徳川家康
~天に勝つは人に負ける達観譚~
徳川家康「天に勝つは人に負ける」達観譚を考察。三方ヶ原の敗戦から得た教訓、人の重要性、そして天下人としての哲学形成を多角的に検証する。
「天に勝つは人に負けること」― 徳川家康の達観譚に関する歴史的考察
序論:『天に勝つは人に負けること』という問い
徳川家康にまつわる逸話として、『戦勝の後、兜を外し「天に勝つは人に負けること」と語った』という達観譚は、彼の人間的成熟と天下人としての深い哲学を象徴する言葉として、しばしば引用される。この一文には、単なる戦の勝敗を超越し、運命や天意といった人知を超えた力に抗うことの危うさと、人心を失うことの恐ろしさを戒める、統治者の至言とも言うべき響きがある。
しかしながら、本報告書の冒-頭において結論の核心を述べるならば、この印象的な言葉は、徳川家康の言行を直接記録した信頼性の高い一次史料や、江戸時代に編纂された主要な言行録の中に、 直接的な記述として見出すことはできない 。
したがって、本報告書の目的は、この逸話の「史実性の有無」を判定することに留まるものではない。むしろ、この言葉が「なぜ家康の言葉として語り継がれるに至ったのか」という、より深層的な問いを徹底的に掘り下げることにある。そのために、この言葉に凝縮された思想の源流を史料から探り、その思想を形成したであろう家康の決定的体験を時系列に沿って再現し、そして後世の人々が「神君・家康」のイメージをいかに形成していったのかを、多角的に解明するものである。
第一部:逸話の源流と類語の分析 ― 言葉の系譜学
利用者様が提示された逸話そのものは史料に見られないものの、その思想的根幹をなす類似の言説は複数存在する。本章では、それらの言葉を分析し、逸話がどのようにして形成された可能性があるのか、その系譜を明らかにする。
第一章:直接的典拠の不在証明
徳川家康をはじめとする戦国武将や江戸時代の幕閣、諸大名の言行を記録した逸話集は数多く存在する。中でも、江戸時代前期に成立したとされる『武野燭談(ぶやしょくだん)』や、江戸時代中期に成立した『常山紀談(じょうざんきだん)』は、その代表格である 1 。これらの文献には、家康の政治思想、人間性、日常生活に至るまで、数多くの逸話が収録されており、後世の家康像形成に絶大な影響を与えた。
しかし、これらの主要な言行録を精査しても、「天に勝つは人に負けること」という直接的な文言、あるいはそれに酷似した表現は一切見出すことができない。もし家康が、自らの哲学を象徴するこれほど重要な言葉を戦勝の直後という劇的な状況で語っていたのであれば、幕府の正統性や権威を補強する目的で編纂されたこれらの書物が見過ごすとは考えにくい。この事実は、当該の逸話が家康と同時代、あるいは江戸初期に成立したものではなく、より後世、あるいは特定の文脈の中で創作された可能性が極めて高いことを強く示唆している。したがって、この言葉の起源は、これらの古典的な言行録の外に求めなければならない。
第二章:思想的源流① ― 『東照公御遺訓』に見る「敗北の哲学」
「天に勝つ」ことへの警句、すなわち勝利への驕りを戒める思想は、徳川家康の言葉として最も広く知られる『東照公御遺訓(とうしょうこうごいくん)』の一節にその原型を見出すことができる。
勝事(かつこと)ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身(がいそのみ)にいたる 3 。
この「勝つことばかり知って、負けることを知らなければ、その害は我が身に及ぶ」という言葉は、負けを知らない人間が陥る慢心や油断の危険性を説き、敗北の経験から学ぶことの重要性を強調している 5 。これは、天運に恵まれ連戦連勝すること、すなわち「天に勝つ」状況がいかに危ういものであるかという、利用者様提示の逸話の前半部分と、その思想的根幹において強く共鳴するものである。
ただし、この『東照公御遺訓』自体にも史料批判が必要である。近年の研究では、現在知られる形の御遺訓は家康自身の直筆によるものではなく、江戸時代後期に水戸藩主・徳川光圀の言葉として広まったものが、やがて家康自身の言葉へと転化し、明治時代に最終的な形として定着したとされている 8 。つまり、この「敗北の哲学」は、家康本人の発言そのものというよりは、江戸泰平の世が確立した後に、後世の人々が家康の苦難に満ちた生涯、特に後述する三方ヶ原での大敗を振り返り、彼の成功の本質を抽出して結晶化させた「後付けの哲学」と理解するのが妥当である。それは史実を超えた「物語としての真実」を担うものと言えよう。
