最終更新日 2025-10-30

徳川家康
 ~人は負けて勝つこともあり悟り譚~

徳川家康の「人は負けて勝つこともあり」という言葉は、彼の生涯を象徴するが、史実ではなく明治期に創作された逸話であり、その哲学は彼の人生で実践された。

徳川家康、臨終の床における「負けて勝つ」の悟り譚 ― その言説の源流と史実の徹底検証

序章:徳川家康と「負けて勝つ」という至言

徳川家康。二百六十余年にわたる泰平の世を築き上げたこの稀代の為政者には、数多の逸話が残されている。中でも、その死の間際、75年の波乱に満ちた生涯を達観したかのように『人は負けて勝つこともあり』と語った、という悟り譚は広く知られている。この一言は、幼少期の人質生活に始まり、幾多の苦難と敗北を乗り越えて天下人へと至った家康の、忍耐と深謀遠慮の生涯を実に見事に要約しているかのようである。

しかし、この人口に膾炙した逸話は、果たして歴史的事実なのであろうか。本レポートは、この問いを起点とする。徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』や、家康の最期を看取った側近の日記といった一次史料を丹念に読み解き、当該言説の成立過程を遡ることで、逸話の真相に迫るものである。本稿の目的は、単なる真偽の判定に終わらない。仮にこの言葉が史実でないとすれば、なぜ、いつ、どのようにしてこの逸話が生まれ、家康の人物像と不可分に結びつくに至ったのか。その歴史的、思想的背景までを徹底的に解明することにある。

第一章:臨終の床 ― 元和二年四月、駿府城のリアルタイム

利用者様の「リアルタイムな会話内容」「その時の状態」という要望に応えるべく、本章では信頼性の高い史料に基づき、徳川家康最期の約三ヶ月間を時系列に沿って克明に再構成する。

第一節:死の序章 ― 鯛の天ぷらと病状の悪化

徳川家康の死に至る病の直接的な引き金となったとされる出来事は、元和2年(1616年)1月21日、駿府城下ではなく、鷹狩りのために滞在していた遠江国田中城(現在の静岡県藤枝市)で起こった。京の豪商である茶屋四郎次郎に勧められ、上方で流行しているという「鯛の天ぷら」を食したのである 1

この逸話はあまりにも有名であり、長らく家康の死因は「天ぷらによる食中毒」と信じられてきた。しかし、現代の歴史学および医学的見地からは、この説はほぼ否定されている。家康が鯛の天ぷらを食してから、同年4月17日に逝去するまでには約3ヶ月もの期間があり、食中毒の病状経過としては長すぎるためである 3 。近年の研究では、家康は以前から胃癌を患っており、消化の悪い天ぷらを食したことがきっかけで、腫瘍の状態が急激に悪化したとする説が最も有力視されている 1

記録によれば、家康は天ぷらを食した当夜から激しい腹痛と嘔吐に苦しんだ。その後、一時は回復を見せ駿府城へ帰還するも、病状は一進一退を繰り返し、次第に衰弱していった 5 。この事実から、家康の臨終に至る日々が、穏やかな悟りの境地にあったとは考え難い、苦痛に満ちた闘病生活であったことがうかがえる。

第二節:最後の遺命 ― 枕頭に集いし側近たち

病状が絶望的となった元和2年4月、家康は自らの死を悟り、後事の采配を振るい始める。この時期の動向は、家康の政治顧問であり、臨終にも立ち会った金地院崇伝が記した日記『本光国師日記』に詳細に記録されている。

4月2日 、家康は枕頭に腹心の側近である本多正純(老中)、南光坊天海(天台宗の高僧)、そして金地院崇伝(臨済宗の僧侶、幕府の法律顧問)の三名を呼び寄せた 8 。この時、家康が語ったとされる「真の遺言」は、人生哲学の吐露ではなく、極めて具体的かつ高度に政治的な内容であった。

