圧され、攻撃をためらい、結果的に道を開けてしまったと伝わる 11 。敵の意表を突くことに成功した島津隊は、さらに速度を上げ、敵の総大将・徳川家康の本陣の目前をかすめるようにして伊勢街道方面へと突き進んでいった 4 。この信じ難い光景に、勝利に沸いていた東軍の諸将は驚愕し、戦場は一時、混乱に陥った。


『島津の退き口』タイムライン(慶長五年九月十五日)

時刻(推定)

島津軍の行動

東軍(追撃部隊)の動向

備考(引用史料・伝承)

14:00頃

西軍総崩れ。島津隊、戦場に孤立。

勝利を確信し、残敵掃討を開始。

西軍の敗走兵が自陣に流れ込むのを防ぐ 6

14:10頃

陣中にて軍議。義弘、討死を覚悟。

島津隊の動向を注視。包囲網を形成。

義弘、死を決意するも豊久らが諌める 5

14:30頃

豊久の説得により、「前進退却」を決定。

予期せぬ動きに備える。

前代未聞の退却方法の選択 6

14:40頃

鋒矢の陣を組み、家康本陣方面へ突撃開始。

福島正則隊などが気圧され、道をあける 11

この時点で檄が発せられたとされる。

15:00頃

烏頭坂に到達。豊久隊が殿となり奮戦開始。

井伊直政・松平忠吉隊が猛追を開始 11

最初の「捨て奸」が展開される 3

15:20頃

勝地峠麓にて、井伊直政が狙撃され負傷。

直政落馬。追撃の指揮系統が混乱 11

柏木源藤による狙撃 13

15:30頃

長寿院盛淳、義弘の身代わりとなり討死。

家康より追撃中止の命令が下る 11

盛淳、義弘の陣羽織を着用 14

16:00以降

追撃を振り切り、伊勢街道を南下。

組織的追撃は終了。

薩摩への長い逃避行が始まる。


第三章:壮絶なる「捨て奸」― 一歩に賭ける命

島津隊の敵中突破を語る上で欠かすことのできないのが、彼らが駆使した「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる特異な戦術である。これは、単に殿(しんがり)部隊が玉砕覚悟で敵を食い止めるという精神論的な戦法ではない。それは、島津家が長年にわたって培ってきた経験と、高い鉄砲練度に裏打ちされた、極めて合理的かつ高度な軍事ドクトリンであった 16

「捨て奸」の核心は、退却路の要所要所に数名から十数名の小部隊を配置し、追撃してくる敵部隊、特にその指揮官を狙撃して足止めを図る点にある 18 。兵士たちは、命中精度を上げるためにあぐらをかいて座り、重心を安定させた状態で鉄砲を構えたという。この独特の姿勢から、「座禅陣」とも呼ばれた 19 。彼らの狙いは、無闇に敵兵を討ち取ることではない。追撃部隊を率いる大将の首、あるいはその乗馬を狙い撃つことで、敵の指揮系統を麻痺させ、組織的な追撃を不可能にすることにあった。これは、最小限の犠牲で最大限の時間稼ぎを行うための、冷徹なまでに計算された遅滞戦術だったのである。鉄砲が伝来した種子島を領内に持ち、早くからその運用に習熟していた島津軍だからこそ可能な戦法であった 21

この恐るべき戦術は、関ヶ原からの退却路で凄惨な実戦として展開された。

烏頭坂の死闘 ― 豊久、最後の奮戦

敵中を突破し、伊勢街道へ抜ける要衝・烏頭坂(うとうざか)。ここまで到達した島津隊に、東軍最強の追撃部隊が牙を剥いた。徳川四天王の一人・井伊直政と、家康の四男・松平忠吉が率いる精鋭部隊である 4 。猛烈な追撃を受け、義弘本隊が危機に陥ったその時、先鋒を務めていた島津豊久が取って返し、自ら殿となって追撃軍の前に立ちはだかった 3

豊久と彼に従うわずか十数騎は、数千の敵を相手に最初の「捨て奸」を展開した。その最期は諸説あり、敵の大軍の中に駆け入って乱戦の末に討ち死にしたとも 22 、複数の槍で突き上げられ、その緋色の陣羽織がぼろぼろになったとも伝わる 23 。また、この地で重傷を負いながらも生き延び、後の白拍子谷で自刃したという説も根強い 13 。いずれにせよ、豊久が自らの命を賭して主君の退路を確保したことは間違いない。軍議で「生」を説いた彼が、その言葉の重みを自らの「死」をもって証明した瞬間であった。