第三章:思想的源流② ― 『武野燭談』に見る「万民の思想」
一方で、逸話の後半部分である「人に負けること」という思想、すなわち統治者としての驕りを戒め、民衆や家臣といった「人」を尊重する姿勢は、前述の『武野燭談』に収録されたとされる家康の言葉にその源流を見ることができる。
天下は天下之人の天下にして、我一人の天下とは思ふべからず 9 。
この言葉は、天下という公的な器は決して統治者個人の私物ではなく、そこに住まう全ての人々のためにあるべきだという、為政者の根本的な心構えを示している。この思想は、自らの意思や欲望を押し通すのではなく、時には家臣の諫言に耳を傾け、民の安寧を優先するために自らの意を曲げること、すなわち「人に負ける(=譲る、受け入れる)」ことの重要性を示唆している。家康が「いさめてくれる部下は、一番槍をする勇士より値打ちがある」と語ったとされる逸話も、この思想的文脈の中に位置づけられる 6 。
これらの分析から、利用者様が提示された『天に勝つは人に負けること』という逸話は、史実としての一つの発言ではなく、家康に帰せられる二つの異なる思想的源流を、後世の誰かが見事に融合・昇華させて創作した、極めて洗練された「象徴的言説」である可能性が浮かび上がる。以下の表は、その関係性を示したものである。
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項目 |
利用者様提示の逸話 |
『東照公御遺訓』(とされる一節) |
『武野燭談』(とされる一節) |
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原文 |
天に勝つは人に負けること |
勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる |
天下は天下之人の天下にして、我一人の天下とは思ふべからず |
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主眼 |
天(運命・驕り)と人との対比、人への配慮の重要性 |
勝利への慢心と敗北を知ることの重要性 |
統治者としての心構え、民衆の重視 |
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成立 |
不明(後世の創作か) |
江戸後期~明治期に成立 8 |
江戸前期の成立 1 |
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思想的役割 |
勝利への戒め |
敗北の経験価値 |
統治の正当性 |
この表が示すように、「天に勝つ」ことの危うさは『御遺訓』の「敗北の哲学」が、「人に負ける」ことの重要性は『武野燭談』の「万民の思想」が、それぞれ下敷きとなっていると考えられる。この二つの思想を「天」と「人」という壮大な対比構造の中に収め、一つの対句として表現することで、より簡潔で記憶に残りやすい警句として完成させた。これは、家康の思想を後世に伝えるための、一種の知的創造活動であったと言えるだろう。
第二部:思想の原体験 ― 三方ヶ原の戦いの時系列再現
前部で分析した「敗北の哲学」は、単なる机上の空論ではない。それは、徳川家康の骨身に刻まれた極限的な実体験に基づいている。本章では、その決定的体験である三方ヶ原の戦いを、利用者様の要望である「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」を可能な限り史料に基づき再現することで、彼の思想の原風景に迫る。
第一章:開戦前夜 ― 元亀3年(1572年)12月22日、昼
元亀3年(1572年)12月、甲斐の虎・武田信玄は、2万5千(諸説あり)と号する大軍を率いて遠江国に侵攻した 11 。徳川方の重要拠点であった二俣城は、水の手を断たれるという致命的な打撃を受け、12月19日に開城 12 。勢いに乗る武田軍は、家康の本拠・浜松城へと迫る。しかし信玄は、浜松城を直接攻撃するのではなく、城を無視して西方の三方ヶ原台地を通過し、京を目指すかのような動きを見せた 13 。