  1. 遺体の処置: 遺体は駿府の久能山に埋葬すること。
  2. 葬儀: 葬儀は江戸の増上寺で執り行うこと。
  3. 位牌: 位牌は祖先の地である三河の大樹寺に安置すること。
  4. 神格化: 一周忌が過ぎた後、下野国日光山に小規模な堂を建て、そこに「神」として自らを勧請(分祀)せよ。そうすれば、自分は「八州の鎮守」(関東の守り神)となるであろう、と 8

この遺命は、自らの死後、その亡骸を神として祀らせることで徳川幕府の支配を宗教的権威によって盤石たらしめんとする、家康最後の深謀遠慮であった。かつて三河一向一揆において、宗教勢力が持つ強大な力に心底苦しめられた経験を持つ家康にとって、自らが信仰の対象となることは、徳川の治世を永続させるための究極の統治策だったのである。

『本光国師日記』によれば、翌 4月3日 には一時的に容態が持ち直し、家康は様々な「御金言」を述べたという。これを聞いた側近たちは「さては人間にては御座無く」と、その神がかった様子に感嘆したと記されているが、残念ながらその金言の具体的な内容は一切記録されていない 9

そして 元和2年4月17日、巳の刻(午前10時頃) 、徳川家康は駿府城にて、75年の生涯に幕を下ろした 8

第三節:史料上の結論 ― 語られなかった「悟り」

第一章の調査結果を総括する。『徳川実紀』や『本光国師日記』といった、家康の臨終を最も詳細に伝える一次史料群を精査する限り、家康が死の床で『人は負けて勝つこともあり』という趣旨の発言をしたという記録は一切存在しない。

史料が示す家康の最後の関心事は、抽象的な人生哲学の吐露ではなかった。それは、自身の神格化を通じて徳川幕府の安泰を未来永劫にわたって保証するという、極めて現実的かつ壮大な政治的意志の実現にあった。彼の臨終の場面は、「悟りを開いた賢人」のそれではなく、「自らの死後までも天下を支配し続けようとする為政者」の姿を、我々に鮮烈に示しているのである。

第二章:逸話の源流を求めて ― 創られた「御遺訓」の謎

家康が死の床で語らなかったとすれば、この有名な逸話は一体どこから来たのであろうか。本章では、その源流を徹底的に遡り、言説が成立するに至った過程を解明する。

第一節:「東照宮御遺訓」という名のテキスト

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず…」という一節で始まる文章は、徳川家康の遺訓としてあまりにも有名である 12 。この『東照宮御遺訓』として知られるテキストの中に、核心となる一文が存在する。

「勝事(かつこと)ばかり知りて、負(ま)くる事をしらざれば、害其(その)身にいたる」

(勝つことばかりを知っていて、負けることを知らないでいると、その害は自分自身の身に及ぶことになる)12

この一文は、利用者様が提示された『人は負けて勝つこともあり』という言葉と、その思想的根幹において完全に一致する。ここから、この『東照宮御遺訓』が、件の逸話の直接的な原型である可能性が極めて高いと結論付けられる。

第二節:明治に生まれた「家康の言葉」

しかし、近年の研究によって、この『東照宮御遺訓』自体が、家康本人の言葉ではない後世の創作であることが明らかにされている 9

その成立過程はこうである。まず、このテキストの元となったのは、江戸時代中期に水戸藩第二代藩主・徳川光圀の遺訓とされて流布していた『人のいましめ』という教訓であった 19 。そして明治11年(1878年)頃、旧幕臣(元旗本)であった 池田松之助 という人物が、この『人のいましめ』を基に内容を再構成し、あたかも家康本人の言葉であるかのように見せかけ、家康の署名と花押を真似て偽造したのである 19 。池田はジャーナリストや政治家としても活動した人物であった 23

この偽作された「御遺訓」は、元幕臣で剣客としても名高い高橋泥舟らの手によって日光東照宮をはじめとする各地の東照宮に奉納された 19 。これにより、このテキストは「家康公の真の御遺訓」としての権威を獲得し、国民の間に広く浸透していったのである。