勝地峠の狙撃 ― 柏木源藤の一弾

豊久隊の犠牲によって得られた時間で、義弘の本隊はさらに南下を続けた。しかし、井伊直政の追撃はなおも執拗に続いた。次の戦いの舞台となったのは、伊勢西街道最大の難所といわれた勝地峠の麓である 11

ここで、次なる「捨て奸」部隊が展開された。その中に、川上忠兄配下の柏木源藤という一人の鉄砲の名手がいた。彼は、追撃の先頭に立って猛進してくる井伊直政ただ一人に狙いを定めた 13 。放たれた一弾は、見事に直政の右肘を撃ち抜き、彼は馬上から真っ逆さまに転がり落ちた 13 。総大将の負傷という不測の事態に、徳川軍最強を誇った井伊隊の追撃は完全に停止した。この柏木源藤の一発こそ、義弘の生還を事実上決定づけた、戦術的勝利の瞬間であった 11 。島津が誇る指揮官狙撃ドクトリンが、最も効果的な形で機能したことの何よりの証左である。

影武者の忠義 ― 長寿院盛淳の最期

退き口の悲壮さを一層際立たせたのが、義弘の家老・長寿院盛淳の忠義であった。彼は、義弘から賜った豪奢な陣羽織をその身にまとい、「我こそは島津義弘なり」と大音声で名乗りを上げ、敵軍の注意を一身に引きつけた 14 。主君の影武者として敵を引きつけ、その間に本隊を遠くへ逃がす。盛淳は、付き従う兵と共に奮戦し、牧田上野の地で壮絶な討ち死を遂げた 27 。彼の自己犠牲によって、島津本隊はさらに貴重な時間を稼ぐことができたのである。

第四章:伝説の成立と政治的帰結

数々の犠牲の上に追撃を振り切った義弘一行であったが、薩摩への帰還は依然として困難を極めた。彼らは近江から伊賀、信楽の山中を抜け、交易のあった堺の商人を頼って港を目指した 6 。道中では落ち武者狩りに遭遇するなど、苦難の逃避行が続いた。関ヶ原に1500で参陣した兵は、九月三十日にようやく薩摩の地に帰り着いた時、わずか八十数名にまで激減していたという 11

一方で、この前代未聞の退却戦の報は、勝者である徳川家康に強烈な衝撃を与えていた。特に、追撃の当事者であり、自らも重傷を負った井伊直政は、「今度の島津の退き口の始末、比類なし」と、敵ながらその戦いぶりを最大級に賞賛している 31

家康の胸中には、驚嘆と共に一種の畏怖が芽生えていたに違いない。わずか千数百の兵が、十万に迫る自軍のど真ん中を正面から突破し、最強の追撃部隊を返り討ちにして生還した。この事実は、島津の兵がいかに精強で、死をも恐れぬ覚悟を持っているかを天下に示すに十分であった。家康は、もし本気で島津を討伐しようとすれば、九州の地で再びこの恐るべき兵団を相手に、計り知れない犠牲を払うことになるだろうと、冷静に計算したはずである 31

この「島津の退き口」で見せつけた圧倒的な「武威」こそが、戦後の対徳川交渉における島津家の最大の切り札となった。西軍の主力大名として参戦した以上、本来であれば改易(領地没収)は免れない立場であった。しかし、義弘の兄・義久を中心とした粘り強い外交交渉の末、慶長七年(1602年)、徳川家康は島津家の所領を安堵するという異例の裁定を下す 4 。関ヶ原での壮絶な「負け方」が、結果的に戦後の政治的な「勝ち」に繋がったのである。

この意味において、「島津の退き口」は単なる絶望的な状況からの生還劇に留まるものではなかった。それは、意図せずして、島津家の存亡を賭けた究極の政治的デモンストレーションとなった。戦場で発せられた檄と、それを体現した行動は、新時代の覇者の心胆を寒からしめ、結果的に島津家の未来を救ったのである。