この時、浜松城内の徳川軍は、織田信長からの援軍を合わせてもわずか1万1千 13 。兵力差は歴然としており、家臣団の多くは籠城こそが唯一の活路であると主張した。しかし、当時30歳であった家康は、血気にはやり、この屈辱的な状況を座視することができなかった。彼は、「敵がわが城外を踏みにじって通るのを黙認することは武士の恥である」とし、家臣たちの制止を振り切ってこう檄を飛ばしたと伝わる。
合戦は軍勢の数ではなく、天道次第である 11 。
この言葉は、若き日の家康が抱いていた「天」、すなわち運命や天意へのある種の信頼、あるいは驕りとも言える精神状態を如実に示している。彼は、圧倒的な兵力差という現実を前に、人事を尽くすこと以上に、目に見えぬ「天道」に勝利の望みを託して、浜松城から打って出たのである。
第二章:惨敗 ― 同日、午後4時~午後6時
三方ヶ原台地で両軍は対峙した。家康は敵を包囲殲滅するのに適した「鶴翼の陣」を敷いたが、これは中央が手薄になる弱点があった 12 。対する老練な信玄は、徳川軍の陣形を一目で見抜き、中央突破に特化した「魚鱗の陣」で迎え撃った 14 。
戦いは午後4時頃に始まった 11 。兵力、戦術、そして経験の全てにおいて勝る武田軍の猛攻は、徳川軍の想像を絶するものであった。武田軍は波状攻撃を仕掛け、徳川軍の前線は瞬く間に突き崩される。織田からの援軍も有効に機能せず、徳川軍は総崩れとなった 14 。戦いは、わずか2時間あまりで決着し、徳川方の死者は2千名にも及んだとされる 11 。まさに完膚なきまでの大敗北であった。
家康が信じた「天道」は、彼に味方しなかった。この瞬間は、彼の生涯において経験したことのない絶望であり、自らの判断の甘さと現実の厳しさを痛感させられた、まさに「天」に見放された瞬間であった。
第三章:決死の敗走 ― 同日、日没後
陽が落ち、戦場が夕闇に包まれる中、家康の生涯で最も過酷な逃避行が始まった。
- 逃走開始: 家康は、数名の旗本に守られ、命からがら浜松城を目指した。敗走を開始した当初は六、七十騎ほどの供回りがいたとされるが、武田軍の執拗な追撃の中で、彼らは次々と討ち死にし、あるいは主君とはぐれていった 15 。
- 家臣の犠牲: この絶望的な状況下で、多くの忠臣がその命を散らした。中でも夏目吉信は、家康の兜と指物を借り受けると、「我こそは徳川家康なり」と名乗りを上げて敵中に突撃し、主君の身代わりとなって壮絶な討死を遂げた 14 。また、本多忠真らも殿(しんがり)を務め、家康を逃がすために敵の追撃を食い止め、命を落とした 16 。彼ら「人」の自己犠牲がなければ、家康の命は間違いなくここで尽きていた。この体験は、後の「人は城、人は石垣、人は堀」という家康の思想の根幹を形成する、強烈な原体験となったであろう。
- 極限状態の逸話: 極度の恐怖と緊張から、家康は馬上で脱糞してしまったという逸話はあまりにも有名である 13 。この逸話は、後の天下人からは想像もつかないほどの人間的な弱さと、彼が直面した危機の深刻さを物語っている。ただし、この逸話の初出とされる『三河後風土記』では、三方ヶ原の戦いではなく、その前哨戦である一言坂の戦いでの出来事として記されており、後世に三方ヶ原の敗戦の劇的さを強調するために転用された可能性も指摘されている 19 。
- 浜松城到着: 多くの家臣の犠牲の末、家康が浜松城にたどり着いた時、その傍らにいた供はわずか七名、あるいは五名であったと記録されている 15 。心身ともに疲弊しきり、憔悴しきったその姿は、出陣前の威勢の良さとは似ても似つかぬものであった。
第四章:城内の攻防と一夜の策略
命からがら帰城した家康を待っていたのは、安息ではなかった。城内は「家康討死」の噂が飛び交い、大混乱に陥っていた 15 。ここで家康は、絶望的な状況から驚くべき機転を見せる。
まず、自らの生存を城内外に知らしめるため、城内に残っていた鉄砲をかき集め、城外に向けて一斉に放たせた 15 。この銃声は、敗走して散り散りになっていた味方の兵に家康の健在を知らせ、彼らが城に戻るための目印となり、士気を回復させる効果があった。