この「御遺訓」が創られ、そして広く受け入れられた背景には、明治維新という時代の大きな転換点が存在する。徳川幕府の「敗北」によって禄を失い、新しい時代での生き方を模索していた池田松之助ら旧幕臣たちにとって、数多の敗北を乗り越えて二百六十年の泰平を築いた家康は、忍耐と最終的な勝利の象徴であり、自らの境遇を重ね合わせるべき理想像であった。この「御遺訓」の創作は、単なる偽造行為に留まらない。それは、激動の時代を生きた旧幕臣たちが、自らの精神的支柱として「かくあってほしい家康像」を再創造した、一種の文化的・政治的行為であったと言える。失われた江戸時代への郷愁と、新時代を生き抜くための教訓が、そこには込められていたのである。

第三節:もう一つの源流 ― 桶狭間後の大樹寺

興味深いことに、「負けて勝つ」というテーマは、全く別の文脈においても古くから家康の生涯と結びつけられてきた。

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで主君・今川義元が織田信長に討たれるという衝撃的な敗北の後、若き家康(当時は松平元康)は命からがら岡崎城下の菩提寺・大樹寺に逃げ込んだ。そこで彼は、もはやこれまでと、松平家代々の墓前で自害しようと試みた。その時、住職であった登誉上人が家康を諭し、自決を思いとどまらせたという伝承が残っている 24

一部の伝承によれば、この時、登誉上人が家康にかけた言葉の中に「人は負けて勝つこともある」という趣旨の教えが含まれていたとされる 24 。これは、家康の生涯における最初の大きな「敗北」と、そこからの劇的な再起を象徴する逸話である。この伝承の存在は、「負けて勝つ」という思想が、明治の創作以前から、家康の物語の中に深く内包されていたことを示唆している。

逸話の源流と変遷の比較表

これまでの分析を整理するため、以下の表を作成する。これにより、一つの言説が複数の源流を持ち、時代と共に変容していくダイナミズムを視覚的に理解することができる。

項目

利用者の当初の認識

『東照宮御遺訓』(後世の創作)

桶狭間後の逸話(伝承)

史料に基づく臨終の言葉

発言者

徳川家康

(徳川家康の言葉として流布)

登誉上人

徳川家康

時期

死の間際(元和2年)

不明(家康の言葉ではない)

桶狭間の戦い直後(永禄3年)

死の直前(元和2年4月)

内容

「人は負けて勝つこともあり」

「勝事ばかり知りて、負くる事をしらざれば、害其身にいたる」

(厭離穢土欣求浄土の教えなど)

遺体の埋葬方法、神格化について

信憑性

低い(史料に確認できず)

偽作

伝承の域を出ない

高い(一次史料に記録あり)

文脈

人生の悟り

普遍的な処世訓

宗教的救済

政治的・宗教的遺命

第三章:「負けて勝つ」という哲学の実践

家康がその言葉を死の床で語らなかったとしても、彼の生涯そのものが、その哲学を体現していた。本章では、なぜこの創られた言葉が、史実を超えて人々の心に「真実」として響くのかを、具体的な歴史的事象を通して論じる。

第一節:最初の試練 ― 三河一向一揆と家臣団の分裂

家康の生涯における最初の、そして最大の危機の一つが、三河統一の過程で勃発した三河一向一揆である 25 。この一揆の深刻さは、敵が外部の勢力ではなく、自らの家臣団であった点にある。本多正信をはじめとする腹心を含む家臣の半数が、主君である家康よりも自らの浄土真宗の信仰を選び、敵対したのである 26 。家臣団の分裂という、まさに国家存亡の危機であった。

この絶望的な「敗北」から、家康は統治者として最も重要な教訓を学んだ。それは、武力だけでは人の心を完全に支配することはできないという事実 27 、そして何よりも、一度は自らを裏切った者さえも戦後に赦免し、再び家臣として受け入れる「寛容」こそが、より強固な主従関係を築き上げるという統治の要諦であった 25 。これはまさに、「負ける」(=家臣の離反と信仰を一時的に許容する)ことで、最終的に「勝つ」(=より結束の固い最強の家臣団を得る)という戦略の実践に他ならなかった。