結論:薩摩に届いた鬨の声

本報告書が解明したように、島津義弘が関ヶ原の退却時に発したとされる勇壮譚「死を恐れぬ者は我に続け」は、その言葉自体が史実である可能性は低い。それは、後世の人々が、島津の驚天動地の退却戦の精神性を理解し、語り継ぐために創り出した、一つの「伝説の象徴」と見るべきである。

しかし、その伝説の核となった「史実」は、いかなる脚色も及ばぬほど凄絶であり、かつ深い戦略的意味を持つものであった。絶望的な状況下で常識外れの敵中正面突破を敢行し、鉄砲を駆使した高度な遅滞戦術「捨て奸」を駆使して、大将を生還させたという一連の行動。これこそが、この逸話の揺るぎない真実である。

豊久の諫言によって選択された「生」への道は、皮肉にも数多の将兵の「死」によって切り開かれた。そして、その犠牲の上に勝ち取った生還は、単に義弘一人の命を救っただけではない。それは、徳川家康に島津の武威を骨の髄まで刻み込み、戦後の交渉を有利に進めるための最大の布石となった。

関ヶ原で発せられた(とされる)鬨の声は、戦場に響いただけではなかった。その声の響きは、時空を超えて新時代の覇者・徳川家康との交渉の席まで届き、薩摩隼人の不屈の魂の証明として、島津家の未来を切り拓いたのである。その意味で、この勇壮譚は、単なる一武将の逸話ではなく、島津家の歴史そのものを決定づけた、不滅の鬨の声として記憶されるべきであろう。

引用文献

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  2. 島津義弘 陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/shimazuyoshihirojinato.html
  3. 島津義弘コース|古戦場・史跡巡り |岐阜関ケ原古戦場記念館 https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/shimazu-yoshihiro/
  4. 敵中突破 関ヶ原の戦いと島津の退き口 - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/96652/
  5. 島津義弘は何をした人?「関ヶ原で魅せた退き口や鬼石曼子など最強の名を馳せた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yoshihiro-shimadzu
  6. 島津義弘の関ヶ原の戦い http://www.mirai.ne.jp/~wakita/simadu/simazu.htm
  7. 敵中突破!関が原合戦と島津の退き口 | ふれあうツアーズ [Fureaú ... https://www.fureautours.jp/tours/view/b72eeec6-a0de-4c7b-8ba1-8f482d5d96c1
  8. 上石津の島津塚~地元に伝わる島津豊久の最期 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3331
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  10. 『関ヶ原 島津退き口 -義弘と家康―知られざる秘史-』(著/桐野作人)、撤退戦の壮絶さを生々しく描き出す - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2022/10/16/141108
  11. 関ケ原合戦の島津の退き口をたどる・2 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/7190
  12. 島津の退き口の「小返しの五本鑓」、関ヶ原で猛追撃を食い止める - ムカシノコト、ホリコムヨ。鹿児島の歴史とか。 https://rekishikomugae.net/entry/2023/10/04/171459
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  16. 薩摩隼人の自尊心を傷つけられ関ヶ原不戦を決意した「島津義弘」(西軍) - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20739
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  19. 死亡率100パーセント!日本史上唯一の玉砕戦法「捨て奸(すてがまり)」とは!? - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/173363
  20. 関ヶ原の戦いで島津の退き口が成功した理由/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/tokugawa-15th-shogun/shimazunonokiguchi-seiko-riyu/
  21. 関ヶ原の戦いと鉄砲・西洋銃/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/88733/
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  24. 白拍子谷 <島津の退き口ゆかりの地>|観光スポット - 岐阜の旅ガイド https://www.kankou-gifu.jp/spot/detail_6861.html
  25. 日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 関ヶ原で徳川四天王・井伊直政を狙撃した男 https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/8634/5/
  26. 琳光寺・長寿院盛淳の墓 (大垣市) | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/rinkouji.html
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  29. 関ヶ原脱出劇「島津の退き口」 島津義弘はどうやって薩摩へ辿り着いたのか? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2116
  30. 島津義弘(戦国武将)の退却道を訪れる - 2019年05月03日 [登山・山行記録]-ヤマレコ https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1829556.html
  31. 関ヶ原の戦いで家康相手に「正面突破の負け戦」、島津義弘に学ぶ「意味ある負け方」とは? https://diamond.jp/articles/-/351650?page=4