さらに、追撃してきた武田軍に対しては、全ての城門を開け放ち、篝火を盛大に焚いて、あたかも伏兵がいるかのように見せかけたという、有名な「空城の計」の逸話が伝わっている 12 。しかし、この逸話は中国の故事に倣った後世の創作であり、家康を英雄として称えるために書かれた『四戦紀聞』などが典拠とされている 20 。史実としては、予期せぬ鉄砲による反撃に警戒した武田軍が、夜間の深追いを危険と判断して兵を引いた可能性が高いと考えられる 22 。
三方ヶ原の敗走から浜松城での一夜は、家康にとってまさに思想的転換点であった。「天道」や「個人の武勇」といった抽象的なものに頼ることの脆さを学び、具体的な「策略」、人心の「掌握」、そして何よりも家臣の「忠義」といった、「人」の力の重要性を骨身に沁みて理解したのである。出陣前に信じた「天」は彼を裏切ったが、彼を生かしたのは紛れもなく「人」であった。この一連の体験こそが、「天に勝つは人に負ける」という思想の原風景を形成したと言っても過言ではない。
第三部:敗戦の教訓と「徳川家康」像の形成
三方ヶ原での惨敗という「事実」は、その後の家康の戦略と思想に決定的な影響を与えた。そして、この敗北の物語は、後世の人々によって解釈され、家康の「伝説」へと昇華していく。本章では、そのプロセスを検証する。
第一章:自戒の象徴「しかみ像」伝説の虚実
三方ヶ原の敗戦を語る上で欠かせないのが、通称「しかみ像(顰像)」として知られる肖像画「徳川家康三方ヶ原戦役画像」である。この肖像画にまつわる逸話は、あまりにも有名である。惨敗を喫し、命からがら浜松城に逃げ帰った家康が、この屈辱と恐怖を生涯忘れることのないよう、直ちに絵師を呼び寄せ、憔悴しきった自身の姿を描かせた。そして、その絵を常に座右に置き、自らへの戒めとした、というものである 13 。この逸話は、家康の自己反省の深さと、失敗を糧にする謙虚な人間性を象徴する物語として、広く国民に浸透している。
しかし、近年の学術的研究によって、この感動的な逸話は、史実ではないことがほぼ確実となっている。この肖像画が三方ヶ原の戦いと明確に結びつけられたのは、明治時代以降のことであり、それ以前の所蔵元である尾張徳川家の記録では、単に『東照宮尊影』と記されているか、あるいは長篠の戦いの際の肖像画とされていた時期もあった 24 。また、その特異な表情は敗戦の憔悴ではなく、神格化された家康(東照大権現)が衆生を救うために示す「忿怒相」を描いたものではないか、という説も有力である 25 。
この「しかみ像」の逸話は、歴史的事実というよりも、近代国家形成期において、国民的英雄としての徳川家康像を構築する過程で「発明された伝統」の一例と見なすことができる。単なる権力者や勝利者としてではなく、「失敗から学ぶ謙虚さ」と「自己を厳しく律する克己心」を併せ持つ、近代的なリーダー像を家康に投影するために、この物語は生まれ、山岡荘八の歴史小説『徳川家康』などを通じて広く定着していったのである 26 。これは、歴史の事実そのものよりも、時代が求める「物語」の力が、人々の歴史認識をいかに形成するかを示す好例と言える。
第二章:敗北から学んだ「勝ち方」 ― 関ヶ原への道
「しかみ像」の逸話は創作であったとしても、家康が三方ヶ原の敗戦から極めて重要な教訓を学んだことは間違いない。それは精神論に留まらず、極めて実践的な戦略・戦術論であった。この敗戦は、家康に「野戦における駆け引きの重要性」と「短期決戦で勝敗を決する合理性」を教えた 29 。戦国最強と謳われた武田信玄と直接肌を合わせ、その戦術の前に完膚なきまでに叩きのめされた経験は、他のいかなる勝利よりも価値のある、生きた教科書となったのである。
この教訓が最大限に活かされたのが、27年後の天下分け目の決戦、関ヶ原の戦いであった。三方ヶ原では、信玄の巧みな陽動によって浜松城から野戦の場へとおびき出され、敵の土俵で戦うことを余儀なくされて敗れた。その苦い経験を、家康は決して忘れていなかった。関ヶ原において、家康は逆に、石田三成が籠る大垣城を攻めるかのように見せかけ、巧みに三成を野戦の場(関ヶ原)へとおびき出すことに成功する 30 。そして、自らが選んだ決戦の舞台で、周到な事前調略と圧倒的な兵力をもって、わずか半日で西軍を壊滅させ、天下の趨勢を決した。
三方ヶ原での「負け方」を徹底的に分析し、その逆の戦略を実行したことが、関ヶ原での「勝ち方」に直結したのである。家康の天下取りは、単に「鳴くまで待った」忍耐や幸運の結果ではない。三方ヶ原という最大の失敗を、徹底的に分析・研究し、自らの戦略体系に組み込むという、極めて合理的な「学習能力」の賜物であった。「負けを知る」とは、単なる精神論ではなく、敗因を客観的に分析し、将来の成功のためのデータとして活用する知的作業に他ならなかった。