第二節:生涯の教訓 ― 三方ヶ原の戦いと「しかみ像」

元亀3年(1572年)、甲斐の武田信玄との三方ヶ原の戦いは、家康が生涯で喫した唯一にして最大の大敗北であった。信玄の巧みな戦術の前に徳川軍は総崩れとなり、家康自身も命からがら浜松城へと逃げ帰った。

この惨敗の後、家康は自らの慢心と恐怖に歪んだ顔を絵師に描かせ、その絵を生涯座右に置いて自戒したという逸話は「しかみ像」として有名である。この逸話が象徴するのは、家康が敗北を単なる失敗として忘れ去るのではなく、自己を省みるための永続的な「教訓」へと昇華させる、稀有な能力を持っていたことである。彼は敗北という最も苦い経験を、自己成長のための最も価値ある学習資源へと転換させたのである。

第三節:死の淵からの生還 ― 神君伊賀越えと「徳」

天正10年(1582年)、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた時、家康は僅かな供回りとともに和泉国堺に滞在していた。京を押さえた光秀軍の追手が迫る中、本国三河への帰還は絶望的と見られた。この伊賀の山中を越えての決死の逃避行は、後に「神君伊賀越え」として語り継がれることになる 28

これは家康の生涯で最も死に近づいた危機であり、自らの武力や知謀が及ばない、まさに天運に身を任せるしかない状況であった 32 。この絶望的な状況下で、服部半蔵に連なる伊賀・甲賀の人々の助けを得て九死に一生を得た経験は、家康に人の縁の重要性と、天命や「徳」(人を惹きつけ、天の助けを呼ぶ力)の存在を深く認識させたとされる 33 。ここでも彼は、「負け」(=自らの無力さを認め、絶体絶命の窮地に陥る)の中から、「勝利」(=生き延び、後の天下取りへの道を繋ぐ)を掴み取ったのである。

家康の強さの本質は、個々の戦の巧拙や謀略の深さ以上に、この「敗北を学習資源へと転換する能力」にあったと言える。三河一向一揆からは「組織論・宗教論」を、三方ヶ原の戦いからは「自己管理・リーダーシップ論」を、そして神君伊賀越えからは「人脈論・運命論」を学んだ。彼の生涯は、敗北という名の教材で満ちた、壮大な学習の過程であった。

結論:なぜこの逸話は語り継がれるのか

本レポートの調査結果を総括する。徳川家康が死の間際に『人は負けて勝つこともあり』と語ったという逸話は、一次史料にその根拠を見出すことができず、その直接的な原型は明治時代に旧幕臣・池田松之助によって創られた『東照宮御遺訓』中の一節に求められる。したがって、歴史的事実(Fakt)としては、この逸話は否定される。

しかし、この逸話は単なる「偽物」として切り捨てられるべきではない。なぜならそれは、家康の生涯に満ちていた数多の敗北、苦難、そしてそれらを乗り越えて天下統一という最終的な勝利を成し遂げたという歴史の、本質的な構造を見事に捉えているからである。

徳川家康の真の「悟り」とは、死の間際に語られた一つの警句にあるのではない。それは、敗北を糧とし、屈辱を自戒の種とし、忍耐を重ねて好機を待ち続けた、75年の生涯そのものであった。創られた逸話は、その長く困難な道のりを凝縮した「記憶の結晶」であり、史実を超えて、私たちに家康という人物の核心を伝え続けている。この言葉は、歴史的事実ではないかもしれないが、家康の生涯を貫く歴史的真実(Wahrheit)の一側面を、確かに照らし出しているのである。