結論:達観譚の再解釈 ― 史実を超えた「家康の真実」
本報告書で検証してきた通り、『戦勝の後、兜を外し「天に勝つは人に負けること」と語った』という逸話は、特定の合戦後に徳川家康が語ったという 史実として確認することはできない 。それは、信頼性の高い同時代史料や、江戸時代に編纂された主要な言行録にその記述が見られないからである。
しかし、この言葉を単なる「偽史」や「作り話」として切り捨ててしまうのは早計であろう。むしろ、この一文は、徳川家康という人物の生涯と成功の本質を、後世の人々が見事に凝縮し、結晶化させた**【至高の象徴的言説】**として再評価されるべきである。
この言葉には、家康の生涯を貫く二つの「真実」が込められている。
第一に、 三方ヶ原での惨敗 という決定的体験を通じて家康が骨身に沁みて学んだ、 「勝利への驕りを戒め、敗北の価値を知る」という哲学 。これは逸話の「天に勝つ」という部分に集約されている。
第二に、二百数十年に及ぶ泰平の世を築く統治者として最終的に到達した、 「天下は万民のものであり、人をこそ大切にすべき」という為政者の理想 。これは「人に負けること」という部分に象徴されている。
この逸話は、史実であるか否かという次元を超えて、なぜ徳川家康が単なる勝利者ではなく、「神君」として後世に崇敬され、その教えが現代にまで語り継がれるのか、その理由を雄弁に物語っている。それは、彼が権力闘争の勝者としてだけでなく、人生最大の失敗を乗り越え、人間的成熟を遂げた普遍的な人物像として、我々に深い教訓を与え続けるからに他ならない。この達観譚の存在自体が、徳川家康という歴史上の人物が、後世の人々にとっていかに偉大で、示唆に富む存在であったかの、何よりの証左なのである。
引用文献
- 武野燭談(ぶやしょくだん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A6%E9%87%8E%E7%87%AD%E8%AB%87-1202034
- 家康と三成は宿敵ではない…関ヶ原で負けボロボロの姿で捕まった三成を「医者に診せよ」と言った家康の真意 処刑される直前に三成が平常心で望んだこと (4ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/73856?page=4
- 御遺訓 - 徳川家康公について https://www.toshogu.or.jp/about/goikun.php
- 戦国武将の名言・格言/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/historian-text/warlord-quote/
- 勝つことばかり知りて負くるを知らざれば、害その身に至る。 おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。 | コンサルタントコラム | 中堅・中小企業向け経営コンサルティングの小宮コンサルタンツ https://www.komcon.co.jp/column/8883/
- 【徳川家康の残した名言】人の上に立ちながらも人を下に見ず - 鎧・兜 鯉のぼり https://www.imagineflag.jp/busho/ieyasu/meigen/index.html
- 徳川家康の遺訓 http://www.edu-konan.jp/ishibe-jh/ikiruhint/tokugawa.html
- 東照宮御遺訓 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE%E5%BE%A1%E9%81%BA%E8%A8%93
- 徳川家康の名言・逸話40選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/254
- 家康公が遺した名言 - 浜松・浜名湖だいすきネット https://hamamatsu-daisuki.net/ieyasu/person/words/
- 徳川家康の人生において最大の屈辱戦にして最悪の敗北を喫した「三方ヶ原の戦い」とは⁉ https://www.rekishijin.com/27483