引用文献

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  2. 徳川家康の死因は天ぷらの食べ過ぎ? - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/78169/
  3. 徳川家康が死ぬ前に食べた“本当の最後の晩餐”は? - NEWSポストセブン https://www.news-postseven.com/archives/20171124_631119.html?DETAIL
  4. 徳川家康の死因は戦ではなく胃がん?鯛の天ぷらを食べすぎた説も調査 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/tokugawaieyasu-death/
  5. 武将ブログ 「徳川家康」の死因と謎 - 刀剣ワールド https://www.touken-hiroba.jp/blog/9048530-2/
  6. 徳川家康、秀忠、家光の死因が分かる資料はないか。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000176178&page=ref_view
  7. 徳川家康は「鯛の天ぷら」で死んだはウソ? 真鯛ではなくアマダイの可能性も | TSURINEWS https://tsurinews.jp/290941/
  8. 徳川家康公の墓|駿府ネット https://sumpu.net/
  9. 東照宮御遺訓は後世の創作だった!?|本当の徳川家康公御遺言とは? https://www.ieyasu.blog/archives/6837
  10. 徳川家康は「胃がん」だった!?大胆推理!専門医がひもとく天下人の“最期” 大河ドラマ終了で再び注目|静岡新聞アットエス https://www.at-s.com/life/article/ats/1378485.html
  11. 徳川家康の遺骸 01 - 日光所記 https://nikkohistories.info/ieyasu01/677/
  12. 家康の遺訓「人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し」は後世の創作だった! 渡邊大門 https://www.gentosha.jp/article/21487/
  13. 徳川家康「遺訓」 - 晴耕雨読 http://yamazakinomen.mizutadojo.com/tokugawaieyasu.html
  14. 徳川家康の遺訓 http://www.edu-konan.jp/ishibe-jh/ikiruhint/tokugawa.html
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  16. 東照宮御遺訓 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE%E5%BE%A1%E9%81%BA%E8%A8%93
  17. 「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし…」この文章の全文が掲載されている資料をさがしています。こ... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000090529&page=ref_view
  18. 【徳川家康公の遺訓(東照宮御遺訓)】とは?全文は?英語で何と? - 日本を英語と一緒に学ぶブログ https://insearchofjapan.hatenablog.com/entry/2021/07/08/233747
  19. Fujisan Trends 家康の名言は偽造だった!?『間違いだらけの家康像』 https://www.fujisan.co.jp/trends/lifestyle/41273/
  20. 呉座勇一「NHK大河ドラマはまったく違う…"徳川家康は我慢の人"のイメージは偽造だった」 今川への"裏切り"を美談にしたい「勝者の歴史」にご用心 - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/65817?page=1
  21. 今月の課題 「家訓(2)」 編集主幹 松原 清 http://www.all-japan-arts.com/kadai/1507kadai.html
  22. 東照宮御遺訓とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE%E5%BE%A1%E9%81%BA%E8%A8%93
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  24. 家康公が遺した名言 - 浜松・浜名湖だいすきネット https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/person/words/
  25. 家康の最初の危機にして最大の難関、三河一向一揆 - Wedge ONLINE https://wedge.ismedia.jp/articles/-/29540?page=3&layout=b
  26. 三河一向一揆の鎮圧後、徳川家康はなぜ離反した家臣に寛大だったのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26838
  27. 家康の宗教観―三河一向一揆と本願寺への対処、キリスト教禁教 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12002/
  28. 交野に残る 家康の足跡 https://www.city.katano.osaka.jp/docs/2023032800019/file_contents/2023-04-3233.pdf
  29. 家康「伊賀越え」 運命の二択 | あなたの知らない京都旅 ~1200年の物語 - BS朝日 https://www.bs-asahi.co.jp/kyototabi/lineup/prg_016/
  30. ならら2023年1月号:「神君伊賀越え」の真相 〜家康は大和を越えた https://narara.co.jp/2023/01/%E3%81%AA%E3%82%89%E3%82%892023%E5%B9%B41%E6%9C%88%E5%8F%B7%EF%BC%9A%E3%80%8C%E7%A5%9E%E5%90%9B%E4%BC%8A%E8%B3%80%E8%B6%8A%E3%81%88%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8-%E3%80%9C%E5%AE%B6%E5%BA%B7/
  31. 神君伊賀越えとは?徳川家康はどのルートで危機を逃げ切ったのか - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/igagoe
  32. 家康の「伊賀越え」と甲賀・伊賀者 - 三重の文化 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail66.html
  33. 「どうする家康」第29回「伊賀を越えろ!」 家康の徳が天運を引き寄せた伊賀越え - note https://note.com/tender_bee49/n/n68adbebd1dbe