- 三方ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- なぜ籠城せず、わざわざ城から出て負けたのか…徳川家康の唯一の敗戦「三方ヶ原の戦い」の謎を解く 「籠城する」という選択肢を取れなかったワケ - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/66304?page=1
- 徳川家康を巡る情景1「三方ケ原の戦い 敗走編」 - we love 浜松 https://enjoy-hamamatsu.shizuoka.jp/study/24497/
- 家康公エピソード 磯田道史のちょっと家康み | 浜松でペット同伴可能な飲食店 ドッグルハウス(ドッグレストラン&ドッグラン) https://doglle-house.jp/about/hamamatsu/ieyasu/
- 三方ヶ原の戦い ~武田信玄 対 徳川家康 - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/mikatagahara.html
- 三方ヶ原の戦い古戦場:静岡県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/mikatagahara/
- 【家康の敗走】 - ADEAC https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100020/ht000620
- 【なにぶん歴史好きなもので】まさかの「家康の脱糞」が鍵?信玄にやられっぱなしの家康が唯一、一矢報いた「一言坂の戦い」の謎に迫る!|静岡新聞アットエス https://www.at-s.com/life/article/ats/1403430.html
- 虚々実々!若き日の徳川家康が臨んだ「三方ヶ原の戦い」にまつわる逸話の真相は?【後編】 https://mag.japaaan.com/archives/195095
- 兵法三十六計の一つ、「空城の計」とは?|三方ヶ原の戦いで家康も使った?【戦国ことば解説】 https://serai.jp/hobby/1127156/2
- 【漫画】三方ヶ原の戦い~徳川家康の生涯最悪の敗北~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=WqkX87-kK3o
- 徳川家康三方ヶ原戦役画像 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/18704
- 徳川家康三方ヶ原戦役画像 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E4%B8%89%E6%96%B9%E3%83%B6%E5%8E%9F%E6%88%A6%E5%BD%B9%E7%94%BB%E5%83%8F
- 徳川家康の「しかみ像」~実は家康の御影だった~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/jinbutu/ieyasu-sikami.html
- しかみ像 -家康公の苦渋の肖像- | ぽけろーかる[公式] | 観光スポット記事 https://pokelocal.jp/article.php?article=100
- 徳川家康三方ヶ原戦役画像(しかみ像)について|親魏倭王(元学芸員 - note https://note.com/yamato_ouken/n/n70ff0b188c4f
- 岡崎城公園 銅像・石像鑑賞めぐり - 岡崎おでかけナビ https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/model/2343
- 【三方原の戦の教訓】 - ADEAC https://adeac.jp/hamamatsu-city/text-list/d100020/ht000680
- 戦国武将の失敗学⑤ 徳川家康を成功に導いた2つの“失敗”|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-088.html